Ethical Experiment

Morality of Life

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記憶の消化


 壮健な時は、栄養を大いに求める。充実して仕事している時は、食欲も湧く。仕事で消費したエネルギーを補おうと、ガツガツ食べる。しかも、美味しく感じる。食べたら、きちっと同化して、毎朝のお通じも絶好調。さて、道徳性とは、「自己」の同化と統合の程度のことだ。自己の統合が活発な時は、栄養を大いに求める。好奇心が湧く、知識欲が貪欲になる。成長の糧になるもの、美味なものを摂取しようとする。「毎日が勉強です!」と云えるのは、「自己」の摂取と統合が快調だからである。「勤勉」が道徳のルールになるのは、自己の内部の統合が順調であることの反映だからであろう。ニーチェは、「これまでその原因とみなされてきたものは、その結果なのである」と言ったが、もし勤勉の道徳を実践したら、自己統合が高くなるのではなく、自己統合が活発だから、勤勉なのだ。原因とみなされてきたものは、結果に過ぎない。

 現実との遭遇は、消化して、自己の一部として同化しなければ、自分の中で異物として残ってしまう。なかでも一番厄介なのは、記憶の消化ではないだろうか? 辛い体験は、もし消化されないならば病気の要因になってしまう。過去の記憶を消化できないために、どんな悲劇が世間で起こっていることか。虐待された記憶、いじめられた記憶、挫折の記憶、失恋の記憶などが消化されないと、外傷性記憶(トラウマ)として、私たちの現在の生活に大きな影響を与え続ける。最近新聞で、車庫入れしようとした母親が、愛児をひき殺してしまった記事を目にしたが、こんな辛い記憶はいつか消えることがあるのだろうか? 

 そんな悲劇的な記憶でなくても、私たちは小さな嫌な記憶を抱えながら生きている。友人の何気ない冗談が心が「グサッ」ときて、その友人の顔を見るたび思い出されてきたり・・。その一言がきっかけで、関係が気まずくなったり・・。ある夫婦が喧嘩した時、妻が30年前の過失を持ち出してきて夫を非難したという話を耳にしたが、根に持つということは恐ろしいことだ。根にもたられるのは、もっと恐ろしいが・・。でも私たちみんな、誰かに対して何かしら根に持っている記憶があるのではないだろうか?

 トラウマや根に持った記憶は、ある日突然、昨日のようにアリアリとした生々しさで意識に浮かぶ。ニーチェは、「忘れる」とは、能動的で、積極的な阻止能力であるとして、もしこの才能がなければ、何の幸福も、何の快活も、何の希望も、何の現在もありえないだろうと書いている。そして、「この阻止装置が破損したり停止したりした人間は、消化不良患者にも比せらるべきものだ。健忘は一つの力、強い健康の一形式を示すものである」と云っている。過去にできない、終わりにできない、決着をつけられない弱さは、私たち誰もが苦しむ経験だろう。生命は、過去を過去にしない限り、前に進めない。現在を生きれない。未来がない。

 とはいっても、忘れない能力も同じだけ生命には必要である。「Ten minute」という映画があったが、主人公は10分間の記憶力しかない。これじゃ、人生破滅である。幼い頃の両親の愛情、成功体験、受けた恩、失敗から学んだこと、こういう保存すべき過去を記憶しないと、人生に成長も安定もない。私たちは、想起と忘却のバランスによって健康を維持する。過去を溜め込みすぎると、未来に適応できないし、過去を捨てすぎるとアイデンティティを失ってしまう。バランスよく、忘れるべきことを忘れ、記憶すべきことを記憶するのが、倫理と云える。政治的な話はしたくないが、記憶と忘却の倫理的側面が、典型的に現れているのが、戦争責任問題だろう。過去にしがみつく勢力と、過去を振り捨てて未来に向かいたい勢力の対立・・。

 そういうわけで、記憶を消化すること、忘れること、それができるだけの「健康」を維持することは、道徳性の大事な一面なのだ。でも、辛い記憶なんて、そんなに簡単に消え去るものなのだろうか? ティリッヒは、「忘れる」と云うことには、3種類あると云っている。1つ目は、自然に忘れる。私たちが、日常的に無意識に実践している「忘れる」である。パソコンと同じで、「ディスククリーンアップ」をしないと、余分な情報でハードディスクが埋まってしまう。新陳代謝のように、古いものは忘れて、記憶の容量を維持する。

 2つ目は、抑圧による忘れ方。なぜ想い出したくないのか? 心が痛いから・・。自然な忘却は、私たちを過剰な記憶の蓄積から解放してくれる。しかし、2番目の「忘れる」は、解放してくれない。忘れられないから、抑圧する。抑圧された記憶は、無意識に私たちを支配する。突然、フラッシュバックして、意識に侵入する。2つ目の忘れるは、「想い出したくないから、忘れたふりをする」忘れ方である。

 3つ目の「忘れる」は、「心が痛まずに想い出す」忘れ方だ。普段は忘れているが、記憶はしっかり残っている。「想い出せ!」と言われれば、想い出せる。でも、想い出した時、もはや昔のように心は痛まないのである。この種類の忘却を、倫理用語に訳せば、「赦し」となろう。記憶の、痛みの部分だけを消し去っている。赦しとは、痛まずに想い出すことである。恥ずかしくて想い出せない「はず」の記憶、想い出すと復讐したくなる「はず」の記憶、そういう記憶が保存されている。しかし、「にもかかわらず」、想い出しても心が痛まない。これがティリッヒによれば、赦しである。自分の失敗を赦し、他人の過失を赦す。こういう「忘却」なしに、道徳性、つまり記憶の消化、記憶の同化、自己統合、つまり倫理はありえないだろう。私たちの人生には、こういう「消化」が起こる瞬間がある。その力は、いったいどこから来るのだろうか?

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