
Update 2004/02/23
土器の編年
年輪年代による編年
纏向新編年
歴博発表の放射性炭素(14C)年代について
ホケノ山古墳出土木棺材の放射性炭素(14C)年代について
最近は、考古学のニュースが新聞の紙面を飾ることも少なくないようです。この時に、○○遺跡の年代が××年頃と確定という場合が少なくありません。こういう時に何で年代を決めているかと言うと、ほとんどの場合が土器です。この土器が出たらその遺跡は何年頃の遺跡といえるかというのが大体決まっていて、それを(絶対)編年と呼んでいます。(これに対して、年代を当てはめずに土器の前後関係だけを見るのが相対編年です。)ところが、後で書くようにこの絶対編年というものがかなり信頼性に乏しく、個々人の年代観のずれというものも相当にあります。新聞などの年代というのは発掘担当者の発表がほぼそのまま載るので、その担当者がどういう年代観の持ち主かを確かめないと実年代だけでは思わぬ落とし穴にはまることになります。
例えば吉野ヶ里ですが、私が読むような素人向けの本にはどれを見ても300年頃まで存続していたと書いてあります。これだけ見ると、「吉野ヶ里遺跡は邪馬台国の時代(卑弥呼が文献に登場するのが239年から247年)も繁栄していた」、「纏向遺跡が180年頃から340年頃だからこの二つの遺跡は東西で共に同じ時代に繁栄していた」という事になります。ところが、そうは問屋が卸さないのです。後期の吉野ヶ里は解体・分村化の段階にあり、途中、北内郭の大型建物といったポイントはあるものの、集落規模は縮小の一途をたどります。この間、首長墓に比せられるようなお墓もありません。環濠内には庄内期の遺構が全くと言っていいくらい無く、内・外の環濠は庄内式併行期の土器をふくむ土で埋まり、この時期に中期以来営まれつづけた環濠集落は廃絶します。一方、纏向遺跡が繁栄を始めるのが庄内式期の始めですから、この二つの遺跡はほとんど共存していないのです。しかも、九州の柳田編年にしても畿内の寺澤、あるいは石野・関川編年にしても庄内期の開始を200年頃としていますから、これらの年代観を当てはめれば、吉野ヶ里は邪馬台国の頃には完全に衰退していたことになるのです。これがなぜ300年頃まで継続していたことになるのでしょう。実は、発掘責任者である高島氏(佐賀県教育委員会)は、庄内期の始まりを300年頃とする年代観の持ち主だったのです。弥生の終末がどんどん早くなっている現在の流れからはかなりかけ離れた年代観ですが、完全に否定も出来ず、300年という年だけが独り歩きしていたのでした(※)。ちなみにこの高島氏は、「ここ(吉野ヶ里の物見櫓)から邪馬台国が見える」と言った方です。もう一つちなみに、柳田氏というのは、「九州の考古学者で、邪馬台国が九州にあったと思っている人は一人もいない」と言った方です。(※これは、90年代前半までの話です。)
このように、実年代だけでは大きな落とし穴にはまる可能性があるので、弥生時代から古墳時代の考古学資料の年代推定をする際に土器の編年というのは避けて通れません。そこで、ここでは畿内と北部九州の土器に対する寺沢薫、柳田康雄両氏による編年案を紹介します。ただし、注意しておかないといけないのは、これらの編年が絶対的に信頼できるものではないという点です。特に畿内の土器の編年の信頼性は低いといわれています。「土器で年代がわかってたまるか」とか、「須恵器(古墳時代中期頃からの土器)の年代も分からないのに土師器(古墳時代初頭の土器。庄内式とか布留式とかがこれにあたる。)が分かるはずがない」とか、かなり手厳しい批判も聞かれます。実際、寺澤編年は「須恵器の登場を400年とし、弥生の終末を200年と見てその間を土器の種類で均等に割ると・・・」といった相当にアバウトなものです。一体、どのくらいの誤差が見込めるのかすら分かりません。ご自身は、前後、一世代(20年ほど)の誤差があると書かれてますが。実際、畿内編年の信頼性の低さを実証するかのように寺沢編年は年々変化しています。
