Ethical Experiment

オドロキの救済論

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 信仰についてC

 

 トルストイは信仰を、人がそれによって生きるところの力と呼んでおり、W.ジェームズは、人類の最も重要な生物学的機能の1つに数えている。前回のエントリーで書いたスピノザ的な意味で云うとそうなる。つまり存在力である。それをあえて信仰と呼ぶのは、以前より、より大きな力(実在)の中で生きているという実感が伴うからだろう。精神の虚脱状態から、別の次元の生活レベルに移行したような実感が伴う。

 しかし、不思議なことに、多くの聖人たちや偉大な教祖たちが、じつは厭世家であったことは紛れもない事実だ。キリスト、釈迦、親鸞、パウロ、アウグスチヌス、ルターなどなど、偉大な宗教家ほど人間や世界について悲観的な信念を持ち、生涯、厭世的な見方を変えなかった。存在力である信仰と悲観主義がどうして両立するのか、一見すると不思議である。

 悲観主義や厭世観はさらに、信仰状態に移行するための不可欠な通過点でもあるようだ。偉人たちはそうである。ニーチェは、1873年から始まった病気に苦しみ、1879年は「生涯の最も暗い冬」であ<り、1881年はどん底だったが、その年の8月、散歩中に「人間と時間の彼方6千フィート」の地点で永遠回帰の啓示を受ける。マルチン・ルターは神の怒りを恐れまくり、半分ノイローゼーで苦しんでいたところ、「塔の体験」という劇的回心を経て宗教改革者になった。この手の伝記は数え切れないぐらいある。つまり、「神も仏もあるものか・・」という悲観と厭世が、偉大な宗教家への折り返し地点である。

 偉い人の話はこの辺にして、一般的な話をしよう。怒りとか、自己嫌悪とか、不安とか、悩みという嫌な感情を克服する方法は2つしかない。1つは、スピノザ流もう1つはルター流である。スピノザによれば、善および悪の認識は、それが正しいというだけでは、いかなる感情も抑制できない。人前に出ると緊張することに悩む人がいて、「緊張する必要はないんだよ」と助言してあげて、それがいくら正しいと本人が納得しても、助言が正しいというだけでは緊張を抑制することはできない。感情は、それと反対かつ強力な別な感情によってだけ抑制される

 小生の知人がアルコール依存症になって身体がボロボロになった。忠告を聞いて酒を飲むまいとしたが、結局ダメだった。ある日、かれは任天堂のゲーム機を買った。他のゲーム機と電波でつながっているようで、複数で遊べるそうだ(小生はゲーム機には疎い。1度も遊んだことがない)。武器を集めて、チームワークで怪獣を倒せるという。あまりの面白さに、毎日毎日、朝から翌朝まで、仕事と食事以外の時間はすべてゲームで遊んでいた。新興宗教の信者のように、小生にも参加するように勧めていた。結局、彼はゲームに熱中しすぎて、酒を飲むことを忘れてしまった。2ヵ月後、肥大した肝臓は、肝脂肪がすっかり抜けて、すっかり正常になってしまった。スピノザ流の成功例である。

 ルター流は、一種の反道徳である。いっさいの努力の放棄と徹底的な無責任を覚悟する方法だ。つまり、開き直りである。せこい利己的な心配が魂の番人をしている間は、この境地には入れない。見栄を捨てろ、評判を捨てろ、固く握っているものを捨てろ、そしてより大きな高い力に委ねよ、とルター流は言う。この境地に達するためには、心の中で1つの角が曲がられなければならない。壁が崩れなければならない。

 ルター流は、前頭葉がいくら命じても不可能である。むしろ、命じられれば命じられるほど不可能でなのだ。「煩悩を捨てろ!」と教えられると、煩悩がさらに素敵に見えてくるのだ。NKHの「試してガッテン」で放送されていたが、恐怖を意識しないようにすると、ぎゃくに意識されるそうだ。「人前であがっちゃいけない」、「どもっちゃいけない」と意識するほど、あがってしまい、どもってしまう。自己嫌悪を捨てようとすればするほど、嫌悪は逆に強くなる。不安を無視しようとすればするほど、不安になる。自分の頭を占領する感情を、意志的に押しのけようとすると、しばらくの小康状態の後、リバウンドがやってくる。下手なダイエットと同じである。残念ながら、道徳では人は救われない。ルターによれば、道徳は、それを守れない人をさらに悪くする

 高い鉄棒から、ぶら下がっている手を離すためには、下で受け止めてくれる人がいるか、分厚いクッションが必要なのだ。つまり開き直りができる保証は安心感である。しかし、安心感がないことが、まさに強迫的悩みの原因なのだ。したがって、他者の命令や前頭葉の命令によっては、開き直る安心感は得られない。しばしば、安心感は外部の力によって起こったのだという印象を当事者に与える。心底開き直れたとき、「今まで何で自分はこんな小さなことに悩んでいたんだろ?」と奇妙な気分になる。信仰の状態とは、この開き直った安心感である。信仰の状態になったとき、人は自由になった感じがするのは、そのためである。信仰は解放された状態だ。不安からであれ、緊張からであれ、嫌悪からであれ、怒りからであれ、ルター流の信仰状態に入った人は、解放された気分を感じるはずだ。そして、より真正な生きている状態を感じるだろう。

 この信仰の定義は、非宗教的過ぎて疑問を感じる人もいるだろうが、小生だけではなく、かのW.ジェームズも有名なギフォード講演で語っていることだ。ジェームズのような宗教心理学者からすれば、現象として見れば、同じことである。宗教バージョンの場合、自分より偉大な実在に自分を明け渡し、運命を配慮してもらえるという開き直りの安心感、なにより自分の善悪の状態にかかわらず、神は自分を100%受容してくれているという安心感。世俗バージョンの場合、執着している自分の劣った断片を公然と認めたとしても、より本質的な自分が自分を受け止めてくれるという安心感。

 宗教的偉人が、悲観的・厭世的なのは、それを通して敬虔な開き直りに達したからだろう。信仰の状態に入るには、1つの危機点が通過されなければならないのだろう。

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