Ethical Experiment

Morality of Life

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生命の道徳性


 倫理という現象を、生理学な装いで徹底的に考えたのは、ニーチェだった。ニーチェは自身の観点を「生理学的」なものと考えていたようだが、現代的な潮流では「生命論」的なアプローチといえる。現代英米の倫理学は、倫理的な概念の言語分析という形を主にとる傾向があるが、その手法が私たちが日常経験している「倫理」という事象からかけ離れた印象を与えるのは、彼らの哲学的努力が、生命現象の一部に過ぎない言語の領域にだけ限られてているので、「木を見て森を見ず」という類の不十分な取り組みに感じられるからだろう。

 倫理を生命現象という視点から考えてみよう。倫理的命題の特徴は、「〜しなければならない」という拘束的言語によって語られる点にある。「〜しなければならない」という拘束が目指す目的は、秩序を創出することにある。生物学者に云わせれば、生命現象に共通する特徴は、「マクロな系に秩序が自発的に出現すること」である。つまり生命とは、秩序を自己形成する能力といえる。エントロピーの法則から云えば、事物は秩序から無秩序に移行していくはずなのに、生命においては、無秩序から秩序へという逆の変化が普遍的に起きているのである。しかも興味深いことに、生命が秩序を創出するためには、絶えず無秩序なエネルギーを内部に取り込まなければならない、しかし、同時にそれによって生じるエントロピーを系の外部に排出することが必要となるのである。生命は、無秩序なエネルギーを必要としており、しかもそれが常に増大して不安定になりながらも、その不安定さを活用しながら同時に排出して、不安定になる系の内部で新たな秩序を再生産する過程といえるのである。秩序は常にカオスを前提していて、カオスなしに秩序は存在しない。カオスは秩序が誕生するための「地」であり、秩序は「地」の上に描かれた「図」である。

 秩序が創出されるためには、系の諸要素に協同作用が生じる必要がある。しかし、不思議なことに協同作用が発生する条件は、系の不安定さの増大にあるのである。ある一定以上の不安定状態を解消しようとして、系に協同的に起きる変化こそ、自然に広く存在するエントロピーの増大という熱力学的な方向性に対抗して、系の中にマクロな秩序を自己形成する力になるのである(『生命を捉えなおす』・清水博)。

 生命は環境の中にだけ存在できる。環境は無数の刺激を生命に送る。これが生命に不安定さを増大させる。生命は、カオスの様相を見せる外界からの情報に意味論的な境界を導入することによって、自己の世界の意味を創出する。それなしには、生命は、自己の中にもカオスを生じて崩壊するだろう。この意味論的境界創出が、内部的には自己の秩序となり、外部的には世界の分節化となる。

 すべての生命は有限なので、有限な複雑性を超える環境からの情報そのものを直接認識することはできない。そこで、それらの情報に存在するとみなした何らかの類似性や法則性を手がかりに、間接的な認識を行い、それに基づいて自己にとっての意味論的境界を定めるのである。生命は、自己創出した意味論的拘束条件によって、自己にとって有意義な『秩序』を創造する必要があると云われている。

 生命とは、カオスの中に秩序を自己創出する系であり、秩序を創造するために自己に意味論的拘束条件を課しているように思われる。これが倫理の生命論的根源ではないだろうか? 倫理とは、生命論的に云えば、生命が自己を維持するための意味論的拘束条件の創造といえるのではないだろうか?

 存在するすべてのものは形態を必要とする。存在するとは、形を有するという意味である。形態は常に秩序を必要とする。生命とは、形態と力の動的統一である。力(生命力)は、形態を創造して現実となり、形態とは力の形式である。力なしに形はなく、形なしに力は現実的ではない。生命が、自己実現するために形態を必要としていて、形態には秩序が必要だというところに、生命現象としての倫理の起源があるように思えてならない。

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