Ethical Experiment

Morality of Life

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健康が大切

 

 ティリッヒの道徳哲学の関心は、道徳性を「これまでとは別の理由で・・」で取り扱おうとする点にあると云える。ティリッヒも、ニーチェの影響によって、道徳性を「生命」という観点から論じている。ティリッヒによれば、生命過程(Life processes)は、2つの根本的な要素から成り立っている。1つは、自己同一性、もう1つは自己創造性である。生命は、自己を発展するために、自己の一部を分離して、自己を再創造する。身近な例は、新陳代謝だろう。生命は自己を維持・発展するために、自己更新しなければならない。排便とか・・・。生命は、環境から新しい栄養物を吸収して、その代わりに、自己の一部の古くなった部分を排出して、自己を更新する。この循環が止まれば、生命活動自体が停止する。同時に生命は、自己を更新する時に、自己の同一性を保存しながら更新する。自己の同一性を保存することに失敗するならば、精神的には統合失調症、肉体的には癌が発生し、「異物」が同一性から分離して自己増長し、最終的には自己が解体するかもしれない。生命は、自己の統合を維持しながら、同時に自己を更新しなければ、いずれ解体してしまう。ティリッヒによれば、ヘーゲルの弁証法とは、こういう生命過程の「鏡」に他ならない。確かに、初期のヘーゲルの神学論集を読むと、ヘーゲルが、自己同一性→自己分離→自己統合という線で、「愛」を考えているのが見て取れるので、それもそうなのかもしれない。

 生命過程の2つの傾向は、2つの危険を生じると、ティリッヒは云う。1つは、自己同一性を失うほどの無秩序な自己更新の傾向と、その反動として自己更新を狭く限定することによって自己同一性を死守しようとする傾向である。倫理的な次元で云えば、前者は、奔放で無秩序な欲望によって自己が解体するドンファン的危険であり、後者は、狭い道徳的信念に閉じこもることによって、「脆い自己」を自己拡散の危険から守り、かろうじて自己統合を維持しようとするピューリタン的危険であると云える。ティリッヒは、この2つの危険な傾向は、生そのものの両義性に起因するという。ティヒッリの云う両義性とは、ニーチェ的な、「人間のあらゆる成長と共に、その裏面もまた成長性ざるをえない」という意味の両義性である。生命過程の創造性には破壊性が含まれ、統合には分裂の危険が伴い、昇華には卑俗化の可能性が避けがたいという両義性である。これらの両義性なしには、生命過程は存在しない。

 さて、ティリッヒは、生命過程の両義性は、3つの両義的原因によって、破壊的側面を現実化するという。1つは、出会いの両義性である。「人生は出会いで決まる」と言ったのはゲーテだったが、人生は破壊的な意味でも出会いで決まる。生物は出会いなしでは生存できないが、同時に肉体的被害や精神的トラウマを避けられなくする。外出して人と交われば、何がしかの嫌な思いもするものだ(嫌な体験が成長の糧にもなるが・・)。2つ目は、吸収・同化の両義性である。食物や空気を吸収して生命は、自己を保存するが、同時に同化できない異物の侵入を許してしまう。コミュニケーションにおける「言葉(悪口)」も、時には吸収できない異物となって、破壊的影響を及ぼすこともあるだろう。3つ目は、バランスの両義性である。生命の一面の成長は、破壊的に全体のバランスを崩すことがある。狂気の天才などは、その一例だが、平凡な私たちにおいても、人格の一部の突出した成長が、人生を狂わすこともある。

 病気とは、ティリッヒによれば、生の両義性の不可避な顕現である。病気になるリスクをあえて犯さない限り、生自身も可能ではない。生命は、出会わなければ生きていけず、吸収しなければ生きていけず、バランスを一時的に崩しても成長しようと励まなければ生きていけない。生命の成長に不可避な要素が、破壊につながっていくのである。

 健康という用語は、それと正反対の用語との対照においてのみ、意味を持つ言葉である。「病気になると健康のありがたさを実感する」と言われるが、健康の何たるかを知るのは、病気との対照においてであろう。私たちの倫理的生活における「健康」とは、生の両義性が断片的に克服されている状態であると、ティリッヒは云う。ティリッヒには、健康について興味深い記述がある。曰く、「健康とは、克服された病気である(Health is disease conquered)」。ティリッヒは、ニーチェの「力への意志」を解釈して、それを「抵抗を克服するところの、生のダイナミックな自己肯定」とした。生命とは自己肯定である。それでは、何に対して、自己を肯定するのか? ティリッヒによれば、「非存在(Non-being)に対して」である。非存在とは何か? 非存在とは、生の中にあって生を否定する生の一部である。ティリッヒは、生命とは、自分の中に自分の否定と肯定を同時に含むことによってのみ成り立つと言う。生きている状態とは、否定的なものを暫定的に克服している状態である。生命とは、自分が含む死の可能性に対する暫定的克服であり、健康とは、自分が含む病気の可能性に対する暫定的克服である。ニーチェによれば、「力への意志は、抵抗に当面してのみ発現することができる」と書いているが、現代の生命論によれば、生命現象とは、生命の一部であるエントロピーの法則に対する抵抗であると云われている。

