宮本武蔵・美術篇
Art Works of Musashi

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●美術篇目次
104 武蔵美術論 4  Back   Next 


 ●抽象、あるいは偶然性・不確実性

 ここまでの道筋でアーティスト武蔵のおおよそのポジションを規定したのだが、こんどは武蔵絵画について述べるところである。武蔵画を語るとき、まず前提は、その作品がいわゆる水墨画のジャンルに属することである。
 すでに見たように、田能村竹田の『山中人饒舌』によれば、極彩色の馬十二匹の画もあったらしいが、現存せず、我々はそれを観ることはできない。この、朱を施し胡粉充填して濃厚を極めているという画がどんなものであったか知ることはできない。
 しかしながら、この種の濃密な彩色画にしても、その存在が江戸後期に確認しえたとすれば、アーティスト武蔵の画業は、現存作品よりももっと広範なものであったと推測しうるのである。馬十二匹の画となると大作で、おそらくは障屏画なのであろうし、あるいは神社奉納絵馬であったかもしれない。
 ただ、江戸後期の画論によって言及される武蔵画と言えば、ほぼ水墨画作品を指すもののようである。したがって、我々の検証もこのあたりに絞ってみることにする。すなわちここで、武蔵画を規定する水墨画とは、そもそもどんなアートであったか、という問題になる。

 水墨画は中国に由来する絵画芸術であるが、歴史的に言えば、中世に大陸から請来された中国絵画に触発されて、日本的な水墨画美術が発生するのである。だれでも名は知っている雪舟という突出した画僧も出てくる。
 ただし水墨画というと、現代の日本人の目からすれば、何だか鬱陶しくて古臭いように思うのが一般であって、それも子どもの頃から西洋画によって眼が洗礼されているからであろう。そこであえて言うのだが、水墨画を正確に読み取るためには、ただ一つ、現代的な視座からそれを一種の抽象絵画と見れば、これほど面白いアートはないのである。
 このときたとえば、絵画の全体ではなく、むしろディテールの方から入ってみることである。画家は水墨をどのように運用しているか、それを見るのである。そこで、武蔵の絵画作品とされるもののなかから、以下のような部分を採取してみることができる。
 まず、右図(蘆葉達磨図)のような衣の線の運動は極めて興味深い。描線はパワフルかつ流麗に走っているが、その流動はほとんど過剰とも言えよう。ことに衣の裾のあたり、描線は狂奔し悦楽するかのようでさえある。類似のものは長谷川等伯「枯木猿猴図」にあるが、ともに線描は奔放すぎて対象のことなど一切かまわず、あたかも、ただ筆の運動それ自体を見せるかのようである。


長谷川等伯 枯木猿猴図 部分

 また右図(布袋竹雀枯木翡翠図)や下図(枯木鳴鵙図)のような墨の措定はいかがか。これも筆線の素早い運動が見られるほかに、藁筆様の渇筆、あるいは墨の濃淡を重ねて樹幹根元や土坡を描くのであるが、むしろ対象を描くというより、墨そのものの物質性、そのマテリアルな実在性が露出している。
 言い換えれば、ここでは画が見せるのは、第一に、対象を描くというよりも、筆の運動、描くという行為そのものであり、また第二に、墨のマテリアリズムである。すなわち、これは現代的視線からすれば、もはや抽象画の域にある。


宮本武蔵 枯木鳴鵙図 部分





宮本武蔵 蘆葉達磨図 部分



同上図 部分






宮本武蔵 布袋竹雀枯木翡翠図 部分
 さても、これらの墨筆の運動とそのもたらすものを見て、改めて、「これは、いったい何だ」と驚く感性があれば、諸君はすでに武蔵画にアプローチする条件を得ているのである。
 それにしても、現代絵画ではなく、まさに何世紀も以前にこんな画の描き方があったのである。それが水墨画というオリエンタル・アートの注目すべきところだとは言える。しかし、水墨画とはいったいどのようにしてこのようなものになったのか。

