Ethical Experiment

キリスト教倫理は生命現象である

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倫理は生体の安定をめざす


 ホメオスタシスとは、生体の安定を求める傾向のことである。人間においては、生理学的な意味において安定を目指すホメオスタシスがあるが、心理学的次元においても、精神的な次元においても、社会学的次元においてもホメオスタシスが作動する。生命は、全体として矛盾のないシステムを構成することが必要である。人間は、多様な要素によって構成されているが、各要素は、それぞれ独自のシステムとして自律性を保持しつつ、同時に全体として統一された1個の個体として行動する。多様な要素が、統合されて1個の個体として行動するためには、システム全体を統御する適切な拘束条件が自己創出されて、その拘束条件によって決まる特定の一貫した状態へ収束しなければならないだろう。

 しかし、ある状況で適切に作動した特定の拘束条件を、条件が異なる他の状況においても押し通すなら、「融通の利かないバカ」にもなりかねない。したがって、過去において成功した拘束条件を、記憶のネットワークに保存して自己のホメオスタシスを維持しつつ、他方で常に自己を不完結の状態に保ち続けて新しい状況に適応するには、自己の内部の自由度を大きくしていく以外にない。倫理・道徳においても、過去に成功した拘束条件を維持するだけで、自己を不完結の状態に保たない人は、「融通の利かない道徳主義者」、「クソ真面目」と呼ばれるだろう。

 倫理・道徳性とは、対人関係・社会関係における「私」のホメオスタシスを、全体として矛盾のないシステムにしながら、他方で新しい条件に適応するために、自己を不完結な状態にして、自己の内部の自由度を最大限確保する、「私」の生体システムの自己創造と云える。過去において自己創出した拘束条件を、記憶ネットワークの検索システムの中に矛盾のないよう統合しつつ、しかも新しい状況に対処するために、新しい拘束条件を創出できるほどの自由度(バイタリティ)を確保するホメオスタシスな働きが、倫理・道徳性と呼ばれるべきだと思う。倫理・道徳性とは、第一義的には、原理・原則ではなく、「私」の安定を創造するホメオスタシスな働きのことである。原理・原則は、ホメオスタシスを確保する際に、拘束条件を創出する参考として用いられる「過去の知恵」に過ぎない。

 私は、ある人にとっての倫理体系とは、その人が過去において、与えられた環境の中で、自己の「社会的ホメオスタシス」を維持できた際に用いられた拘束条件の体系であると考えている。ある人の倫理体系が安定しているのは、その人の過去の拘束条件が、全体として矛盾のないシステムを構成している場合だと思う。

 生命システムにおいては、システム全体の変化に応じて、要素自身が性質を新たに獲得し、その表現が創出的に変化する。最近、教育再生会議のメンバーになった「ヤンキー教師」は、不良だった過去(要素)が、先生になった瞬間、他の教師にない「個性」に変化した。自己ネットワークに保存されている各要素は、システムが採用する新しい拘束条件と、それに伴う自己システム全体の変化によって、新しい性質を獲得することができるのである。

 倫理・道徳性とは、対人関係・社会関係における「私」のホメオスタシスを、全体として矛盾のないシステムにしながら、他方で新しい条件に適応するために、自己を不完結な状態にして、自己の内部の自由度を最大限確保する、「私」の生体システムの自己創造であると云った。道徳とは、全体として矛盾のない「自分」になれという、「私」の内部から湧き上がる要請ではないだろうか? ベルグソンが云うように、「一切の道徳は、生命学的な本質のもの」なのではないだろうか?

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