 自己肯定は、否定の大きさに比例して、力を増す。従って、ティリッヒは、生命過程は、負をより多く含むほど、力を増すという。強い人とは、苦しまない人ではなく、より多くの苦しみを自分の中に取り込める人であるということになろうか。現代の健康ブームは、予防医学的なので、健康になるとは、不健康の危険から自分を隔離するという方向で進んでいる。「〜をしない」、「〜もしない」を実践すると健康になれると信じられている。この健康は、「病棟の中の健康」であろう。ティリッヒ的に云えば、最大の健康とは、最大の病気の可能性を克服している状態である。
 ティリッヒに大きな影響を与えたニーチェによれば、

 最高の人間とは、そうした概念が許されるとすれば、生存の対立的性格を、生存の栄光や唯一の是認として最も強く体現している人間そのもののことに違いないと、洞察する。通常の人間どもは、この自然性格のまったく取るに足らない一角一隅をしか体現することが許されていない。彼らは、諸要素の多様性と諸対立の緊張とが、言いかえれば人間の偉大さにとっての諸条件が発生するやいなや、ただちに徹底的に没落する。人間はより善くなるとともに、より悪しくならざるをえないということ、これはこのような不可避性を言い表わす私の定式である(力への意志)。

 いわゆる道徳主義とは、「病棟の中の健康」なのかもしれない。逆に、最大の倫理的健康とは、最大の非倫理性を暫定的に克服している状態であると云えるのではないだろうか。福音書によれば、キリストは、罪人・娼婦たちとの宴会を好んだために、当時の道徳家たち(律法学者・パリサイ人)から「大酒飲み」と非難されたそうだ。当時の道徳家たちにとって、罪人・娼婦たちと親しく交際することは危険であったのかもしれない。狭い範囲に自己を統合してしている人にとって、それは、ミイラ取りがミイラになるように、「あちら」の磁力に引き寄せられて、「ただちに徹底的に没落」しただろう。キリストが罪人・娼婦たちと交際するだけではなく、彼らを逆に引き寄せ、しかも感化を与えることができたのは、「病棟の中の健康」ではなく、「戦場における健康」ともいうべき、最大の非倫理性をも排除しない最大の倫理性を体現していたからだろうか? 

 最大の倫理的健康を体現している人は、一般人の目から見れば、最大の極悪人に見えることもあるだろう。逆に、ヒトラーのように最大の極悪人は、当時の一般的ドイツ人の目から見れば、最大の倫理的健康を体現しているように受け止められたかもしれない。私たち平凡人は、ニーチェの云う「生存の対立的性格」を最大限に体現する器量がないため、無難な道徳的規則に従う方が安全であろう(生兵法は怪我の元・・)。しかし、英雄・聖人と呼ばれる人たちは、世間的には病的と云われる行為さえも、つまり諸要素の多様性と諸対立の緊張さえも、自分の成長の肥やしにすることができるかもしれない。しかし、生は両義的なので、英雄・聖人たちが、突然微妙なバランスを崩し、一気に魔的に堕落することもあるだろう。

 私たちが健康であるのは、病気でもありうるという代償においてであり、病気であるのは、健康になりうるためであろう。ニーチェは、徳の発達のために病気なしで済ませることができるだろうかと問い、ただひたむきに健康だけを望む意志は、一個の臆病、偏見だと書いた。健康そのものというものは、おそらくない。おそらく、病気であることを、より強く生きることへの強力な刺激にすることができる人を、比較的健康というのかもしれない。倫理的生活においても同じで、完全な倫理的健康も、完全な倫理的病気の状態もないだろう。「道徳的に落ち度がない」と信じている人たちは、たんに「病棟の中の健康」を維持しているだけで、それがすでに倫理的病気の徴候かもしれない。倫理的に重症の病気の状態の人は、そんな病気を抱えることができるほど、潜在的な健康力に恵まれた人かもしれない。ティリッヒが云うように、健康は両義的なのだろう。

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