 水墨画というのもかなり大まかな語で、なかなか定義がむずかしい。唐末五代の荊浩『筆法記』のいう水暈墨章〔すいうんぼくしょう〕から出た語だというが、それも恠しい。墨で描いたモノクロームの画を、それと呼ぶに一応差し支えはないが、それにとどまらず、以下のような論点は水墨画理解のためには必須要件であろう。
 まず第一に、書字との関係である。もともと墨の芸術は、中国において墨筆で文字を書くという書字芸術の伝統から発生したものである。書字も古来の篆書・隷書から楷・行・草の書体となると、書字そのものがアートになる。とくに草書にそれが著しい。
 神変不測の狂草とされた唐代の張旭〔ちょうきょく〕の書法は、従来支配的な王義之流に反逆するものであり、また張顛(きちがい張)と呼ばれたほど奇矯な前衛ぶりを逸話に残している。それと同様に、下に示す懐素〔かいそ〕筆の「自敘帖」の書字は絶妙の草体の極致を示す一例であろう。これにも「狂草」の評がある。硬質謹直の楷書に対し、草体は単に軟弱な書法にとどまらず、狂草というラディカルな逸脱の域に出てしまうのである。


懐素 自敘帖 部分


張旭 古詩四帖 部分

*【呉道子】
《國朝呉道玄、古今獨歩にして、前に顧・陸を見ず、後に来る者無し》
《筆法を張旭に授くる、此又、書画用筆同じきを知る。張既に書顛と號し、呉宜しく画聖と為し、神假天造、英靈不窮》
《唯だ呉道玄の迹のみ、六法倶に全く、万象必ず尽し、神人手を假し、造化を窮極すと謂ふべし》
《其の神を守り、其の一を専らにし、造化の功と合し、呉生の筆を仮る。向に所謂意は筆先に存し、画尽きて意在るものなり。凡そ事の臻妙なるものは是の如きか》 (張彦遠『歴代名画記』)


