A Theological Experiment

ビックリ原罪論

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罪に目覚めたアダムとイブ

 創世記3:6によると、禁断の木の実を食べたアダムとエバは、「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」と記されています。なぜ善悪の木の実を食べたら、目が開けて、裸であることを知り、いちじくの葉で腰を覆ったのだろうか? 今回はこの謎に迫ってみたい。『ロラン・バルトと聖書解釈』で述べたように、私は聖書を解釈する時、釈義的な方法ではなく、「このテキストは、宗教的にどのような意味があるのか?」という視点から聖書を解釈する方法を採っている。そういうわけで、ヘブル語原典を釈義しないし、聖書学者の注解書も参考にしないので、面白半分に読んでいただきたい。

 さて、創世記3章6節の謎を解くには、まず「私たちは、なぜ人の目を気にするのか?」と自問することから始めるのがよい。アダムとエバは、善悪の木の実を食べる前は、お互いを意識していなかったようだ。そもそも、恥の意識は他者の視線を意識することに始まる。お風呂からステテコ1枚で出てくる父親は、家族を「他者」として意識していないからこそ、家族の視線に恥ずかしさを感じない。私たちは、ペットの犬や猫の前では、平気で裸体になることができる。犬や猫に見つめられても、全然恥ずかしさを感じない。それは、ペットの視線に「他者」の視線を意識しないからである。つまり、私たちが恥ずかしさを感じるのは、「人の目(他者の目)」を意識するときだけである。

 それに対して、こう反論することができるかもしれない。私たちは、過去の行為を反省する時、他者の視線がなくても、恥ずかしさを感じるではないかと。この反論に対しては、こう答えることができる。たった1人で自己を反省する人は、過去を振り返る自分の視線を、他者の視線として感じているのであると。つまり、部屋で1人で過去を反省する人は、卑しい行為をした自分を、他者の視線で反省するから、恥ずかしさを感じるのである。そこには、見ている自分と(反省する視線)、見られていることを意識する自分という2つの自分が存在するのであり、恥ずかしさを感じている自分は、反省する自分の視線に映った自分を意識している自分なのだ。

 すると、善悪の木の実を食べる前のアダムとエバは、お互いの視線を、「人の目」として意識していなかったことになる。善悪の木の実を食べる前のアダムとエバは、幼児のような存在である。幼児は、大人たちの視線が自分を取り囲んでいることを知っている。しかし、幼児は、それらの視線を「人の目」として意識しないのである。つまり、幼児は「他者」の視線を意識することができないのだ。だから大人たちの前で、平気でおしっこやウンチができるのである。幼児が成長するにつれて排尿・排便を恥じるようになるのは、それが排尿・排便だからではなく、排尿・排便を見る他者の視線に映った嫌悪を意識するようになるからである。

 私たちはなぜ、他者の視線に晒される時、恥を感じるのだろうか? この点については、フランスの哲学者サルトルが絶妙の解説を提供している。サルトルによれば、私たちが他者の視線に恥を感じるのは、他者の視線が私たちの自己疎外を生じさせるからである。他者の視線が、自己疎外を生じされるとは、どういう意味だろう? それは、自分が他者の視線の対象物となっていることを意識するからである。つまり、恥の意識とは、「私は、他者の対象物になっている」という意識から生じるのである。

 喫茶店でお茶を飲んでいる場面を想像してみよう。ふと隣に目をやると、ある男性がこちらをじっと凝視している。私は、彼の目が私に焦点を合わしていることに気づく。彼は、目を逸らさず、じっと私を凝視している。途端に、私は戸惑いと不安を感じる。「私の服装が変なのだろうか?」、「私を誰かと勘違いしているのか?」、ともあれ私たちは不安を感じる。この不安は、自分が他人にとって1個の対象物と化してしまった自己疎外の意識によるものなのだ。

 しかし、なぜ私たちは、動物の視線の対象になることがあっても恥を感じないのだろうか? それは、動物の視線が、「人格の視線」ではないからである。人間は、人格の視線だけに恥ずかしさを感じる。ここで注意していただきたいのは、「人間の視線」ではなく、人格の視線であるという点だ。植民地時代のインドでは、大英帝国の奥様方は、インド人の召使いの前で、平気で服を着替えたという。奥様方が、召使いたちを「人格」として意識していなかったためだ。おそらく、動物と人間の中間ぐらいにしか感じていなかったのだろう。他者を意識するとは、他の人格を意識するという意味である。奥様方にとって、インド人は他者ではなかったのである。幼児にとって、周囲の大人の視線は恥ずかしくない。なぜなら、幼児は人格なるものを意識することができないからだ。

 恥の意識や罪の意識は、他者の視線を意識することによって生じる。たとえ、自分以外の誰も周囲にいなくても、自己を反省する自分の視線(自己意識)があれば、罪の意識を感じる。むしろ、罪の意識とは、自分の視線(自己意識)が生じた存在なしには、不可能なのである。自己意識(自己の視線)とは、自然に発生するのではなく、他者の視線を感じることができた瞬間、同時に成立するのだ。他者の視線が、自己意識を生むのである。自己意識(自己の視線)とは、他者の視線を内在化したものである。したがって、生まれてこのかた、他者と出会わなかった人間は、自己を意識することができない。自己を内在化した他者の視線で反省することができない。したがって、いかなる恥も罪も感じないだろう。

