Update 2002/12/24

三国志魏書 東夷伝



[][夫餘][高句麗][東沃沮][[手邑]婁][[シ歳]][(馬韓辰韓弁辰)][倭人][][戻る]


書(書経)は、「東は海に漸み(すすみ)、西は流沙に被(おお)わる。」と称す。その九服之制、得て言うべし。然に、荒域(文化はつる地)の外、重譯して至る。足跡車軌の及ぶ所にあらずして、いまだその國俗殊方知るものあらず。虞(舜の時代)より周にいたり、西戎に白環の獻あり、東夷に肅愼の貢あり、皆曠世にして至り、その遐遠なるや此のごとし。漢氏に及び張騫を遣わし西域に使し、河源(黄河の源流)を窮め、諸國を経歴し、遂に都護を置き以ってこれを総領し、然る後、西域の事具存し、故に史官詳載するを得る。魏興り、西域ことごとく至ること能ずと雖も、その大國龜茲・于[ウ/眞]・康居・烏孫・疎勒・月氏・[善β]善・車師の屬、朝貢を奉ぜざる歳なきこと、ほぼ漢氏の故事の如し。しかして公孫淵の父祖三世遼東に有り、天子其絶域となし、海外の事を以って委ね、遂に東夷隔斷し、諸夏(中国。封建時代、中国は複数の国から成り立っていたことから、このように呼ぶ。)に通ずるを得ず。景初中、大いに師旅を興し、淵を誅し、又軍を潜ませ海に浮かび、樂浪・帶方の郡を収め、しかして後海表謐然、東夷屈服す。其後高句麗背叛し、又、偏師を遣わし到討し、窮追すること極遠にして、烏丸・骨都を踰(こ)え、沃沮を過ぎ、肅愼の庭を踐(ふ)み、東に大海を臨む。長老「異面の人、日の出所の近くに有り」と説く。遂に諸國を周觀し、其法俗、小大區別を采る。各に名號あり、詳紀するを得る。夷狄の邦といえども、俎豆の象存り。中國礼を失し、これを四夷に求む、猶お信あり(春秋左氏伝昭公十七年の孔子の言にもとづく。「我これを聞く、天子、官を失すれば学は四夷に在りと、猶お信なり。」ちくま学芸文庫は、次のように訳す。『これらは夷狄の国々であるが、祭祀の儀礼が伝わっている。中国に礼が失われた時、四方の異民族の間にその礼を求めるということも、実際にありえよう。』)。故に其國を撰次し、其同異を列し、以って前史の未だ備わざる所を接ぐ。


夫餘

夫餘は長城の北にあり、玄菟を去ること千里、南は高句麗と、東は[手邑]婁と、西は鮮卑と接し、北に弱水(黒龍江か?)あり、方二千里ばかり。 戸八萬、その民土着(着は著の略字)し、宮室・倉庫・牢獄あり。山陵・廣澤多く、東夷の域において最平敞なり。 土地、五穀に宜しく、五果を生ぜず。その人ソウ大、性は彊勇謹厚にして、寇鈔せず。 国に君王あり、皆六畜を以って官を名づけ、馬加・牛加・豬加・狗加・大使(汲古閣本は「犬」に作る)・大使者・使者あり。(大使、大使者、使者のまぎらわしい三つがあると言うのは、個人的には?) 邑落に豪民あり、下戸と名づくを皆奴僕となす。 諸加は主に四出道(王の所在地から四方にのびる道)に別れ、大は主に数千家、小は数百家。 食飲は皆俎豆、會同して、拜爵(杯を受ける)・洗爵(返杯する)・揖讓(謙虚で温和な動作)升降(立ったり座ったりする)す。

殷正月(殷暦の正月で陰暦十二月)を以って天を祭り、国中大いに会し、連日飲食・歌舞す。名を迎鼓といい、この時に刑獄を断ち(ちくま学芸文庫には「判決を行う」とある)、囚徒を解く。 国に在りては、衣は白を尚(たっと)び、白布の大袂(袖の大きい)の袍(外套)・袴(はかま)、革鞜を履く。国を出ずれば則ち[糸曽](絹織物)・繍(縫い取りのある布)・錦(にしき)・ケイ(毛織物)を尚(たっと)ぶ。大人は狐狸・[犬穴]白・黒貂の裘(かわごろも)を加え、金銀を以って帽を飾る。 訳人の辞を伝うるに、皆跪き、手を地に據して竊語す(小声で話す)。 刑を用いる事厳急にして、殺人は死、その家人は没して奴婢となす。竊盜一に十二を責める。 男女淫ら、婦人妬なるは、皆これを殺す。尤も妬なるを憎み、すでに殺すや、この尸は国南の山上(に置き)、腐乱に至らしむ。女家(この屍を)得んと欲せば、牛馬を輸(いた)しすなわちこれを与う。 兄死して嫂を妻とするは、匈奴と同じ俗なり。その国、牲(家畜)を養うに善く、名馬・赤玉・貂[犬穴]・美珠を出す。珠の大なるは、酸棗(やまなつめ)の如し。

