Ethical Experiment

Moral Psychology

Welcome to my column


自分は複数ある

 

 「主観を多数とみなす、私の仮説・・・」、というメモをニーチェは残している。慣習的には、1つの主観基体が空想されているが、ニーチェはその常識に挑戦する。ニーチェの心理学はこうだ。一個の認識するという事態が可能となるに先立って、私たちを構成する諸衝動が、当の事物もしくは出来事に対して、その一面的な見解を提示する。その後で、各衝動の一面性相互の間に闘いが生じ、そこから1つの中間状態あるいは「談合」が成立する。私たちには、この長い過程の最後の和解と総決算だけが意識に昇る。重大な決断に長く悩み、考え抜いた末に結論を出した人は、疲労消耗感を味わうことがある。ニーチェの説に従えば、考え抜いた問題が知的に高度であったために、脳が疲労したわけではない。その問題について、一面的な見解を主張する諸衝動の数が、ずば抜けて多いことと、それらの諸衝動の間に和解を生むのが困難であったことが、疲労消耗の原因である。繰り返すが、問題の困難さは、知的な解決法を案出する困難さでは決してない。客観的に観察する第三者からすれば、合理的な答えは瞬時に浮かぶことが多い。しかし、当の本人は決断ができない。なぜか? それは、彼の中で、一面的な見解を主張する各諸衝動の間に、和解が形成されていないからである。

 ある問題を思考する時、私たちは、諸衝動とその一面的見解の波動が、意識上に泡のように浮かんでは消えるのを経験する。思考が、決断という終結にまで結集するまで、これらの波動は継続するだろう。運動出力は、1度に1つのことしかできない。並列的な諸衝動が、1つに統合されない限り、決断という運動出力は作動できないのである。「私」という政党の中には、数多くの派閥がいて、激しい権力闘争を繰り広げている。その折々に、誰が代表として選出されるかによって、政党の個性も変わってくる。「私」という政党の決断は、一瞬、一瞬の、複数の派閥の代表争いを巡る権力闘争の結果である。政治的決定が常にそうであるように、私たちの思考の結末は、常に妥協の産物であろう。

 多重人格性障害という病においては、複数の人格が同時に現れることはないそうである。「運動出力は、1度に1つ」の脳機能の原則からすれば、当然であろう。ニーチェ的観点からすれば、多重人格障害とは、諸衝動が、思考において、総体的和解と合意に達せないほど解離しているために、諸衝動がそれぞれ順番に一面的見解を他者に向けて発信する状態であると考えられる。主観の多数性自体は、なんら病的ではない。正常人であっても、無意識的過程においては、複数の主観(衝動)が合議を重ねているからだ。病的なのは、和解と合意に達して、1つの統合を形成できない点にあるのであり、正常人なら他者の目に触れない「脳内」で行われている諸衝動の討議が、他者の目の前で個別に噴出している点にこそあるのだ。

 さて、以上のことを前提とすれば、会社では仏のような上司が、家では鬼のようだったとかいうのは、なんら奇異ではない。私たちすべてが、状況に応じて、諸衝動の力関係に変化が起き、異なる主観、異なる人格を表出させているのではないだろうか。私たちは、ある人が期待を裏切る道徳的行為を見せた時、不変の1つの主観基体を空想しているために、「普段はおとなしい人なのに・・」と驚いたりする。不変の1つの主観基体を空想しているために、例外的な様変わりのように感じる。本人も、不変の1つの主観基体を空想しているために、「なぜ、おれがこんなことを・・」などと言って、魔がさしたと感じる。しかし、唯一不動の基体など、私たちの中には存在しない。状況に応じた、諸衝動の間の多数の主観、多数の合意、多数の政治決着があるのみである。現代の刑法は、1つの主観基体を信じているので、例外的な行為に対しては、「心神喪失」というわけの分からない用語で刑を軽くしている。この点においては、近代以前の刑法の方が、心理的洞察において近代をはるかに上回っている。近代以前の刑法が、前提としたのは、1つの主観基体ではなく、1つの物質基体、つまり身体であった。この犯罪を実行した「身体」に対して、刑を執行する。まったくもって、道理である。

 ニーチェ心理学が正しいとすれば、道徳的過失や犯罪における動機の解明は、捜査の目標にはなりえない。原理的には、不可能である。動機における諸衝動の合意形成過程は、意識に昇らない。その長い過程の最後の和解と総決算の結果だけが意識に昇る。犯人が語った動機の反省の思考過程自体は、意識に昇らない。動機を告白する犯人の思考過程には、複数の衝動が主導権争いを演じ、その「政治闘争」の過程は本人でさえ知らない。発話という1つの運動出力に集約された結果だけが意識に浮上する。意識に浮上しただけの動機が、裁判所に客観的証拠として提出されるだけである。もちろん、動機についての、私たちの好奇心は止むことがないだろう。しかし、その好奇心は、あくまで「推測」としてだけ話題に上るべきである。下條信輔氏は、人間は、「自分の行為を、外から観察し、原因を推論し、後づけで何かに帰する、そうしたプロセスによって『統合された単一の自己』という幻想を与えるようになる」と述べている。分割脳患者を研究したダートマス大学のガザニガが、人間は単一の心理学的実体であるという信念は幻想に過ぎないことを示し、心とは複数の主観システムからなる社会学的実体であると主張して、「社会的な脳」を科学的に提示したのも、ニーチェの洞察に符合することも、最後に一言加えておきたい。

Copyright © 2007 All Right Reserved.