Update 2003/12/05

陳寿伝


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原文比較

晉書陳壽傳(A)華陽國志陳壽傳(B)
1陳壽字承祚,巴西安漢人也.陳壽字承祚,巴西安漢人也.
2少好學,師事同郡[言焦]周.少受學於散騎常侍[言焦]周,治尚書、三傳,鋭精史、漢,聰警敏識,屬文富艶.
3仕蜀為觀閣令史,初應州命衛將軍主簿、東觀祕書郎、散騎黄門侍郎.
4宦人黄皓專弄威權,大臣皆曲意附之,壽獨不為之屈,由是[尸<婁]被譴黜.遭父喪,有疾,使婢丸藥,客往見之,郷黨以為貶議
5及蜀平,坐是沈滯者累年.大同後察孝廉,為本郡中正.
6司空張華愛其才,以壽雖不遠嫌,原情不至貶廢,舉為孝廉,
7除佐著作郎, 
8 益部自建武後,蜀郡鄭伯邑、太尉趙彦信及漢中陳申伯、祝元靈、廣漢王文表皆以博學洽聞,作巴蜀耆舊傳.壽以為不足經遠,乃并巴、漢撰為益部耆舊傳十篇.
9散騎常侍文立表呈其傳,武帝善之,再為著作郎.
10呉平後,壽乃鳩合三國史,著魏、呉、蜀三書六十五篇,號三國志,
11又著古國志五十篇,品藻典雅,中書監荀勗、令張華深愛之,以班固、史遷不足方也.
12出補陽平令.【勘考:當作「平陽侯相」。華陽國志正作「平陽侯相」】出為平陽侯相.
13撰蜀相諸葛亮集,奏之,華又表令次定諸葛亮故事集為二十四篇,時壽良亦集,故頗不同.
14除著作郎,領本郡中正.復入為著作郎.
15撰魏、呉、蜀三國志,凡六十五篇, 
16時人稱其善敍事,有良史之才.夏侯湛時著魏書,見壽所作,便壞己書而罷.張華深善之,謂壽曰:「當以晉書相付耳.」其為時所重如此.
17或云丁儀、丁[广<異]有盛名於魏,壽謂其子曰:「可覓千斛米見與,當為尊公作佳傳.」丁不與之,竟不為立傳.
18壽父為馬謖參軍,謖為諸葛亮所誅,壽父亦坐被[髟/几],諸葛瞻又輕壽;壽為亮立傳謂「亮將略非長,無應敵之才」,言「瞻惟工書,名過其實」,議者以此少之.
19張華將舉壽為中書郎,荀勗忌華而疾壽,遂諷吏部,遷壽為長廣太守.辭母老不就.
20杜預將之鎮,復薦之於帝,宜補黄散,由是授御史治書,鎮南將軍杜預表為散騎侍郎,詔曰:「昨適用蜀人壽良具員,且可以為侍御史.」
21 上官司論七篇,依據典故,議所因革.又上釋諱、廣國論.
22華表令兼中書郎,而壽魏志有失勗意,勗不欲其處内,表為長廣太守.
23以母憂去職.母遺言令葬洛陽,壽遵其志.又坐不以母歸葬,竟被貶議.繼母遺令不附葬,以是見譏.
24初,[言焦]周嘗謂壽曰:「卿必以才學成名,當被損折,亦非不幸也,宜深慎之.」壽至此再致廢辱,皆如周言. 
25後數歳,起為太子中庶子,數歳,除太子中庶子.
26未拜.元康七年病卒,時年六十五.太子轉徙後,再兼散騎常侍.
27惠帝謂司空張華曰:「壽才宜真,不足久兼也.」華表欲登九卿,會受誅,忠賢排擯,
28壽遂卒洛下,位望不充其才,當時■之.
29梁州大中正尚書郎范[君頁]等上表曰:「昔漢武帝詔曰『司馬相如病甚,可遣悉取其書』,使者得其遺書,言封禪事,天子異焉.臣等按故治書侍御史陳壽作三國志,辭多勸誡,明乎得失,有益風化.雖文艶不若相如,而質直過之.願垂採録.」於是詔下河南尹、洛陽令就家寫其書.壽又撰古國志五十篇、益都耆舊傳十篇,餘文章傳於世. 