弓矢刀矛を以って兵(武器)となし、家々自ら鎧仗(鎧と武器)あり。国の耆老は自ら古の亡人と説く。城柵を皆員(まる)く作り、(中国の)牢獄に似る。道を行くに昼夜無く老幼皆歌し、日を通じて声絶えず。軍事あるにまた天を祭り、牛を殺して蹄を観て、以って吉凶を占い、蹄の解するは凶となし、合うは吉となす。敵あらば、諸加自ら戦い、下戸はこの飲食の糧を倶擔す。その死すや、夏月は皆冰(氷の異字体)を用いる。人を殺して殉葬し、多きは百数。厚く葬り、槨あり棺なし。【魏略にいわく、その俗喪に停すること五月、久しきを以って栄となす。その亡者を祭るに、生あり熟あり。喪主は速やかなるを欲せずして他人これを強(し)い、常に諍引しこれを以って節となす。その喪に居すに、男女は皆純白、婦人は布面衣(布製のベール)を着し、環珮(腰に付ける環状の玉)を去らすこと、大体中国と相彷彿(互いによく似ている)なり。】

夫餘はもと玄菟に属す。漢末、公孫度海東に雄を張り、外夷威服し、夫餘王尉仇台さらに遼東に属す。句麗・鮮卑強なる時、夫餘二慮の間にあるを以って、度、宗女を以って妻となす。尉仇台死し、簡位居立つ。嫡子無く、[薛/子]子(妾腹の子)麻余あり。位居死し、諸加麻余を共立す。牛加兄子、名を位宮というを大使となし、財軽くし善きを施し、國人これに附く。歳歳使を遣わし京都(洛陽)に詣(いた)り獻を貢ず。

正始中、幽州刺史・毋丘儉句麗を討つに、玄菟太守王[斤頁]を使わし夫餘に詣る。位宮大加を遣わし効に迎え、軍糧を供する。季父牛加二心あり。位宮、季父父子を殺し、財物を籍没し、使を遣わし簿斂を官に送る。旧夫餘の俗、水旱調わず、五穀熟さずは、すなわち王に咎を帰し、あるいは易に当たると言い、あるいは殺に応ずという。麻余死し、その子依慮年六歳を立て、以って王となす。

漢の時、夫餘王の葬に玉匣を用い、常に(玉匣を)あらかじめ(?)玄菟郡に付し、王死すや則ち迎取し以って葬る。公孫淵誅に伏し、玄菟の庫に猶玉匣一具あり。今夫餘の庫に玉璧・珪・讚数代の物あり、伝世し以って宝となし、耆老先代の賜う所なりという。【魏略にいわく、その国殷富(富み栄える)にして、先世以来、未だ破壊を嘗めず。】その印文[シ歳]王の印と言う。国に名を[シ歳]城という故城あり。蓋し本(もと)[シ歳]貊の地なり。しかして夫餘王その中にあり、自ら亡人(亡命人)という、そもそも以って有るなり(?)。(夫餘が、自らを亡命者というのも、理由のないことではない。)

【魏略に曰く、旧志にまた言う、その北方に高離の国あり、その王侍碑に身あり(妊娠)。王これ(子供)を殺さんと欲す。碑伝う、[奚隹]子の下に来たるごとき気あり、我故に身あり。後子生ず。王これを溷中(豚小屋か?)に損すも、豬は喙(くちばし)を以ってこれを嘘く(静かに息を吐いて暖めた)。徙(うつ)して馬閑(うまごや)に至るや、馬は気を以ってこれを嘘き(息で暖め)、死せず。王以って天の子為るを疑う。すなわちその母にこれを収畜せしむ。名を東明という。常に馬を牧せしむ。東明射を善くす。王その国を奪うを恐れ、これを殺さんと欲す。東明走り、南、施掩水(場所不明)に至る。弓を以って水を撃つ。魚鼈(魚とスッポン)浮かびて橋となし、東明渡るを得る。魚鼈すなわち解散し、追兵渡るを得ず。東明よりて都し夫餘の地の王となる。】


