Ethical Experiment

問題の背景

Welcome to my column


私は自分を知らない

 

 さてさて、近代的道徳哲学が前提とする人間像が揺らいできている〜。自覚できる心的経験に先立って、それを決定する無自覚的な過程が存在していて、私たちは自分自身の内的過程を推論するしかできない、しかもこの推論過程でさえ無自覚的である―としか解釈できないような実験結果が現れてきたからだ。つまり人間は思った以上には、自分自身を知らないのである。私たちの心の過程は、私たち自身に、実は隠されているのではないか??

「認知的不協和理論」

 まず社会心理学の分野から「認知的不協和理論」を紹介しよう。「1ドルの報酬」という実験があるのだが、被験者に1時間退屈な作業をさせた後、「次に来る人に、この作業は面白かったと伝えてくれ」と強制的に頼みます。そして作業の謝礼として、あるグループには1ドルを、別のグループには20ドルを渡した。最後に1時間の作業を評価してもらった。さて、1ドルの謝礼をもらった人と、20ドルの謝礼をもらった人のどちらが、作業を面白いと評価したでしょうか。答えは、なんと1ドルの謝礼をもらった人だったのである。

 20ドルの人は、退屈な仕事だったが、20ドルもらったので、報酬と退屈さが釣り合っている。だから素直に「面白くなかった」と評価したようだ。1ドルの人は報酬と退屈さが釣り合っていないという認知と、「面白かった」と別の人に伝えた認知の間に葛藤が生じる。そこで、この不協和を縮めるために、作業を「面白かった」と評価したと解釈できるわけだ。しかも、この心的過程は、本人にも隠された無自覚な心理的合理化なのである。

「情動二要因論」 

 私たちは、悲しい思いを感じて、それから泣くと信じているが、心理学はこの順序を逆にしてしまう。「つり橋実験」というのがある。つり橋のそばに美人の実験者が待機していて、男性が通りかかると美人の実験者はアンケートをお願いする。その後、TATテストを使って男性の性的興奮度を検査する。するとつり橋を渡り終えて10分立った男性に声をかけた場合より、つり橋を渡っている最中に声をかけた場合の方が、男性の性的興奮度が高く、女性実験者に好意を示す度合いも高いという結果になった。

 つまり、つり橋に対する恐怖という生理的興奮を、男性たちは女性実験者に対する好意の感情と無自覚的に解釈したわけである。まず最初に生理的興奮があり、それを潜在的過程で認知する。それから認知された生理的興奮にラベルをつける。それから最終的に、自覚的・意識的感情経験になるわけである。

 簡略すると、身体的過程→潜在的認知過程→自覚的感情経験となる。私たちが意識的に認知できる感情は、無自覚的に解釈された結果だけだったとしたら・・・。他にも多くの実験結果があるのだが、さりげなく暗示をかけると、同じ薬が起こす生理的興奮を、それぞれ異なる「感情」として感じることがわかっている。

「左半球の言語的意識」

 てんかんの手術のために脳梁を切断され、左右大脳半球が分離した人を分割脳患者という。言語的認知をつかさどるのが大脳左半球、非言語的認知が右半球といわれている。視覚情報の処理は、右視野に見えたものが左半球に投射され、左視野に見えたものは右半球に投射される。左半球は右手を統御し、右半球は左手を統御する。

 分割脳患者の右視野に、例えば「鉛筆」という単語を呈示すると、「鉛筆という単語が見えた」と答え、右手で鉛筆を拾う。左半球は、言語的認知だから。ところが左視野に「鉛筆」という単語を呈示しても「何も見えない」と反応するが、左手はちゃんと鉛筆を拾うそうである。つまり分割脳患者の右半球は単語を認知しているのだが、言語で表現できないため「何も見えない」と答えるのわけだ。でも実際は、非言語的に認知しているので、ちゃんと鉛筆を拾うことができる。そして拾い上げた鉛筆を見た後で、鉛筆という単語を見たことを推測するわけである。

 分割脳患者の実験のように、人間が右半球だけだと物事の認知はできるが、認知の内容を表現することができない。そこで左半球がモニターとして作動して、右半球の状態を観察して推論して言語判断している可能性が分かったきた。私は物忘れが激しいのだが、本を取りに部屋に入ったのに、何しに部屋に入ったのかを忘れることがある。そういう時は、「本棚の前に立っている」、「隣の部屋で論文を書いている」というふうに周囲の状況を因果的に連結させると、「あっ、本を取りに来たんだ」と思い出すわけである。そういうふうに、私たちは自分の生理的変化や行動を、「外」から観察して推論しながら、「解釈」している可能性がとても高いのである。私たちは、直接的に自分自身を理解するのではなくて、他者を観察して推論するように自分を理解しているのではないだろうか? 