正倉院蔵
雲中麒麟図 部分




敦煌壁画 第103窟 維摩変 部分
 墨画にしても、線描の白描画(白画)が水墨画よりも先に生まれて、それが単なる素描・下画としてではなく、強弱抑揚肥痩ある線の現出するところから、線描そのものの妙味に気づいてしまうと、もうそこからは、対象を描くというよりも描く線のマチエールの方へ関心が向かう。
 文字の「書」と絵画の「画」、この書画ともに嗜むといういわゆる士夫芸術は、おそらく後漢末期にまで遡ろう。絵画は書とちがって、賎しい業であった。歴史的に画工の社会的地位は低かった。しかし、士夫階級の知識人が書から画に手を伸ばしはじめると、絵画のステイタスも変ったのである。
 墨画の実質的な創始者を特定するとなると、8世紀盛唐の呉道子〔ごどうし・呉道玄〕をもってそれと認めるのが中国絵画史である。
 呉道子は「山水の変は呉に始る」とされるように画界に革命をもたらした人物ではあるが、後世が呉道子の名を残したのは、山水画というよりも、主として道釈人物画においてである。その筆は仏画・変相図・道釈人物画などで対象の姿を驚くほど自在に表現しえたもののようで、墨画のさまざまな手法のうち線描に関して基本的なものはこの頃に出揃うのである。
 しかしながら、唐代の墨画作品がことごとく逸失しているように、また呉道子の作品も現存していない。ただ文献記録によって、彼(そしてその画工集団)が寺院などの壁画に多くの作品を遺したことを知りうるのみである。
 それでも、左の図の「雲中麒麟図」や「維摩変壁画」を見れば、呉道子と同時代の線描がどこまで達していたか、一応の見当がつく。「雲中麒麟図」は側筆ではなく刷毛筆で、流麗な肥痩線描の運動を見せるものであろうし、また「維摩変」には墨の線描表現がすでに高度な境位を示しているのである。
 それのみならず、張彦遠〔ちょうげんえん〕の『歴代名画記』によれば、呉道子らのスタイルに関して看過しえない記録がある。
《顧・陸の神は其の盻際を見るべからず、所謂筆跡周密なり。張・呉の妙は、筆纔か一二にして像已に応ず、点画を離披し時に欠落を見る。此れ、筆、周ねからずと雖も、意、周ねきなり。若し画に疎密の二体有るを知れば方に画を議すべし》
《衆は皆、盻際に密むに、我は則ち其の點畫を離披す。衆は皆、象似に謹しむに、我は則ち其の凡俗を脱落す》
 すなわち、他の画家が周密体(精密正確な描法)でだれでも応物象形の「象似」(形似)に注意を傾けるに対し、呉道子はそれを凡俗とみなして、形似など頓着しない粗放な筆描を自家のものとしたらしい。
 リアリズムは凡俗なのである。画聖として迫真の描画で人を驚かせたという半面、ここは呉道子の前衛ぶりを示すところであるが、なるほど、呉道子は上記の張旭に書を学んだことがあるともいう。神変不測の狂草というのが張旭の書法への評だったとすれば、呉道子の画にもそういう狂草の局面があったのである。
 それゆえ、呉道子本来の作品が社会に認知されていたとは思えない。というのも、のちに百年も経つと、後人がその白画(もしくは淡彩画)を、不足もしくは未完成と感じたものか、彩色を施して作品をぶち壊しにしてしまうということさえあったらしい。おそらく墨画は唐代では、呉道子周辺の短命一過性の芸術運動であったと思われる。
 しかしながら、呉道子が後世に再発見されるのは、筆はわずか一二にして像すでに応ず、筆はあまねからずといえども、意はあまねきなり――精細周密に対するその粗放の体、形似というミメーシスの写実主義に対する抽象主義、という新たな領域の可能性を開いたことによるであろう。
 このあたり、しばしば言われるところの、精細な周密体の「写実」に対するに粗放体の「写意」、という対立図式を用いるのは、粗雑な話である。
 とはいえ、この点に関して少々言えば、対象の形象ではなく意気あるいは気象を表現するものと見る眼が発生すると、たしかに絵画は、対象を描くというよりも、画家の内的世界の表現、むしろ自己表出の姿となってくる。画を見るこういう視線の出現は、作画行為を根本的に変質させたのである。
 たとえば、山水画のことである。水墨画といえば山水画かと思っている向きも多かろうが、それも半分は正しい。ある意味で、墨によって山水画が生まれたのである。
 ところが、山水画とは外的世界を写した「風景画」だと錯覚している評論が現在支配的である。しかしそれは西洋的な物の見方である。山水画がたんなる風景画ではないのは、一目瞭然である。以下にその若干を見てみよう。