高句麗

高句麗は遼東の東千里にあり、南は朝鮮・[シ歳]貊と、東は沃沮と、北は夫餘と接す。丸都の下に都し、方二千里ばかり、戸三万。大山・渓谷多く、原沢無し。山谷に隨い以って居をなし、澗水を食す。良田なく、力(つとめ)て佃(田)を作るといえども、以って口腹を実すに足りず。その俗、食をひかえ、好んで宮室を治め、居所の左右に大屋を立て、鬼神を祭り、また霊星・社稷を祀る。その人性凶急にして、喜びて寇鈔す。その国に王あり、その官に、相加・對盧・沛者・古雛加・主簿・優台丞・使者・[白/十]衣先人あり、尊卑各等級あり。東夷の旧語は以って夫餘の別種となし、言語・諸事、多く夫餘と同じなれど、その性気・衣服に異あり。本五族あり。涓奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部あり。本(もと)、涓奴部を王となすも、稍(しだいに)微弱となり、今桂婁部これに代る。漢の時鼓吹の技人を賜い、常に玄菟郡より朝服衣[巾責]を受け、高句麗令その名籍を主(つかさど)る。後、稍(やや)驕恣となり、また郡に詣らず、東界に小城を築き、朝服衣をその中に置き、歳時来りこれをとる、今胡なおこの城を名づけて[巾責][シ婁]となす。溝[シ婁]は、句麗の城の名なり。その官を置くに、對盧あるはすなわち沛者を置かず、沛者あるはすなわち對盧を置かず。王の宗族、その大加みな古雛加を称す。涓奴部は本国主、今は王をなさずといえども、統に適(かな)う大人は古雛加の称を得、また宗廟を立て、霊星・社稷を祠るを得る。絶奴部は世王と婚し、古雛の号を加ふ。(『加古雛之號』。ちくま学芸文庫は古雛加とする。)諸大加また自ら使者・[白/十]衣先人を置き、名は皆王に達すこと、卿大夫の家臣の如し、會同坐起するに、王家使者・[白/十]衣先人と同列するを得ず。その国中大家は佃を作らず、座食するは万余口。下戸は米糧・魚鹽を遠擔しこれを供給す。その民歌舞を喜び、国中の邑落、暮夜男女群れ集い、相歌戯につく。大倉庫なく、家々自ら小倉あり。この名を桴京となす。その人潔清を自ら喜び、善く蔵醸す。跪拝は一脚を申(のば)し、夫餘と異なる。行歩皆走る。十月を以って天を祭り、国中大いに会す、名を東盟という。その公に会するに、衣服は皆錦繍金銀を以って自ら飾る。大加主簿は頭に[巾責]を著す。[巾責]の如くして余(ふち)なし。その小加は折風を著(き)る、形弁の如し。その国の東大穴あり、名は隧穴といい、十月国中大いに会し、隧神を迎え国東上に還りこれを祭り、神座に木隧を置く。牢獄なく、罪あるは諸加評議し、これを殺し、妻子を没入して奴婢となす。その俗婚姻を作(な)すに、言語すでに定まるや、女家小屋を大屋の後ろに作る、名は婿屋、婿は暮れに女家の戸外に至り、自ら名乗り跪拝し、女宿に就くを得るを乞う、この如く再三し、女の父母すなわち聴(ゆる)し小屋中の宿に就かさしむ、傍らに銭帛を頓(お)く(傍頓錢帛。“頓”をおくとする用例は大漢和にもないが、学研漢和大辞典には“とんとおく”と見える。ちくま学芸文庫は、貯蓄すると訳す。小学館の新選漢和辞典には“たくわえる”という意味があり、大漢和には“たくはへ”という名詞形がある。“傍”はかたわら以外の意味が見つからない。ちくま学芸文庫の訳文には“同棲すると同時に”という文言があり、“傍”を同時の意味で捉えているものと思われる。)、生子すでに長大なるに至り、すなわち婦を將(ひき)いて家に帰る。その俗淫。男女すでに嫁娶するや、すなわち送終の衣を作す。厚く葬り、金・銀・財・幣、死を送るに尽す。石を積みて封となし、列に松柏を種る。その馬皆小、登山に便。国人気力あり、戦闘に習(な)れ、沃沮・東[シ歳]皆これに属す。また小水貊あり、句麗国を作すに、大水に依りて居す。西安平県の北に小水あり、南流し海に入る、句麗の別種、小水に依りて国を作す、よりてこの名を小水貊となす、好き弓を出す、所謂貊弓これなり。

王莽の初め高句麗兵を発し以って胡を伐つも、行くを欲せず、強迫しこれを遣わす、皆塞を亡出し冦盗となる。遼西大尹田譚これを追撃し、殺すところとなる。(田譚が殺された。)州・郡・県、咎を句麗候トウに帰す。嚴尤奏して言う、「貊人法を犯すも、罪トウに起きず、且(しばらく)宜しく安慰すべし、今猥(みだり)にこの大罪を被(かぶ)するは、それ遂に反するを恐る。」莽聴かず、詔し尤これを撃つ。尤句麗候トウを誘期し至りてこれを斬り、その首を伝送し長安に詣る。莽大いに悦び、天下に布告し、さらに高句麗の名を下句麗となす。まさにこの時候国をなす。漢光武帝八年、高句麗王使を遣わし朝貢す、初めて王の称を見る。

