Ethical Experiment

Demonic

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構成的現実化


 柄谷行人氏は、「理念とは、統整的であって、構成的ではない」と云っている。つまり、理念とは、現実的なものではないので、そのまま実現するはずがない。実現の努力を調整する役目を果たすものなのだ。

 私が強調するのは、道徳性とは、人格の統合であるという仮説である。通常、私たちの人格を、最も強力に統合してくれるのは、潜在的可能性のイメージである。もちろん、そういうイメージは種々あるが、私たちにとって、最も包括的で、最も力強い「自分」を実現できる潜在性のイメージを産む自我の関心を、ニーチェはそれを「主衝動」と呼び、ティリッヒは「究極的関心」と呼んだと考えている。そういう潜在性のイメージは、いまだ実現はしていないが、その達成が不可能ではない状態である。類比的に云えば、旅行のチケットは買ったが、まだ出発しておらず、旅の計画を練っている心理状態である。ちなみに、この時期が、一番楽しい。

 こういうイメージが皆無な状態を、絶望と呼ぶ。何の展望も見出せない状態である。ティリッヒは、生の本質を、「潜在的可能性が、自己実現する現象」と定義したが、その意味で言えば、絶望とは、生の意識的自己否定である。人間には、こういう潜在的可能性のイメージを創出する機能が本来存在するが、その具体的内容を与えてくれるのが、伝統・文化である。

 さて、正常な人間においては、人格の統合は、自分の潜在的可能性のイメージが統整的に働くことによって生まれる。イメージは、完成に向かう道しるべであって、仮にその理想がそのまま実現しなくても、道標としての役目を果たせば、それで満足し、満足しなかった面は、次回の目標として、後の楽しみとして残る。彼には、統整的なものを、統整的なものとして受容できる余裕があるのだ。

 ところが、悪魔的なもの、つまり憑依状態の人格においては、本来統整的なイメージが、構成的に働いてしまう。つまり、現実に完全に実現すべきものだという強迫的観念において働く。もちろん現実は複雑なので、潜在的可能性は、理想通りには実現しない。悪魔的な彼は、その不完全性の原因を他者に投影する。彼は、全能性を自分自身に証明しなければならない。そのため彼は、他者を完全な支配の下に服従させようとする。これがまさに、悪魔的なのだ。スターリン主義にしても、文化革命にしても、クメール・ルージュにしても、理念で現実を構成しようとするから、悪魔的になってしまうのだ。

 悪魔的なものを生み出すのは、展望のなさ(絶望)である。絶望を回避しようとする生命力が、反動として、偽りの潜在的可能性のイメージを生み出し、それに固執する。その場合、イメージは統整的なものではなく、完全に実現すべき強迫的なイメージになる。歪曲された自己の万能性を証明する手段は、本質的に暴力にならざるを得なく、威嚇と、強制、殺人に行き着くだろう。イエス・キリストが、「悪魔は最初から人殺しであって、偽り物の父である(ヨハネ8:44)と云ったのは、こういう意味においてである。潜在性のイメージは、理想どおり現実化されることはない。私たちが秘めている可能性は、それが実現する時には、つねに多少期待を裏切る形でしか成就しない。この現実を受容できないと、人格統合のイメージは、強迫的になってしまう。

 憑依現象が起こる人格には、外傷的記憶(トラウマ)が多いとされているが、社会的憑依も同様であることに注目したい。ルイ王朝絶対王政の後のフランス革命、農奴制の後のロシア革命、屈辱的ベルサイユ条約の後のナチス・ドイツ、欧米包囲網の後の日本の戦争、日本敗戦ショックの後の絶対的自虐史観、日本の植民地政策の後の北朝鮮、欧米列強・日本の侵略のあとの中国共産党独裁、アメリカの覇権的干渉のあとのイスラム原理主義、などなど・・・。外傷的体験によって、人格を統整的(Regulative)に統合するイメージが壊れる。それに代わって、新たな支配的イメージが、人格を構成的(Constitutive)に統合しようとする。すると、支配的イメージは、「意味−破壊的−意味」、「形態−破壊的−形態」となって、最初に強い人格統合を生み出し、次に矛盾と葛藤に苦しみ、最後に自己崩壊してしまう。これが、小生が考える「悪魔的なもの」についての仮説である。

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