台北故宮博物院
伝荊浩 匡盧図
台北故宮博物院蔵
伝関同 秋山晩翠図
台北故宮博物院蔵
范寛 谿山行旅図
 山水画の山水は単なる自然の風景ではない。また特定の場所に限定されるものではない。山水画は五代北宋の関同〔かんどう〕から范寛〔はんかん〕に到って極相をみるが、そこでは山水画には、エキセントリックともいうべき、極めて自己表出性の強い絵画だという面がある。どうしてそんな強度の自己表出性を有する山水画が発生したのか。それに答えるには以下の諸点を考慮しなければならない。
 まず、山水とは山岳河水、すなわちどちらも聖なるものの宿る場所である。山水画の世界とは、単なる美しい風景を超えた崇高なるものとの遭遇にほかならない。山水画が描くのは、たんなる奇勝なのではなく、畏敬すべき物それ自体の崇高性 sublimity である。西洋画がこの域に達するのは、おそらくセザンヌを待たねばならない。
 絵画が、美的対象ではなく、美醜を超えた崇高性という物の境位に遭遇したとき、山水画が生まれた。といよりもむしろ逆に、物それ自体の崇高性は山水画を通じて認識しうるものとなった。東洋の哲学は絵画に負うところが大きい。
 そこから、山水画は自然の景物を描きながら宇宙的構想力を現出している、といった誤解さえ生まれた。山水画にコスミックな構想力を感受するのは、近代人の自由であるが、むろん山水画本来のスタンスは、そういうところにはない。
 山水画は、元来は聖なる物の世界、そして次に崇高なる物それ自体との対峙以外のものではない。山水画が描くのは、同一化すべき/しうる外的対象ではなく、崇高なものとのこの対峙 confrontation そのものである。
 ここで注意を要するのは、絵画が「自己表現」ではないことだ。我々は芸術を自己表現と見たがる近代の偏見に囚われているが、東洋的伝統では、自己は内面にはなく、むしろつねにすでに外在化されている。まして描く対象に自身が同一化するわけでもない。
 圧倒的な崇高なものとの対峙であるというところから、それゆえ山水画とは、まさに強度 intensity に関する絵画なのである。そうして、この強度たるや何の強度かといえば、それはすなわち倫理的強度なのである。この点、中国山水画のエキセントリックな剛毅なポジションは、どうしても美的に傾く日本画の様相とは根本的に異なっているであろう。
 我々は伝記によって関同や范寛がいかに隠逸のポジションをとったか知りうる。ただし、そういう権力からの厭離、自由を求める脱俗の文人風儀として、この倫理的スタンスがあるとはいうものの、さらに一つ、その隠逸主体が放縦なまでに解放されるのは、この崇高なものとの過酷にして厳格な対峙によってなのである。
 したがってまた、この険しい精神の強度に応じるのが、山水画の抽象表現である。抽象力によってはじめて強度が表現しうる。山水画はまったく写実性を越境して、極めて抽象画に近いのである。
 それはオブジェとしての形態のみのことではない。范寛が山岳岩塊の圧倒的な存在を描くに、豆瓣皴もしくは雨点皴と呼ばれる細密な点描の皴法を用いたことは周知のごとくである。点描皴法の周密性は自己表出性の強度に見合ったもので、さながら今日の抽象画のそれである。
 こうした強度の抽象性は、グロテスクな形象への偏愛ではなく、むしろ、反美への意志そのものである。それも、パトスというよりも、対象を点の集合へ還元してしまう厳密な分析的精神なのである。このことは、絵画主体にとってリアリティよりもリアルな真理が問題だったことを意味する。
 そしてもう一つ、この崇高性は圧倒的な高さへの垂直の視線と相関している。この高さの視線は、西洋的な透視図法・遠近法による視線とは完全に異質である。なぜならこの高遠法の垂直の視線は、遠近法のように視点が一つではない。多視点である。高い山岳を見上げた図なのに、見えないはずの山頂がこんどは俯瞰される。それはまるでキュビズムである。もとよりこの東洋的なキュビスムは、視点固定的なパースペクティヴから自由であったからである。
 この視点の複数性とは、同時に自己なるものの複数性である。これにいささか倫理的ポジションを交えて言えば、エキセントリックな隠逸とは、まさに脱中心性 ex-centricity のことである。そのように自己が脱中心化されている。そのため視点は分裂し複数化しうるのである。このあたりは、西洋画イデオロギーになずんだ視線にはわかりにくいところではある。