その他史料(C)

  1. 晉泰始二年,(文立)拜濟陰太守,遷太子中庶子.立上言:「故蜀大官及盡忠死事者子孫,雖仕郡國,或有不才,同之齊民為劇;又諸葛亮、[サ/將][王宛]、費[ネ韋]等子孫流徙中畿,各宜量才■用,以慰巴、蜀之心,傾呉人之望.」事皆施行.(蜀志[言焦]周伝 裴注 華陽國志)
    泰始初,(文立)拜濟陰太守,入為太子中庶子.上表請以諸葛亮、蒋[王宛]、費[示韋]等子孫流徙中畿,宜見■用,一以慰巴蜀之心,其次傾呉人之望,事皆施行.(晋書文立伝)
  2. (泰始)四年三月,(羅憲)從帝宴于華林園,詔問蜀大臣子弟,後問先輩宜時敘用者,憲薦蜀郡常忌、杜軫、壽良、巴西陳壽、南郡高軌、南陽呂雅、許國、江夏費恭、琅邪諸葛京、汝南陳裕,即皆敘用,咸顯於世.(蜀志霍峻伝 裴注 襄陽記)
    初,(羅)憲侍讌華林園,詔問蜀大臣子弟,後問先輩宜時■用者,憲薦蜀人常忌、杜軫等,皆西國之良器,武帝並召而任之.(晋書羅憲伝)
  3. (泰始)五年,予(=陳寿)嘗為本郡中正,清定事訖,求休還家,往與周別.(蜀志[言焦]周伝)
  4. 臣壽等言:臣前在著作郎,侍中領中書監濟北侯臣荀[冒力]、中書令關内侯臣和[山喬]奏,使臣定故蜀丞相諸葛亮故事.(蜀志諸葛亮伝 諸葛氏集上奏文)
  5. 泰始十年二月一日癸巳,平陽侯相臣陳壽上.(蜀志諸葛亮伝 諸葛氏集上奏文)
  6. (和[山喬])入為給事黄門侍郎、遷中書令。…(略)…呉平、…(晋書和[山喬]伝)
  7. 及將大舉,以(張)華為度支尚書,乃量計運漕,決定廟算.(晋書張華伝)
  8. (太康三年春正月)甲午,以尚書張華都督幽州諸軍事.(晋書武帝紀)
  9. (陳)壽與張華友善.華垂當啓轉中書郎.荀[冒力]黨疾壽、華.語吏部出為長廣太守.(九家舊晉書輯本 王隱晉書 陳壽 - 類聚四十八)
  10. (荀[冒力])太康十年卒,詔贈司徒,賜東園祕器、朝服一具、錢五十萬、布百匹.(晋書荀[冒力]伝)
  11. 杜預將之鎮.入辭.啓曰.蜀有陳壽.才史通博.宜補黄散之職.帝曰.卿何説晩.壽可作治書侍御史不.預對惟上詔.即手詔.用壽為治書侍御史.(九家舊晉書輯本 王隱晉書 陳壽 - 書鈔)
  12. (太康五年)閏月,鎮南大將軍、當陽侯杜預卒.(晋書武帝紀)
  13. 文立字廣休,巴郡臨江人也.蜀時游太學,專毛詩、三禮,師事[言焦]周,門人以立為顏回,陳壽、李虔為游夏,羅憲為子貢.(晋書文立伝)

