Ethical Experiment

問題の背景

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20世紀



 1903年、ケンブリッジ大学の哲学者ムーア(後のウィトゲンシュタインの指導教官)が『倫理学原理』を出版した。『倫理学原理』は出版されるやいなや、大反響を巻き起こし、当時まだケンブリッジ大学の学生だったケインズをはじめ、若い知的エリートたちの熱狂的な支持を勝ち得たといわれる。ケインズは、「ルネッサンスの幕開け、新しい天と地が開けた!」と感激し、「人類の倫理問題が最終的に解決した」とまで信じたと述懐している。

 ムーアは、19世紀の倫理学、つまり功利主義を批判し、新しい道徳哲学を提示しようとした。ムーアの主張は3つある。
@善は定義できない。定義できないけど、直観的に何が善であるかはわかる。
A「正しい」とは、最大の善を追求することである。
B善は定義できないが、それが何であるかは知っている。それは友愛と美の鑑賞である。

 ムーアは功利主義を批判するために、事実と価値を区別した。「○○である(事実の言明)」から「○○であるべきである(価値の言明)」導いてはならないとして、事実から価値を導き出すことを「自然主義的誤謬」と呼んだ。「快楽の状態(事実の言明)」から、「快楽の増大が幸福である(価値の言明)」とする功利主義は、自然主義的誤謬になるわけである。

 すると善は定義不可能だから、各個人がそれぞれ直観的に知っているとする善が道徳の規範になるだろう。しかし道徳の規範といっても、定義できないわけだから、個人的主観と対して変わらなくなる。当時の若き知的エリートたちはムーアの道徳哲学によって、19世紀ビクトリア朝の堅苦しいキリスト教道徳から解放され、利益の追求や快楽という卑賤な功利的道徳からも解放され、自由な空気を吸うと同時に、打算や利益追求ではない友愛と美の追求というそれ自身で崇高な価値の世界に浸れる正当性を得たと思った。

 しかし客観的基準がなく、すべては直感の問題だとすると、意見が対立した時どうすればいいのであろうか。ケインズは晩年、当時を振り返って、自信たっぷりに主張する者、相手をバカにした態度で圧倒できる者が、議論に勝ったと書いている。そういう方法の大家がムーアだったと言うのですから、さもありなん。

 さてムーアの自然主義批判から新しい学派が誕生した。情緒主義(Emotivism)という考え方である。この辺りから道徳哲学は、何が道徳規範として妥当かを議論する規範倫理(Normative Ethics)から、道徳的議論をしている時、そこでは実際何が行われているかを議論するメタ倫理(Metaethics)に重心が移っていった。情緒主義によれば、ある人が「殺人は悪だ」と言う時、それは殺人に対する情緒や態度を表現しているとされる。道徳的判断は、真実か真実ではないかを判断するのではなく、情緒や態度を表明しているわけだから、痛みや喜びを表明しているのと本質的に何も変わらない。ある情緒の表明は、真偽問題ではなく、事実の問題でもない。つまり価値の問題とは、情緒の問題であるということになるだろう。

 情緒主義は相対主義に行き着くとして批判された。例えばこんな批判がなされる。「どんな種類の情緒や態度の表明ですか」。情緒主義の答えは「承認するかしないかの情緒や態度です」。続けて「どんな種類の承認ですか」。すると情緒主義は「道徳的承認」と素直に答えるか、沈黙するかのいずれかになろう。「道徳的承認」と答えたら、「どのような規範で?」と問うことになり、承認・不承認を決める客観的規範が必要にならざるを得ない。

 ムーアからウィトゲンシュタインを通して、もう1つの流れが生まれた。論理実証主義である。欧米の哲学者たちには、数学のように厳密な道徳学を構築したいという長年の願望があり、論理実証主義もその1つであった。論理実証主義にとって意味のある言明とは、
@経験的に検証可能であること。
A定義として正しいことである。

 「東京の人口は1200万人である」は経験的に検証可能ですからOK。「独身者とは結婚していない人のことである」。これも定義として正しいからOK。道徳的言明は、経験的に検証不可能だし、定義としても分析的に正しくないので意味がない。これが結論。

 議論もここまで来ると、実際の道徳的生活からかけ離れた象牙の塔の神学論争みたいになってきて、やっているほうもアホらしくなって来たのか、メタ倫理は下火になっていった。これに代わって、1970年代以降からは、個人の自由を倫理の基盤にするリベラリズム(Liberalism)と、それに反発して共同体の伝統を倫理の基盤とする共同体主義者(Communitarianism)の間の論争が活発になる。ちなみにイギリスのブレア首相は共同体主義者であると云われている。

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