「意識の前処理過程」

 心理学で「カクテルパーティー効果」というのがある。目の前の人と夢中で会話しているのに、後ろで誰かが、自分の悪口を言ったらすぐに気づいたとか、そういう現象である。意識の中では、後ろの会話を聞いてはいないのに、私たちの脳は前処理的に周囲の音・会話をインプットしてフィルターのように選別・処理しているのである。実際、私たちが無意識に知覚している無数の情報が、一度に全部意識されると意識が容量を超えて爆発するだろう。現在の脳科学では、脳内知覚処理の大部分は、意識にとって認知不能であり、無意識に選別された処理の結果だけを意識現象として経験するに過ぎないと考えられている。

 私たちは意識と思考を同一視していますが、脳は私たちの意識の下で膨大な思考を行っているのである。意識は、知覚活動の氷山の一角であり、しかも意識の下で何が行われているか、全く知らない。ある人の名前が思い出せないときがある。諦めて、風呂にでも入っていると突然その名前が頭に浮かんだりする。脳というのは健気なもので、意識がとっくに諦めた後でも、せっせと努力して、記憶の海の中から目標を探し出してくれているのだ。意識が、「わたしは休むから、君が探せ」と命令したわけでもないのに、脳は意識と無関係に活動を続けているのである。意識は、脳の膨大な活動の最終結果だけを教えてもらえるだけなのだ。

 これらの認知科学の実験結果は、道徳哲学とどう関係するのだろうか? 勘の良いみなさまなら、すでにお気づきだろうが、道徳哲学の中心教義である「理性による自己理解」が、実はかなり怪しいのである。そして、「意識に映った私が、道徳的主体である」は、さらに輪をかけて怪しいのである。私たちの認知過程は、大部分が無自覚的に処理されていて、意識に昇ってくるのは、処理の最終段階だけなのではないか? しかも、無自覚的に処理されて意識に昇った情報を、言語的自己が自分を取り巻く状況から因果関係的に「解釈」しているだけではないのだろうか? 道徳的責任を負わせることができない「心神喪失」とは、「事物の理非善悪を判断する能力がない」であった。たしかに私たちは理非善悪を判断している。しかし、その心的過程の大部分が無自覚的なため、どのように自分が判断したのかがわからず、さらに言語化された結論は誤っているかもしれないのである(認知的不協和理論と情動二要因論を思い出してください)。

 しかし、これでもまだまだ序の口。道徳哲学における責任能力についての大原則は、「A person is morally responsible for what he has done only if he could have done otherwise. (過去の行為について道徳的責任が生じるのは、その行為の時点に、他の行為の可能性があった場合だけである)」である。つまり、自由意志が機能していて、善と悪のうち、どちらかを選択して行う能力があった場合だけ、道徳的責任を追求できるという意味だ。心神喪失の定義、「善悪の判断にしたがって行動する能力のない状態」とは、行為の時点で他の行為の可能性がなかったと看做されるからである。つまり意志的選択ができない状態である。さて、それでは、『意思的選択』とは何ぞや?

 私たちは「まず意志があり、意志には当然目的がある。その目的を達成するための手段を考えてから、それから脳は電気信号を脊髄を通して末端神経に送り、筋肉を動かし行為する」と信じている。意志によって行為を支配する能力があると信じている。ところが1980年代、アメリカの神経生理学者が、この常識を覆すような実験結果を発表した。哲学者サールは、「もしそうだとしたら、宇宙最大の冗談に違いない」とまで言ったそうだが、それ以降、伝統的に哲学者たちが議論していた自由意志問題のリングに、脳科学者たちまで登場して大乱戦となっているのである。その内容は、また次回。

Copyright © 2007 All Right Reserved.