Update 2004/10/06

纏向の初期古墳


箸中山古墳(伝箸墓、現大市墓)
纏向石塚古墳  纏向勝山古墳  纏向矢塚古墳  東田大塚古墳
ホケノ山古墳  茅原大墓古墳
纏向か纒向か?


箸中山古墳(伝箸墓、現大市墓)

箸中山古墳

全長280m。纏向の古墳群の中でも突出した規模を持つこの古墳は、三輪の神婚譚に出てくる倭迹迹日百襲姫の墓である箸墓であると伝えられ、「昼は人が造り、夜は神が造った」という説話が残っています。この倭迹迹日百襲姫は、天皇家の血筋とされているため陵墓に指定されており発掘が行われていません。それでも、墳丘の表面から採取された土器などから三世紀末か四世紀初頭の最初期の古墳であるとされていましたが、1995年に行われた北側の大池の改修に伴う発掘で布留0式の土器が採取され、これが確定したと発表されました。また、この時の発掘調査により前方部(宮内庁管理地の外側)に葺石があること、その外側に幅10mほどの溝(SM-01)とそのさらに外側に堰堤(SF-01)があることが確認されました。堰堤のさらに外側に人工的に作られた窪みSX-01があり、発掘担当者の寺沢氏はこれを墳丘築造のための土取り跡であると見ています。さらに、大池の北側(陪冢とされる小島のあるあたり)にかつての纏向川の流跡が見つかり、この時点では周濠の存在は否定的でした。

ところが、1998年の後円部南東の民家の改築に伴う発掘によりやはり幅10mほどの溝とその外側の堰堤が見つかり、また、2000年の前方部南側の調査でもやはり同様な“周濠状遺構”と『外堤と見られる地山面』が見つかっています。これらの結果から、この幅10mほどの溝が箸中山古墳の周濠であることがほぼ確定的となりました。この溝は、95年当時は箸中山古墳の規模の古墳の周濠としては狭過ぎるという理由で周濠とは考えられていなかった(調査慨報では、「考える余地はあろう」という程度の評価)わけですが、それは、大仙陵古墳のような後の時代の古墳を見過ぎているせいだといえましょう。これに私なりの評価をすれば、箸中山古墳は墳丘はこれまでにない規模まで巨大化したものの周濠は未発達のまま残された、すなわち、それだけ初源期の古墳であるといえます。これは、箸中山古墳の年代を考えるうえでの材料が一つ増えたことを意味し、この意味での大発見だと思います。この点は新聞発表では全く触れられていなかったようですが。ただ、2000年の調査では“周濠状遺構”の外側に北側同様に落ち込み状遺構が検出されており、報道によれば土取りあとの可能性がありまだ調査を要するとしながらも、最近の書籍では馬蹄形状の周濠が箸中山古墳のまわりを廻っているような図が書かれていることもあります。(本当だろうか!?)

1998年の調査で報道が熱心だったのは、布留0式土器がみつかり築造年代が布留0期(280年頃)であることが確定したというものでしたが、この事実自体は95年に解っていることであり目新しいものではありません。しかし、後円部からでたことで前方部と後円部がほぼ同時期に作られた可能性が高まったことは重要なことです。というのは、箸中山古墳を卑弥呼の墓であると思いたい方々の中に箸墓円墳説を唱え前方部は後で作られたと主張される方がおられるためです。この発見によって箸墓円墳説はかなり否定的になったと見ていいでしょう。また、2000年の調査でやはり周濠(状遺構)が確認されそこからも布留0式土器が出土したことから、築造当時から前方後円形であったことはほぼ疑う余地がなくなったと思われます

