Ethical Experiment

オドロキの救済論

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 信仰についてB

 

 前回の記事で言及した広い意味での信仰。今回は、スピノザ的に行ってみよう。『エチカ』の第四部定理二十二にこう書いてある:「自己保存の努力は、徳の第一かつ唯一の基礎である」。スピノザの言う「自己保存」とは、長生きへの執着ではなくて、自己肯定のことだ。ある状況で、自分の命を犠牲にするのも、自己肯定の表現である限り、スピノザ流の自己保存である。自己肯定という用語を、スピノザの用語でさらに翻訳すると、『存在力』となる(エチカ第四部定理七)。では、存在力とは何か?

 存在力とは、感情のことだ。それでは、感情とは何か?スピノザによれば、感情とは、身体の変化のことだ。スピノザは、デカルトの継承者として、近代合理主義の系譜に数えられることが多いが、スピノザは、身体の哲学者だった。超高名な神経学者・アントニオ・ダマシオが、脳科学の知見でスピノザを解釈しているので、興味のある方は、『Looking for Spinoza』をどうぞ。たしか、邦訳が出版されていると思う。

 さて、観念とは、スピノザによれば、身体の変状を通して形成される。なんと、観念とは、身体の変化の知覚のことである。したがって、身体の変化を知覚しない限り、いかなる観念も形成できないことになる。漫画『コブラ』で、主人公のコブラは、無重力の液体に投げ込まれる。この液体に沈むと、暑さ、寒さ、重さ、痛みなどのすべての刺激から遮断される。音も聞こえない。何も見えない。外部刺激が皆無なので、精神は完全な真空状態になる。常人は、精神の真空状態に耐えられず、発狂するそうだ。しかし、コブラは、発狂しない。自分の心臓の鼓動を感じることで危機を逃れる。「おれのハートは、8ビートの音楽だ!」そうだ。

 漫画を参照して恐縮だが、身体の変状を感じないと、人間はいかなる観念も形成できず、精神は真空状態に陥る。スピノザ先生によれば、「精神は、身体の変状(刺激状態)の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識する」。外部から完全に遮断された無重力の液体の中では、人間は、自分自身を知覚できず、完全な無の中でいずれ発狂するというのが、『コブラ』のフィクションである。本当かどうかは、試したことがないので知らない。

 さて、良い感情とはしたがって、身体の活動力が増大したときに、知覚される感情である。スピノザによれば、喜びという感情は、自分の身体の活動力や生命力の増大によって知覚される観念である。悲しみとは、身体の活動力の低下が形成する観念である。つまり、存在力とは、上昇する身体の活動力が形成する観念のことだ。スピノザの『エチカ』といえば、「幾何学的形式で記された小難しい哲学書」というイメージがあるが、じつは万人が日常的に実感していることを書いた普通の書である。

 スピノザはこうも言う:私たちは、あるものを善と判断するがゆえに、それへ努力するのではない。逆に、あるものへ努力するがゆえに、そのものを善と判断する(第三部定理九)。つまり、あることをしたら活動力が増大したのを感じて、それを善と判断するのだ。人間は、善を行うから元気なのではなく、元気にしてくれるものを善と判断するのだ。スピノザは続けてこう云う。「善および悪の認識は、それが真であるというだけでは、いかなる感情も抑制しえない」。つまり、「不倫は悪だよ」という認識は、それが真であるというだけでは、いかなる感情も抑制できないのだ。課長が、不倫の最中に「元気一杯!」を感じる限り、かれは内心では不倫を善を判断するはずだろう。

 スピノザによれば、良い感情は能動的な感情である。悪い感情とは受動的な感情である。受動的な感情とは、外部から押し付けられて発生したと感じられる感情である。誰かにバカにされた。怒りが湧いてきた。これは受動的な感情だ。いじめられた。悲しみにとらわれる。これも受動的な感情である。受動的な感情にとらわれていると、活動力が低下する。存在の力が弱まる。自己肯定の力が減少する。スピノザ倫理学によれば、徳がなくなるのだ。

 では、どうすれば受動的な感情を克服して、能動的な感情に転換できるのか?エチカの第五部定理三によれば、「受動という感情は、われわれがそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、受動であることを止める」と記されている。受動という感情は、混乱した観念である。混乱した観念が整理され、冷静に理解されると、受動という感情は、能動的感情に変わる。フロイトの精神分析が誕生するはるか以前に、スピノザはその原理を発見していた。強迫反復という受動的感情は、その原因が過去の中に明瞭に発見されれば、それは受動であることを止める。

 母親に幼い頃虐待され恨みの感情を抱く人が、じつは「母親も幼い頃自分と同じように虐待されて育ち辛い思いを経験したので、それを強迫的に繰り返したのだ」という明瞭な観念を形成したら、恨みの感情は、哀れみの感情に変わるかもしれない。そうなれば、負の連鎖を断ち切ろうという能動的な感情を持つかもしれない。自分に攻撃的な同僚は、じつは離婚問題でイライラして、八つ当たりしているだけだと知れば、受動的な感情はなくなるかもしれない。

 スピノザは、能動的な感情を神の観念に結び付けている。神の観念とは、その視点で物事を理解すれば、受動的な感情が能動的な感情に変わる何かである。スピノザの見解は、信仰の一面を見事に表現していると思う。広い意味での信仰とは、受動的な感情について明瞭な観念を形成して、元気を取り戻すことである。つまり、自己肯定の努力である。定理三九では、「きわめて多くのことをなすのに適する身体を有する者は、悪しき感情に捉われることが極めて少ない」とある。物事を前向きに肯定的に理解する者は、多くのことをなす身体を持つようになり、受動的であることが少ないという意味だ。スピノザ風に云えば、信仰とは存在力の徳である。

 広い意味での信仰は、狭い意味での信仰に展開する場合が多い。最も強烈な受動的な感情は、死に直面して発生する場合が多いから。死について明瞭な観念を形成して、受動的な状態から能動的な状態に変わる努力の中から宗教は誕生する。人間が人生の一時期に、宗教に関心を抱くようになるのは、ほとんどの場合、受動的な感情に囚われて悩んでいる時期である。受動的な感情は、スピノザ的に言えば、混乱した観念なので、「〜なのは、なぜ?」という悩みを解決したくて、多くの人は宗教の門を叩く。もし答えを得て、明瞭な観念(理解)を形成できて、能動的になれれば入信するし、むしろさらに混乱したら、入信しない。

 信仰を持つとは、かつて、現在、これから、受動的感情について明瞭な理解を形成して、能動的な元気を保っている状態である。そこには、常にその視点で物事を理解すれば、受動的な感情が能動的な感情に変わる観念(理解)があるはずだ。特定の宗教である場合もあるだろうし、無宗教の場合もあるだろう。スピノザ的に云えば、受動的感情に捉われて、そこから脱出できない状態が、無信仰の状態である。福音書で、イエスは病気を癒したとき、「あなたの信仰があなたを救った」と告げるのは、イエスでさえ、病人に受動的状態を脱出しようという願い(信仰の萌芽)がなければ、癒せないのである。

 まぁ、でも必ずしも現実は、すべての宗教が人間を能動的にするわけではない。逆に、メチャクチャ受動的にしてしまう宗教もある。いずれにしても、信仰のあるなしは、特定に宗教団体に加入していることではなく、存在力・元気の徳から判断されるというのが、小生の意見である。次回は、シュライエルマッハーの視点をお借りしての信仰論。

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