晋書陳寿伝

陳寿、字は承祚(しょうそ)、巴西郡安漢県の人である。若い頃から学を好み、同郡の[言焦]周(しょうしゅう)に師事し、蜀に使えて観閣令史となった。 当時は宦官の黄皓の権力が絶大で皆が意を曲げて黄皓の言いなりであった。 しかし、陳寿は一人節を曲げなかったが為にしばしば懲罰を受け降格させられた。 父親の喪中に病になり、女中に薬を使わせたことで(当時の儒教道徳としては、自分の身をすり減らしてでも喪に服さなければならず、病気だからといって薬を使うなど言語道断だったらしい)、郷党の貶議を受けた(郷党による人物評は昇進や降格・罷免に非常に大きな影響力があり、本によっては追放とするものもある)。 蜀が滅びると、それに座して数年無為の日々を送る。 司空の張華(この段階では、張華は司空ではない)は陳寿の才を高くかっており、処罰を受けてから時間がたっていなかったけれども、調べた結果罪にあたらずとして(?『壽、嫌(うたがい)遠(ひさし)からずと雖も、情(事情)を原(たず)ね、貶廢(へんはい)に至らざるを以って』と読んでみた。)、孝廉として推挙した。佐著作郎に除され、出でて陽平令を補佐した。 【勘考:「平陽侯相」と作るに当たる。華陽國志はまさに「平陽侯相」に作る】 蜀相諸葛亮集を撰じ、これを奏上した。著作郎・領本郡中正に除された。(領○○は、上位の役職者が下位の役職を兼任することを示す。この場合、六品の著作郎である陳寿が八品の中正を兼任している。) 魏呉蜀三國志、凡そ六十五篇を撰じた。当時の人は、『叙事に善く良史の才あり』と称えた。夏侯湛はこのとき魏書を著していたが、陳寿の三国志を見て、自分の書を壊して書くのを止めてしまった。張華は三国志を非常に高く評価し、陳寿に『次は晋書をまかせたい』と言った。当時の評価はこのように高いものであった。

一方、あるものは次のように言っている。 丁儀、丁[广<異](ていい、または、ていよく)は魏代に盛名を馳せていたが、陳寿がその子(子孫?)に「賄賂をよこせばいい伝を立ててやる」といったが断ったので、その伝が立てられなかった。 また、陳寿の父は馬謖の参軍であり、馬謖が諸葛亮に誅殺されたおりに連座してコン刑(髪の毛を剃る刑罰)を受けた。また、(諸葛亮の子)諸葛瞻も陳寿を軽んじた。そのため、陳寿は諸葛亮の伝で、諸葛亮は将略に長じておらず応敵の才がないと書き、諸葛瞻はただ書が巧みなだけで、名がその実に過ぎている、と書いたのである。 ある者はこれを理由に陳寿を謗った。(?古田の読み下しを参考とした。)

※ 丁儀・丁[广<異]の兄弟は曹植擁立派であり、曹丕が帝位につくとすぐに粛正された。この時に丁一族は族滅されており陳寿の時代には子孫はいない。全くの作り話。諸葛亮については諸葛亮伝にある諸葛氏集上奏文を読めばこれが単なる誹謗であることはすぐに分かる。諸葛瞻についても陳寿は「書が巧みで記憶力が良い」と書いたのであり、これはほめ言葉ではあってもけなしている言葉ではない。「名がその実に過ぎている」と書いているのは事実だが、陳寿は「蜀の人々が諸葛亮を思慕するあまり、全ての良いことを諸葛瞻が行ったことと噂しあった」という文脈で出てくるのであり、これは諸葛瞻が無能だと言っているわけではなく、諸葛亮がいかに蜀の人々に慕われていたかを示す逸話と見るべきでしょう。

張華は陳寿を中書郎にしようとしたが、荀[冒力]がこれを嫌って陳寿を長広太守に任じた。陳寿は母親が高齢であることを理由に着任しなかった。 杜預が再び陳寿を帝に推薦し、御史治書に除された。 母の死にあたり、母が洛陽に葬ってほしいと遺言したのでそれに従ったが、故郷に埋葬しなかったことを理由に、ついに貶議を受けた。 かつて[言焦]周は陳寿を評して「学才によって成功し、不利益も被るだろうが不幸と言うわけでもない。深く慎むように」と言ったが、ここで二度目の廢辱(追放?)という事態になったのは、まさに[言焦]周の言葉どおりである。 数年後、太子中庶子となったが、拝命することはなかった。