殤・安の間に至り、句麗王宮数遼東を寇じ、さらに玄菟に属す。遼東太守蔡風・玄菟太守姚光、宮、二郡の害となるを以って、師を興しこれを伐つ。宮詐して和を請し、二軍進まず。宮密かに軍を遣わし玄菟を攻め、候城を焚燒し、遼隧に入り、吏民を殺す。後、宮また遼東を犯す。蔡風軽将吏士これを追討し、軍敗没す。

宮死し子伯固立つ。順・桓の間、また遼東を犯す、新安・居郷を寇じ、また西安平を攻める、道上に帯方令を殺し、楽浪太守妻子を略得す。霊帝建寧二年、玄菟太守耿臨これを討つ。斬首虜数百級。伯固下り、遼東に属す。熹平中、伯固乞い玄菟に属す。公孫度の海東に雄するや、伯固、大加優居・主簿然人等を遣わし、度を助け富山の賊を撃ち、これを破る。

伯固死し、二子あり。長子は拔奇、小子は伊夷模。拔奇不肖にして、國人すなわち伊夷模を共立して王となす。伯固の時より、数遼東を寇ず。また亡胡五百餘家を受く。建安中、公孫康軍を出しこれを撃ち、其國を破り、邑落を焚燒す。拔奇兄にして立つを得ずを怨み、涓奴加と各下戸三萬餘口を将(ひき)いて康に詣りて降り、還りて沸流水に往く(ちくま学芸文庫では、居住するとする。往は住の誤りか?)。降胡また伊夷模に叛し、伊夷模更に新國を作す。今日の所在是なり。拔奇遂に遼東に往く、子あり句麗國に留まる、今の古雛加駮位居是なり。其後復た玄菟を撃ち、玄菟と遼東合撃し、これを大破す。

伊夷模子無く、灌奴部に淫して、生れし子名を位宮という。伊夷模死し、立て以って王となす。今の句麗王宮是なり。其曽祖名宮、生れて能く目を開き視る、其國人これを惡(にく)む、長大となるに及び、果たして凶虐となり、数寇鈔し、國残破するを見る。今の王生れて地に堕ち、また能く目を開き人を視る。句麗は相似るを呼びて位となす。其祖に似る、故にこの名を位宮となす。位宮力勇有り、鞍馬に便(鞍馬に習熟し)、獵射を善くす。景初二年、太尉司馬宣王衆を率いて公孫淵を討つ、宮、主簿大加を遣わし數千人を將(ひき)いて軍を助く。正始三年、宮、西安平を寇ず。其五年、幽州刺史毋丘儉の破る所となる。語は儉伝にあり。


東沃沮

東沃沮は高句麗蓋馬大山の東にあり、大海に沿いて居す。その地形東北狭く、西南長し、千里ばかり、北は[手邑]婁・夫餘と、南は[シ歳]貊と接す。戸五千、大君王無く、世世邑落、各長帥あり。その言語句麗と大同、時々小異あり。漢初、燕の亡人衛満朝鮮に王たり、時に沃沮皆これに属す。漢武帝元封二年、朝鮮を伐ち、満孫右渠を殺し、その地を分けて四郡となし、沃沮城を以って玄菟郡となす。後夷貊の侵すところとなり、郡を句麗の西北に徒(うつ)す、今の所謂玄菟故府これなり。沃沮楽浪に還属す。漢土地広遠にして、単単大領の東にあるをもって、東部都尉を分置し、不耐城に治し、別に領東七県を主(す)べる、時に沃沮また皆県と為る。漢建武六年(後漢、光武帝)、辺郡を省き、都尉このゆえに罷す。その後皆その県中の渠帥を以って県候となし、不耐・華麗・沃沮諸県皆候国をなす。夷狄さらに相攻伐す、唯不耐[シ歳]候今に至り猶功曹・主簿諸曹を置き、皆[シ歳]の民これを作(な)す。沃沮諸邑落の渠帥は、皆三老を自称す、故県国の制に則るなり。国小さく、大国の間に迫り、遂に句麗に臣属す。句麗またその中に大人を置き使者となし、相主領せしめ、また大加をしてその租税を統責せしめ、貊布・魚・鹽・海中食物、千里を擔負しこれを致す、またその美女を送り以って碑妾となす、これを遇すること奴僕の如し。

その土地肥え美しく、山を背にし海に向かう、五穀に宜しく、田種に善し。人性質直・強勇、牛馬少なく、すなわち矛を持ちて歩戦す。飲食居処、衣服礼節、句麗に似るあり。【魏略に曰、その嫁娶の法、女年十歳にして、すでに相許(いいなづけ)を設ける。婿家これを迎え、長く養い以って婦となす。成人に至り、さらに女家に還る。女家銭を責め、銭畢(お)え、すなわちまた婿に還る。】

