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       キリスト教は自殺を禁止している?


 細川ガラシャさんは、キリシタンであったため自殺を拒否したので、家来に胸を突かせて死んだことになっている。キリスト教では、自殺は大罪だと一般の人は信じているし、キリスト教徒ですらそう信じている。しかし、キリスト教の正典である聖書には、自殺を禁じる箇所はないし、自殺の是非すら論じられてはいない。キリスト教が自殺を禁じているのは確かだが、聖書は自殺を禁じていないのである(勧めてもいないが)。自民党は、従軍慰安婦問題が客観的な資料に基づいていないので再調査するようだが、キリスト教も自殺の是非を、聖書という資料に基づいて再調査する必要があるだろう。

 自殺という問題の複雑さは、まず自殺の定義が曖昧であり、くわえて一言で自殺といっても、多様な自殺のあり方がある点にあるのだろう。広辞苑によれば、自殺とは、「自ら自分の生命を絶つこと」となっている。この「自ら」という言葉が曖昧である。「自ら」という言葉を、「身体的に」という狭義の意味にとれば、自分の手で生命を絶つことが自殺である。しかし、一般的には「自殺的行為」、「自殺的選択」というように、「精神的に」自らの生命を絶つ場合を指す言葉も使用されている。この場合は、ある選択の結末が死であると知っていながら、それを避けることができるのにあえて死を選択するという広義の意味の「自殺的」行為」と理解することもできる。

 もし自殺的行為も自殺に含まれるのなら、キリスト教の開祖のイエスも自殺者である。イエス・キリストは、弟子ユダが自分を裏切ると知っていながら、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい(ヨハネによる福音書13:27)」と、ユダに命じているのである。福音書の記録によれば、イエス・キリストは、自分が殺されることを予期していたらしい。しかし、あえて自ら殺されることを選択したのである。

 イエス・キリストの一番弟子であるペテロは、外典「ペテロ行伝」によれば、迫害が激化したローマを逃れようとアッピア街道を進んでいる時、ローマに向かうイエスに出会う。彼が「主よ、どこへいかれるのですか?(Domine, quo vadis?)」と問うと、イエスは「もう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えた。伝説によれば、ペテロは、すぐ死を覚悟してローマに帰っていったそうだ。これも自殺的行為である。ローマ時代のキリスト教の歴史は、殉教の歴史と呼ばれ、開祖イエス、愛弟子ペテロに続くように、キリスト教徒たちは殉教の道を歩んだ。

 キルケゴールは、「人は殉教をする権利があるか?」と問うた。殉教者は、殉教によって殺人者を生み出す。彼が殉教することによって、誰かが殺人者にならなければならない。ローマ時代、殉教者たちは殺人愛好家に殺されたのではなく、命令に従わざるを得ない官憲に殺されたのだ。キルケゴールの問いは、「人は、自分の自殺的選択によって、他人を殺人者にする権利があるか?」と言い換えることもできる。・・・話が横に逸れた。イエスにしても、ペテロにしても、能動的に死ぬことによって、何か価値のあることを達成しようとした事例があるのである。しかも、キリスト教の歴史に・・。

 私は、自殺には、能動的自殺と受動的自殺の2種類があると思う。『世界の中心で愛を叫ぶ』のTVドラマ版で、不治の病にある主人公が、「死が定まった病人にとって、どうやって死ぬかを選ぶことだけが生きる証になるの」という意味のセリフを吐いた。白血病という不治の病に殺されるのか、それとも自ら死に方を能動的に選ぶことによって、病気に殺されるのではなく、自分で死に方を選ぶのか・・。

 生の肯定を哲学したジル・ドゥルーズは、晩年は肺病を患い、人口肺でかろうじて生存していたが、1995年に人口肺を捨てて、アパートから投身自殺して果てた。ドゥルーズ・ファンは、「彼は生から逃避したのではない。死に方を選んだのだ」と、いっけん生前の彼の哲学と完全に矛盾する死に方を弁護している。ストア派のセネカは、「苦しみが際限なく続くとわかったとき、苦痛そのものより、苦痛によって生きる意味が失われるために、私はこの世に別れを告げるだろう」と、手紙に書いたが、私もドゥルーズは、ストア派的に自殺したのだと思う。「苦しみが際限なく続くとわかったとき、苦痛そのものより、苦痛によって生きる意味が失われる」こともあるのだ。病気によって生きる意味が奪われることに、死を持って抵抗することも、生き方の選択肢の1つだろう。

 ナチスの強制収容所を生き抜いた精神科医フランクルでさえ、「意識して死に赴いていくというのは、運命の贈り物にちがいないと考えました」と書いている。死は、すべてを奪うというが、それは嘘である。死でさえ、人間から死に方の選択肢までは奪えないのである。イエスやペテロ(新約聖書にはパウロの自殺的選択も記録されているが)の死は、広義の意味の自殺(自殺的選択)だが、死に方を選択して「自ら自分の生命を絶つ」狭義の意味の自殺においても、立派な例は数あるのだ。武士の切腹も、その一例であろう。ベトナム戦争に抗議して、焼身自殺した仏僧もまた然り。死を賭して責任を取るとか、抗議するなど、現代人の私たちには、及びもつかぬ強さではないだろうか? この種の自殺は、強さから生まれる自殺である。

 それとは対照的に、受動的自殺というものがある。私たちが、「わざわざ、死ななくても良かったのに・・・」と、感じてしまう自殺のことだ。この種の自殺は、何の解決も生み出さない。強さから生まれる自殺ではなく、弱さから生まれる自殺である。この種の自殺は、「希望のなさ」から生じる。「希望のなさ」から生まれるので、結果も「希望がない」。『世界の中心で愛を叫ぶ』の亜紀ちゃんや、ストア派的な自殺は、絶望から生じたのではなく、限界状況の中で生きる意味を救うために自ら死ぬ。しかし、受動的な自殺は、逃げ場がないから死ぬのだけなのだ。

 能動的自殺と受動的自殺の区別は曖昧だが、私の提言としては、残された遺族が罪責感を感じないように死ぬのが能動的自殺である。自殺された遺族の多くは、自分の責任ではないのに罪責感を感じてしまう。しかし、それは受動的な自殺の場合に限ってのことだ。受動的自殺の場合、遺族は、「私が相談に乗ってあげていれば・・・」、「もっと親切にしてあげれば・・・」、「もっと話を聞いてあげれば・・」などと、後悔する場合が多い。受動的自殺の場合、自分に何の落ち度がなくても、近親者は罪責感を感じてしまう。近親者がそう感じるのは、弱さから生まれた自殺だからである。

 しかし、能動的自殺者の場合、遺族は罪責感を感じない。自殺者が、自分が信じる価値のために死を賭したという、積極的な面、能動的な面が、窺えるからである。ある人の自殺が、能動的自殺か、受動的自殺かを判別する絶対的基準はない。その死を受け止める社会の感性による。「いじめられたぐらいで死ぬなよ」と思うのか、「いじめられたら死ぬしかないよね」と思うのかは、それを受け止める個々人の感性次第である。

 最後にもう一つ加えるのは、病気による自殺である。うつ病の場合、強烈に死にたくなるそうだ。その是非を判断する権利は、健常者にはないと思う。精神的病による自殺を、倫理的に判断する基準を、私は持ち合わせていない。癌で死ぬのが、倫理的に正しいか、正しくないのかを問うているようなものだ。

 そういうわけで、自殺というのは、判断の難しい問題だと思う。キリスト教徒のみなさん、もう一度、よくよく考えて見られたらどうだろうか?

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