Ethical Experiment

Morality of Life

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予測可能になろう!


 さて、規則は事後的に見出される。この言明が言わんとすることは、私たちが当然だと普段感じていること、言語の規則性、ルールの規則性、法、あるいは文化体系の自明性などは、原理的には実は無根拠であるということである。生命システムは、その初期設定が、システムが完結しないと判明しないという点も、同様に生命システムの無根拠性を示唆している。生は原事実(Original Fact)である。生があるという事実をさらに遡る原理は存在しない。数学的な公理でさえも、公理自体は自明なものとして前提されている。公理を説明する公理は存在しない。なぜ生命が存在するのか、それを説明できるいかなる原理も存在しない。すべての原理は、生命の存在を原事実として前提し、すべての原理は、すでに存在する生命という事実から説明の根拠を得るしかない。進化論的説明は、実は説明でもなんでもない。ある生命は、その生命システムが自らそういう形態を形成したわけで、環境や弱肉強食という法則によってではない。仮にある形態を形成した原因があったとしても、その原因を私たちには決して発見することはできないだろう。物理学者が夢見る「大統一理論」は、夢のまた夢であろう。

 さて、私たちは、生を原事実として前提した上で、生はいかなる性格を有するかを考察することはできるだろう。ある生命システムの規則は、事後的にだけ見出される。原理的には確かにそうだ。しかし、付け加えなければいけないのは、生命システムは、その規則を安定的に反復することを求めるということである。細胞という生命システムが、形態という形で完結すると、そこに事後的に規則が見出される。すると完結した細胞システムは、その規則に従って、自己を反復しようとする。しかし、その規則がもう一度確証されるのは、再び細胞システムが自己を完結した後だけである。その細胞システムが、再び継続的に自己の形態を反復できるかどうかは、事後的にしか確証できない。一回、一回が跳躍である。

 生命が存在するとは、エントロピーの法則に抵抗している安定した自律的現象が出現するということだろう。生命とは、カオスの中に出現した安定した自律的な反復と云える。生命は、その本質上、予測可能的な存在でなければならない。ここに矛盾がある。生命は原理的には、自律的であり、規則は事後的にだけ見出されるのに、同時に生命は規則的であり、予測可能な安定したシステムでない限り、生命としては存続できない。なぜなら、生命とは形態だから。生命は、自己が予測可能的で、規則的な安定したシステムでなければならないが、同時に生命は、自己の環境・世界をも、予測可能で規則的に安定したシステムにしなければ生存できない。生命は、自己と環境を同時に予測可能にしなければ、生存できない。世界を予測可能なものとして、論理化すること、これが生命における「認識」の起源であろう。ニーチェのいうように、認識とは世界をその真の姿において知ることではなく、「世界を自己の視点から論理化すること」である。アメーバーから人間に至るまで、この点は共通している。

 予測可能化という生命の戦略が、もっとも大々的に繰り広げられているのが、人間世界であろう。逆にいえば、人間とは最も予測不可能な自律的生命システムだからということになろうが・・。人間は、その生命システムの条件が事後的しか判明せず(他の生命同様)、しかも判明しないことがしばしばであり(複雑)、もっとも自律的であるので、もっとも予測可能化されなければいけない生命である。主婦は、家族が一定の時間には起床することが予測可能でなければ、朝食を作れない。赤ん坊は、数年にわたって(馬の子どもと違い)、母親が育児をするという予測可能性がなければ生存できない。結婚生活とは、当事者に予測可能な振る舞いを義務付けた共同生活である。社会生活を保障する、約束、電車の時間、契約、ビジネス等は、すべて人間という生命と、それらが構成する社会を予測可能なものにする試みである。人間というシステムは、もっとも高度に予測可能化されなければ生存できない。ということは同時に、人間は、潜在的に最も高度な予測可能化能力を有する生命でもあるという意味だ(文明の産物を見よ。文明とは、環境を予測可能にする試みである)。

