Ethical Experiment

オドロキの救済論

Welcome to my column


 信仰についてAの補足

 

 ちょっと補足。教理と信仰の関係について。他宗教については無学なので、キリスト教についてだけ。キリスト教の根本的な信仰告白は、「イエスはキリストである」である。これは教理ではない。信仰告白である。この信仰告白が意味するところを定めるのが教理である。

 さて、キリストとは何かについての一義的教理は、21世紀の今日でさえ存在しない。一応、451年のカルケドン公会議で、キリストの神人同一性が正式教理として確定したといわれるが、エジプトのコプト派をはじめ、ペンテコステ運動のワンネスなど、これに同意しないキリスト教宗派は多い。しかもカルケドン公会議はキリストの神性に関する議論であって、キリストの救済に関する教理の議論ではない。さらにキリスト論となれば、神学者の数だけ多様に存在する。さらに、救済論、つまりキリスト教における救済が教理的に何を意味するかにおいては、公会議でさえ決定されたことはないのだ。つまり、キリスト教には、救済論の公的教理でさえ存在しない。各派に独自の救済論があるのみである。

 よくある批判として、キリストが代理的に人類の罪を背負ったという教理は不合理である、なぜなら他人が個人の倫理的罪を代理することはできないから、という意見があるが、残念ながら、代理的贖罪という教理は、数ある救済論の1つに過ぎない。つまりキリスト教を代表する救済論というものは存在しないのだ。キリスト教に対する批判者は、じつはこんな基礎的な歴史的事実を知らない。変な話だが、キリスト教を代表する救済論が存在しない以上、キリスト教の一義的救済論に対する批判は不可能なのだ。個々の救済論に対する批判は可能です。これは、キリスト教徒にもあまり知られていない事実である。

 でも聖書には教理を一義的に確定できる記述があるだろうと思う方がおられるかも知れない。あれば、こんな楽なことはない。でも残念ながらない。あれば、宗派など存在しなかっただろう。小生は、仏教やイスラム教については無学だが、シーア派やスンニ派、大乗や小乗と分かれているのを聞くと、キリスト教と似たり寄ったりだろう。釈迦やムハンマドの教えを、一義的にこれが「公的教理である!」と断言できる学者は存在するのだろうか?

 こんなにも教理についての解釈が多様であるにもかかわらず、なぜ宗教生活は可能なのだろうか?この問題を真剣に考えた経験があり、かつ独善的に自分の支持する教理の絶対性を主張しない人ならば、教理以外に信仰の根拠を求めざるを得ない。そういう意味では、近代プロテスタント神学の父と呼ばれるシュライエルマッハーは偉かった。神学を歴史学として考えたのだ。つまり、それぞれの教理を、教理発展の歴史として捉え、信仰の根本を人間に普遍的な宗教意識に求めたのだ。

 人間が知的生物である以上、信仰の具体的表現としての教理をこしらえることは必然である。でも、信仰は教理と共倒れはしない。信じていた教理が間違っていることが明らかになったら、次に乗り換えるだけである。まぁ、これが宗教の歴史でもあろう。ところが、信仰自体は、そう簡単に乗り換えることはできない。恋人の長所の解釈は変更することはできても、恋人自体の変更は難しいのと同じである。

Copyright © 2007 All Right Reserved.