畿内の編年でいうと、邪馬台国論争にとって庄内式・布留式あるいは纏向1-3式が一つのキーワードになります。というのは、ちょうどこの年代が魏志倭人伝の示す邪馬台国の年代に一致し、この土器の実年代で纏向石塚などの古墳を含む纏向遺跡や箸中山古墳(伝箸墓)の年代が決定されるからです。たとえば、纏向1式が200年頃なら(卑弥呼以後の)邪馬台国東遷説は完全に否定されます。(このため、東遷説支持者はこれらの土器の編年をもっと時代を繰り下げようとします。逆に、畿内説支持者はより繰り上げようとする傾向があるようです。)また、異なった地域の土器の比較もかなり難しいらしいです。
畿内の寺澤案と北部九州の柳田案の後に、吉備・河内・大和・東海(濃尾平野)・北陸(加賀)の編年対照表を示しておきます。年代が書いてありませんが、寺沢編年の庄内0式が200年前後、布留0式が300年前後、布留2式の終りが400年頃になります。
この表を見比べて邪馬台国の時代の土器をさぐると、大和なら纏向2式か3式(前)、九州なら西新式、東海なら廻間(はさま)II式ということになります。とくに九州では西新式が出るか出ないかがその遺跡が邪馬台国の時代のものかどうかを決める決め手になります。
最後に、もう一点だけ注意しておきます。弥生の年代をいう時に弥生前期とか弥生後期とかいうことがあります。これが畿内と九州で異なっているのです。最近は弥生VI期が有るとか無いとかいう話しもあるようですが、通常は弥生時代はIからV期に分けられます。これは畿内も九州も同じです。弥生前期は畿内・九州ともにI期を当てることで共通していますが、中期が九州はII・III期、畿内はII・III・IV期を当て、後期は九州がIV・V期、畿内がV期になります。このため、中期と後期の境が九州と畿内で100年ほどずれます。畿内では弥生の後期は紀元後100年前後からとされますが、九州では、紀元0年あたりを境に中期と後期が分かれるのです。(寺沢編年では畿内V期がかなり前倒しされているので、この差はだいぶ縮まっています。)ですから、九州で弥生中期といったら紀元前になります。ですから吉野ヶ里が最大の環濠集落であったのは、相当に古い時代になります。
| 寺沢薫 案 (畿内 大和) |
|---|
| 【最新邪馬台国事情(白馬社)による】 |
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| 柳田康雄 案 (北部九州) |
| 【吉野ヶ里遺跡は語る(学生社)による】 |
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| 濃尾平野 (赤塚) |
| 【新修名古屋市史による】 |
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| 編年対照表 |
| 【古代史ハンドブック(新人物往来社)による】 |
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これまで、土器の暦年代は非常に信頼性の低いものであり、研究者により100年の差が出るなどと言われてきました。私も上ではそのような立場で書いています。ところが、ここへ来て土器の暦年代は大きな変革の時を迎えているようです。その切掛けとなったのは、池上曽根遺跡出土の木材の伐採年代が年輪年代法により紀元前52年と判明したことでした。これは、土器の様式では畿内IV-3といわれるもので、従来は紀元後一世紀中頃とされていたものでしたので、一挙に100年年代が繰り上がってしまいました。非常に大きな年代差であったために、発表当初は伐採年代と木材が使われた年代が同じとは限らないといった強い批判もあり、私もそうだろうなとタカを括っておりました。ところが、この数年のうちに多くの考古学者がこの年代を認める方向にかわってきたようで、畿内の土器の編年は一気に様変わりしてしまった様です。その結果、弥生中期と後期の境は紀元前後となり、畿内と九州の時代区分の捩じれは完全になくなりました。このあたりの事情は、最近出たばかりの『卑弥呼の謎 年輪の証言』(講談社)をご覧ください。学術書ではないので盲信することは危険ですが(実際、都合の悪い事実が隠されている−あるいは知らないので書いていない−箇所を幾つか見つけています)、文句なく面白い本であり、従来の編年がいかにいい加減に(失礼)決められていたのかということもよく分かります。間違いなく、お薦めの本です。
