
Update 2003/10/31
何処にでも書いてあることですか、お約束なので一応書いておきますと、実は魏志倭人伝という書物はありません。通例、魏志倭人伝と呼ばれているものは、西晋の時代に陳寿という人物によって書かれた三国志という正史(中国の王朝が正当な歴史書と認めた書物)の中にあります。三国志といっても、関羽や張飛が戦い、超雲子龍が野を駆ける三国志とは違います。こちらは三国志演義という別物です。本物の三国志は、起こったことだけを無味乾燥に書き連ねた本です。この三国志は、魏書三十巻・呉書二十巻・蜀書十五巻の三書全六十五巻からなり、280年代の前半に書かれたと考えられています。三国志は当時から高く評価されており、当時の人は『敍事に善く、良史の才有り』と稱えたといわれています。また、陳寿の後ろ楯になっていた張華は大変喜んで、『次は晋書をまかせたい』と言ったとか、その当時、魏書を執筆していた著名な文人の夏候湛(243−91)は、陳寿の書を見て自分の書を壊して書くのをやめてしまったなどの逸話が残されています。陳寿の死後、梁州大中正尚書郎范[君頁]らは、上表文の中で『辭に勸誡多く得失は明らかにして風化に益有り。文艷は相如(司馬相如)にしかずといえども、質直は之に過ぐ』という最大級の賛辞を三国志に送っています。この上表文の結果、河南尹に詔が下り、それにより洛陽令が陳寿の家に赴き、三国志は伝写されることになります。おそらく後の世に伝わったのはこのときに伝写されたものでしょう。よく言われる陳寿の自筆本などが出てくる可能性はほとんどないのではないでしょうか。
三国志については、解説している本によって「この三書は元々別のものであったが、北宋時代に合本出版されて以来、まとめて「三国志」と呼ばれる」というものと、「元々一つのものであったが、後の時代には別々に伝えられた。その後、宋代にまた一つにされた。」というものがあり、どちらが本当か分かりませんが、三国志は魏を正統としているために呉書・蜀書には帝紀を欠いており、この点から後者のほうが妥当であろうと思われます。この三書の内の魏書の最後(巻三十)、烏丸鮮卑東夷伝と呼ばれる部分に倭人に関する記述があります。これを魏志倭人伝と呼んでいるわけです。従って、魏志倭人伝の正式(?)名は、“三国志魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭人”になります。これなら魏書倭人伝になりそうですが、ややこしいことに王沈という人が書いた魏書という名の別の書物があるので、これとの混同を避けるために通常は三国志魏書を『魏志』と呼び、その東夷伝倭人の条は『魏志倭人伝』とされます。いつ頃から魏志と呼ばれているかは定かではありませんが、隋書(636年成立)の中で既に『則魏志所謂邪馬臺者也』と書かれていますから、唐の始め頃には既にそう呼ばれていたようです。
このような史書である魏志の最後に、なぜ倭人伝が書かれたのか、正確には倭人伝だけではなく東夷伝全体ですが、その理由は陳寿自身が序文で述べています。中国では、古来“礼”が非常に重要視されており、礼あるがゆえに中国は周囲の夷蛮とは異なる聖徳の国であると考えられていました。礼こそが中華思想の根本なわけです。しかし、時によって国が乱れ礼が失われてしまうこともありえます。陳寿らの時代にあっては黄巾の乱で代表されるような後漢末の混乱が記憶に新しかったでしょうし、古くは、戦国時代、秦末の混乱が想起されることでしょう。このような混乱で中国に礼が失われてしまった場合でも、夷蛮とはいえ王化を受けた国々には礼が残っている場合も考えられます。だから夷蛮の国々でこれまでの史書にみえない国々を選んで、その詳細を陳寿は列記したのです。この部分の原文は次のようになっています。
雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中國失禮、求之四夷、猶信。
故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。夷狄の邦といえども、俎豆の象存り。中國礼を失し、これを四夷に求む、猶お信あり。故に其國を撰次し、其同異を列し、以って前史の未だ備わざる所を接ぐ。
