Ethical Experiment

Morality of Life

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生命は自律的


 西欧では、主体と客体という枠組みで倫理が考えられる場合が多い。倫理だけではなく、西欧思想一般にわりと浸透している枠組みであるが。科学哲学には、物理主義と云われる学派があって、「自然法則が、事象を決定する」と主張されている。こういう考えが成立する前提には、絶対的に決定する主体と(自然法則)、絶対的に決定される客体が(事象)なければならないだろう。行動主義心理学者のワトソンは、健康でいい体をした12人の赤ちゃんを与えられたら、そのうちの任意の一人を、医者にでも、法律家にでも、泥棒にでもすることができると豪語したらしいが、このような「条件づけ」に対する信仰も、絶対的な主体と絶対的な客体を前提としなければ、ありえないだろう。自らは条件づけを実行するが、自分はいかなる条件づけからも自由である絶対的主体と、一切の自由と主体性がなく、ただ完全に受動的な絶対的客体という、正常な人間ならば、とても考え付かないような思考方法といえるだろう。

 さて、生命とは、自己組織できるシステムであると云われる。オートポイエーシス的に云えば、生命というシステムは、「システムが成立するための初期条件が、システムが成立して初めて決まる」という類のシステムということにもなる。つまり、生命というシステムは、自己がどのようなシステムとして存在するかを、自己創造するシステムということです。しかし、この場合、「自己」とは、システムが成立して初めて決まる「自己」である。したがって、自己とは結果の産物なので、私たちが「自己」という名で自己言及する生命システムの中には、決定する「主体」は存在せず、決定される「客体」も存在しないということになる。ニーチェが云うように、「私は手を動かした」というのは、厳密な意味では誤りであり、「手が動いた」という事象が発生したというべきなのであろう。

 もし生命システムが、オートポイエーシス的システムであれば、生命は自律的に作動するので、絶対的主体が、絶対的に客体を条件づけるなどということは不可能であると云うことになる。犬を脅かして右に動かそうとしても、後ろに下がったり、動かなかったり、反対に向かってきたりすることがある。犬という生命システムは自律的なので、どう動くかは犬だけが決めるのである。「パブロフの犬」が可能なのは、厳密にコントロールされた実験室の中だけである。私たちは、犬をしつけることができると考えている。実際に、しつけることができる。しかし、犬が「お手!」をするのは、犬がしたことであって、私たちが「させた」ことではないのである。

 こういう種類の誤解は、日常的に起きている。Aは、昇給を餌にすれば、Bの営業成績が上がると思っている。果たして実際そうなった。Aは飲み屋で上司に、「私がBに昇給と云う餌でモチベーションを高めたので、Bは一生懸命働くようになりました」と自慢げに報告する。ところが、Bは主観的には、自分で主体的に行動したという意識でいるだろう。私たちは、私たちの行動を「操作した」と主張する人間に出会うと、怒りを感じるが、実際にその行為の瞬間を振り返ってみれば、まさに「自分で行為した」という確かな感覚が残っているものである。それは、強制された行為についても真である。私たちは、強制に対して、「自ら屈服」するのでなければ、強制されようがなく、「自ら強制に屈服した」という感覚が残っているものだ。「自ら屈服したから」、強制には屈辱の感情が伴うのである。犬に人間の言語を理解する能力が在れば、私に同意してくれるだろう。「私がお手をした」のであり、「あの間抜けな主人が、私にお手をさせたのではない」と。

 生命は、自ら起動し、自ら行為を完結する。他者は、決して他の生命システムを決定することはできない。何十年トラを調教しても、突然食われてしまうことはある。何十年寄り添っても、定年後に離婚されることもある。「君のために」と思った行為で、嫌われることもあるのである。影響を与えることはできるが、どう振舞うかは、あくまでその生命システムが自律的に自己組織するのである。自由意志をこの意味に解するならば、私は自由意志という観念を認めても良いと思っている。誰も、自分の行為が他者に決定されたとは、実感していない。たんに主観的に実感しないだけでなく、現実にそうなのだ。

