Ethical Experiment

Centered Person

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強迫的な自己統合

 

 ひたむきな生き方が、人格の統合を生み出す。しかし、人間、悪いことにもひたむきになれるはずだ。街角で、熱心にビラを配る変な新興宗教の信者たちもひたむきである。自爆するテロリストもひたむき。ストーカーもひたむき。守銭奴もひたむき。犯罪者も目的に向かってひたむきである。

 まちがいなく、この種の人たちは、平均人以上に、活力にあふれ、充実して、目はキラキラ、空虚感が少なく、人格が統合されている。この人たちから一般人を見れば、無気力で、生きる目標を持たず、空虚で平凡な人生を送っているように見えるし、対照的に自分たちは生の充実で溢れているように感じされるだろう。ところが、一般人から見れば、この種の人たちの人格統合には、何か無理があるように感じられるのだ。どうも自然体を感じない。理由の1つは、彼らのひたむきさが、「強迫的」に感じられるからだろう。

 この「強迫的」というのが、ポイントである。ある種の人たちは、道徳的に潔癖で、世間的に落ち度はなく、「ご立派」なのだが、なぜか尊敬されない。ある種のリベラルな市民団体の活動家たちは、言行において、なるほど立派なのだが、どうも敬遠されがちである。理念は高尚だし、ひたむきに使命に取り組んでいるのに・・。おそらく理由は、彼らの人格の統合に自然さが欠け、何か強迫的なものを、私たちが感じるからではないだろうか? 逆に、ある種の人たちは、喧嘩好き、酒好き、女好き、しかも遅刻の常習犯、ふざけた冗談を口にしては嬉々としているのに、頼られ、愛され、いざというとき信頼されている。この違いはどこから生じるかといえば、おそらく人格統合の「狭さ」と「広さ」によるのだと思う。

 人間は、反社会的でも平均以上に人格が統合されうる。しかし、その統合は、排除による統合である場合が多い。ありのままの現実に対処するには、人格が矛盾や対立を多く抱えて弱いので、狭い範囲に限定して自己を統合し、それに応じた、現実の限られた部分にだけ対応しようとする。人格のある諸要素を抑圧して、狭い範囲でまとめると、統合力は強くなる。さらに、行動に一貫性が生まれる。しかし、適応できる現実の範囲も、それに比例して狭くなる。世間から変わり者と呼ばれるようになる。したがって、自分と同じように狭く統合した仲間とのコミュニティーにこもることで、現実の方を、自分たちの狭い人格統合に合わせようとする。当然、仲間内の中にいるときの方が、心地よいので、ますます集団は社会から孤立する。排除された精神的要素は、抑圧されているだけで、消失したわけではない。自分と意見が異なる人に接すると、排除された要素が刺激され、自己の統合が揺さぶられるので、非寛容になる。これが、狂信的な信者やテロリストの人格統合であると思う。非社会的、あるいは反社会的な自己統合である。

 道徳的には立派だけど、敬遠されるタイプは、社会の規範に一致した人格統合である。しかし、統合されている範囲が、あまりにも狭すぎる。狭いために強迫的にならざるを得ない。なぜなら、彼らが狂信的に否定しようとする「異なった意見」は、外部からやって来るように見えて、実は彼らの内部にある抑圧された要素だからだ。生まれつき時間に生真面目な人は、遅刻常習犯をエイリアンのように理解できない。したがって関心の対象にはならないだろう。しかし、努力して、「遅刻しない自分」を維持している人は、常習犯がヘラヘラ笑って反省するそぶりさえ見せないことが我慢できない。狭さは、強さでもあるが、同時に脆さでもある。狂信的な信者、テロリスト、道徳家は、強いが、しかし脆い。

 人格を狭く統合した人たちに、「狭さ」の不合理を指摘して、変化を期待しても多くの場合無駄である。なぜなら、合理的なのは、彼らの方であって、「広さ」の方が不合理なのだから。彼らは、合理的だからこそ、人格を狭く統合するのである。なぜなら、彼らが求めているのは、人格の首尾一貫性であり、整合性なのだ。異常者でさえ、いや、異常者こそ、行動に整合性があり、論理的である。猟奇殺人の多いアメリカで、心理捜査官が活躍するのは、猟奇殺人者の行動に首尾一貫性と整合性があるからだ。正常者の魔がさした犯罪なんて、分析の仕様がない。一般市民の「一般性」とは、不合理さと整合性のなさを受容できる人格統合の「広さ」にあるのであって、合理性にあるのではない。異常者には、人格内部の対立や矛盾に耐える強さがない。この弱さのゆえに、異常者は、不統合に苦しむ。そこで彼は、整合性や一貫性がある範囲でだけ、自己を統合しようとする。できあがった「自己」は、整合性をようやく確保したが、やせ細ったガリガリの人格になってしまう。異常なこだわり、細部への執着、強迫性が、払うべき代償になる。

 犯罪者の場合はどうだろう? 多くの犯罪は、ニーチェが云うように、人格の不統合から生じるが、ある種の犯罪は、平均以上の意志の強さ、勇気、実行力、つまり人格の統合力から為される。この種の犯罪者は、人格の統合に強迫性が少ないように思える。もちろん、犯罪者の知り合いが、多いわけではないので断言できないが・・。強迫性が少ない理由は、人格の統合を抑圧によってではなく、分割によって維持しているからだと、私は推測している。世間的には、彼は一般市民として表向き生活している。しかし、世間が好意を示してくれるのは、「仮面の彼」であって、「真実の彼」ではない。実は、彼に対してではなく、自分とは別の人物に話しかけているわけである。自分の現実ありのままを知っている彼は、知人と一緒にいても、独り無人島に暮らすようなものだろう。彼が、自分の罪を白状すれば、周囲は値打ち相応にしか扱ってくれない。しかし、今度は、紛れもない本当の「彼」に向かって語りかけるし、彼も真実の「彼」として応答することができる(ベルグソン・『道徳と宗教の二つの源泉』)。

 狭い自己統合は、そうしなければ、人格内の矛盾と対立によって、もっと悪いことがおこるのを防いでいるのかもしれない。これは治療のパラドックスだが、治すともっと悪いことが起こる場合もあるのである。ある種の神経症は、病気によって、対処する現実の範囲を限定する自己防衛かもしれない。私たちの人格統合の狭さは、「次善の策」かもしれないのである。人格が広く統合されるということは、それだけ諸衝動の多様性に耐えるということでもあるかもしれないから。

  「最高の人間は、諸衝動の最大の多様性を持っており、しかもそれを、それに耐えとおしうるほど、 相対的に最強度にもっているにちがいない。人間は、動物とは反対に、わが身のうちで豊富な対立しあう衝動を育てあげてきた。この総合のおかげで、人間は大地の主なのである(ニーチェ)」


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