その葬大木槨を作る、長さ十余丈、一頭を開き戸を作(な)す。あらたに死すは皆これを仮に埋め、才(歳の略字、わずか)に形を覆わしめ、皮肉を尽くし、すなわち骨を取りて槨中に置く。挙家皆共に一槨。木を刻むこと生形の如くして、死者に隨い数なす。また瓦[金歴]あり、米その中に置き、槨の戸辺にこれを編縣す。

毋丘儉句麗を伐つ。句麗王宮沃沮に奔り、遂に師を進めてこれを撃つ。沃沮邑落皆これを破る、斬獲首虜三千余級、宮北沃沮に奔る。北沃沮一名置溝婁、南沃沮を去る事八百余里、その俗南北皆同じ。[手邑]婁と接す。[手邑]婁乗船し寇鈔するを喜ぶ、北沃沮これを畏れ、夏月恒に、山厳しき深穴中にありて守備となす、冬月冰凍し、船道通ぜず、すなわち下りて村落に居す。 王[斤頁]別に遣わし宮を追討し、その東界を尽す。その耆老に「海東また人ありやあらずや」と問うに、耆老「国人かつて乗船し魚を捕らう、風に遭い数十日吹かれ、東に一島を得る、上に人あり、言語相曉(さと)らず、その俗常に七月を以って童女を取りて海に沈める。」と言う。また言う「一国また海中にあり、純女にして男無し。」また説く「一布衣を得る、海中より浮出す、その身中人(中国人)衣の如くして、その両袖長さ三丈。また一破船を得る、波に隨いて出で海岸辺にあり、一人あり項中また面あり、生きてこれを得るも、語相通ぜず、食らわずして死す。」その域皆沃沮東大海中にあり。


[手邑]婁

[手邑]婁は夫餘の東北千余里にあり、大海に濱(そ)い、南は北沃沮と接し、未だその北の極むるところを知らず。その土地、山険多し。その人形夫餘に似るも、言語は夫餘・句麗と同ぜず。五穀・牛・馬・麻布あり。人、勇力多し、大君長なく、邑落各大人あり。処は山林の間にして、常に穴居し、大家は深さ九梯、多きを以って好となす。土気寒きこと、夫餘に劇す。その俗養豬(豚)を好み、その肉を食し、その皮を衣す。冬は猪膏を以って身に塗り、厚さ数分、以って寒風を禦ぐ。夏はすなわち裸袒、尺布を以ってその前後を隠し、以って形體を蔽(おお)う。その人潔ならず、溷を作りて中央にあり、人その表を囲いて居す。その弓長さ四尺、力、弩の如し。矢は[木苦]を用い、長さ尺八寸、青石を鏃となす。古の肅愼氏の国なり。射を善くし、人を射るに皆目に入る。矢に毒を施し、人中ると皆死す。赤玉・好貂を出す。今のいわゆる[手邑]婁貂これなり。漢より以来(自漢已來。「以来」は「已來」とも書く)、夫餘に臣属す、夫餘その租賦重きを責め、以って黄初中これに叛す。夫餘数これを伐つも、その人衆少なしといえども、所山険しきにあり、隣国人その弓矢を恐れ、卒(つい)に服することあたわず。その国乗船冦盗に便(巧みである)、隣国これを患う。東夷、飲食の類に皆俎豆を用いるに、唯[手邑]婁のみ用いず、法俗、最も綱紀無し。


[シ歳]

[シ歳]は南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と接し、東は大海に窮す、今朝鮮の東皆その地なり。戸二万。 昔箕子すでに朝鮮に適(往、ゆ)き、八条の教を作り以ってこれを教え、門戸の閉無くして民盗をなさず。その後四十余世、朝鮮候準僭号して王を称す。陳勝等起ち、天下秦に叛く。燕・斉・趙の民、朝鮮に避地すること数万口。燕人衛満、ツイ結・夷服し、また来りてこれに王たり。漢武帝朝鮮を伐ち滅ぼし、その地を分けて四郡となす。是(これ)の後より、胡・漢やや別る。 大君長無く、漢より以来(自漢已來。「以来」は「已來」とも書く)、その官に侯邑君・三老あり、下戸を統主す。その耆老旧自ら句麗と同種と謂う。その人性愿愨、嗜欲少なく、廉恥あり、[勹<亡]を請けず。(意味不明。「句麗に従わない」の意か?)言語・法俗大抵句麗と同じにして、衣服異あり。男女衣は皆曲領(丸型の衿)を著し、男子は銀花広さ数寸を繋ぐを以って飾りとなす。単単大山領より以西、楽浪に属し、領より以東七県、都尉これを主(つかさ)どる。皆[シ歳]を以って民となす。後都尉を省き、その渠帥を封じて候となす。今不耐[シ歳]皆その種なり(不耐は地名)。漢末さらに句麗に属す。その俗山川を重ね、山川各部分あり、妄りに相渉入するを得ず。同性婚せず。忌諱多し。疾病・死亡すなわち旧宅を損棄し、さらに新居を作る。麻布あり、蚕桑し緜を作る。暁に星宿をうかがい、年歳豊約を予知す。珠玉を以って宝となさず。常に十月節を用い天を祭り、昼夜飲酒・歌舞す、この名を舞天となす、また、虎を祭り以って神となす。その邑落相侵犯するや、すなわち相罰し生口・牛馬を責める。この名を責禍となす。殺人は死で償う。冦盗少なし。矛長さ三丈を作り、あるいは数人共にこれを持ち、歩戦を能くす。楽浪檀弓その地に出づ。その海、班魚皮を出す。土地、文豹饒(ゆたか)。また果下馬あり。漢桓の時これを献ず。【臣松之案ずるに、果下馬は高さ三尺、これに乗りて果樹下へ行くこと可、故にこれを果下と謂う。博物誌・魏都賦に見ゆ。】

