英語は学問じゃない!実技教科だ!
<北海道高教研('98)での提言から抜粋>

はじめに

 英語を大学入試から外すべきだという論議があった。株式会社アルクの『英語教育事典・大学入試特集号』で学校法人渋谷教育学園理事長で中教審委員である田村哲夫氏は同誌のインタビューで次のように答えている。「受験英語に全く意味がない、とは言いません。確かに受験生の『知識』、『論理性』、そして何といってもコツコツと物事を進める『勤勉性』といった要素を測るには都合がいいと思います。しかし、だからこそ、受験英語がコミュニケーション手段としての英語そのものを非常に歪めてしまっているのです。」

 これについては様々な受け止め方があると思われるが、私には「論理性」の3文字が強く心に残った。文法公式を用いて英語を運用できるかどうかを検査するのが入試だったのだろうか。文法を駆使した人が必ずしも英語力のある人なのだろうか。また、日本語に正しく訳せたからといって必ずしも内容を深く把握しているのだろうか。

 英語とは何だというテーマを、私は英語教員になって以来ずっと考えてきたのだが、今のところ「英語は単なる言葉であって情報交換・心の交流手段である」と思う。生徒が読んで・聴いて情報を把握し、書いて話して情報を発信するということができるならばそれで良いのではないかという極々当たり前に言われていることを改めて思うのである。だからこそ英語(言葉)の試験が文法力=論理性を測るものだという考え方があるのならば改めるべきだろうと強く思う。文法が好きでたまらなかった自分がこんな事を言うのだから不思議な話しである。きっと文法に長けて英語ができるつもりでいた自分が、いつしか話せない・聞き取れないという壁にぶつかった反動だったのだろうと自己分析している。そんな私が、言葉としての英語を指導することを目指して大切にした点を紹介したい。

1 体を動かすこと

 単文を読ませ、その意味を尋ねても、なかなか言えない生徒が多い。あとで聞いてみると、どんな語順で日本語にするか、そして日本語の助詞の使い方に大きな戸惑いを感じるようである。他の生徒の前では完璧に答えなければならないというプレッシャーと間違えたら恥ずかしいという気持ちを強くする生徒がほとんど。しかし、訳以外の作業をさせてみると、実は文の意味をよくわかっている場合が多い。生徒は正確な日本語に訳さなければ、極端な話し、不正解だという思いすら抱いているようである。正確に訳す能力は、英語の能力とは別に考えるべきだと思う。訳した日本語の上手下手は日本語力の問題ではないだろうか。英語そのものを指導するのだから、邪魔になる日本語は敢えて捨てたい。定期考査を作成する際にも、日本語訳を書かせる出題を避けている。また、読み聴きした内容を英語で説明させることにしても、表現力に劣る生徒の読解力・聴解力を純粋に評価するには無理がある。読解力・聴解力のある者が、同時に同じだけの表現力・作文力を備えているとは限らないからである。

(1)絵を描かせる
 情景が描写されている文章に出会ったら、生徒には難解な語句の指導を行うだけで、すぐに絵を描かせる。或いは宿題にする。描くべき物の個数、位置、色、大きさ、様子などがもちろんチェックの対象である。実に個性的な絵が集まり、大変楽しい。生徒も勉強している気分ではない様子で、わざとおもしろくしたり、芸術性を追究したりする。それを通じて、ある単語に対する印象の違いや、どんな語句を誤解しやすいかなど、訳には決して現れない理解度が手にとるようにわかる。無論、絵の上手下手とは無関係である。

(2)行動させる
 命令文の練習はもちろん生徒を立たせて、言う通りに行動させたり、ペアワークをさせたりする。まとまった文章を読み聴きする場合でも、主人公と同じ動きができるかという活動を行うこともある。無論、日本語に訳す必要はない。

(3)物を作る・操作する
 模型、料理、手芸、工作、電機製品、ゲームソフト、通信販売など、世の中には説明書や解説書を必要とする物が数多くある。それらを読み聴きして理解できたかどうかは、その物を作ったり、説明に従って行動した結果を見れば一目瞭然。これは教師側だけでなく活動した生徒自身も明確に自己評価できる。それだけではなく、試行錯誤することで「あぁ、この単語はこういう意味なのか」と知らぬ間に語句を推理することができ、また苦労した分だけその語句は比較的定着しやすい。失敗があれば、どの文・語句を理解できなかったか或いは誤解したかを教師側が容易に指摘できる。その意義を踏まえて、調理実習を3年ほどやってみたことがある。

2 心を動かすこと

 伝えたいと思う気持ちがなければ話すことも書くこともできない。同様に知りたいと思う気持ちがなければ聴きも読みもしない。この考え方が今の私の中で最も大きな部分を占めている。教科書であろうと投げ込み教材であろうと、それを基本としたい自分にとって教材に知力を注がせるのではなく、心をのめり込まさせることに最も神経を使う。ただでさえ「進学」を前面に出せない生徒層の授業においては、なおさらのことである。

(1)小道具を使う
 教材に関連する物を用意するのだが、決して無理をしてまで調達するわけではない。家へ帰って身の回りにあるもので教材に少しでも関連があれば、乱暴な話し、こじつけてでも使う。言葉を少しでも現実に近付けてやりたいと思うのである。100円市で手に入るプラスチックの果物や野菜はよく利用している。

