A Theological Experiment

ビックリ原罪論

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カインの奉献

 さて、創世記4章。クリスチャンのみなさまなら誰でも読んだ箇所。ところでみなさん、4章を読んだとき、なんだか納得がいかない点を感じませんでしたか? 幼いとき、一読して「・・・・?」と私は戸惑いました。それは何かというと、神さまは何でアベルの奉献を喜んで、カインの奉献を退けたかということです。理由がどこにも書いていないのです! 嘘だと思ったら、どうぞ4章をもう一度お読み下さい。ない、ない、ない!

 4章6節を読むかぎりでは、どうもカインは「正しくない」ようですが、何が正しくないのか書かれていません。ヘブライ人への手紙11章4節には「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを献げ・・・」と書いてありますが、何がどう優れていたのかは不明です。

 もし創世記4章が、信仰者の正しい行いや、優れたいけにえの献げ方を教えようとしているのであれば、せめて何が正しいのか、何が優れているのかを具体的に書いてあるはずです。でも4章は、そういうことに無関心です。何にも書いてありません。みなさん、この謎をどう解けばいいのでしょうか?

 カインは理由も分からず、奉献を退けられたのでしょうか? もしそうなら、カインが「激しく怒って顔を伏せた」のも少し納得できます。さて、ここからが私の仮説です。眉につばをつけてお聞き下さい。神さまは、どういう理由でカインの奉献を喜ばなかったか? 私の答えは、「理由がないのが理由」です。そして「理由がない」ことこそ、創世記4章を読み解くカギであり、この章が教えようとしている核心なのです。だから理由が書いていないんですね。私の仮説は眉つばものですから、読者のみなさま、適当に読んでください。。

 さて、なぜ理由がないのか、理由がないとしたら4章は何を教えようとしているのか? 私の仮説は、こうです。創世記4章の主題は、@文化・文明の発生、A人間になるとはどういうことか、である! そしてこの視点から創世記4章を読みかえすと、聖書の深遠さにあらためて敬服してしまうのです。

 読者のみなさま、お手元に聖書をご用意下さい。さっそく聖書研究を始めましょう。カインとアベルは兄弟でした。カインはお百姓さん、アベルは羊飼いになりました。カインは農作物を、アベルは子羊を奉げたそうです。読者のみなさまは、「アベルの子羊はイエスさまを象徴している!」などと早とちりしないように。聖書解釈学というものがありまして、そういう発想は時代遅れということになっています。

 「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった(4節〜5節)」。さぁ、カインは怒ります。怒り狂ったカインは、野原にアベルを誘い、そこで殺すのです。人類最初の殺人です。

 さてここで、カインとアベルが兄弟であった事実に目を留めましょう。子供というものは面白いもので、ある年齢まで自分と他人の区別がつかない時代があります。たとえば、弟だけに玩具をあげると、横にいたお兄ちゃんが突然「自分も玩具が欲しい!」とダダをこねたりします。今まで、玩具なんてぜんぜん欲しくなかったのに、弟が玩具を持つと、急に自分も欲しくなるんですね。子どもには「自分は自分、他人は他人」という感覚がないのです。子どもは関係の近い他者を、自分と同一化してしまうのです。子どもはお母さんが好きなものは、自分の好きなもの、弟が好きなものは、自分の好きなものというように、他者の欲望を自分の欲望にしてしまうのです。

 幼児性が大人になっても抜けないと、友人がエルメスのバックを買うと急に自分も欲しくなるとか、友人が結婚すると自分も結婚したくなるとか、自分と親しい人の欲望を自分の欲望にしてしまいます。幼稚園を観察していると、1人の子どもが泣き出すと周りにいた子どもがみんな泣き出すという場面に出くわしますが、子供というのはある年齢まで自分と他人を区別できないのです。お母さんとか兄弟は、子どもにとって、鏡に映ったもう1人の自分なのです。自分とお母さんは一体のつもりでいるし、自分と兄弟は一体のつもりでいるのです。しかし同時に、「一体の世界」は嫉妬の世界でもあります。一体だからこそ、一体感を壊す行動は許せないのです。「自分は自分、他者は他者」と自分と他者を区別して、相手の独立を尊重し、自分の独立を保つというのが、大人の証しですが、子どもには残念ながらそれができません。もっと残念なのは、大人になってもそれができず、家庭内暴力や幼児虐待を起こしてしまう人がいることですが、それはここではさておいて・・・。

