34.竹村好香




淀川キリスト教病院へ

 沖縄から帰ってくるとさっそく洗濯、片付け、真佐子はいつものようにバタバタ後始末をしながら、新聞求人欄を丹念に目で追っている。そこへ友人から耳より情報が入ってきた。淀川キリスト教病院が助産師を募集している、と。
 この病院は1955年、米国南長老教会により大阪東淀川区に創立された米国琉の最新医学を誇る総合病院で、自宅からは阪急京都線を挟んで西側に聳えており、歩いても15分足らずだから勤めるにも最適な病院だ。
 真佐子は迷った。沖縄航海で打ちのめされ、いまはヨット旅行を考えたくもないものの、壱雄がまた出かけるといえば半年でやめなければならないし、半年だけの期限付きでは採用されるはずもない。だが、事情はもうそんな悠長なことを言っている場合ではない。
 前年の年収で翌年一年間の家計費を賄う健全経営の方針を立てたが、半年だけアルバイトを繋いだ収入で、ヨット旅行の費用も含めて1年分やりくりできるほど世の中が甘いはずはない。十数年間かけてこつこつ貯めてきた真佐子の預金はもうすっかり吐きだしてしまった。壱雄の退職金は〈アストロ〉建造費できれいに使い果たしているから家計は火の車、もう後がない状態に追い込まれていた。
 壱雄は知らん顔で、家で読書に暦計算、なにひとつ贅沢をする人ではないが、本だけは平気で丸善に次々に注文をだしている。一家を支える大黒柱としてはもう猶予ならなかった。
 病院を訪ねると、総婦長さんがすぐ会ってくれた。大病院の総婦長といえば年配の怖そうな人と思っていたら、現れたのはすらりとした長身で美貌の人だった。しかも若いので真佐子はびっくりした。
 4年前に病院を結婚退職したが、また復帰したいとまず型どおりの応募事情を話したが、真佐子はそれよりも、醜いほど日焼けした真っ黒な顔を気にしていた。ようやく色白女性にかわって、夏は小麦色の肌が化粧品メーカーのキャンペーンでもてはやされ、前田美波里が大人気になっていた頃だ。
 とはいっても沖縄へ4カ月も航海してきた直後だから、欲目にみても深煎りコーヒー色の顔で、真佐子はそれをしきりに弁解した。そんなことを気にすることはありませんよ、と笑いながらやさしく総婦長が言ってくれたのが、とにかく嬉しかった。
 真佐子は助産所の叔母の養女になってから、終戦後の混乱の中で養母も急逝してしまったために病院勤めしたことなどを説明したが、問われるままに
叔母の仕事が恥ずかしかったこと、敗戦間近に女学校が繰り上げ卒業になって助産師養成所にいやいや進んだ事情、それに助産師が嫌だったことまで、いつの間にか一所懸命説明していた。
 総婦長は、にこにこしながら黙って話を最後まで聞いてくれた。応募してきた女性が、自分がいかに助産師の仕事がいやでたまらなかったかを説明する、なかば呆れて聞いたはずだが、真佐子の話が終わると、助産師はそんなに卑下する仕事どころか、本当はとても誇りにしていい尊い役目なのだと、総婦長はかんで含めるように話し始めた。
 面接が終わり、病院の玄関をでると真佐子はもう嬉しくて、はずむようにして家路についたのを今も覚えている。30年近い間、心の奥底に溜まっていたわだかまりを、わずか2、30分で総婦長は全部取り払ってくれたのだ。そして、仕事への意欲が猛然と湧いてきた。真佐子は病院に採用された。
 この総婦長、実は淀川キリスト教病院看護部長が竹村好香(よしか、当時51歳)だった。
 昨年(2007年)好香に会って尋ねると、41年前のことをよく覚えていて「ほんとうにおかしな人でしたねえ」と笑った。応募の事情をきくと、助産師が嫌でたまらないって必死に説明する人なんて他にいるわけがないから、面白かったと。
 そんな女性をなぜ採用したのかときくと、
「正直な人でしょう、それにね、子供の頃からなぜ嫌だったかを、自分の中を整理しながら手短に理解して欲しいって願うように話す様子。とても聡明な人だなとわかりました。そして、この人には相談にのれる人がいままでいなかっただけだとわかりましたから」
 喜びいさんで家に戻るとき、真佐子はまだ、なぜそんなに自分が有頂天になっているのか気づかなかったが、いま、はじめて真佐子はなんでも話せる母に巡り会い、生涯の恩師に出会ったのだった。