(2)意見を聴く
 読み聴きしたものの意味がわかっているかどうかを確認するために、機械的に訳させたり要約させたりしたことがあるが、それができたからといって「本当に読んだ」という実感が生徒の心に生まれるのだろうかと思う。人の話しを聞くのも同様だが、具体的にその中身で心を動かしたい。例えば、教科書を一区切り読んで感想を聴く。「どう?腹立たないか。」「この主人公の性格好きか?」などの問い掛けに返事がありさえすれば読解の第1段階合格である。どの部分でそう思ったかが言えたら第2段階合格。理由も言えたら第3段階合格という評価があってもいいのではないだろうか。教材によっては生徒の意見を取りまとめて全員に配る。生徒同士の意見交流にも役立つと思う。

(3)意見を述べる
 これは教師側が意見を述べるという意味である。意見を述べることをためらう生徒はただでさえ多いのだから、教師側が手本として意見を述べねばなるまい。さらに、教師の意見に対する賛成・反対・疑問などを生徒に言わせたい。それが日本語であってもである。

(4)例文は事実を用いる
 身に付けるべき語句や構文は使わなければ覚えられないと考える。生徒の関心事に応じて、芸能界から学校・地域の話題や事実を登場させた例文を提示することに努めている。英語が言葉である以上、そこに現実味がなければ言葉を生きたものとして実感できないと思う。

(5)頻繁に英作文させる
 (4)と同様に、語句を使って身に付けさせたい。そこで生徒自身について題を与えて書かせる。自由作文も重要な自己表現の一つである。日本語で意味を与える英作文とは比べ物にならないくらい生徒の積極性が見られた。

(6)洋楽を使う
 指導したい語句や教材に関連のある主題が含まれている洋楽を多く使っている。勉強嫌いの生徒でも、一生懸命に歌詞を目で追っている。主題を理解するために必要な語句ならば歌の主題を知る欲が生まれ、生徒の関心はその語句に集中する。但し、指導したい語句はサビに含まれている方が使いやすい。生徒はどちらかといえば邦楽に親しんでいるようだが、洋楽に対する関心は想像以上に高い。また、彼等に人気のある日本の歌とは違うスケールの大きさや価値観など、洋楽を通じて生徒に伝えたい。

3 study ではなく learnを実感させる

 私は、生徒に「英語はstudy(勉強)するものではなくlearn(習得)するものである」と訴えている。これは「勉強するな」ということではなく、文法の理屈を考えるよりも何回も繰り返して覚えてしまうことが大切だということである。勉強アレルギーに陥り、論理的思考の不得意なままの彼らには、珠算や習字などのお稽古事や楽器・スポーツの練習と同じ感覚で英語に触れられるようにしたい。英語は体育や芸術科と同様の実技教科であると思わせたい。

(1)達成感を与える
 動詞の変化、代名詞の格変化のような中学校で習っていることであっても、思い切ってメトロノームを教室に持ち込んで、生徒の前で「語形変化ラップ」を披露し、全員で少しずつテンポを早めるという練習をしたことがある。「頭は一切使うな。とにかくラップのつもりで家で全部言えるまでやっておいで。」と指示し、宿題とした。次の日、一人ずつメトロノームに合わせて唱えるテストを行い、全員が満点であった。アルファベットもおぼつかない生徒が満足げだったのを思い出す。
 また、辞書引きの速度を上げるトレーニングを数ヶ月行った後、実際に速くなった生徒は、調べることを以前より面倒がらなくなった。これは大きい。

(2)作業量・活動量を増やす
 黒板でいくら説明しても、生徒にとっては理屈を聞いているに過ぎない。体育には理屈だけで終わるという授業はない。英語も同様に理屈は理屈として教えるが、実際に四技能を発揮できることが目標である以上、単なる座学で終わるわけにはいかない。

4 おわりに

 冒頭で引用した雑誌からもう一つ東京大学教授・岡秀夫氏の意見を紹介したい。「英語は単なる道具ではなく、国際理解、異文化理解という大切な役割もあります。中学、高校では、外国語教育を通して生徒の人間性を広げるという教育的な側面を忘れないでほしい。」
 これは今更言われるまでもないことではあるが、最近実感として強く考えることの一つである。英語ができるようになる楽しさを生徒に感じさせるために、自分が常に考えていなければならないこととして受け止めている。外国語という教科を通じて何を教えるか、何を考えさせるかが常に自分のテーマとしてのしかかってくる。それが恋愛であったり国際問題、環境問題であったり、異なる考え方を受け入れることであったり、自分の意見を主張することの大切さであったりする。それらの情意的側面を無視すると、言葉そのものが非常に無機的で無味乾燥なものになってしまう。読み終えた内容に心を動かし、手足を動かし、反論し、同意し、生きた人間が発したメッセージに生きた人間として反応する。それがなければ、訳も作文も言葉としての意味を持たない単なる記号の集合体でしかないのだと思うのである。生徒の今の能力が低くても、外国語をもっと覚えたいと将来思えるような下地だけは作ってあげたい。つまり最低限「言葉の持つメッセージ」に魅力を感じたまま卒業させてあげたいと思うのである。

1998.1.8 北海道雄武高等学校 教諭 荻津 賢

→北海道池田高等学校(98-07)→北海道函館中部高等学校(08-)

 

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