 山水画に関してもう一つ付け加えるならば、外的景物を描いているはずの山水画が、極めて内省的な絵画であるという点である。下図は北宋の李成〔りせい〕作という「寒林平野図」で――類似のものに伝李成「喬松平遠図」もあって、こちらの方がより分かりやすいが――これはもはや崇高なる物の世界ではない。たんに松の木が立っているだけである。
台北故宮博物院蔵
伝范寛 雪山蕭寺図 部分




范寛 谿山行旅図 岩壁皴法



范寛 谿山行旅図 山頂部分
台北故宮博物院蔵
伝李成 寒林平野図
澄懐堂文庫蔵
伝李成 喬松平遠図
 これも単なる風景写実ではない。これが描いているのは前景に立つ松の木ではない。この樹木に心象が同一化すると見るのは錯覚である。まさに「平遠」という名があるが、背景に平野の空間そのものが描かれている。
 ここでは視線は「高遠」に対する「平遠」である。遠いものが高きにあるのではなく、遠いものが奥にある。近景遠景において奥行きを見せるようだが、これも西洋的な遠近法ではない。視点は一点に収束するのではなく、複数化している。その複数化した視点が平面に空間を現出する。
 しかし平野の空間と言ったが、よく見ればここでは「空虚」と言ってよい。蟹爪法と呼ばれる特徴的な松の枝葉の精細な描込みが強調するのは、実体というよりもむしろ空虚である。
 すなわち、山水画の付随物でしかなかった樹木が独立して画題になったというだけではない。これは「たんに松の木が立っている」という画なのだ。おそらく、これは空虚というものが描かれた最初の絵であろう。
 実体を描くことによって空虚を描く――それがハイパーリアルな空虚の次元の逆説である。したがって、上掲の「寒林平野図」と「喬松平遠図」を見れば、どちらがその次元に適うかといえば、「喬松平遠図」ではなく、「寒林平野図」の方であろう。
 絵画がここまで来るには、むろん、物それ自体の崇高性との交渉があった。山水画の強度を背景にしてはじめて、こうした空虚そのものが描けるようになった。おそらく物それ自体の認識は、聖性から崇高性へ、そして最後には空虚に到るものである。
 米芾〔べいふつ〕『画史』によれば、范寛は荊浩に学んだというが、別伝では、はじめ李成に学び、その後袂を別ち離脱したともいう(宣和画譜)。たしかに李成には「晴巒蕭寺図」(右図)という立派な山水画がある。このことからすれば、李成は山水画からさらに一歩出て、「たんに松の木が立っている」という画境を開発したのである。
 これに対し、范寛は李成を理解しなかったというよりも、李成がハイパーリアルな空虚な次元へ出たのに対し、なお山水画にとどまって、よりリアルな深淵へ向かったのである。
 そこで、リアルなものの深淵――それは心の深淵である、と言えば、安易な誤解を喚起してしまいそうだが、『宣和画譜』に、范寛が「人を師とするよりも、物を師とする。物を師とするよりも心を師とする」と言ったという伝があって、そのあたりが話の落しどころであろうか。
 それというのも、この「人」「物」「心」の3つの次元において、たいがい「心」が誤解されて、画がたんなる自己表現と錯覚されているからである。本来表現すべき自己などどこにもないし、また、そもそも「心不可得」なのである。その得ることの不可能な「心」だから、そのようにまさしく〈他者〉としての「心」だから、これを師とすると范寛が言うわけである。
 我々のいうのは自己表現ではなく、自己表出である。これを混同すべきではない。自己表出とは、統御不可能な一種のアクティング・アウトである。この不意の自己表出においてはじめて、〈他者〉としての「心」と遭遇するのである。

伝李成 寒林平野図 蟹爪法



ネルソン美術館蔵
李成 晴巒蕭寺図

清浄華院蔵
普悦 阿弥陀三尊像(三幅) 部分





梁楷 出山釈迦図
 こうした表現の位相のシフトとともに、仏画という本来宗教画である領域においても、極めて内省的な様相が出現するであろう。左図は(北宋末あるいは南宋初)の普悦〔ふえつ〕筆という阿弥陀三尊像(三幅)であるが、これを見るに、周密体の「写実」に対する粗放体の「写意」という対立図式の無効なることの証拠とすべきである。
 もとより、周密画法だから自己表出性が弱いということはありえないのである。それよりもむしろ、北宋期のナショナリズムのなかで、唐代という偉大な時代への回顧復古が、いかに内省的な精神を生んだか、それを知ることができよう。
 この精妙な線描を有する作品は、美の極めて高度な洗練に到達している。それと同時に、こうした洗練が、宗教画というにはあまりにも倫理的で、画を「作品」として個人化する風の発生を背景に想定せざるを得ない。絹本著色のこの作品は、唐代のような壁画ではなく、掛軸におさまる4.2尺×1.6尺というサイズの画なのである。
 作者普悦については来歴不詳で、その落款によって四明(浙江省)の人ということしか知れない。この作品が絵画史に登録されたのはまさに僥倖と言うべきである。

