Ethical Experiment

ビックリ原罪論

Welcome to my column


禁止の誕生


 さて精神分析は、幼時のこの時期の飛躍をエディプスコンプレックスと用語化している。ラカン派の解説書によれば、鏡像的段階においては、いずれが「本体」でいずれがその「写し」なのかを決定する審判者がいない。したがって、その相克は相互的暴力にならざるを得ない。鏡像的関係においては、同一の対象に収斂する二つの欲望は、互いに相手の障害になる。この関係においては、欲望は本質的に模倣的になるとされている。客観的な「審判者」のいない双数的関係においては、お互いに相手と想像的に同一化する関係なので、互いに互いの鏡となる。自己の欲望は、鏡の欲望に思われ、鏡の「怒り」は自己の「怒り」として誤認される。育児ノイローゼーと幼児虐待とは、母親と子どもが双数的関係の自閉的世界の中で溶け合い、夫の無理解による家庭内孤立と、地域社会から遮断された社会的孤立が加わった「想像段階」的状況に起因するのではないかと、わたしは疑ってみたりしている。 話は横道に逸れたが、このような双数的関係から幼児を救うのが、ラカンの云う「父」であり、フロイトの云う「去勢」であろう。母親との想像的癒着を断ち切ってくれるのは、「禁止」である。ルールの体系であり、法であり、言語である。

 ジラールは、「差異の消滅こそ暴力の根源である」というような事を云っているが、融合していく二者関係に、記号によって差異の切れ目を入れるのが、ラカン的に云えば「象徴界」である。「太郎くんはお兄さんなのよ。だから我慢しなさい」、「太郎くんは男なんだから、女の子をいじめちゃダメよ」、「お父さんの言うことには従いなさい」などと、「兄」、「男」、「息子」という記号を張られ、諸記号の体系(ルール)に従うことを幼児は要求される。ルールの正当性を、幼児は理解できない(初めから、そんなものはないのだが)。しかし、ルールが存在することは理解できる。従えば誉められ、違反すれば叱られる。世の中には従うべきルールがある、自分には割り当てられた立場がある、これらを知り、それらに従うことが想像段階からの離陸である。従う必然性はない。従わなかったら、仲間はずれになるだけである。ここが「人間」になれるか、なれないかの分岐点だ。ルールがある。従えば、人間になれるし、拒絶すれば、自閉的世界に逆戻り。その必然性を理解できないまま、ルールに従うか従わないかの決断を迫られるのは、外国語を学ぶ状況に似ているといえる。

 言語は、体験を体験についての記号に変える。言語は、他者を他者についての記号に変える。さらに言語は、内田樹氏が云うように、

 子どもは「私は消えた」と宣言する。「私」は消えた。にもかかわらず、「私は消えた」と発語する「私」がいる。ということは、「消えた私」と「『私は消えた』と発語している私」は別の審級に属していることになる。

 これが言語の魔術であることは、読者にとって承知のことだろう。「私は消えた」と発語している私は、「私」と「世界」を同時に俯瞰している「私」である。私とは、「私」と「世界」の間の関係を首尾一貫した統一として「私」に説明する「私」である。なんだか、わけわからなくなってきたが、ともかく言語によって記号化された「私」なしには、道徳的主体である「私」も、法的主体である「私」も同一性を確保し得ない。なぜなら、「生成としての私」は認識不可能であり、「諸イメージとしての私」は自閉的世界に安住し、「想像段階の私」は他者と想像的に同一化しているからだ。言語が確保する「私」は、現実ありのままに生成する「私」とも異なるし、「自閉的イメージ世界に安穏とする私」とも異なるし、「他者と想像的に同一化する私」とも異なる「記号的私」である。「本当の私」は、いずれの「私」でもない。「本当の私」など存在しない。

 ポストモダンと呼ばれる思想は、言語・記号の次元で統一される主体に対する反発の総称といえるだろう。しかし、ポストモダンは、全体としては不可能な試みであると思う。なぜなら、記号的レベルで「私」が構成されない限り、法も、宗教も、倫理も原理的に不可能だからだ。少なくとも、他の方法では、現在におけるような社会は不可能であり、他の形態も可能であったかもしれないが、結局実現していないだから。

Copyright © 2007 All Right Reserved.