Ethical Experiment

Moral Psychology

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模範なしには

 

 さて、想像界の双数的関係から離陸して、『人間社会』に着陸するためには、法が支配する象徴界に組み込まれなければならないというのが、精神分析的知見の1つである。しかし、現実には、人間は想像界から「去る」のではなく、想像界と象徴界に同時に住みながら、想像界の自分と象徴界の自分を上手に統合しながら生きているのではないだろうか? 完全に象徴界だけに住んでいる人間は、いわゆる「狂人」であって、正常な社会生活を送ることはできないだろう。

 人間は、他者という鏡に映ったイメージにその身を投じるという仕方で「私」の統一像を手に入れると、ラカン派は云う。生物としての人間は、実体的に先天的に人間の中にすでに構成されているが、社会的な「私」は、先天的に人間に内在しているわけではない。「女として生まれるのではなく、女になるのだ」と、ある哲学者の内縁の妻は喝破したが、同様に、私たちは全員、「人間として生まれるのではなく、人間になる」のである。もちろん、この場合の「人間」とは、社会的な意味における「人間」だが。ジェンダーフリー論者は、この内縁の妻の言葉を真に受けて、既存の枠に囚われないで、「自己決定」によって「私」を創造しようと意気込むが、自己決定する際の選択の素材は、すべて既存の社会が提供するわけで、選択の素材自体を自己創造することは不可能である。既存の枠組みの一切を放棄すれば、私たちは、いかなる種類の「人間」にもなれないだろう。

 想像界の住民は、他者との関係においてのみ、「私」を創造していく。それが可能であるのは、私たちが他者と結合する能力があるからである。絶対的にエゴイストな人間は、いかなる種類の「私」も創造できない。絶対的なエゴイストとは、不可能な存在である。想像界の住民になれるということは、他者と結びつく能力があるということであって、私たちは永遠に想像界を完全に卒業することはない。仮に卒業すれば、私たちは、「人間」を卒業することを意味する。想像界的な「私」なしに、およそ親密といわれる人間関係は全く存在し得ないだろう。私たちが、ラカンの云う象徴界に移行した後でも、想像界は人格形成の重要な基盤として残り続けるはずだ。私たちは、「模範」なしに自己形成することができない。

 つまり、私たちが、そこに自己の統一イメージを見出す「他者の模範」なしに、いかなる目指すべき人格的イメージも持ち得ないのである。およそ、象徴界の諸形式、例えば宗教、道徳、法、文化・慣習が実際的に存続可能なのは、自己が統一イメージを見出す「他者の模範」との想像的結合によって支えられているからである。道徳が、「善人になれ!」と命じても、善人の模範たる他者と想像的に結びつかない限り、いかなる善人の具体的模範像も持ち得ないだろう。ヤスパースの哲学的宗教が、彼一代で消滅したのも、哲学的宗教には、キリストや仏陀に具象化されている「他者の模範」が欠けているからではないだろうか? 象徴界の法の命令が、具体的に実行されるためには、模範となる他者との想像的結合が絶対不可欠なのだと思う。したがって、ラカン的な想像界と象徴界は、相補的な概念であると思う。象徴界は形式を与え、想像界は、象徴界が可能になる実質を与える。狂気とは、そのバランスが崩れ、どちらかが一方的になった場合に噴出する現象ではないだろうか?

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