Ethical Experiment

Morality of Life

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体験の消化


 ティリッヒは、道徳性とは、私たちの人格の統合の程度のことだと云っている。不道徳とは、自己の不統合のことだ。私たちは現実と向き合って、現実の中で生活している。私たちは、現実の内容を吸収しながら、毎日生きている。空気を吸って、食事を食べて、水分を補給して生きている。外界から吸収したものは、消化しなければいけない。消化すれば、栄養となって、自分の一部分になり、私たちは成長する。消化したけれど、「自己」にとって余分な部分は、下半身の前と後ろから排出する。たまに消化できないものがあったりすると、下痢をする。下痢なら、体外に排出して「さよなら!」だが、異物として体の中に残られると、白血球でも追い出せなかったら、毒となったりして、病気になるだろう。私たちの身体は、外界から入るものを、消化吸収して自己統合できる限り成長するし、自己統合できないと下痢をするか、病気に感染する。

 私たちが外界から、自分の中に取り入れるものは、食事や空気だけではない。社会生活において、悪口、中傷、お世辞、無視、倒産、昇進、転勤、好意、献身、それこそ無数の現実の内容を、選別しながら吸収しているわけだ。外界からやって来るさまざまな現実の中には、あるものは「甘い」ので、美味しく吸収できるが、あるものは「苦い」ので、胃を壊して消化不良を起こしてしまう。私たちは、厳しい現実でも嫌がらずに食べて、吸収してそれを自己統合しなければいけない時がある。受験に失敗した学生にとって、「不合格」という現実は、苦すぎるし固すぎるので、できれば食べたくないだろうが、「不合格」という現実を自己の紛れもない一部として吸収して、その辛さを自己統合する必要がある。消化する必要がある。消化すれば、その苦い食物は、栄養と化して、成長の源となるだろう。消化できなければ、精神的下痢と腹痛で、彼はますます弱くなるだろう。

 あるものは甘くて美味しそうだが、それを消化吸収すると、かえって身体に毒となる危険物もある。そういう場合は、自己の統合を危うくするので、避けたほうがよい。既婚者の前に現れた誘惑者は、うっかり「吸収する」と、自分の中の他の一部、例えば、妻、夫、家族、世間体などとぶつかり合い、矛盾して自己統合することが難しくなる。これを「食べ合わせが悪い」という。万引きや痴漢という「餌」を食べると、社会的地位などと食い合わせが悪くなり、どうやっても消化できず、自己は不統合の危機となる。

 慣習的に不道徳とされるメニューは、それを食べると、消化できないか、下痢することがある程度証明済み「食料」なのだと思う。しかし、世の中には、鉄の胃袋を持つ人が稀にいて、「ゲテモノ」を食べても一向に平気な場合もある。そういう人は、強烈な統合力(消化力)を持つ例外的なケースだろう。世間の非難・中傷をどれだけ吸収しても、それをよく消化し、かえって自分の成長の肥やしにできる人もいるのである。道徳性とは、根本的には、外界との遭遇を吸収して、なお消化できる自己統合力の程度である。したがって、私たちの倫理的メニューには、自分の消化力に応じた個人的なリストがあるべきであって、万人に共通な道徳品目などないだろう。全ては、健康や成長への配慮しながら、自分の胃と相談だ。

 したがって、自分の道徳性の体調が悪い時は、「断食」することも必要である。外界の現実を吸収できない時は、「引きこもって」も、それが自己の統合を維持するに資する場合は、道徳的に「善」なのだ。神経症という病気は、道徳性の体調が悪い時に、一時的に絶食するようなものである。外界から吸収する刺激を制限するのである。下痢はそれ自体では、衰弱の兆候だが、下痢することによって、もっと悪い事態を避けることができる。精神科医の中井氏は、「幻想や妄想は、もっと悪性の何事かを防いでいるのかもしれない」と書いているが、思春期の不良少年のように、不道徳な行為はもっと悪性の何事かを防いでいるのかもしれない。

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