Ethical Experiment

Religiosity

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        神のイメージ? 神はイメージ?


 21世紀になっても、いまだに宗教が存在するのが不思議でたまらない人は少なくないだろう。ちなみに、無宗教と無神論は区別した方が良い。無宗教者とは、宗教に関心がない人。無神論者とは、神の存在を否定する人である。有神論か無神論かという議論は、どちらも証明のしようがないので、不毛に終わるのが常だ。しかし、第三の道もある。小生は、こちらの方が人間学的に有意義だと思う。それでは、ティリッヒの宗教哲学をご紹介しよう。

 無神論の一つの議論に、「投影論」というのがある。フロイトは、「神とは、父親イメージの投影である」と考えていた。ニーチェも投影論に近い。ニーチェによれば、神の起源とは、祖先に対する恐怖の投影である。投影論には、永世への願望の投影だとか、不可知なものに対する不気味さの投影だとか、自分の弱さの投影だとか、いろんなバージョンがある。

 「神とは、父親のイメージである」。なるほど・・・。しかし、神という観念は、どこから来たのか? 「父のイメージ」という観念と、「神」という観念はまったく別物である。ある人の父親に対するイメージは、必ずしも神にはならない。現代では、その逆の現象が進行中で、父親のイメージとは、神とは正反対のもの、ほとんど奴隷に近くなっているのでは・・・?

 さて、神とは心理的イメージの投影であるとすれば、それは何の上に投影されたのだろうか? ここがポイントである。投影とは、スクリーンの上にイメージを投射することである。投影するためには、スクリーンが絶対に必要だ。「投影論」が片手落ちな理由は、私たちの心理的イメージが、どういうスクリーンの上に投影されているのかに言及しない点にある。

 この点で、投影論の元祖・フォイエルバッハは家元らしく、弟子のフロイトやニーチェよりも数段格上である。私たちの心理イメージは、どういうスクリーンの上に投影されると「神」になるのか? フォイエルバッハの答え: 無限性の意識というスクリーンの上に・・・。

 つまり、人間には、無限性の意識、無条件性の意識、絶対性の意識があって、そこに具体的イメージが投影されると、それは神の容貌で立ち現れる。人間の精神には、無限性、無条件性、絶対性に対する意識というスクリーンがあって、そのスクリーンに投影されたイメージは、必ず神性を帯びてしまうのである。

 絶対性のスクリーンの上に、日本国憲法第九条を投影する人は、「護憲」が神の威光を帯びて現れる。社民党の福島瑞穂党首が、新興宗教の信者にしか見えないのは、福島党首が、絶対性の意識というスクリーンの上に、日本国憲法を投影したからである。共産主義という思想を、究極性というスクリーンの上に投影した人は、共産主義が神に思えるだろう。恋人を無条件性というスクリーンの上に投影すると、彼女は「女神」に見えるようになる。お金というイメージを、唯一性というスクリーンに投影した人は、銭が神仏に見えるだろう。宗教団体に所属しているかどうかに関わらず、無限性、無条件性、絶対性というスクリーンの上に、特定の具体的イメージを投影した人は、そのイメージが神に見えてくるのである。

 宗教性とは、特定の神仏・宗教団体に対する信心ではない。宗教性とは、無限性・無条件性・絶対性についての意識なのだ。このスクリーンの上に特定のイメージが投影されると、そのイメージは、その人にとっての神になる。この点において、宗教者、無宗教者、無神論者の区別はまったく存在しない。無神論者とは、無神論という思想を、無限性・無条件性・絶対性というスクリーンの上に投影した人であって、彼は立派な宗教者なのである。神の観念の起源は、どこにあるのか? それは、人間の無限性・無条件性・絶対性についての意識にある。しかも、無限性・無条件性・絶対性についての意識は、人類をして他の動物から区別する重要な指標なのだ。つまり、「人間の条件」なのだ。

 人類から無限性・無条件性・絶対性についての意識が消失すれば、宗教もまた消滅する。つまり「神は死ぬ」。まぁ、しかし、そんなことはありえないだろう。ニーチェでさえ、「力への意志」のイメージを永遠性への意識に投影したら、ディオニュソスというニーチェの神が生まれてしまった。世界から宗教が消滅したとしても、人間から宗教性が消滅することはない。宗教団体が消滅する日が来たとしても、擬似宗教は消滅しない。民主主義、自由、伝統、民族、平和、人権、その他個々人の価値イメージが、無限性・無条件性・絶対性・永遠性という意識スクリーンに投影される限り、宗教性は消滅しないのだ。

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