正始六年、楽浪太守劉茂・楽浪太守弓遵、領東の[シ歳]、句麗に属するを以って、師を興しこれを伐つ。不耐侯等、邑を挙げて降る。その八年、闕に詣り朝貢す。詔しさらに不耐[シ歳]王を拝す。居所民間に雑在し、四時郡に詣り朝謁す。二郡軍征賦調あるに、役使を供給す、これを遇すること民の如し。


韓は帯方の南にあり、東西は海を以って限りとなし、南は倭と接し、方四千里ばかり。三種あり、一を馬韓といい、二を辰韓といい、三を弁韓と曰う。辰韓は、古の辰国なり。

馬韓

馬韓は西にあり。その民土着し、種植・蚕桑を知り、緜布を作る。各長帥あり、大は自らの名を臣智となし、その次は邑借、山海間に散在し、城郭なし。

爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟[シ豕]國、臣濆沽國、伯濟國、速廬不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、月支國、咨離牟廬國、素謂乾國、古爰國、莫廬國、卑離國、占離卑國、臣釁國、支侵國、狗廬國、卑彌國、藍奚卑離國、古蒲國、致利鞠國、冉路國、兒林國、駟廬國、内卑離國、感奚國、萬廬國、辟卑離國、白斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、狗素國、捷廬國、牟廬卑離國、臣蘇塗國、莫廬國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、楚山塗卑離國、一難國、狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國、凡五十餘國あり。大国は万余家、小国は数千家、総じて十万余戸。辰王は月支国に治し、臣智は優呼として、臣雲遣支報・安邪[足叔]支濆・臣離兒不例・拘邪秦支廉の号を加う(?)。(ちくま学芸文庫も?とする。よくわからないようだ。)その官に、魏率善邑君・歸義侯・中郎將・都尉・伯長あり。

候準既に僭号して王を称し、燕の亡人・衛満の攻奪するところとなる。【魏略に曰、むかし箕子の後の朝鮮候、周衰え燕自ら尊として王となし、東に地を略せんと欲するを見る。朝鮮候また自ら称し王となり、兵を興し逆に燕を撃ち以って周室を尊となさんと欲す。その大夫禮これを諫し、すなわち止む。禮使し西に燕を説き、燕これを止め攻めず。(ちくま学芸文庫は、燕が禮を抑留したとする。)後子孫やや驕虐にして、燕すなわち将秦開を遣わしその西方を攻め、地を取ること二千余里、滿番汗に至りて界となす。朝鮮遂に弱まる。秦の天下をあわすに及び、蒙恬に長城を築かしめ、遼東に到る。時に朝鮮王・否立ち、秦をこれを襲うを畏れ、略服して秦に属すも、朝会するを肯んぜず。否死し、その子準立つ。二十余年にして陳・項起ち(陳勝呉広の乱・項羽と劉邦)、天下乱れ、燕・斉・趙の民愁苦し、稍稍亡し準に往き、準すなわちこれを西方に置く。漢におよび廬[糸官]を以って燕王となし、朝鮮候と[シ貝]水に界す。[糸官]反し匈奴に入るに及び、燕人衛満、亡命し、胡服を爲(いつわ)り東に[シ貝]水を渡り準に詣り降る。準を説きてその西界に居し、中国の亡命(中国からの亡命者)を収め(刊本は故のようだが、東夷伝INDEXに従い収とした)朝鮮の藩屏となすを求む。準、信じこれを寵し、拝して博士となし、賜うに圭・百里の封を以ってし、西辺を守らしむ。満、亡党を誘いて、衆やや多し。すなわち詐(かた)りて人を遣わし準に告げ、漢兵十道に至り、宿衛に入るを求むと言う。遂にかえりて準を攻む。準、満と戦うも、敵せず。】

その左右宮人を将(ひき)いて海に走入し、韓地に居し、自ら韓王と号す。【魏略に曰、その子及び親留まりて国にあるは、よりて韓氏の姓を冐す。準王海中にして、朝鮮と相往来せず。】その後絶滅するも、今の韓人猶その祭祀を奉る者あり。