元康七年に病のため六十五歳で死去。 梁州大中正尚書郎范[君頁]等は「昔漢の武帝は『司馬相如が重病なので、その書をすべて取らせよ』と詔し、使者がその遺された書を得て、封禅の事が伝えられ、天子はこれを異とされました。臣等が案じますに、故治書侍御史陳壽が三國志を撰しましたが、(三国志は)辭に勸誡が多く、得失が明らかで、風化に有益です。文艷は相如にしかずとはいえ、質直は之に勝っており、採録を垂れんことを願います。」と上表した。これにより河南尹、洛陽令に詔が下り、陳寿の家で其書が伝写された。陳寿は古國志五十篇、益都耆舊傳十篇などの文章を撰していて、(これらも)世に伝えられた。

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華陽國志陳寿伝

陳寿、字は承祚(しょうそ)、巴西郡安漢県の人である。若くして散騎常侍の[言焦]周に学び、尚書(書経)・(春秋)三伝を治め、史記・漢書に精通し、聰警(さとくて素早い)・敏識(素早く知る)、華麗な文をつづった。はじめは州命に応じ、衛將軍主簿・東觀祕書郎・散騎黄門侍郎を歴任。大同後(蜀平定後)、孝廉に察(えら)ばれ、本郡中正となる。

益部は建武より後、蜀郡の鄭伯邑・太尉趙彦信、及び、漢中の陳申伯・祝元靈・廣漢の王文表らは、皆、博學洽聞であり(?原文:皆以博學洽聞)、巴蜀耆舊傳を作った。陳寿は(これらが)不十分と思い、巴・漢を并せて撰し益部耆舊傳十篇を著した。散騎常侍の文立がその伝を帝に見せたところ、武帝(晋の武帝、司馬炎)はこれをよろこび、再び著作郎となった。 呉を平定した後、陳寿は三国の歴史を合わせて、魏・呉・蜀三書六十五篇を著し、三國志と号した。 又、古國志五十篇を著した。品藻(飾った文章)典雅にして、中書監の荀勗・中書令の張華は、漢書・史記には地方の記述が不十分であったために(?原文:以班固、史遷不足方)、これを高く評価した。 朝廷から外に出て平陽侯の相となった。張華は上表して、次に諸葛亮故事集二十四篇を作らせた。時に寿良(陳寿とともに羅憲によって晋に推挙された中の一人)もまた編纂したが、その故は非常に異なるものであった。 復た朝廷内に入って著作郎となった。 鎮南將軍の杜預が陳寿を散騎侍郎とするよう上表したが、詔は「先に蜀人の寿良をその任に当てたので、陳寿は侍御史とする。」であった。 官司論七篇を奉り、依據典故議所因革(?m(__)m)。又、釋諱・廣國論を奉った。 張華は中書郎を兼ねさせようと上表したが、陳寿の魏志には荀勗の気に入らない所があって、荀勗が陳寿を朝廷内に留まらせることを好まず、上表して陳寿を長廣太守にした。 繼母の遺令により葬に附さず、これにより譏(そしり)を受けた。 数年後、太子中庶子に除された。太子の轉徙(てんし)後は、再び散騎常侍を兼ねた。 惠帝は、司空の張華に「陳寿は本当に有能であり、長い間の兼務は不十分である(専任とすべきだ)。」と言った。張華は上表して陳寿を九卿に昇進させようとしたが、張華が争い(300年、趙王司馬倫の乱)に巻き込まれて殺されてしまい、忠臣・賢臣は斥けられてしまった。(その結果、)陳寿は(さらに昇進することなく)遂に洛下で死去した。 陳寿の官位と人望はその才能に不十分なものであって、当時の人はこれを不当なものであるとした。(原文の■は‘冤’らしい。)

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