箸中山古墳は、この時期の古墳としては極めて巨大な古墳であり、一介の巫女である倭迹迹日百襲姫の墓としてはあまりに巨大過ぎます。この点からして、箸中山古墳は、日本書紀で“箸陵”とかかれている古墳であったとしても、箸墓(=倭迹迹日百襲姫の墓)ではないでしょう。同時期の他を圧倒する巨大さから考えて、当時の首長、それも、強力な指導力により倭人の国をまとめ上げた首長の墓と考える方が自然でしょう。純粋に考古学的に出された年代が卑弥呼の墓として不自然でなければこれを卑弥呼の墓とすることは吝かではありませんが、280年頃であるとすれば卑弥呼の後の台与(壱与)よりも一世代以上あとと考えるのが自然であり、卑弥呼・台与以後、倭国の体制固めを強力に押し進めていった、漢籍には記載されていない王の墓でしょう。日本書紀にあるように崇神天皇代に四道将軍の派遣されたことなどが史実とすれば、また史実でなくとも何がしかの史実を反映したものであれば、箸中山古墳を崇神天皇陵、ないしは、崇神天皇のモデルとなった人物の墓と考えてもいいのではないかと私は思っています。もちろん、日本書紀の記述が史実に基づかないものであるなら、ナナシノゴンベ王の墓でもかまいません。

考古学界では森浩一の提唱により天皇陵に“崇神天皇陵”あるいは“崇神天皇陵古墳”などのように人物名を冠することによるイメージの擦り込みを払拭することを目的として、現在の崇神陵なら行燈山古墳などという名称で呼ぶようになっています。この視点からは箸墓、あるいは箸墓古墳と言う名称は個人名でこそ無いものの“箸墓”は倭迹迹日百襲姫の個人墓の名前であるがゆえに使用をひかえたほうがよいのですが、現実にはなかなかそうはならず、箸墓、箸墓古墳という呼び方が未だ主流のようです。他の古墳がほぼすべて個人名が排除されている現状にもかかわらず、箸中山古墳だけが未だ個人墓の名称を引きずっているというのは、“箸墓”という名称に対する愛着、思い入れが学界・在野を問わずいかに強いかということを物語っているように思います。“愛着、思い入れ”が強ければ強いだけ、イメージが刷り込まれるおそれがあるということですから、改称に強い反対意見が出る古墳ほど、特に名称をかえたほうがよいのではないでしょうか。さもないと、画竜点睛を欠くということになりかねません。箸墓にかわる名称としては、その所在する“箸中”の地名から箸中山古墳が用いられています。不要な混乱を避けるため私もこの名称を用いていますが、私はこれでもまだ甘いと考えています。なぜなら、“箸中”という地名自体が倭迹迹日百襲姫の箸墓伝承に因んだ名前であると推定されるうえに、古代史に興味を持つものであれば、“箸”という漢字一文字で最初に思い浮かべるのが、箸墓伝承であろうと思われるからです。したがって、“箸”という漢字を用いるだけですぐに箸墓伝承がイメージされ、それは被葬者が女性であるというイメージに直結します。今のところ被葬者についてはなんの情報もないのですから、これは極めてよくない影響を与えます。できるなら、“箸”のつかない名前に改称していただきたいと強く切望する今日このごろです。

近年のその他の情報

纏向石塚古墳

纏向石塚古墳
右手奥は勝山古墳

1997年の調査の結果、三世紀初頭の最古の前方後円墳であり、全長も90mを越すと報道され注目されました。が、この古墳ほど年代に困る古墳はありません。1997年の調査の三世紀初頭という根拠は、墳丘の盛り土の中にあった土器は纏向1式という3世紀初頭とみなされているものがもっとも新しく、それ以降のものは全く含まれていないことです。石塚は纏向遺跡のほぼ中央にあり、周囲1kmほどの範囲に広く土器が分布しているので土をどこからか持ってきても年代が新しければ新しい土器が必ず入るはずだというのです。出土土器片およそ3600点のすべてが纏向1式以前であるとその量の多さも強調されます。一方、古墳の盛り土からは縄文時代の土器が出土することなども普通のことなので、この発表は墳丘内の土器で年代を決めたとして物議を醸したようです。1989年の第四次調査を担当した寺沢薫氏などは三世紀初頭という年代に否定的(否定的どころか『可能性は皆無と思っている』と書いているらしい[孫引き])で、第四次調査で周濠下層から布留0式がまとまって出土したことを根拠に庄内3という箸中山古墳よりもやや古い年代を与えています。考古学的には墳丘内の土器には古いものが入ることは常識であるため、年代を新しく見るほうが主流のようです。これは、3世紀初頭派の旗頭である石野博信氏が最近出版された自著(『邪馬台国と古墳』2002年4月刊 学生社)で書いていることなので確かでしょう。この新しい著書(といっても既発表の著作を寄せあつめて補筆・訂正した一粒で二度おいしいという本ですが)では石野氏はこれらの批判に対して、1)周濠底からは布留0だけでなく、纏向1(庄内0)〜纏向3(庄内3〜布留0)の土器が含まれている、2)石塚の周濠は須恵器が登場した頃の植物層で蓋をされるまでオープンであり、あとから新しい土器は入りうる、などの反論を載せています。また、桜井教育委員会の橋本輝彦氏は、石塚は纏向1式以前の土器を含む湿地層の上に新しい土砂の堆積することなく盛土が行われているので、築造は纏向1から大きくは下らないだろうとの見通しも述べています(『東アジアの古代文化』99号 大和書房)。このような方法論の見解の不一致に加え、土器形式の認定においても石野氏と寺沢氏では見解が異なっているようで、とにかく困ったことです。

