Ethical Experiment

オドロキの救済論

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    信仰についてA

 

 最初は、シュライエルマッハーあたりの信仰論の解説から始めようと思ったが、なんかお茶を濁しているようなので止めた。仏教やイスラム教にも、信仰論のようなものがあるのかどうか知らないが、小生はそっち方面には無学なので、主に近代以降のキリスト教信仰論を下敷きにしながら進める。シュライエルマッハー以降、信仰についての議論は大きく変わったと思う。それまでは、信仰とは何かを論じるとき、キリスト教的伝統、とくに聖書から始めていた。ところが、シュライエルマッハーは、人間の意識に普遍的な何かから始めて、その一例としてキリスト教的信仰を詳説するスタイルをとった。画期的な変化である。キルケゴールやティリッヒも基本的にはこの路線だと考えている。小生もこの路線で・・。

 さて、たとえ話から始めよう。ここに1人のキリスト教徒がいるとする。ある日、歴史学の最新調査結果が公表されて、キリストの一番弟子であるペテロなる人物は、架空の人物であり、歴史的に実在していなかったことが明らかにされたとしよう。このキリスト教徒は、信仰を失うだろうか?小生の答え:失わないだろう。ティリッヒという神学者はもっとラディカルで、こんな問いを立てた。もし私たちがタイムマシーンに乗って2千年前のパレスチナのナザレという町の役場に行ったと仮定する。キリスト生誕の地である。ナザレの役場で住民台帳を調べたところ、ヨセフという名も、マリヤという名も、さらにはイエスという名も見つからなかった。どう考えるべきだろうか?ティリッヒの答え:台帳に記されていようがいまいが、自分が「新しい存在(キリスト)」によって作り変えられたことは確実である。したがって、キリストは別の時代に、別の名前で、別の場所に生まれたのだろう。ティリッヒの言わんとすることは、こうである。信仰とは、歴史的事実に対する信頼ではない。この論理で云えば、釈迦が架空の人物であっても、仏教の信仰には一向に差し支えないのだ。

 これと関連した事象を1つ紹介しよう。劇的な回心を経験した1人のキリスト教徒を想像して見よう。悪党であった彼は、一夜にして大変化を遂げ、善良な信者に生まれ変わった。彼に基本的な教理を尋ねて見よう。彼は、ほとんど教理について何も知らないはずである。これは小生自身が何百回も観察している現象なので、100%保証する。教理に納得したから回心するのでないのだ。教理は回心した後に学ぶものである。多くの人は、「イエスがキリストであることを信じた」から信仰に入ると思っている。しかし実際は、「キリスト」という用語が何を意味するか知らずに入信するのだ。イエスがファーストネームで、キリストが苗字だと勘違いしている人が入信者には結構多い。発掘調査が行われて、イエスが葬られた墓を開いてみたところ、遺骨が発見されて、イエスは復活していなかったことが科学的に証明されても、キリスト教徒は信仰を失わないだろう。実際、イエスの復活を信じていないキリスト教徒は、たくさん存在するのだ。

 つまり、こうである。多くのキリスト教徒がキリストの実在と歴史的事実を信じて疑わないとしたら、先に歴史的事実を確認したからではなく、現在の自分の信仰の状態から過去を確証したからだろう。ある仏教徒が釈迦の歴史的実在を信じているとしたら、歴史的研究の蓋然性を計った上で信じたのではなく、仏教の教えが自分を救ったから信じているのである。かりに、釈迦の歴史的実在が疑われたとしても、自分がその教えによって支えられ、かつ満足している限り、信仰は捨てないだろう。人間は、過去の歴史的確実性や教理の合理性によって信じるのではなく、現在の自分の状態から、それらの確実性を逆算するのだ。もし、恋人によって人生の満足を得ているなら、彼の浮気の事実が確実であっても、彼を信じるだろう。逆に、自分の状態が不安定ならば、浮気が歴史的事実ではなくても、彼を信じないだろう。つまり、キリストが実在したと信じたから救われたと信じるのではなく、救われたと信じるからキリストは実在したと信じるのだ。過去が現在を保証するのではなく、現在が過去を保証するのである。この論理は、おそらくすべての宗教に妥当する。

 統一教会という韓国生まれのエセ宗教をご存知だろうか?合同結婚式や霊感商法などの悪行で有名だ。不思議なことに彼らは、統一教会の教理が間違いだと認めても脱会しようとはしない。これも小生が観察した現象なので、100%保証する。なにもこれは、統一教会に限ったことではない。共産党員、サヨク、マルチ商法の会員、科学者、政治家、さらに云えば、女房の浮気を知った夫、ようするにすべての人に当てはまる。自分が騙されていることが発覚しても、恋人を信じ続ける人はいくらでもいる。

 ここで私たちは、信仰の信が何に対する信なのかを再考する必要がある。おそらく信仰には、2種類ある。広い意味の信仰と、狭い意味の信仰だ。狭い意味での信仰は、いわゆる特定の宗教に対する信仰である。広い意味での信仰とは、人間が、それなしには生きることに不自由する信仰である。一応分けては見たものの、広い意味の信仰も狭い意味の信仰も、観察して見れば、現象的には、全く同じである。狭い意味の信仰は、広い意味の信仰が、特化されたものだと考えよう。観察する限り、小生には、そうとしか言いようがないのだ。では、広い意味の信仰とは、何に対する信仰なのか?

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