 道徳の規則とは何か。それは、人間が共存して社会を築くために、自分が予測可能な者となる、あるいは他者を予測可能な存在にする制度であるといえるのではないか。「道徳の終焉」を説く学者がいるが、この偽予言は、おそらく実現しないだろう。なぜなら、道徳とは、自己と世界を、予測可能なものとして組織しようとする生命一般の本質に根ざしていると思われるからである。それぞれの文化における道徳規則の多様性をもって、「道徳とは相対的なものだ」と主張する相対主義者は、具体的・歴史的道徳規則が相対的である点においては正しいが、人間という生命システムは、予測可能性がなければ生存を維持できず(他の生命と同様に)、人間の道徳性とは、世界と自己を予測可能なものにする生命の本質的潜在性の発現である点において普遍的であるという事実を見逃しているのではないだろうか。

 ニーチェは、「道徳体系は、約束できる人間を育成するという目標を目指して発展してきた」と云ったが、「約束できる人間」とは、生命の予測可能性において全生物界の頂点に立つ存在であろう。少し話は横道に逸れるが、いわゆる偉人、特に宗教的偉人とは、予測可能性において極めれ秀でた人物であると思う。新約聖書のキリスト像が、とくにマタイによる福音書において、預言の成就と足並みをそろえて生涯が展開していくのは、生命システムの予測可能性が、歴史的次元にまで拡大して記述された一例であろう。

 ニーチェは、「道徳はすべて放任と反対である。およそすべての道徳にとって本質的であり貴重であるのは、それが久しきにわたる拘束であることである」と云っている。なぜ拘束するのか? それは自己を自己と他者に対して、予測可能な存在にするためではなかろうか?

 他者に対して・・・。およそ、友情というものが存在するためには、友が友を信頼しなければならない。この場合における信頼とは、何ぞや。それは、友と呼べる類の人間には、予測可能な行動を期待できるという信頼ではないだろうか(もちろんポジティブな意味で)。『走れメロスとか』・・・。恋愛もまた同様。指導者と部下の関係、親子関係、究極的には宗教的関係、神と信仰者・・。道徳とは、本質的には、具体的道徳規則への服従ではなく(そういう形で表現されることもあるが)、「私」を、他者に対して予測可能なように行動するという意味である。そのためにある一定のパターンに自己を拘束すること、これが道徳性の1つの本質ではないだろうか? およそ、こういう相互の予測可能性がない人間関係においては、いかなる意味の積極的関係も成立しない。

 自己に対して・・・。自分が自分に対して予測不可能な者は、何事とも達成することができない。「計画」という言葉自体、自己の予測可能化を含んでいる。自己が自己に対して完全に予測不可能な人間は、統一した自己イメージを持ち得ないだろう。彼の自己は断片化し、自分自身との関係、他者との関係、社会における自分の位置について、いかなる安定した観念も持ち得ないだろう。彼は、統合された自己の歴史感覚を持つことができず、自己が歴史的に連続した「私」であるという確信を実感できないだろう。彼は、自己に対していかなる「信頼」も抱き得ないだろう。

 さて、とはいっても、原理的には、「規則は行為を決定できない」。自己の予測可能性は、常に行為の後に、事後的に確証される。「私」というシステムが、ある行為においてどのように完結するかを、私たちは完全には予測できない。したがって、他者をも完全には予測できない。最も親密な信頼する人をも・・。道徳性(予測可能性)が、人間という生命システムにとって不可欠であるにもかかわらず、原理的には常に道徳規則に背く可能性がある、予測不可能である、しかも自己が自己に課した、あるいは他者が私に課した予測可能性を現実には裏切ってしまう、しかも最悪の形で裏切ることがある、さらには予測可能性を課したがゆえに裏切る(文字は殺す)、というのが、道徳性と生命システムの根本問題の1つではなかろうか?

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