三世紀初頭という築造年代については、しばしば周濠から出土した木片の年輪年代が根拠であり、年輪年代法によって石塚の年代が決定されたかのように書かれることがままあります。また、それに対して青筋立てて怒っているかたもネット上の掲示板ではしばしば見かけます。年輪年代がらみの文書ではしばしばそう取られてもしかたがないような書かれ方がされていますが、これについては当の石野氏本人が明確に否定されておられます(前掲書)。ましてや年輪年代によって石塚の築造年代が決定されたということもありません。築造年代は今でも結論は出ていませんし、むしろ庄内3(三世紀中ごろ〜後半)が主流のようです。最近この誤解が蔓延している気配がありますが、これは明確に否定しておかなければならないでしょう。

年代以外にこれまでの調査でわかっていることは次のとおりです。

墳形は東南方向に前方部を向けた前方後円形で、全長93m。葺石は認められない。後円部は最大幅部が中心よりやや西側によった横長の扁楕円形で、最大幅64m、短径62m。墳丘上は大戦中の高射砲陣地になったこともあって著しい削平を受けており、主体部はすでに失われたと見られる。残存高で4〜5mであるが、原形は三段築成、高さ9mの墳丘と推定される。前方部はバチ型に開き、くびれ部の幅15〜16m、前面幅32m。前方部長33m。前方部高は後円部高に比して著しく低く3m程度。現在は水田下に完全に埋もれている。全体を幅18〜24mの周濠がめぐっている。前方部周辺がやや突出し、くびれ部付近では最大38m前後まで広がり、全体は円ないしは円に近い楕円形。前方部前面では周濠幅は5mと狭く、区画溝の名残を残していると見られる。周濠からは弧文円板、鳥形木製品、鋤・鍬、柱等の多数の木製品が出土。くびれ部南側の周濠内では、径約20cm、長さ2.6mのヒノキ材の柱が立った状態で検出されている。

纏向勝山古墳

纏向勝山古墳
今はもっときれいに整備されているはずです。

1997年以降の四度にわたる調査(溜池築堤の老朽化に伴う改修事業)により多くのことが判明しました。特に第二次、第四次調査では墳丘裾にトレンチが入り、後円部径がおよそ65mであること、くびれ部が確認されたことで墳形がこれまで言われていたような纏向型ではなく前方部が東側に直線状に伸びた柄鏡型に近いこと、全長は未だ明らかではないが、現在の地形も勘案して110m以上と見られることなどが判明しました。年代を推定する資料としては、第四次調査で周濠底から30〜50cm程度浮いた状態で布留0式とされる土器が出土しており、布留0よりはある程度築造がさかのぼることが確認されています。また、この布留0式と共伴した一点の木材の伐採年がおそらくは200年ごろでどんなに遅くとも210年ごろという年輪年代法の結果が出たため世間を騒がせたことは記憶に新しいでしょう。ただ、布留0式土器が200年ごろの木材と共伴するという事実をストレートに解釈してしまうと布留0が三世紀初頭というとんでもないことになる(布留0併行期の古墳から三角縁神獣鏡が出土しているため、布留0は238年を遡らない)のでこの年輪年代の結果の採用には慎重な対応が求められるでしょう。また、“うわさ”によると周濠底から庄内2まで遡る土器が出土しているらしいのですが、橿原考古学研究所の第四次調査の際の発表ではそのことに一切触れられておらず、真偽は不明です。石野博信氏の前掲書によると、橿原考古学研究所の速報展図録(おそらく第一次調査)には『(勝山古墳の)濠は、庄内の古い段階には既に埋没が始まっている』とあるそうです。これが本当なら、石塚が庄内3であった場合、勝山古墳は纏向最古ということになりそうです。布留0が周濠底から30〜50cm浮いた状態で出土していることからすると、あり得ないことではなさそうです。石塚と同じく大戦中に高射砲陣地として利用されており、墳頂の削平が著しく主体部が遺存している望みは薄そうです。