 他者の視線とは、それが他者の視線である限りは恥となり、内在化した他者の視線である限りは罪となる。したがって、善悪の木の実を食べたアダムとエバは、お互いを他者として意識した点においては恥を感じ、自己の視線のもとに自己を反省した点においては罪を感じたのである。創世記3章で、アダムとエバが恥を感じたと同時に罪を意識したのは、まさに真実なのだ。善悪の木の実とは、アダムとエバに「他者の視線」を意識させた木の実だったのである。他者の視線と同時に、善悪の意識が生じる。そして他者の視線によって対象化された自己とは、常に疎外した自己なのである。そして、自己を反省の対象物にする人間は、自分の視線によって自分を疎外する。人間は、他者の視線によって疎外し、自分の視線によっても疎外する。人間は、楽園から追放されるのである。幼児の時代、私たちは、他者の視線によっても、自分の視線によっても疎外することはなかった。それは無垢な楽園時代だった。罪の意識も恥の意識も知らない楽園に住んでいた。しかし、成熟した今、無垢な時代は、楽園として想起されるのみである。

 発達心理学によれば、人間は3歳から5歳ぐらいの間に、「心の理論」が成立するそうである。「サリーとアンの実験」でおなじみの「心の理論」とは、相手の立場に立って人の心を察する心理的機構のことである。この時期に、さまざまな点で大きな飛躍がある。フロイトの云うエディプス・コンプレックスの時期であり、「三者関係」を理解する能力が顕在化する時期でもある。ラカンの云う想像界から象徴界への移行の時期である。また言語心理学の云う「成人文法性」が顕在化する時期でもある。この時期に幼児は、世界を言語化し、物事を整理し、因果関係的に理解するようになる。つまり幼児は、他者の視線を意識するこの時期に、「人格」に向かって飛躍する時期、能力が一斉に顕在化する時期なのだ。

 上記の能力が、創世記3章を暗示していることに注意していただきたい。アダムとエバと蛇の誘惑関係、アダムとエバの神に対する弁解という三者関係の意識が、三者関係を理解する能力を暗示している。善悪と云う言語の成人文法性が成立している。他者の立場を自己弁護に利用する「心の理論」が成立している。つまり、善悪の木の実を食べる前のアダムとエバは、幼児の状態を象徴しているのではないか? 善悪の木の実を食べた後のアダムとエバは、人格に飛躍する能力が顕在化した時期の人間を暗示しているのではないか?

 人間は他者の視線を意識して、それを内在化し、自己を反省する自己意識を習得しない限り、人間社会の一員になることはできない。私たちは他者の視線を意識せず、自己反省をしない人間を隣人にしたいだろうか? つまり恥も外聞も、罪の意識も感じない人間を社会に受け容れたいだろうか? そんな隣人が近くにいれば、安心して夜も眠れないだろう。皮肉なことに、私たちが社会のメンバーとして受容できるタイプの人間とは、罪と恥を意識できる人間だけなのである。つまり善悪の木の実を食べた後の人間だけを、社会に受け容れることができるのである。

 『終末論の謎と課題』において、なぜ私がヴォルフの終末論を批判したかをご理解いただけると思う。神は、罪を犯さない人間を創造されなかった。当たり前である。人類を創造するとは、「罪と恥を意識できる能力を持つ生物」を創造することだからである。そもそも人類の定義とは、「罪と恥を意識できる能力を持つ生物」なのだから。もちろん、神が罪を創造したのではない。罪責の意識は、人間の自己発達によるものだ。人格になる「飛躍」が運命的に罪責を生み出す。人間性の成立と罪責が不可避的に結びついている逆説こそ、創世記3章が示す驚くべき啓示だからである。したがって、罪責は、ヴォルフが言うように無垢な人類を再創造することによって克服されるのではない。人間性の成立が罪責を伴わない新しいアダム・キリストの十字架によって克服されるのである。私たちは、罪責を抱えながら、しかし同時に義認されているという福音を受容することによってのみ、罪責を克服できるのである。罪責の承認と義認の信仰が、実は真に成熟した人間性を実現するというメッセージこそ、福音の啓示なのである。

 ちなみに、3歳を境にして、幼児は幼児型記憶から成人型記憶に移行するそうだ。成人型記憶に移行することによって、幼児は物語としての自分史の形成を言語化を介して行うことができるようになる。エピソード記憶は、言語化によって命題記憶となり、自己史連続体の一部に繰り込まれる。三歳以前の記憶が思い出されないのは、この移行のためであると精神医学者たちは考えている。そういえば、創世記3章は「寓話的」であり、楽園から追放された4章以降、突然創世記の記述が「歴史的」になるのは、人間が幼児型記憶から成人型記憶に移行することと何か関係があるのだろうか?

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