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偶像崇拝と悪魔


 ティリッヒは、悪魔的なものは、偶像崇拝的であると云っている。ティリッヒの云う「偶像崇拝的」とは、本来は、歴史的、条件的、有限的、相対的なものが、超越的、普遍的、絶対的、無条件的なものとして自己を主張することである。例えば、日本国憲法第九条は、ある時代に、ある状況の中で、ある人たちが起草した、ある国の、ある条文である。そういうものとして、歴史的、条件的、有限的、相対的な条文である。しかし、第九条を、超越的、究極的、無条件的、絶対的に不可謬な理念として信奉すると、「偶像崇拝」になる。偶像崇拝者は、不寛容で抑圧的にならざるを得ない。なぜなら、周囲には他の「神々」が存在するからだ。

 偶像崇拝者たちは、自分たちに対立する価値観・考え方が存在することに耐えられない。なぜなら、他の神々が存在するということは、自分たちの神もまた、神々のうちの一つに過ぎないことを暗示するからである。それが、彼ら自身の中に、隠れた疑念を抱かせる。その疑念は、抑圧されなければならない。偶像の絶対性が崩壊したら、崇拝者たちの人格的統合もまた崩壊するからである。偶像崇拝者たちの強迫的性格は、こういう理由による。つまり、強迫的に信じない限り、彼らは自分の中の隠れた疑念によって、人格が自己崩壊するからだ。彼らは、周囲と対立する。世の中に価値観はさまざまであり、衝突のネタは尽きないから。

 民族愛は、自然な感情である。しかし、自分の民族が偶像になった途端、事情は一変する。なぜなら、他の民族を否定しない限り、自分の民族の絶対性は保障されないから。自分の民族を「常識的」に愛している分には問題はないが、本来歴史的、条件的、有限的、相対的な「一民族」を、究極的な位置にまで高めると、それは「悪魔的なもの」に変身する。歴史上の社会的憑依は、偶像崇拝的であることで一致している。数ある価値観のひとつに過ぎない共産主義、ナチズム、太平洋戦争、イスラム原理主義を、究極的位置にまで高めているから。

 しかし、悪魔的なものは、最初から悪魔の顔をして登場してくるわけではない。共産主義にしろ、ナチズムにしろ、最初は社会改革運動として誕生している。ポルポト政権にしてもそうだ。イスラム原理主義もそうである。それらの運動は、社会悪を是正するために発生したのだ。だから、大衆の熱狂的支持を得たのである。すべての社会的憑依は、「聖なる運動」として始まっている。聖なるものだけが、悪魔化できるのである。ユダヤ・キリスト教によれば、天使が堕落して悪魔となった。悪魔は、堕天使なのだ。この神話は、おとぎ話ではない。思想にせよ、改革運動にせよ、個人にせよ、天使として生まれた者だけが、悪魔になれるのである。

 なぜ、天使は悪魔になったのか? ユダヤ・キリスト教の神話によれば、天使の長ルシファーは、「神になりたい・・」と思ったそうだ。とても優れているが、しかし有限的な自分を、神の究極性にまで高めようとした時、天使は堕落して悪魔となった。分をわきまえていなかったのだ。社会的憑依現象も、善き意志として始まった運動・思想が、自分を絶対化した途端、悪魔的なものとなる。「形態-破壊的-形態」、「意味-破壊的-意味」となる。それは、意味と形態の最高の表現である人格と文化、つまり意味を与える人格性と、意味を与えられている世界に対する攻撃となる。皮肉なことに、悪魔的なものに憑依された人間・社会は、最高に意味のある行為と信じつつ、最高の人格性と文化を破壊するのである。それは、憑かれた状態であって、社会全体を占領する。しかも、通常の社会統合をはるかに超えた統合力・中心化の力が働く。

 ひとたび社会的憑依が始まると、破壊する自己活力が底を突くまで、自己破壊に突進する。したがって、社会的憑依が終息するのは、その社会が荒廃しつくした時点に至ってからだ。倫理的説得によっては、克服できない。というのは、社会的憑依自体が、倫理の名においてあらわれるからである。悪魔的なものの力は、倫理を利用するところにあるからである。ユダヤ人を大量虐殺した罪に問われたナチスのアドルフ・アイヒマンは、「カントの定言命法にしたがった」と弁解したそうだが、社会的憑依の渦中にいる人は、道徳的悪を実行しているという気などサラサラない。なぜなら、彼らは倫理の御旗において実行しているのだから。これは想像だが、アルカイダのメンバーは、一般人よりも義務感が強く、道徳的に潔癖な倫理的な人物たちだろう。太平洋戦争を牽引した大日本帝国陸軍の軍人たちも、そうだろう。彼らは、私たちより倫理的だろう。ただ、倫理意志が転倒しているのである。天使だけが、悪魔的なものになれるのだ。

 そういうわけで、合理的倫理は、悪魔的なものに対して無力である。倫理は、人間にとって、最高の次元ではない。倫理は、「聖なる次元/悪魔的な次元」の家来であって、両者に仕える道具である。西欧の世俗的倫理では、テロリストを説得できないだろう。ヘーゲルが云うように、人間は死を賭してみせるからこそ人間なのであり、その意味では、彼らの方がより倫理的なのだから。悪魔的なものの克服は、自滅かいやしか、の二者選択しかない。歴史的には、自滅プラス自滅を加速させる外からの攻撃によって、社会的憑依は終息した。それを、克服というかは別にして・・。人格的憑依においては、癒しの事例が数多く報告されている。次回は、人格性における悪魔的なものについて。
 

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