纏向矢塚古墳

纏向矢塚古墳

前方部が南西に向いた前方後円形で全長96m程度と推定されていますが、周濠の一部が調査されているだけなので詳細は不明です。調査は1971年におこなわれ、図から見て現在の纒向小学校(ここは桜井市のホームページの記載に従いました)西側の道路の真下が調査区と思われます。この調査では周濠からほぼ完形の庄内3式の土器が多数まとまって出土しました。

東田(ひがいだ)大塚古墳

東田大塚古墳

南西に前方部を向けた前方後円形で、全長およそ96m、後円部径64〜65mと推定されています。農道の拡張工事に伴い調査が行われ、幅21mの周濠が検出されました。周濠からは周濠底から20〜25cm程度浮いた状態で布留0式の土器が出土しています。周濠外側では、西部瀬戸内系の大型壷を使った壷棺が出土しています。この壷棺のふたには東海系のパレス壷の底部が使われていました。壷棺の墓壙の下層には土坑と溝が存在し、そこから庄内3の新しい時期の土器が出土しました。東田大塚古墳周辺にはシルト層が堆積しており、東田大塚の周濠はこのシルト層を堀込んで作られています。一方、壷棺下の土坑と溝はこのシルト層の下から出てきましたので、これにより、築造年代は庄内3の新しい段階と布留0の間に絞りこまれました。また、周濠からは他から流れてきた自然木や船型木製品が出土しており、布留0期に洪水のあったことがわかるそうです。また、東南80mの地点で組帯文を刻んだ石(組帯文石)が見つかっているそうです。

ホケノ山古墳

ホケノ山古墳
右奥に箸中山古墳が見えています

1999年から2000年にかけて主体部の調査(第四次調査)が行われ、他に類例のない『石囲い木槨』が見つかったとして話題を集めました。概報によれば、2000年4月の現地説明会では12000人を集めたということです(現説レポート)。ホケノ山古墳は箸中山古墳東方の山裾、河岸段丘上に位置し、全長約80m、後円部径60m、前方部長20mの前方後円形で、葺石を持ちます。前方部は未発達で後円部に比して低いことが特徴で、前方部の一部は纏向川の氾濫によって一部削られた痕跡があるようです。前方部裾にはわざわざ葺石を外したうえで木棺墓が追葬されていました。この木棺には初瀬川の粘土を使って纏向で製作された瀬戸内系の大型壷が備えられていました。木棺墓の年代は出土土器類から布留0新相から布留1と見られます。後円部の残存高は周濠底から7.7m。現状の石垣の状態から三段築成とも言われていましたが、調査で確認されたのは二段です。まわりを幅10〜17mのホリがめぐりますが、深さが20〜30cm程度しかなく、水を湛えるものというようよりは尾根と墳丘を切断するという意味合いが強かったものとみられています。この意味で、ここでは周壕と書きます。周壕からは布留0式と見られる土器類が外側から投棄されたような状態で見つかっており、これにより築造の下限が布留0に設定されます。ただ、出土状況については、東アジアの古代文化98号では『最上層に入っている』とされていますが、調査概報では下層・中層・上層の土器がいずれも布留0段階となっています(両者とも文責は桜井教育委員会・橋本輝彦氏)。出土品の分析が進んだ結果判断が変更されたものと考えたいと思います。