漢の時楽浪郡に属し、四時朝謁す。【魏略に曰、初め右渠いまだ破れざる時、朝鮮相歴谿卿、諫めるも右渠用いざるを以って、東之辰國(に往く)。(原文は、初右渠未破時朝鮮相歴谿卿以諫右渠不用東之辰國。後とのつながりを考えれば、ちくま学芸文庫のように、朝鮮の相である歴谿卿が右渠に諌言したが用いられなかったので、東の辰国に行った、とするほうがよいと思う。闕字か?)時に民隨出し居すは二千餘戸、また朝鮮貢蕃と相往來せず。王莽地皇の時に至り、廉斯[金齒]、辰韓右渠帥と為る。樂浪土地美しく人民饒樂なるを聞き、亡し來降せんと欲す。その邑落を出で、田中に雀を駆す男子一人を見る。その語韓人にあらず。これに問いて、男子曰「我等は漢人、名を戸來という、我等の輩千五百人材木を伐(き)るに、韓の撃つを得るところと為り、皆斷髮し奴となる、積ること三年なるや。」[金齒]曰「我まさに漢樂浪に降る、汝、去るを欲するや不(いな)や?」戸來曰「可。」[金齒]因りて戸來を将(ひき)いて出で含資縣に詣り、縣、郡に言し、郡すなわち[金齒]を以って譯となし、[艸/今]中従(よ)り大船に乗り辰韓に入り、戸來と降りし伴輩を逆取す、尚千人を得るも、その五百人已に死す。[金齒]時に曉(さと)して辰韓に謂う、「汝五百人を還せ。もし不なるは、楽浪まさに万兵を遣わし船に乗りて来り汝を撃つ。」辰韓曰、「五百人已に死し、我まさに贖直を出すのみ。」すなわち辰韓萬五千人、弁韓布萬五千匹を出す。[金齒]、直(あたい)を收取し郡に還る、[金齒]の功義を表し、冠[巾責]田宅を賜う。子孫数世、安帝延光四年に至りし時、故に復た除を受ける。】

桓霊の末、韓[シ歳]強盛、郡県制することあたわず、民多く韓国に流入す。建安中、公孫康、屯有県を分かち南の荒れ地を以って帯方郡となす。公孫模・張敞等を遣わし移民を収集し、兵を興し韓[シ歳]を撃つ。旧民やや出で、この後倭・韓ついに帯方に属す。

景初中、明帝密かに帯方太守劉[日斤]・楽浪太守鮮于嗣を遣わし海を越え二郡を定む。諸韓国の臣智には邑君の印綬を加賜し、その次は邑長を与う。その俗、衣[巾責]を好み、下戸の郡に詣りて朝謁するは、皆、衣[巾責]を仮し、自ら印綬・衣[巾責]を服するもの千有余人。部従事(役職)呉林、楽浪もと韓国を統べるを以って、辰韓八国を分割し以って楽浪に与う。吏訳転じ異同あり、臣智激し韓忿り、帯方郡の崎離營を攻める。時の太守弓遵・楽浪太守劉茂兵を興しこれを撃ち、遵戰死し、二郡遂に韓を滅ぼす。

その俗綱紀少なく、国邑に主帥ありといえども、邑落雑居し、善くたがいに制御するあたわず。跪拜の礼なし。居処は草屋土室を作り、形、冢(つか)の如し。その戸は上にあり、挙家共に中にありて、長幼男女の別なし。その葬は槨あり棺なし。牛馬に乗るを知らず、牛馬は死を送るに尽くす。瓔珠を以って財宝となし、あるいは衣に綴(つづ)るを以って飾りとなし、あるいは頸に縣(か)け耳に垂らすを以って(飾りとなす)、金銀錦繍を以って珍となさず。その人性強勇にして、魁頭露[糸介]し、[日/火]兵の如し、布袍を衣し、足に革の[足喬][足(日/羽)](キョウトウ)を履く。其國中、所爲及び官家城郭を築かしむるあるに、諸年少勇健なるは、皆背皮を穿ち、大縄を以ってこれを貫き、また丈許(ばかり)の木を以ってこれに[挿(かねへん)]し、日を通じて[權(くちへん)]呼し力を作(な)す、以って痛となさず。既に以って作を勸(すす)め、且つ以って健と爲す。常に五月を以って下種(種まき)を訖(お)え、鬼神を祭り、群衆歌舞・飲酒すること昼夜休み無し。その舞数十人、倶に起ちて相したがいて低く昂(たか)く地を踏み、手足、節奏(拍子)に相応じ、鐸舞に似るあり。十月、農功(農作業)を畢(お)えまたこの如し。鬼神を信じ、国邑各一人を立て天神を主祭す、この名を天君という。また諸国各別邑あり、この名を蘇塗となす。大木を立てて鈴・鼓を懸け、鬼神に事(つか)える。諸亡逃げてその中に至れば、皆これを還らず、好んで賊と作(な)る。その蘇塗の義を立てるは浮屠(仏塔)に似るあり、しかして善悪を行なうところ異あり。その北方郡に近き諸国はやや礼俗を曉(さと)り、その遠処はただ囚徒奴婢の相聚まるが如し。他珍宝なし。禽獣草木ほぼ中国と同じ。大栗を出し、大は梨の如し。また細尾鷄を出す、その尾皆長さ五尺余。その男子時々文身あり。また州胡あり馬韓の西海中の大島上にあり。その人やや短小、言語韓と同じならず、皆コン頭(頭を剃る)鮮卑の如し、ただし衣は韋(かわ)、牛及び豬を養うを好む。その衣上あり下無く、ほぼ裸勢の如し。船に乗りて往来し、韓中で市買す。