看護部に米国流医療の心髄がある



















竹村好香(2007年)


 竹村好香は、第一次大戦が始まった直後の1915年(大正4年)生まれ、今年(2008年)93歳になる。岡山県伯備線沿いの小さな町で生まれ、英語を学びたい一心で神戸女学院に進学した。
 優等生で卒業するとき、東京・築地の聖路加女子専門学校(当時唯一の四年制看護学校、現聖路加看護大学)を推薦されて進学した。看護学校卒業と同時に聖路加国際病院に就職し、すぐ看護部スーパーバイザーに抜擢される。“スーパーバイザー”は日本にない役職なのでと、好香は面倒がって説明しなかったが、日本流にいえば婦長よりは広範囲な権限を持ち、だが単に監督者ではなく病棟の運営までみる管理職だったようだ。
 新卒の若い女性をすぐ抜擢したのは、ここが純米国式の病院経営をしていたからだった。対米戦争直前に結婚退職して西宮で専業主婦におさまった。
 1955年、大阪に淀川キリスト教病院を創立した初代院長フランク・A・ブラウンは、病院開設と同時に、軌道に乗り次第段階的に日本人スタッフに運営移管する計画を立てていた。医師は順次日本人に権限移譲すればいいが、一番の難問が看護部長の日本化だった。
 看護部は日本の病院にはない。これはアメリカ式病院運営の要といってもいい部門で、病棟の運営を一切あずかる。日本の病院はすべて役所同様に組織が縦割りで、各診療科が外来だけでなく病棟にも貫かれているのは、“外科病棟”などの用語からもわかるだろう。山崎豊子の『白い巨塔』にでてくる大学病院の組織は今もそのままだ。
 米国式看護部が日本の病院組織と一番違うのは、乱暴にいえば看護部長は看護婦(現看護師)のトップが就任し、病棟では各診療科医師もすべて看護部長の配下に入るところにある。日本では、ベテランの婦長といえども新米の医師の補助役に過ぎず、中央官庁のキャリアとノンキャリア同様に“身分制”が頑として通っている。
 日本の病棟では、診療科医師が病棟の指揮も執るが、米国で看護部が独立しているのは、入院患者が快適に病院生活を送り、早く社会復帰するためには診療だけでなくて、そこでの生活総合面からサポートしなければならない、最近の言葉で言えば総合ケアを看護の根本におくところから生まれたからだ。それをこの病院では“全人医療”と名づけている。
 “看護”思想をめぐる彼我の相違は、実は終末医療に及んだとき、もっともその異質さが露わになってくるのである。医療が技術治療偏重になったとき、終末医療が“延命治療”という名の患者と家族を苦しめるだけの形式的医療にまで突き進んでしまったりする。しかし、看護が総合ケアを根本におくとき、ある段階に至れば意味のない形式的治療よりも、死の迎え方と真剣に取り組まざるを得なくなる。生と死を考えることから逃げてきた医学の盲点を看護思想は突いているのである。
 その模索のなかで生まれたのが、末期癌患者を主に対象とするホスピスである。淀川キリスト教病院は、日本で二番目にホスピスを始めた病院でもある。