魏志倭人伝を読んでいく場合、このような目的で書かれたものであることを念頭に置く必要があるでしょう。強調しておきますが、陳寿は邪馬台国探しのために倭人伝を設けたのではありません。また、倭人伝を書くために東夷伝を置いたのでもありません。ときどき、『邪馬台国中心史観』とでも言いますか、自説を通すために他の部分に無理を強いるようなものを目にしますが、本末転倒というものです。とかく我々は邪馬台国、あるいは、倭人の国しか目が向かなくなる傾向がありますが、自戒の意味も込めて、もっと大きな全体の枠組の中で魏志倭人伝を読んでいかなければならない、と書いておきたいと思います。(自分で書きながら、自分の耳が痛い・・・)
魏志に先行する史書としては、上に上げた王沈『魏書』や、魚豢という人の書いた『魏略』というものがあります。王沈の魏書は260年代前半に書かれたもので、内容的には大変すぐれた部分もあったようですが、なかには筆を曲げた部分もあったようで、裴松之は歴史家としての姿勢を厳しく指弾しています。魏略の著者である魚豢は魏郎中であったようですが、詳しいことは伝わっていません。魏略と言う本は既に散逸してしまってその全貌を知ることはできませんが、逸文(他の書物の中に「魏略にいわく・・・」として引用されている部分のことです)として、いくらかその内容をうかがい知ることができます。魏志倭人伝と魏略逸文を比べてみると非常に良く似ていて、かつては魏志倭人伝は魏略を元にして書かれたといわれていました。それというのも、「史通」という中国の書物の中に『魏時、京兆魚豢私撰魏略』とあるので、魏代の撰であり三国志に先行すると考えられていたからです。しかし、その後、逸文の中には魏の最後の帝である陳留王奐の時代のことがかかれており、また、魏略は司馬昭を文王と記しているが、これは咸煕二年(=晋の泰始元年)に送られた諡号であるので魏代の成立ではありえない事などが判明し、現在では、成立年代は三国志とほとんど変わらない太康年間(280-290)かその直前ぐらいであると考えられています。こうなると、果たして三国志の倭人伝が魏略によるものかどうかはいささか怪しくなってくるわけで、三国志と魏略はむしろ兄弟のような関係で、両者が共通して参考にした別の史書があるのではないかとする説もあります。この“別の史書”の第一の候補が王沈魏書です。三国志は上に書いたように『質直は之に過ぐ』、つまり、簡潔で非常によろしいというわけですが、簡潔過ぎる嫌いもあります。そのため、後に裴松之という人がその他の諸本をもとに膨大な量の注釈を付けており、現在はその注釈付きの三国志のみが現存しています。裴松之が膨大な注を付けているにもかかわらず、魏志倭人伝には王沈魏書からの注釈が一切ありません。このことから、王沈魏書には倭人伝はなかったのだろうと推測されていました。一方、それに対し、魏略と魏志倭人伝の関係が親子の関係であるという考えが怪しくなってきたこともあり、魏志倭人伝は王沈魏書の倭人伝そのものであるから注釈がないのだという考えも提出されているようです。こういうわけで、今のところ、魏志倭人伝の出所というものは揺れ動いているようです。
このような事情で魏志倭人伝の成立過程ははっきりとしませんが、魏略と魏志倭人伝が親子の関係であれば魏志倭人伝は魏略によっていることになりますし、また、兄弟であれば、記述が非常に似ていることから共通の土台となった先行史書があることになります。従って、ともかく何か先行史書があり、それの記述に(佐)著作郎であった陳寿が独自に入手できた外交記録などを加えて魏志の倭人伝の形にまとめられたと思われます。従って、この意味で、魏志倭人伝のほとんどの部分は既に二次資料でしかありません。しかしながら、他の諸本は全てが散逸してしまい逸文としてわずかに知られるのみです。このため、二次資料ではありますが魏志倭人伝に注目が集まります。しかし、その理解は困難を窮めます。まず、陳寿の編集時の問題があります。陳寿は史料を尊重するという編集態度であったようで、参考とした諸本間の矛盾がそのまま三国志に現れています。また、成立過程が曖昧なため、いつごろの情報でかかれているのかがわかりません。さらに、最初にまとめられた段階では、複数の資料を繋ぎ合わされたと考えられることから、古い情報から新しい情報までが混在している可能性もあります。例えば、晋書、梁書などの史書を見れば分かることですが、中国の史書では、新しい情報がない場合は右から左へ古い情報がそのまま書き写されていくということがあります。魏志倭人伝の場合も同じことが考えられるのです。現実問題としては、個々の部分についてこれは古い、これは新しいと切り分けていくことは不可能です。魏志倭人伝を読む場合、このような史料上の制約というものも頭の隅においておく必要があるでしょう。また、陳寿の書いた原本はもとより、古い時代の写本も既に失われてしまっているため誤写の問題があります。現在に伝わっているのは、ずっと後代の12世紀の宋の時代に成立した刊本で、当然のごとく誤字脱字があります。紹熙刊本に至っては、次の皇帝の諱をさけ、「拡」、「廓」、「郭」の字が書き変えられているそうです(佐伯有清『魏志倭人伝を読む 上』)。