辰韓 (※)

※ 通常、『弁辰また十二国』以下を弁辰条とし、弁辰について記述されているとされるようですが、ここでは個人的判断により『その俗、行者相逢うに、皆住(とど)まり路を譲る。』までを辰韓条とし、『弁辰は辰韓と雜居し』以下のみを弁辰条としています。その理由については『幻の弁辰の鉄』をご覧ください。段落の切り方も通例とは異なっています。

辰韓は馬韓の東にあり。その耆老、伝世し、自ら古の亡人にして秦の役を避けて韓国に来適し、馬韓その東界の地を割きてこれに与うと言う。城柵あり、その言語は馬韓と同じならず。名づけて国を邦となし、弓を弧となし、賊を冦となし、行酒を行觴となし、相呼びて皆を徒となすは、秦人に似るあり、ただ燕・斉の名物にあらず(?)。楽浪人を名づけて阿残となす。東方人は我を名づけて阿となし、楽浪人は本その残余人という。今これを名づけて秦韓と為す者あり。

初め六国あり、稍(しだいに)別れて十二国となる。弁辰また十二国、また諸小別邑あり、各渠帥あり、大は臣智と名づく、その次に險側あり、次に樊[シ歳]、次に殺奚あり、次に邑借あり。 已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁(辰)樂奴國、軍彌國、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戸路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國(馬延國)、弁辰[シ賣]盧國、斯盧國、優由國あり。弁、辰合わせて二十四國、大國は四五千家、小國は六七百家、總じて四五萬戸。

その十二國は辰王に属す。辰王は常に馬韓人を用いてこれを作(な)し、世世相繼ぐ。辰王は(辰韓人が)自ら立ちて王となるを得ず。【魏略にいわく、明らかにそれ流移の人為(た)り、ゆえに馬韓の制するところとなる。】

土地は肥美、五穀及稲を種るに宜しく、蚕桑を暁(さと)り、[糸兼]布を作り、牛馬に乗駕す。嫁娶の礼の俗、男女別あり。大鳥の羽を以って死を送る、その意、死者をして飛揚せしめんと欲す。【魏略に曰、その国屋を作るに、横に木を累(かさ)ねてこれをなす、牢獄に似るあり。】国、鉄を出す、韓・[シ歳]・倭皆従いてこれをとる。諸市買、皆鉄を用いること、中国の銭を用いるが如し、また以って二郡に供給す。俗、歌舞・飲酒を喜ぶ。瑟あり、その形、筑に似る、これを弾きまた音曲あり。児生まれるや、すなわち石を以ってその頭を厭(あつ、圧か?)し、その偏を欲す。今、辰韓人、皆偏頭。男女倭に近く、また文身す。歩戦に便(慣れている)、兵仗、馬韓に同じ。その俗、行者相逢うに、皆住(とど)まり路を譲る。

弁辰

弁辰は辰韓と雜居し、また城郭あり。衣服・居處辰韓と同じ。言語・法俗相似る、鬼神を祠祭するに異あり、竃を施(もう)けるに皆戸西(家の西)にあり。その[シ賣]廬國倭と界を接す。十二國また王あり、その人形皆大。衣服は潔清にして、髮長し。また広幅細布を作る。法俗特に嚴峻。


倭人

省略。(魏志倭人伝 私注参照)。


評して曰く、史・漢(史記と漢書)は朝鮮・兩越を著し、東京(=洛陽。後漢のこと。東観漢記をさすか?)は西羌を撰録す。魏の世、匈奴遂に衰え、更に烏丸・鮮卑有り。ここに東夷に及び、使譯時に通じ、隨事記述す。豈常なるや(常であろうか、いやそうではあるまい)。(ちくま学芸文庫には、扱うべき対象が常に定まっているわけではないから、両越や西羌を省いて烏丸・鮮卑・東夷などの伝をたてた、という内容の補足がされている。)


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