 子どもが子どものままでは、社会は成り立ちません。どうすればよいか? 生々しい一体感の子どもの世界をどう断ち切ればよいか? 答えは、記号の世界に子どもを参入されるのです。難しい言い方をしましたが、ようするにルールの世界に子どもを入れるのです。

 数々の例を挙げましょう。弟にあげた玩具をお兄ちゃんが奪おうとする。するとお母さんは、「あなたはお兄ちゃんでしょ。我慢しなさい」と叱ります。お兄ちゃんの立場からすれば、なんで「お兄ちゃん」は玩具を奪っては悪いのか理由が分かりません。理由が分からないのに、叱られるのです。理由はとりあえず分からないけど、やめないとお母さんが納得しないことだけは分かります。そこで「自分はお兄ちゃんという立場らしい。お兄ちゃんは弟から玩具を奪ってはいけないらしい」ということを受け入れます。受け入れないと、お母さんは叱ります。理由は分からないけど、どうも世の中そういうルールがあることだけはわかるのです。

 子どもはコップをテーブルから落とします。するとお母さんが叱ります。子どもの立場からすると、「何でコップを割ったら叱られるのだろう?」と不思議に思います。もう1度、コップを割ります。するとお母さんはさらに怒ります。「何度言ったら分かるの!」。繰り返すごとに子どもは、コップを割って怒られる理由は分からないけど、コップを割ると怒られるというルールがあるようだということを察知します。子どもがもし、大人の世界に受け入れてもらおうとすれば、理由は分からないけど、コップを割ってはいけないのです。

 子どもは、お母さんが透明な容器をさして「コップ」というのを耳にします。自分も「コップ」というと、お母さんが「そう。コップ」といいます。子どもの立場に立てば、なぜ水を入れる透明な容器が「コップ」と呼ばれるのか、その必然性が理解できません。理由は分からないけど、「コップ」と呼ばれているのです。そして、それを「コップ」と呼ぶかぎり、自分は会話に加わることができるのです。ソシュールという有名な言語学者は、すべての言語体系の中では「コップ」が「コップ」と呼ばれる必然的な理由はないといいました。「ペップ」でも「パップ」でもいいのですが、でも日本語ではなぜか「コップ」です。

 子どもにとって一事が万事すべてこうです。なぜ野球をするとき3回空振りするとアウトなのか、なぜ家に火をつけると叱られるのか、なぜコップを「鍋」といってはいけないのか、理由は分かりません。でも、そのルールを守らないかぎり、仲間に入れてもらえないのです。

 大人になるとはどういうことか? 大人になるとは、理由が分からなくても既存のルールの世界に参加ことです。自分を記号化することです。男がスカートをはかない必然的理由はありません。でも自分を正常な人として社会の仲間に入れてもらうためには、男はスカートをはかない、車は左車線、既婚者は浮気をしないなど、自分を男・夫・課長・牧師・日本人・クリスチャンというように記号化することによって、「自分」を社会化する以外に方法はないのです。理由は分からないけど、ルールがある。そしてルールに参加する。これが文化であり、文明社会です。

 自分を他人と同一化しているかぎり、大人・社会人と呼ばれる人種は存在できません。社会の一員になるためには、自分はお母さんとは別の人間なんだ、理由は分からないけど社会が与えた記号(子ども・学生・男・夫)にしたがって生きなければいけないんだということを受け入れる必要があるのです。。

 カインの話に戻りましょう。カインとは、私たちが昔そうだった子どもです。カインの献げものは神さまによって拒絶されました。理由は分かりません。鳥を「豚」と呼んでいけないのと同じです。子どもの立場からすれば、鳥を「豚」と呼んではいけない必然的理由はありません(理由なんてありません。たまたまみんな「鳥」と呼んでいるだけです)。私たち人間はすべて、ある年齢に達したら、理由は分からないけど、社会がそうしているように、そうするように求められているのです。そうした人間だけを社会は仲間に入れてくれるのです。

