Ethical Experiment

異端のキリスト教道徳心理学

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刺激への反射を遅らせろ

 

 「道徳は、諸衝動のこの多様な世界における局限された階序の表現である。そのため人間は、諸衝動の矛盾で徹底的に没落するということがないのである(ニーチェ)」

 人間は、豊富で多様な世界(対象)を持つ。想像の世界、空想の世界まであるのだから、ほとんど内容は無限である。それらを無制限に自分の中に取り入れると、整合性のない諸内容が相互に衝突して、矛盾で破滅してしまう。人間には生きる方向性がぜひ必要だが、バラバラな諸内容が混在すると1つの方向性を定めることができない。人格になるとは、1つの自分の型・形を造るということでもある。小生の好きな大相撲でもそうだが、そこそこの力士になるには「自分の型」を完成する必要がある。

 この準備作業は、幼少から始まる。まず必要なのは、「禁止」を経験するということだ。道徳が、禁止の形式なのは、この理由による。「禁止」とは、しつけの本質そのものである。フロイトが云うエディプスコンプレックス、ラカンが云う象徴界とは、幼児が大人になるために絶対不可欠な通過点、つまり禁止の経験なのだ。

 しつけるとは、禁止するということである。アダムとイブが最初に経験したのも、神が命じた禁止だった。禁止の具体的内容は、二の次である。大事なことは、禁止そのものを幼児に植えつけることだ。何が禁止されているかを学ぶことではなく、禁止が存在することを学ぶことが、「人間」になるための絶対の通過点なのだ。禁止の理由のなど、どうでもいい。禁止の存在を焼き付ける。禁止を経験しないで育った人間は、必ず破滅する。

 禁止の本質とは、刺激に即座に反応しないことを学ぶこと、衝動を実行することを遅らせることを、幼児の身に焼き付けることである。しつけとは、ほぼこの一言で要約される。食事の前に「いただきます」を口にすること、玄関から上がったら靴を揃えなおすこと、もらったら「ありがとう」を云うこと、これらのしつけはお行儀のためではない。刺激に即座に反射しようとする自分を一瞬拘束して、衝動の実行を遅らせることを幼児が学ぶためである。刺激に反応しない、衝動を遅らせるために必要なのは、型である。刺激への反射と実行を一定の型に押し込めることで、拘束する。これが無意識にできるようになるまで、何度も反復する。シナプスに一定のパターンが形成されるまで繰り返す。ニーチェの云うように:

「道徳はすべて、放任の反対である」

 いわゆる「キレる子ども」とは、刺激に対して反応を制御できない子ども、衝動の実行を遅らせることができない子どものことであり、したがって必ず自己崩壊する。道徳の本質は、自己崩壊を克服する点にある。大人になって、信号が赤なら発車を我慢する、欲しくなっても盗まない、カッとなっても殴らない、ことができるのは、幼少の頃、衝動を遅らせる、刺激に反射しないことを学んだからであ

 刺激や衝動に反抗して、自動的に型通りの行動ができるというのは、あらゆるスポーツ、芸事、仕事の上達のための基本中の基本でもある。芸術家のインスピレーション、匠の磨かれた技とは、勝手気ままな反応とは逆のものである。自由な発想に見えるときこそ、厳格に数千の法則に従っているのだ。兵士が、戦地で生き延びられるのは、考える前に身体が型どおりに動くほど訓練されたからだ。ビギナーの時代に自由放任に任された選手、個性重視で放任にされた子供は、一定以上に達しない。ニーチェ曰く:

「天においても地においても、もっとも大切なものは、ただ一つの方向に久しく服従せしめられるということである。このことさえ持続すれば、この地上に生きてあるを報いる何ものかが必ず生じてくる。また生じてきた」

 外界からの無数の刺激に恣意的に反応しない、自分に有用なある一定の刺激にだけを取り込む。ある一定期間、奴隷状態におかれるということは、有益なのではないだろうか? 自由を遠ざけ、視野を狭めるのは、人間生物の生長の条件にもなるのである。ニーチェの云うように:

「これが自然の道徳命令であるのではないだろうか?」

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