良き時代のアメリカを体現した人

 少々脱線してしまったが、こういう看護思想に裏打ちされ、しかも大病院のマネジメントを担う看護部長をどうやって日本に移管するか。これが最難問だったわけである。
 ブラウンが聖路加国際の院長に相談を持ちかけたところ、二〇数年前に退職した竹村好香が西宮に住んでいるはずだと推薦された。こうしてある日、専業主婦におさまっていた好香がブラウンの説得で、45歳で大病院の看護部長に抜擢された。
 就任と同時に、米国教会経営の病院で8カ月の研修留学を修めると、好香が淀川キリスト教病院の全人医療確立に向けて猛然と取り組み始めた。それがちょうど形になろうとしているときに、幸運にも真佐子が好香の前に現れたのだった。
 好香が米国に実務留学したのは、ちょうどケネディが大統領になる直前で、第二次大戦後のパックス・アメリカーナ、アメリカが理想に燃え、自由と民主主義とそしてその豊かさを謳歌した時代だった。そこで好香は、良きアメリカを身が震えるような思いでどん欲に吸収していった。教団経営病院の理想を掲げた人道主義にも心から感銘をうけた。
 真佐子が面接で真っ黒の顔を恥ずかしいと話したとき、好香は聞きながら米国で黒人が言い様のない差別に苦しんでいる姿を思い起こして、肌の色などなにも気にしなくていいと心から諭したのだ。
 さて、それから7カ月後、1967年4月、〈アストロ〉は最後の難関である北海道一周の航海にでることを決めた。
 本来ならさっさと辞表を出すところだが、真佐子は逡巡していた。辞めたくない、しかしヨット旅行は続けなければならない。いくら考えても妙案もないので、ありのままを再び好香に話すことにした。真佐子から話を聞くと、即断で好香は答えた。
「行ってらっしゃい。休職扱いにしましょう。ただし、その間お給料はなしですよ。10月末まで6カ月だけね」
 またこの病院に帰ってくることができる。思いもしなかった好香の笑顔に真佐子は、もう泣きそうだった。
 当時、そういうおおらかな休職処遇など日本企業ではほとんどなかっただろうし、周囲の声はどうだったろう。キリスト教病院にそういう規定もあったのか尋ねると、
「初めてのケースでした。本当はね、困りました。ほかのスタッフはもう散々不平を言いましたし。でも簡単。私に直接不平を言ってくる人はいませんから、耳に届いていない振りをしました(笑)。代わりの人を入れると秋に神田さんが入れる余地はなくなりますから、残った助産師のローテーションを少しきつくしてみんなでやりくりしなさいって」
 好香がアメリカで知ったことなかで、自由、そして一人ひとりが自分の人生を創っていこうとする個人主義が、なによりもすばらしいと心に刻んでいた。日本では個人主義を利己主義だと言うがそれはまるで違う。
 その恩恵を誰よりも好香自身がこれまで一番与えてもらってきた。だからこそ、この病院でそのアメリカの理想主義を少しずつでも実現していきたいと燃えていた。
 日本では、なにか新しいことを提案すると「前例がない」の一言で却下されるが、前例がないからこそ新しい提案なのだから、これでは最初から何もできる余地がない。すばらしいアイデアや挑戦を申し出ても、「あなたに許可すると、他の全員にも許可しないといけないからあなただけを特別扱いできない」とこれも却下される。
 しかし、自分の全生活をかけた挑戦など、誰もがやるはずもないから挑戦の名にふさわしいのだが、理屈にならない理屈でこの社会はとにかく個性を認めず押さえ込んでしまう。
 好香がアメリカで教えられたのは、他人を気にして自己抑制したり他人と同じことしかしない、それが一番良くないことで、自分の人生は自分で創れということでもあった。
 「北海道へのヨット航海の話を聞いて、本当にすばらしいと思いました。病院の都合を考える前に、まず、この人が挑戦しようとしていることにどんな手を差し伸べられるか、それが自分の役割だと思いました」
 7カ月前には沖縄航海で精神的に深い傷を負い、家計は火の車だし、どうやってこの先ヨット旅行などできようかとまで思い詰めていた。それが好香との出会いによって、再び自分の行く先に明るさを見つけることができ、家計も好転した。そしていま、その人が遊びに過ぎない北海道航海を大きな抱擁力で見守ってくれようとしている。
 天の配剤というものだろうか、良い時に良い人に真佐子は巡り会うことができた。もう迷いはなかった。自信を持って北海道一周航海の準備が始まった。
 好香は、いまは毎週水曜日と日曜日に阪急神戸線西宮北口から大阪・中之島にある教会に通うのを楽しみにしている。毎週二日、真佐子が朝、西宮まで迎えに行き一緒に電車で梅田にでて、水曜日はホームレスの人たちへの炊き出しに参加し、日曜日は礼拝のあと、牧師の説教を録ったカセットテープを持ち帰る。そして月、火の二日間をかけてパソコンにそっくり打ち直す“テープ起こし”をして教会に届けると、教会のホームページに掲載される。若いときから英文タイプは鍛え抜いているから、パソコンでのワープロ作業などお手のものである。


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