『石囲い木槨』は長さ10m、幅6m、深さ約1.1mの墓壙内に平板石ではなく丸い河原石を積んで築かれており、石槨は長さ約6.7m、幅2.7m。いわゆる“古墳”に見られる竪穴式石室に比して幅が著しく広いことが特徴です。残存高はおよそ1mですが本来は1.5m程度であったと推定されています。床に残された痕跡と柱穴からみて木製の板壁と天井があったらしく、石造りの部屋の中にさらに木の部屋があるということで『石囲い木槨』の名がつけられています。槨内を埋めている石の量からみて、天井の上にはさらに石が積まれて長方形の壇が築かれ、そのまわりに二重口縁の加飾壷が置かれていたようです。『石囲い木槨』内部の床には礫が敷かれ(礫床)、その上に長さ5.3m、幅1.3mのコウヤマキ製船形木棺が安置されていました。

『石囲い木槨』から出土した土器は上に出た二重口縁の加飾壷と小型丸底土器で、いずれも槨内に置かれたものではなく、天井が崩れた際に上から落ちこんだもののようです。前者の加飾壷は庄内式と判定され、これにより3世紀中ごろの年代が与えられました。小型丸底土器については『布留式土器の指標である小型精製土器に酷似する』と記されており、常識的には加飾壷との年代差を見るのが普通のようです。前方部裾には布留0新相〜布留1と見られる木棺墓があるので、この埋葬の際に墳丘上に供えられたものかもしれません。

副葬品類としては、鏡、銅鏃・鉄属、刀剣類、工具などの鉄器類、大量の朱が出土しています。鏡は話題を集めた画文帯神獣鏡のほか、半肉彫り神獣鏡片、内行花文鏡片など鏡片23点が出土しています。鏡片は少量の割には接合する可能性が高いことから、副葬の段階で既に鏡片になっていたものがさらに割れたものと概報では推測しています。画文帯神獣鏡は半円方格帯を持つ同向式で、径19.1mm。良質な白銅鏡で鋳あがりも良好、非常に見事な鏡です。このほか、二面の画文帯神獣鏡と一面の内行花文鏡がホケノ山古墳出土と伝えられています。鉄属・銅鏃は柳葉式といわれるものが主で、銅鏃73点以上、鉄属75点以上。刀剣類は、素環頭大刀1点、鉄刀一点、鉄剣5点が確認されています。工具類は釶・鑿ほか、[金産]形鉄製品、「へ」の字形鉄製品など。

『石囲い木槨』の西側には6世紀末頃と見られる大型の横穴式石室がありますが、これについては割愛します。

茅原大墓古墳(茅原大塚古墳)

茅原大墓古墳

国指定史跡に指定されているが、明らかに時代が下る定型化した後の帆立貝型前方後円墳である。全長も66mと小さい。渋谷向山古墳(現景行陵)と同時期に比定されている。埋葬施設など詳細不明。墳丘は葺石で被われ円筒埴輪が樹立していたらしい。丘陵部に作られているため、墳丘に登ると見晴らしが良く、大和三山や箸中山古墳を望むことができる。ホケノ山古墳の東南に位置する。

茅原大墓古墳からの展望
大和三山 箸中山古墳

纏向か纒向か?

この違いがわかるでしょうか。フォントが小さいと気がつかないかもしれません。私も今まで気がつきませんでした。「纏向」の一字目が[糸厂<(里/ル/土)][糸厂<(黒/土]かです。かつては[糸厂<(里/ル/土)]であったようですが、最近は[糸厂<(黒/土]で統一されつつあるです。しかし、藤堂・漢和大辞典によりますと[糸厂<(黒/土][糸厂<(里/ル/土)]の異体字(俗字)であるということと、手元の辞典類がすべて[糸厂<(里/ル/土)]向になっておりましたので、最近の流れに棹さすかもしれませんが辞書に敬意を表して[糸厂<(里/ル/土)]に統一しました。


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