Ethical Experiment

なぜ宗教は消滅しないの?

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    アインシュタインの見落としたもの

 

20世紀最高の科学者が、宗教に挑戦状を叩きつけた。その偉大な挑戦者は、アインシュタイン。彼の批判の標的は、「人格神」という観念。「人格のような神? なんじゃそりゃ・・」、科学界の番長としてアインシュタインは、その天才的知性を駆使して、科学の時代に残る古風な遺物に最後のとどめを刺そうとした。

 1940年9月のニューヨーク、アインシュタインは、「科学と宗教」という題の有名な講演を行っている。大先生は、宗教の何が気に入らないのか? 人格神という観念が・・。人格神とは、まるで人間のように、愛し、怒り、命じ、裁く神である。ギリシャ神話に始まり、日本神話、ユダヤ・キリスト教、イスラム教、新興宗教、神と名のつくものを信心しているすべての宗教が、この部類に該当する。神さまは お祈りすれば、耳があるかのように聞いてくれる。ついでに返事もくれる。悪いことをしたら、罰を下す。懺悔したら、赦してくれる。たまには、向こうの方から声をかけてくれる。
「そんなわけないだろう!!」 。大先生は一喝した。その理由は:

@人格神の観念は、宗教の本質ではない。
A人格神とは、未開の迷信である。
B全能の神という考えは、常識と矛盾する。
C人格神という考えは、科学と矛盾する。

 小生は、アインシュタインの議論に賛同したい。ただし、1つの条件をつけて:アインシュタインが前提している神の観念が正しければ・・。小生の推測では、アインシュタインの前提している神とは、天上に座して、能力と知識において人類に勝る超自然的存在者、全知全能を誇る最高存在者、戒めを人間に課して服従を要求する天上の王、という類だろう。民衆のレベルにおいては、そういう迷信がはびこっていたのは事実である。しかし・・。小生はキリスト教神学しか知らないが、歴史上、名のある神学者で、神を存在者として考えていた神学者は、 唯の一人もいない!
これは、一般人には意外と知られていない事実である。まぁ、つかみはこの辺にして、本題に入ろう。今日の焦点は、「なぜ諸宗教は、神を人格的存在として表現するのか」、という謎である。

 神の観念がなぜ普遍的なのかについては、すでにブログに書いたので繰り返したくないが、神の観念は、人間の2つの普遍的経験に基づく。1つは、人間には、自分の死、自分の罪責、自分の相対性、自分の空虚さを自覚できる一点、つまり超越的視点の経験がある。この高みから自分を眺めて、「俺はまだまだだなぁ・・」と反省できる(ほとんどホモサピエンスの定義に等しい)。2つ目は、運命の不安(死の 不安)、自責の不安(断罪の不安)、空虚さの不安(無意味さの不安)に脅かされながらも、自分の存在意義を肯定できた勇気の経験。これが一般的に、宗教的経験と呼ばれるものだ。自分自身の奥底から湧き出してきたのに、自分を超えていると感じる勇気の源を、人類は「神」と呼んできた。生(Life) の深層と呼んでもいいかも。つまり、絶望が癒された時、自己嫌悪が癒された時、空虚さが癒された時、死の不安が癒された時、孤独が癒された時、その経験を表現する言葉として使われてきた。

 さて、神についての言明は、すべてメタファー(隠喩)である。つまり、神について何かを語るときは、その言葉が意味する内容を同時に否定する場合だけ、OK。たとえば、「母なる神」という場合、 「母」という言葉が、経験上の母を意味しない限り意味を持つのだ。「神が怒る」という場合、「怒る」 という言葉が、経験上の怒りを意味しない限り意味を持つ。宗教用語は、すべてメタファーである。つまり、「人格的な神」という場合、人格という言葉が、単純には人格だけを意味しない限り意味を持つので ある。

 さて、なぜ「人格的な」神なのか? なぜ人格が、メタファー(隠喩)として使われるのか?  ヒントは、ドイツの哲学者・シェリングの一句にある:
「人格を癒すのは、人格だけである」

 人間は、自分にとって本当に大切なものは、「人格的」に扱う。愛車を本当に愛している人は、愛車がまるで人間であるかのように扱う。なんと、愛車に語りかけたりする。その人にとって、その車は耳のない機械ではなく、会話のパートナーなのだ。ペットを愛する人は、ペットに名前をつける。それどころか、ホモサピエンスの言語が通じないはずの犬に「話しかける」。それだけではない。人間は、写真にも話しかける。写真とは「モノ」である。しかし、故人の写真を生きた人格のように扱う。神木や山やお稲荷さまにすがる時、人はまるでそれがモノであることを忘れ、あたかも人間に語りかけるように祈る。人 間は自分の究極的問題、つまり孤独・後悔・迷い・自責から救われようとする時、「人格的なもの」に語りかける。たとえ、それがモノであっても・・。

 ユダヤ人哲学者・マルチン・ブーバーは、人間には、「それ(It)」と「あなた(You)」の2つの異 なる世界があるという。「それ(It)」とは、私たちが利用する対象。「あなた(You)」とは、私たちが語りかけ、語りかけられる相手。「それ」と思う対象が人間であっても、「それ」と感じられる限り、 「それ」は、私たちを癒してはくれない。私たちを癒してくれるのは、たとえそれがモノであっても、そ れを「あなた」と感じた時だけである。人間が、神について語るとき、人格以下のレベル(無機質)からメタファー(隠喩)を選択することができない。なぜなら、絶望や孤独や空虚や死の不安は、「あなた」から愛され、信頼され、支えられないと癒されないからだ。ブーバーにとっての神とは、「あなた」 の根源である「永遠のあなた」である(詳しくは、創文社の『孤独と愛』をお読み下さい)。

 アインシュタインが見落としたものは何か? アインシュタインは科学者として、「それ(It)」を分析することを長年の仕事としてきた。彼は、その長年の慣習を、そのまま宗教の世界に応用してしまったのである。アインシュタインは、「人格」を「それ」として考えてしまったのだ。アインシュタインの 「全知全能の神」は、「それ」である。このレベルは科学の世界であり、宗教の世界ではない。宗教の世界とは、無条件に、絶対的に、永遠に、私たちに「あなた」と語りかける「あなた」の経験の世界であって、だから人類史何万年の歴史は、つねに自分の究極的支えを「あなた(人格)」として表現してきたのだ。

 まぁ、そういうわけで、この先、人類史が何万年続いても、神は人格的な「あなた」として表現される でしょう。相対性理論の創始者も、この点は見逃したかな。

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