年輪年代法は、考古学とは無縁な全く科学的な方法で、木材の一番外側の表皮まで残っていれば、年輪のパターンからその材木の伐採年が誤差なしで−それどころか季節まで−分かるという、非常に優れた方法です。かつては日本では不可能であると言われていたそうですが、それを可能にしたのは、国立奈良文化財研究所の光谷拓実さんの長年にわたる努力であったようです。(このあたりも前掲書に譲ります。)しかし、この年輪年代法にも問題はあります。一つは、表皮まで残っていないと正確な年代が出ないということです。多くの木材は、表面が削られているので、なかなかいい材料が見つからないようです。それでもデータは徐々に増えているようで、以下の表に見るように、13例ほどあるようです。そして、もっとも大きな問題は、木材を出土した遺跡の年代が伐採年と同じであるとは限らないことです。年輪年代法による伐採年代は間違いなく正確であるとすれば、それが上限を与えることは間違いありません。しかし、その木材を出土した遺跡の年代がそこからどの程度下るのか、あるいは伐採年代とほぼ等しいとしてよいのかを慎重に分析しなければ考古学の年代としては使えません。特に、木材の場合は転用される事があるので、転用されていた場合は大きく年代が狂うことになります。
上に書いた通り、池上曽根の場合もこのような疑問が出されました。しかし、池上曽根の場合は、(1)転用材の場合は埋められていた部分が腐っているので転用する際に切り取られることが多いのに対し、池上曽根の場合はその痕跡がなかった、(2)それ以前(IV-3以前)の建物にはその柱のような太い柱を使用した建物が存在しないことなどから、転用材である可能性がほとんどなくなり、伐採年とその建物の立てられた年代がほぼ等しいと認められることになりました。
しかし、いつでもこううまくいくとは限りません。前掲書では成功例として書かれている纏向石塚ですが、これはちょっと問題があります。纏向石塚は、はじめは石野らの発掘により周濠の土器から纏向1式とされましたが(のちにはこの時の土器には3式ぐらいの新しい土器が混在していることが明らかとなっています。)、その後の発掘では周濠底から布留0式土器(纏向3式新)が出土し、布留0式の少し前の庄内3(纏向3古)という年代が与えられました。その後、またどんでんがえしがあり、墳丘中の土器に纏向1式以後の土器が全く含まれないことから纏向1式か2式とされ今に至っています。心情的には、私も纏向1式か2式に乗りたいところですが、慎重に考えれば未だどちらか不明というところです。このような状況では、年輪年代と土器の年代を結びつけるのは無理です。仮に、年代が布留0式ということになると、その他の状況からして布留0式を3世紀初頭以前にあげることはまず無理なので、板材の年代と纏向石塚の年代は無関係となるでしょう。
その他の例は、詳細がわからないので私には分析できませんが、このような困難がつきまとうということは念頭に置くべきでしょう。このような問題はありますが、年輪年代に基づく最近の編年案を以下に示します。(注: スペースの都合上、厳密に正しいという訳ではありません。目安程度と考えて下さい。)この内、森岡さんという方は池上曽根の結果が出る10年以上前から畿内V期の年代を後一世紀初頭まで上げるべきだと主張されていた方だそうで、池上曽根の結果はその分析の的確さを実証することになりました。また、年輪年代とは別に、畿内V初頭の土器は王莽の貨泉(A.D.14年からA.D.40年頃というごく短い間のみで使用された中国の通貨)と供伴するという事実がありますので、畿内V式の開始が紀元前に遡ることはありません。下の編年案では、その点も加味されています。
| 森岡 案 (畿内) |
|---|
| 【卑弥呼の謎 年輪の証言(講談社)による】 |
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| 森井 案 (畿内河内) |
