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  神の観念は、何の役に立つのか?


 神の観念の起源は、絶対性・無条件性・無限性の直覚として、人間の精神構造そのものの中にある(『魂に宿る神の観念』)。神の観念は、神のイメージとは違う。無宗教者は、神のイメージは持っていない。しかし、神の観念は備えている。神の観念とは、神の定義とか、神の知識という意味ではない。神の観念とは、絶対性・無限性・無条件性の直覚である。イスラム教徒が、神の観念として、アラーの名を口にした場合、それは神の表象であって、神の観念ではない。コーランに記されたアラーのイメージが、神の観念というスクリーンに投影されて、具体的アラーの表象が生まれる。

 ところで、なぜ神の観念は、人間の精神構造に内在しているのだろうか? 神の観念は、何の役に立つのだろうか? 小生の仮説: 
それは人間が自然な自明性を失って、狂気に至らないためである。

 ドイツの精神病理学者・ブランケンブルグには、『自然な自明性の喪失』という著書がある。自明性の喪失とは、「あたりまえのこと」ということが、わからなくことである。周囲の人が、自然にやっていることの意味がわからなくなる。なぜ、挨拶するのか? なぜ、謝罪するのか? 木村敏氏は、これを「常識の解体」と呼んでいる。木村氏によれば、常識とは知識ではなく、感覚の一種であり、それも他者と共有される実践的感覚だという。動物は、自明性の喪失には苦しまない。人間だけが、自明性の喪失という危機を抱える可能性がある。

 絶対性・無条件性・無限性の直覚も、知識ではなく、実践的な勘のようなものである。この勘が、私たちの自明性の土台になっていると、小生は考えている。前回、人間が疑うことができるのは、絶対性・無条件性・無限性の直覚が備わっているからだと書いた。直観的に感じ取る絶対性・無条件性・無限性の感覚があるので、それを尺度として、私たちは安心して疑うことができる。「具体的に、どういう尺度か?」と問われれば、私たちは説明できない。しかし、疑いようのない直覚として、私たちに与えられているのである。

 自然な自明性を喪失した人も、日常生活の常識を疑う。しかし、この場合は、尺度と比較して感じる疑いではなく、ナマの疑いそのものという感覚に襲われるのではないだろうか? もちろん、絶対性・無条件性・無限性の感覚は、人間精神そのものの構造に属しているので、これを完全に失うということはありえない。これを完全に失うとは、人間性を失うということである。しかし、自明性を喪失している人においては、絶対性・無条件性・無限性の感覚が解体しつつあるのではないか? 

 デカルトは、あらゆることを徹底的に疑おうと決心したが、それでは日常生活が成り立たないので、「実生活にとっては、きわめて不確実とわかっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように従うことが、ときとして必要であると、私はずっと前から気づいていた」と記している。デカルトが、都合よく疑ったり、疑わなかったりできたのは、彼自身が云うように、絶対疑えない明証的なものを直覚していたからである。絶対疑えないものがあるからこそ、方法論的に疑うことができたのであり、また疑うことは必然なのである。私は完全ではない。したがって、私は疑う。しかし、私が疑うことができるのは、私より完全なものがあるからだ。それが、神の観念であり、デカルトの論考だ。もちろん、神の観念とは、非宗教的に云えば、絶対性・無条件性・無限性の直覚だが。

 幼児は疑わない。絶対性・無条件性・無限性の直覚が、まだ成熟していないから・・。成人は、疑う。絶対性・無条件性・無限性の直覚が、芽生えたから・・。でも、安心して疑う・・。疑っても、日常性が崩壊しない根拠、つまり絶対性・無条件性・無限性の直覚が確かだから・・。アウグスチヌス派の「天使博士」と称された中世の神学者・ボナヴェントラは、「神は、すべての知識の前提である」と云ったが、その意味するところは、日常的常識の自明性は、絶対性・無条件性・無限性の直覚(神の観念)によって支えられているという意味である。精神病理学の本によれば、「自然な自明性の喪失」、つまり、自然なリアリティの喪失は、とても辛いそうですよ・・。疑うことができる土台が消滅したら、リアリティそのものを疑わざるをえない。リアリティ自体への懐疑、これが自明性の喪失である。

 神の観念の喪失、つまりニヒリズムは、自明な価値体系の喪失に至るというのが、ニーチェの主張だったはずだ。近代世俗化社会は、絶対性・無条件性・無限性が、宗教戦争、世界大戦、ホロコーストの原因だと考えたので、それを否定する方向で進行している。なんと多くの残虐が、神の名で行われたことか・・・。しかし、精神は、真空状態を嫌う傾向があるので、人権だの、民主主義だの、自由だの、新たな別の神々が、真空を埋めようと浮上している。とはいえ、世俗化は、全体としては神の観念を否定する方向に向かっている。それはそれで、理由のあることである。人権、民主主義、自由は、陳腐すぎるが、しかし比較的無害な神々だからである。

 しかし、世俗化社会の副作用も明らかになってきた。それが、自然な自明性の崩壊である。古き良きデカルトのような神の観念を前提とした方法論的懐疑ではなく、ナマの疑いそのものの感覚が、私たちを襲う。常識的価値観の自明性が喪失していく。給食費を払えるのに支払わない親などは、その一例か・・。それが、特殊な病気としてではなく、社会全体の傾向として蝕んでいく。常識的自明性を主張すると、差別だ、人権侵害だ、保守的だ、と非難される。その反動として、絶対性・無条件性・無限性の直覚は、テロリズムという反自明的な非常識として先鋭化していく。社会は、ますます自然な自明性を喪失し、反動として諸宗教はますます急進化する。人間本来の精神構造の要素である絶対性・無条件性・無限性の直覚が・・、日常的自明性の根拠であり同時にそれを超越的に疑う土台である絶対性・無条件性・無限性の直覚が・・、徐々に解体に向かう・・。

 ますます、バーチャルな世界と現実のリアリティが混乱していく。したがって、現実感が希薄する。伝統的価値観の自明性が、徐々に消失する。現実と空想の境界線が、薄れていく。ニーチェが云うように、真の世界を消したら、同時に虚構の世界も消え去るのだ。まぁ、それでも、人間生命の深層は、そう簡単には崩壊しないだろう。そんなに柔なら、とっくの昔に絶滅していたであろう。人間生命の本能のようなものが、バランスを取ろうとするだろう。

 神の観念は、何の役に立つのか? 再び答え:
人間が自明性を失わずに、正気を保つためである。

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