魏志倭人伝に書かれたことが全て正しいと思っている方はほとんどおられないと思います。魏志倭人伝には誤りがある。これが共通の認識です。ただし、何処を誤りとするかで議論百出となります。では、何処で誤りが入ったのでしょう。上の成立過程を見れば、可能性はたくさんあります。まず第一に、実際に倭に渡航した人物の勘違い・誤った理解があるでしょう。通訳を介しても意思の疎通が完全でなかったことは想像にかたくありません。これは仕方のないことでしょう。最初に倭人伝をまとめた人物が、倭へ渡航した人物に直接話を聞いたとは到底思えません。提出された断片的な報告書か何かを参考にしながら書いたのではないでしょうか。ここでも誤りが混入されたことでしょうし、陳寿の誤解もあるでしょう。上述のとおり、諸本間の矛盾による難解な箇所もあります。これに、伝写時の誤字脱字が加わります。現存する版本が原本を写したという保証もなく、誤字脱字が何段階にも積み重ねられた可能性もあります。これはもう、どうしようもありません。邪馬台国研究総覧の中に、まさに“我が意を得たり”という三品彰英の文がありましたので、下に引用しておきます
異国人の見聞記事には、少なくない誤謬も含まれているであろうし、また『魏志』撰者の原資料に対する誤解が加わっていることも確かであり、その上古書の伝写の間には誤写の生ずることも免れえないであろう。このように幾重にも重なった誤謬を訂正するのは、研究上重要な仕事であるけれども、あくまでそれは異本の校合による実証を得てのことでなければならない。単に誤解だという理由から軽々しく字句の訂正をあえてし、あるいは自己の主観による解釈をもってその史料価値を云々するような、勝手な訂正が加わる度合が多ければ多いほど、その論考の客観性は失われ、それだけ多くの反対意見が対等の権利をもって現れてくるのは、論者自身の招くところである。
赤文字にしたところはまさに至言でありまして、多くの人が手前勝手な解釈を繰り広げたあげく、『多くの反対意見が対等の権利をもって現れて』きたのが百家争鳴の現在の邪馬台国論争の姿でありましょう。これは現在も際限なく拡大再生産されているように見受けられます。こんなわけで、邪馬台国論争で最も盛んな位置論争やいわゆる壹臺論争はこのサイトでは扱いません。
三品の邪馬台国研究総覧は次の言葉をもって締めくくられますが、これもまた至言であると思いますので、本稿もこの文をもって終わりたいと思います。昭和44年に書かれたものですが、今もまだその力を失ってはおりません。
邪馬台問題が百論いでて、いよいよ帰着するところを知らないということは、それらが史料の限界を越えての議論であるからである。このような盲評は、歴史家たらんと願う私自らに対する自戒でもある。私が試み、今後努めようとするのは「資料の限界」の設定である。脚下照顧、この四字が総覧の結語である。
字名は承祚、蜀(巴西郡安漢県)の人。父親は馬謖の軍の作戦参謀で、『泣いて馬謖を斬る』の故事で知られる街亭での敗戦の際に、馬謖に連座して刑を受ける。
若いころから[言焦]周に師事した。経史・文学に通じ、蜀に使え衛将軍主簿・東観秘書郎・散騎黄門侍郎を歴任。(華陽国志陳寿伝。晋書陳寿伝は觀閣令史とのみ記す。)蜀の亡んだ後、巴西郡中正となる。陳寿は権力におもねらない人であったようで、晋書陳寿伝は、悪名高い宦官の黄皓が権力をほしいままにしているときに陳寿だけがこれに屈せずしばしば懲罰を受けたと伝えている。
西晋代に張華の目に止まり彼の推薦で晋に使え、佐著作郎・平陽候相・著作郎・治書侍御史を歴任。泰始年間には、『諸葛亮集』を奏上し高い評価を受ける。280年代前半に三国志を完成。その後浮き沈みを繰り返し、元康元年(297年)65歳で病没。
[言焦]周は陳寿に「学問により名を成すだろうが不利益も被るだろう。不幸とは言えないが慎みなさい。」と言ったと伝えられるが、まさに陳寿はこのとおりの人生を送ったようである。
※注 この略伝は基本的には一般に流布しているものです。私家版は『雑論』にあります。また、陳寿伝の原文と例によって当てにならない現代語訳は『陳寿伝』をご覧ください。