 カインはなぜ神さまが自分の奉献を受け入れなかった理由は分かりませんでした。しかしそれが受け入れられなかったことだけは知りました。カインの選択は2つに1つです。理由は分からないけど、そういうものだとして受け入れる。あるいは拒否する。拒否するかぎり、カインは「社会の一員」にはなれません。

 どの団体でもルールがあります。ルールに必然的な理由はないけど、その団体のルールに従うことが求められています。社会の一員になるためには、自分が所属する団体・社会のルールに従わなければいけないのです。会社で勤める読者のみなさんは、良くご存知でしょう(なぜ会社はあんな朝礼をするのかとか・・)。

 カインは同一化と独立の狭間で葛藤します。カインにとってアベルは自分の分身でした(カインは子どもですから)。自分の分身であったアベルは神に賞賛され、自分との「違い」を鮮明にします。カインに残された道は、アベルを殺し「違い」を抹消して同一化を保つか、理由の分からないルールに従って大人になるかのいずれかでした。神さまはカインに警告します。「罪は戸口で待ち伏せており、おまえを求める。おまえはそれを支配せねばならない」。

 カインは社会の中の自分の人格的独立よりも、アベルとの幼児的な同一化を選びます。そしてアベルを殺すのです。その結果は? その結果は、どの社会でもそうであるように呪いでした。神さまは「おまえは地上をさまよい、さすらう者になる」と宣言します。つまり、どの社会にも属せないというのです。

 カインはここで、降参します。社会に属さない放浪者の身分は耐えられないというのです(13節〜14節)。社会に属するというカインの決意を聞いた神さまは、カインに「しるしを付けられた(15節)」。しるしをつけるとは記号化するということです。価値体系、法体系、言語の体系、文化の体系の中で「カインはこういう者です」という記号です。記号がついてこそ、社会に参加することができます。夫とか、妻とか、○○学校の先生とか、社会の役割です。社会に属するということは、法を犯すと社会の罰を受けると共に、法の範囲で社会の保護も受けるということです。だから神さまは「カインを殺す者は、誰であれ七倍の復讐を受けるだろう(15節)」と言います。ふさわしい刑罰だけを受け、それを超えた復讐から法によって守られるということです。カインは、とにもかくにも社会の法体系に所属しました、社会の価値体系に所属しますと神に宣誓します。カインは「子ども」であることをやめました。その守るべきルールの必然的理由は分からないけど、社会の秩序を受け入れます。私たちを含め、すべての人間がそうであるように・・・。

 ここで歴史上初めて、「社会」が誕生します。それまではアダム一家という家族だけでした。もっと厳密にいうと、アダム一家とは親と未分化のままの子どもの状態です(精神分析でいうエディプスコンプレックスの前)。「社会」とは、アダムはお父さん、エバはお母さん、ぼくは子どものカインという社会的役割を知ったカインの状態です。

  カインはその後、人類で始めて都市を建設しました(17節)。カインの子孫は人類で最初の家畜の飼育者になり(20節)、道具の製作者になりました(22節)。つまり人類最初の文化・文明の父祖となったのです。これは当然のことです。なぜならカインこそ人類で始めて子どもの状態から脱して自分を記号化する、つまり理由は分からないけど「ルール」の世界に入った人間だったからです。文化・文明とは記号の体系ですから。

 そして今日でも、社会人である私たちは、文明の一員である私たちは、文化人である私たちは、カインの子孫なのです。私たちの誰一人として幼い頃、居間でおしっこをして、テーブルのコップをひっくり返して叱られなかった者はいません。私たちはみんな、お母さんに叱られるから、「理由は分からないけど」既存のルールを受け入れて大人になったのです。カインの運命は、つまり理由はわからないけど、それを受け入れる、あるいは反して罰を受けるのは、「人間の条件」です。私たちのうち、誰もが幼い頃カインのように、理由も分からず罰せられることによって、社会のルールを覚えたのです。つまり人間になるということは、カインのようにルールも分からず罰せられるということです。カインは私たちの原型です。人間の誰もカインになることなく、社会人(文明人)になることはできないのです。創世記4章は、今でも繰り返されているのです。

 これが私の仮説です。ルネ・ジラールなどは違った観点から解釈してますが(暴力と聖なるもの)、反論のある方、楽しみにお待ちしています。

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