Ethical Experiment

Centered Person

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統合するのが倫理的


 生命は形を求める。生命は、形態として実現することを求める。形態となるということは、処々の要素を統合して、個的な形となる云う意味でもある。1つの形態となった生命は、独自の個的な形態として他の形態から区別される。生命は形態として実現することによって、個的生命になることを求めているのは、生命全般の「本能」のように私には思えるのである。個的形態になるためには、統合されていなければならない。統合は生命にとって不可欠な作業であり、倫理の根幹にも当然「統合」が重要な意味を持っていると仮定するのも、無理なことではないと思う。

 ある脳科学者によると、脳とコンピューターの顕著な違いは、脳がさまざまな機能を有機的に統合できる点にあると云う。千億以上の脳神経細胞は外界からの刺激を、視覚、聴覚、触覚などの感覚情報処理を通して並列的に捉えつつ、それらを1つの統合した「印象・イメージ」として立ち上げる。無数の感覚情報を1つに統合できなければ、外界はカオスとして以外認知されないだろう。さらに並列的な膨大な感覚情報を、脳は運動機能に統合する。運動出力は、基本的に一度に一つのことしかできない。たとえば、一度に一つの言葉しか発話できない。身体の無数の機能がひとつの出力に統合される。並列的な情報が統合されて一つの印象(クオリア)になり、さらにそれが一つの運動出力に統合されて、一つの行為・発話として実現されるのである。

 単純な有機体の場合、そのレベルで発達を停止しても生存できるが、人間の場合、さらに先に進まなければ、「人間」にはなれないようだ。たんに外界からの並列的な刺激を1つの印象に統合しても、さらにそれを1つの運動出力に統合しても、何かが足りない。その足りない何かとは、「私」としての統合である。動物と違って、人間の乳児においては、感覚情報の統合や運動出力の統合は、誕生と同時に習得されるものではなくて、徐々に習得されるものだが、「私」としての統合も段階的に形成されるらしい。

 ラカンによれば、乳児は生後6ヶ月までは、まだ統一的な身体像を感知できず、身体感覚は混沌としているらしい。乳児は、母親の中に確立された彼女の統一像の鏡像を看取して、それと自己を想像的に同一化することによって「私」の統一像を手に入れるそうだ。これがラカンの「鏡像段階論」である。つまり、乳児は「私ならざる他者」を「私」と誤認することによって「私」を形成するわけである。「私」の起源は、「私」の内部にはなく、「私ならざるもの」によって担保されていることになる。

 鏡像は視覚的なイメージなので、鏡像と自己同一化する者は、同じような仕方で、他の視覚的なものを「私」と誤認してしまう。幼児は鏡像(他者)の欲望を、「私」の欲望として誤認する。幼児は他の子供が欲しがる物を欲しがる。幼児は他の子供が泣くと自分も泣く。幼児は鏡像の欲望に抵抗できない。なぜなら、「私」の欲望は自生的な欲望ではなく、想像的に同一化した他者の欲望だからだというのだ。いずれにしても、この段階では、乳幼児は自分にとって一番身近な存在(通常は母親)に映った鏡像と同一化することによって、「私」としての統合を手に入れると、ラカンは云っている。

 乳幼児が「私」の統合を、母親との鏡像的・想像的関係において手に入れることは、それなりの必要性に基づくらしい。乳児の世界は、自閉的イメージの世界、岸田氏によれば「私的幻想」の世界なので、制度に基づく「共同幻想」の世界に直接移行するには無理がある。そこで母親が乳児の幻想に部分的に応答することによって、まず母親との間に擬似現実を共有して、徐々に母親と乳児の外にある「大人の世界」に軟着陸する必要があるのだということだ。しかし、母親との間に共有できる世界を築けなかったり、母親の「私」が社会一般で許容されない「私」であるなら、乳児は最初の時点で、統合された「私」を手に入れることに失敗し、それ以後の社会生活に支障をきたすことになるだろう。

 さて、ラカンが云う鏡像段階は生後18ヶ月までの間を指すようだが、それ以後、つまり二歳半から三歳半にかけてさまざまな飛躍があるとされている。最近の言語心理学によれば、この時期に「成人文法性」が顕在化する。また幼児型記憶から、記憶の連続感覚によって自己史が成立する「成人型記憶」への移行が始まる。さらに、他人の心を推測する能力である「心の理論」が獲得されるといわれている。

 成人文法性は、世界の整合化と因果関連化に対応しているといわれる。成人文法は、整合的世界を前提とし、因果的に事象を表現するものである。ニーチェが云うように、私たちは「生成する世界」を表現する言語を持っていない。私たちが世界を言語によって分節化するとき、因果関係の言語を用いないわけにはいかない。ニーチェによれば、世界が論理的・因果的に見えるのは、私たちが前もって言語によって世界を「論理化・因果化」したからである。現実の複雑性は、大幅に減圧されて、整合的になり単純化される。言語は、同一のものが、類似のものが存在するという前提に基づいている。しかし、現実の世界には、そのようなものは存在しない。しかし、記号による同一化・簡略化・図式化によらなければ、私たちは何も「認識」することはできない。これがニーチェの云う「認識と生成とは互いに排除しあう」の意である。

 周囲を言語化することによって、幼児は独自の個的形態を獲得する。言語によって、「環境」は「世界」へと変容する。ティリッヒは、この個的形態を「中心化された自己」と呼んでいる。環境が、「自己の対象である世界」に変容する程度に応じて、自己は中心化する。自己と世界は相互関係的である。人間は、環境の中に生きているが、同時に世界を持つ。環境が、整合的な「世界」として言語化されるに応じて、自己は個別化し、中心化し、整合化する。逆に、世界が整合化されず、断片化するに応じて、自己は断片化し、個別性は崩壊する。自己は、世界がバラバラになるに応じて、自身もバラバラになる。統合失調症患者は、日常世界の崩壊と自己の崩壊を同時に感じ苦しむが、その最初の徴候が言語表現の崩壊であることは象徴的である。

 ティリッヒは、倫理の機能とは、「人格の中心化」にあると云っている。ある人の倫理性の程度は、その人の人格がどの程度統合されているかによると云う。すると、唯一根本的に倫理的な命題とは、「統合された人格であれ!」となろうか。不道徳な人間とは、道徳的命題に反する行為を行うから不道徳なのではなく、彼の行為は、人格の不統合に由来するから、不道徳なのである。彼の人格の不統合な状態が「罪」であり、悪しき行為はその必然的帰結に過ぎないというのが、ティリッヒの考えのようだが、どうであろうか?

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