| 【卑弥呼誕生(東京美術)による】 |
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| 河内IVは従来の畿内IIIの後半と畿内IVに相当し、河内VIは従来の畿内V後半にあたる |
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| 南溝層位の推定図 |
|---|
| 図録の写真から読み取ったものなので正確ではありません。下から上に単純に積み上がっているわけではなく、結構入り組んでいることだけ見てください。大筋で間違ってはいないと思いますが… |
纏向遺跡のいわゆる纏向大溝(特に南溝)の層位資料を元に、1976年に石野・関川らによって纏向編年が設定され、大和の編年の一つの基準として長らく使われてきましたが、1999年に層位資料を精査した上での新たな編年、纏向類型が石野・豊岡によって『纏向』第5版に発表されました。この新編年をもとにした特別展が1999年の秋に橿原考古学研究所付属博物館で『古墳のための年代学(クロノロジー)』と題して開催されました。私もこの特別展は見せていただきましたし、その時の図録は『バイブル』として参考にさせていただいています。が、正直申し上げて内容が非常に高度で専門的であるため、なかなかその意図するところを汲むことが難しく、長らく『見れども見えず』の状態でした。しかし、最近の二冊の石野氏の著作によってようやくその意図するところがおぼろげながら分かってきましたので、おそまきながら纏向新編年を紹介して見たいと思います。
新編年は基本的には旧編年を否定するというような性格なものではなく、旧編年をさらに細分化したと見てよさそうですが、その区分は大きく変更されています。
旧編年1式は、畿内V様式とほとんど変わるところは無いもののV様式と異なる点の一つに小型器台を伴うことがあげられていたようですが、新編年では小型器台・小型丸底鉢の出現する辻土坑1段階を2類として分離したため、新編年1類はより純粋にV様式末となるようです。
旧編年2式は大和庄内甕の登場を指標として区分していましたが、豊岡は大和庄内甕の登場は煮沸具の組成上の画期でもなく時期区分の指標としては不適切であるとし、その代わりに、小型器台・小型丸底鉢の出現に「マツリ」の変質を見て、これをもって区切りとしました。これが新編年纏向2類でこれ以後を土師器とする、つまり、纏向2類からを古墳時代とするようです。これは、庄内とV様式の境をどこに置くかという問題にもつながりそうです。
纏向大溝南溝(南部)の下層〜中層にあたる旧編年2式は、新編年2類(中)〜4類(前)までの6段階に細分されます。2類と3類の区分は分かりませんが、3類と4類は小型器台の定式化・外面ハケ調整の出現で区分しているようです。4類(中)の南溝(南部)黒褐色土2段階には、口縁端部の内方への肥厚化が始まり、布留式甕とも布留傾向甕ともいわれるものが出現してきます。私見ですが、これらはいずれも布留式への胎動とみなせそうですから、新編年4類は布留式前駆段階と捉えてよさそうです。
箸中山古墳の築造年代か?としてとみに衆目を集める矢部編年(寺沢)布留0式は辻土坑4下層資料を指標としており、旧編年では纏向3式(新)にあたっていましたが、新編年では4類(後)がそれにあたります。この段階では布留式の指標である小形精製三種のうち小形丸底壷と小形器台は既に完成していますが、小形丸底鉢がまだ定式化していません。大和庄内式甕は、数量の上でハケ調整のみで叩き目を残さない甕が叩き目を残す甕を凌駕しており、布留式甕も確実に一定量存在しています。南溝(南部)層位資料では最上層の黒褐色土1層が辻土坑4下層段階にあたるようですが、黒褐色土1は大溝が放棄された後の層位でいろいろな土器が混入しており層位資料としてはよくないようです。
