Ethical Experiment

Morality of Life

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    生きるとは交換すること


 乳児の世界は、イメージの世界と云われている。イメージと呼んでもいいし、私的幻想と呼んでもいいし、ファンタスムと呼んでもいいだろう。乳児の世界は悲惨であるという考え方は、フロイト、サリヴァンやラカンが代表し、至福であるという考え方は土居健朗やバリントが主張しているし、岸田秀などは全能感に満たされたナルシズムの時期と云い、百家争鳴であるが、実際のところ私にはわからない。ただ言語によって分節化された世界と、自己と呼べる主体を獲得する以前であることは確かなようだ。

 この時期の乳児の世界は、自閉的な世界である。現実を認知する器官が未発達であるから、現実から遮断された宇宙といえるだろう。その宇宙には、大人の意味における自己もなく、したがって自己と区別される他者も存在しない。乳児はイメージの戯れの中で自閉的に遊び続けるのである。乳児が他者を必要とせず、孤独を感じず、たった一人で何時間遊んでも退屈を感じないのは、そのためだろうか。人間はイメージが錯乱する自閉的宇宙として誕生する。私にはこの時期の記憶はないが、推測で云わせてもらえば、おそらくエデンの園のような楽園であろう。

 しかし、このまま成長してしまっては、自閉した妄想児に育ってしまうので、母親は、乳児との間に共有可能な擬似現実を作って徐々に乳児を外界に導き出していく。その手がかりの1つが発声である。母親が、乳児の特定の発声に反応することによって、その音声に一定の意味を付与し、かくして両者の間で、その音声が共通の意味を持つ言葉として共同化されていく。言語活動の本質の一つは、音声の交換である。乳児の発声に母親が反応することによって、今度はその反応に乳児が反応し、かくして乳児は交換活動に巻き込まれていく。

 この時期に乳児に必要なのは、「返事を与えてくれる誰か」であろう。母親は、乳児の発声が表現する「意味」を認知して、それに応答するのではない。なぜなら、乳児は意味を込めて発声しているのではないから。しかし、母親が乳児の意味のない発声に返事を与えることによって、その発声に意味が事後的に付与されるのではないだろうか? 逆に、仮に乳児が意味を込めて発声しても、母親が返事を与えなければ、そこに意味は生じないことになる。乳児は返事を受け取ることによって、自分の発声に意味があることを意識するようになる。乳児は意味の世界に徐々に入っていくのであろう。

 乳児は、この発声の交換活動に参入しない限り、「人間」にはなれないだろう。返事が不在なら、乳児は自閉的イメージの世界から出ることはないだろう。乳児が「人間」になるため踏み出す一歩は、返事を与えられるという贈与と、返事を投げ返すという交換活動にあるのではないだろうか。交換によって、乳児は自閉的宇宙から、他者とのコミュニケーションへと誘われて行く。人間が抱える多くの倫理的問題、多くの人格障害が、「交換」の停止に起因する可能性があることを考えると、乳児の交換は原型的重要性を持つようになる。セシェーの『分裂病の少女の手記』によれば、統合失調症のルネは、緑の野菜と緑のリンゴしか食べられなかったそうだ。

「そこで私はルネに、欲しいだけリンゴをあげますよと言うと、途端にルネは叫んだ。『ありがとう、でもそれはお店のリンゴなのでしょう、大人のリンゴなのでしょう。私が欲しいのはママのリンゴなの、そこにあるような』とルネは言って、私の胸を指さした。『そのリンゴなの。お腹のすいたときだけ、ママはそのリンゴをくれるの。』」(分裂病の少女の日記)

 そこで精神科医のセシェーが、、「ママのリンゴのおいしいお乳を飲む時間ですよ。これからママがルネちゃんにお乳をあげますよ。」と、リンゴを差し出して言ってみたそうである。するとルネは、セシェーの胸にリンゴを押し当てて食べたそうである。「乳房をリンゴだ」という人に出会ったら、私たちは頭をひねって無視するだろう。しかし、セシェーは、ルネに返事を与え、そこからセシェーとルネの『交換』が始まった。辛抱強い治療の末、ルネは完治して、以後再発しなかったそうである。

 発声による交換活動に導かれて、乳児は自閉的不交換の宇宙から、他者とのコミュニケーションの世界、つまり「共同生活」に参入していく。意味が初めにあって、それを活用してコミュニケーションが始まるのではなく、まず発声の交換が生じて、交換が成立した後に意味が生じるのではないか。コミュニケーションなしに人間は生存できない。交換なしに人間は生存できない。交換は、人間の最低生存条件に留まらない。交換する能力こそ、人間が成熟するためのカギのように思える。成熟した人間とは、「より広く、より深く交換できる人間」ではないだろうか。乳児が人間として成熟するためには、母親と発声の交換をする必要があった。交換する能力にともない世界が広がり、交わりが広がり、自己が広がり、そして成熟していくのだろう。そして交換が阻害されるにつれて、交換を否定するにつれて、交換を諦めるにつれて、倫理的な意味でも、私たちは人間社会から疎外し、仲間から疎外し、自分自身から疎外していくのかもしれない。

 交換活動は、有機的生命のあらゆる次元で行われているように思える。細胞同士の間で、有機物同士の間で、生命同士の間で、人格同士の間で・・。有機的生命においては、交換の全面的停止は生命そのものの停止に直結する。交換は、生体の安定にとって重要なだけではない。乳幼児の時期に、交換を習得することが、将来、人間が文化活動に参加する上で、重要な条件となっているからである。そして、共同体の文化に参入できないならば、私たちの生体の安定は間接的に危機を迎えるだろう。自閉的イメージの世界を脱出すること、言語・記号を交換することを習得することは、人間社会に参加する最低限の条件ではないだろうか。倫理は、言語が措定する自己同一性と、言語が指示する規範性に依存している制度的なものであるが、それが制度として成立する基盤に生命的「交換」があるといえるのでは・・。

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