Ethical Experiment

Moral Psychology

Welcome to my column


   不安は恐怖に変わると消滅する

 

 不安と恐怖は、生理学的には別の感情らしい。恐怖を感じている時は、胃の機能が低下するそうだ。反対に、不安を感じている時は、胃の活動が活性化するという。ロロ・メイによれば、恐怖と不安の生理的反応の違いは、両者が異なった人格のレベルで起こっているという事実に基づくらしい。

 恐怖には特定の対象がある。不安には特定の対象がない。不安の方がより根源的である。不安は、それが客観化されたとき、不安であることを止めて恐怖に変わる。ティリッヒによれば、「不安は恐怖になろうとする。なぜなら、恐怖であれば勇気によって対峙することができるからだ」と述べている。不安には対峙しようがない。自分を脅かすものが、曖昧で漠然としているのが不安だから。したがって、不安は、それを恐怖に変えることによってのみ逃れることができるのだ。

 恐怖に襲われた時は、自分の感情をハッキリ実感できる。「自分」という存在を、いつも以上にハッキリ自覚できる。「自分が危機に瀕している」という強烈な感情が恐怖だから。しかし、不安な時は、ハッキリした感情を持つことが難しくなる。「自分」についての実感と認識が薄くなってくる。感情が希薄化し、空虚な気分になる。ロロ・メイによれば、極度の不安とは、「自己の分解」として表現される経験である。

 人間は、「自分−対象」構造において生きていると、以前書いた。不安においては、
「自分−対象」構造自体が、脅かされている。

世界が薄くなっていき、それに比例して自分が薄くなっていく。恐怖においては、世界を過剰に感じるが、不安においては世界が過剰に薄くなる。恐怖においては、世界がリアル過ぎるが、不安においては世界のリアルさを薄く感じすぎる。世界の実感が薄くなるにつれて、自分についての実感が薄くなる。それは、自己の分解として経験される。以前、戸塚ヨットスクールの方法論について書いたことがあった。問題児は、恐怖に苦しんでいるのではなく、不安に悩んでいるのだ。戸塚校長は、漠然とした不安を、特定の恐怖に変えることで、多くの問題児を救済したのである(長い目で見て、どれだけ有効だったかは知らないが・・)。

 したがって、自己破壊の克服としての道徳は、不安の対処にも深く関係しているはずだ。次回は、不安と道徳について。

Copyright © 2007 現代倫理のパフォーマンス研究会 All Right Reserved.