新編年5類は広義の布留式(須恵器登場以前)の前半という意味では旧編年4式とほぼ同じ意味を持ちます。ただ、小若江北式段階の評価に差があり違いとなっています。これについては旧編年を設定した石野氏本人が新編年のほうがよい旨のことを書いておられますので、新編年の区分で特に異論は無いものと思います。布留式というのはいわゆる小型精製三種とよばれる土器の成立を指標としていますが、この小型精製土器が盛行する時期が布留式前半にあたります(布留1※)。後半になりますと、小形丸底土器の製法が形骸化して粗悪化し、やがて姿を消していきます(布留2※)。布留式の名前は布留遺跡出土資料によって設定されたわけですが、現在ではこの設定資料は小型丸底土器が失われていく後半の資料であることが分かっています。これにかわり、布留式の標準試料とされているのが小若江北遺跡資料で、これが布留式の設定理念を純粋に示しているそうです。狭義の布留式はこれを指すそうです。
旧編年纏向6式は初期須恵器(森浩一の第一段階)を伴うもので布留3(※)ともいわれるものですが、旧編年5式(新)と共に新編年では省かれています。“纏向”は布留前半で終わりということでしょうか。
※ 須恵器登場前の布留式を二段階に大別した時の布留1・布留2等。矢部編年(寺沢)の細別とは異なる。(ややこしい。同じ名称を人によって異なる意味で使うのはそろそろ止めていただきたい。)
| 旧編年 | 新偏年 | 層位資料 | 特色 | 出土古墳(※※) | 備考 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 纏向1式 | (古) | 纏向1類 | (前) | 東田土坑4 北溝黒色有機層 |
最後の長頸壷と小型長頸壷の流行 | 畿内V様式の最後。ここまでが弥生式土器。 | |
| (後) | 北溝灰色粘土層 北溝灰色粘質砂層 |
通常の大きさの長頸壷は姿を消し、高坏は数量が減少するものの大型化。一部の機種は小型化。 | |||||
| (新) | 纏向2類 | (前) | 辻土坑1 | 小形器台・小形丸底鉢の登場 | 大和庄内甕ではなく、小形器台・小形丸底鉢が成立するこの段階をもって土師器の始まりとする。つまり、これ以後が古墳時代。 | ||
| 纏向2式 | (古) | (中) | 南溝黒色粘土3 東田土坑3 |
庄内大和形甕の登場 | 石塚 | ||
| (後) | 南溝黒色粘土1下 辻土坑2 |
小形丸底鉢が本格的に丸底化。直線的に広がる脚部を持つ小形器台の出現。 | 南溝黒色粘土1下は石野に従い2類(後)と3類(前)にわたるとした。 廻間I末 |
||||
| 纏向3類 | (前) | 南溝黒色粘土1下 | ホケノ山 | ||||
| (中) | (中) | 南溝黒色粘土2 東田土坑6A |
庄内大和形甕の増加。叩目上のハケ調整の出現。内面ケズリの進行。球形化が始まる。 | 勝山 | 廻間II初頭 | ||
| (後) | 南溝黄褐色土 南溝黒色粘土2上 |
高坏の杯底面の水平化 | |||||
| (新) | 纏向4類 | (前) | 南溝黒色粘土1上 | 小形器台の定式化。外面ハケ調整の庄内大和形甕。 | |||
| 纏向3式 | (古) | (中) | 南溝黒褐色土2 | 口縁端部の肥厚した布留式甕の登場 | 矢塚・中山大塚 ・東田大塚 |
||
| (新) | (後) | 辻土坑4下層 (南溝黒褐色土1) |
小形丸底壷と小形器台の組み合わせが完成。小形丸底鉢はまだ定式化していない。 | 箸中山・燈籠山 | 布留0の指標 | ||
| 纏向4式 | (古) | 纏向5類 | (+) | 小形精製土器セットの完成 | 西殿塚・桜井茶臼山 | 広義の布留式前半に当たる | |
| (前葉後) | 辻土坑7 | 東殿塚・下池山 | |||||
| (新) | (中葉前) | 辻河道下層 | 行燈山・黒塚・メスリ山 | ||||
| (中葉後) | 辻河道上層 辻土坑4上層 |
渋谷向山 | |||||
| 纏向5式 | (古) | (+) | 奈良盆地での小若江北式段階 | 椿井大塚山 | |||
| (新) | 小形精製土器セットが失われる段階(布留式設定資料段階) | ||||||
| 纏向6式 | 初期須恵器を伴う | ||||||
(※※)築造年代として決定されているわけではない。出土土器による一つの指標。