 仮に他者の願うように振舞ったとしても、そうであろう。例えば、意に反して謝罪しても、心の中で、「オレが大人だから、頭を下げてあげているんだ」、「たんにこの場を収めるためだ」、「いつか復讐してやる」などと無数の内的反抗が可能であり、他者が決して支配できない心のシステムの自律性を維持できる。この生命の自律性こそ、独裁者の不安の源になる直感であろう。独裁者は、自分が絶対的主体であることを熱望する。しかし、家臣がどんなに頭を垂れても、お世辞を言っても、「こいつは心の中で私をバカにしているかもしれない」、「こいつの従順は、利益目当てかもしれない」という疑念を払うことができない。疑念を払うため、彼の独裁はエスカレートする。しかし相手を殺してみても、それが自分の絶対的主体性の証明にはならないのである。日常的な慣習では、私たちは、「〜させた」という言葉を使う。しかし、親の子どもに対するしつけの不安、上司の部下に対する人心掌握の不安、独裁者の革命に対する不安、先生の子どもに対する教育の不安の意識こそは、「生命システムは自律的である」という真理の証言なのかもしれない。

 さらに、私たちの意識は、自分の生命システムが、ある行為をどのように完結させるかを知らない。自分がどのような振る舞いをするかは、その行為が完結した後、事後的にのみ確認できるのではないだろうか。自分がどのように振舞うかについて、完全な確信を持っている人は、どんな過酷な状況であっても、自分に対する自信を失わない(例えば、新約聖書のキリストのように)。自分の行為が、いかに完結するかについて絶対的自信を持っている人は、絶対的な約束ができる人であろう。しかし自分は、約束をどんな状況においても完全に履行すると信じている人は少ないだろう。

 生命システムが自律的であるのは、意識システムからも自律的であるという意味である。オートポイエーシス的な意味における生命システムは、事後的にしか因果的には説明できない。ある状態の生命システムは、その生命システムが行為において完結した後でないと、そのシステムを記述できない。生命事象を因果的に予測するためには、初期条件を設定しなければならないが、「システムが成立するための初期条件が、システムが成立して初めて決まる」生命システムにおいては、行為が起こる前に初期条件を特定することができない。したがって、生命システムの完全な予測は不可能ということである。アリステア・マッキンタイアーが、啓蒙時代以降の社会科学は失敗だと言い切っているのも、人間という生命システムとその総体である社会事象を、予測し、因果的に説明することが原理的に厳密な意味では不可能であることを示している。

 生命の自律性は、生命システム同士の邂逅、すなわちコミュニケーションにおいても同様である。私たちは、誰も自分の意味することを、相手にその通りに伝達することは不可能である。「こんにゃく問答」という落語があるが、相手はメッセージを自律的に解釈する。どのような強制も、正確にメッセージを伝達できない。逆に、強制すると、「強制」という要素が加わった「解釈」を生み出し、本来のメッセージの意図を歪曲してしまう。オートポイエーシス的システムである生命同士のコミュニケーションは、オートポイエーシス的にならざるを得ないだろう。コミュニケーションというオートポイエーシス的システムは、自律的に発生して、自律的に終息する。AとBの会話は、AあるいはBが主体的に操作することはできない。ひとたび会話というオートポイエーシスが起動したら、それ自体が自律的に継続し自律的に終息してしまう。Aが会話を打ち切ろうとして、「もうこの話はやめよう」と言ったその一言が、Bの怒りに火を注ぎ、更なる口論へと発展する場合もある。逆に、Aはもう少し話していたいと思ったし、Bもそう思ったが、何となく気まずくなり会話が終わることもある。

 以前、「規則は行為を決定しない」というウィトゲンシュタインの言葉を引用したが、その理由は、私が生命システムを基本的にオートポイエーシス的なシステムと考えているからである。行為を決定するのは、生命システムのプロセスである。欧米の倫理学は、とくに分析哲学的倫理学は、道徳的ルールの合理的妥当性の確立に奮闘してきた。それも多少重要だが、それだけでは片手落ちである。本当に重要なのは、自律的な生命という観点から云えば、「彼がそれを行った」というより、「それが起きた」と云う他ないのに、普遍的に「彼がそれを行った」となぜ慣習的に云わねばならないのか。規則は行為を決定できないのに、規則のない社会は存在せず、規則なしに人類は生きることがきないという矛盾はどうしてか。規則は生命の初期条件にはならない。しかし、規則を逸脱する生命は滅びる。しかし他方で、既存の規則への執着によってある生物は滅び、規則からの逸脱によって新しい形態を獲得し生存する生命も存在した。規則と自律的生命はどういう関係にあるのだろうか? 道徳という現象は、規則と生命の自律性という、一見矛盾する両方の観点から考察しなければならないのではないだろうか?

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