 これに関連して――日本ではあまりにも有名な――梁楷〔りょうかい〕の「出山釈迦図」のことである。
 この画は、仏教史上最も劇的なシーン、つまり釈迦が苦行から離脱して出てくる場面を描いたものだが、そのやつれた沈痛な顔貌の表現に出色の精妙がある。
 釈迦は「仏」というよりも、ここでは苦行に座礁した一介の修行者にすぎない。そのような個人にすぎない等身大の釈迦という設定は、もはや古代仏教ではありえず、モダンな宋禅の思想から出てくる。
 もとよりこの画は全体を見れば、シリアスなムードに沈淪したものであるが、途方にくれた釈迦を包む舞台の岩壁裂開を描くに、人物の精妙に対して粗放、この粗放において実に厳粛な気配が横溢し、まさに水墨画の手法を動員しているのである。
 この梁楷については後に述べるであろうが、線描の妙を示す一例として、ここでは同じ梁楷の「李白吟行図」をあげておきたい(下掲)。この画は、吟行する人物の一瞬を驚くほど少ない筆数で描ききっている、その筆法の切れ味はこの上ない。元末の夏文彦〔かぶんげん〕の『圖繪寶鑑』に、梁楷について、
《院人、その精妙の筆を見るに、敬服せざる無し。但し、世に伝ふるは、皆、草草、之を減筆と謂ふ》(巻四)
と記すように、梁楷は精妙の筆をもって知られたのだが、後世一般に梁楷画は草体の減筆描とされたのである。その一面の代表例はこの「李白吟行図」であって、まさに水墨的なものの範例である。
 あらかじめ言えば、武蔵水墨画のスタイルは梁楷だ、牧谿だ、という評が画論にあって、それというのも、この範例的な「水墨的なもの」の流れを、武蔵画は汲んでいるという理解なのである。すでに我々がみたところであるが、武蔵の「蘆葉達磨図」の衣の線描運動、なかんづく、その裾の処理などみれば、なるほど、武蔵画の参照点の一つとして、梁楷の李白図を示しうるのである。
 ともあれ、梁楷画には精細も粗放もある。具象も抽象もある。それゆえ、我々は従来絵画史家の解説にあるような、精細な周密体の「写実」に対するに粗放体の「写意」なる対立図式による説は採らない。
 なぜなら、アカデミックな院画家であった梁楷において、下に並置するように、筆の精細と粗放が同居しうるのであって、それゆえに諸家の主張するごとき精筆/減筆=写実/写意の対立構図は、あまりにも杜撰な仮構であろう。

梁楷 出山釈迦図 部分

梁楷 李白吟行図 部分

 かくして話が一気に梁楷にまで行ってしまったが、惟うに、水墨画がその固有の境位に達する要件は、まず第一に、還元reductionと抽象abstructionである。
 まず、還元とは、水墨画が彩色画ではなく墨一色の単色画であって、色彩を墨色に還元してしまうこと、そのことに格別の意味を見出したことである。
 これは色彩の快楽に対する禁欲ということではない。もっとポジティヴなものだ。となれば、墨は五彩を容れる、無は一切を包摂するという思考を勘定に入れたくなろうが、そこまで行かなくとも、墨のきわめて豊饒なニュアンスが発見され、むしろ色彩は邪魔で無用とするあたりまで達したということである。
 これを歴史的に言えば、北宋期に生じたナショナルな復古思潮と一連の、唐代の墨画手法の再発見の時期に相当する。言い換えれば、遡及的なこの歴史的再帰 historical reflexion によって、墨画は自身の起源を発見し、同時に自身を定義するのである。
 もう一つの抽象ということに関しては、以下のようなことが言えるであろう。すなわち――対象を筆線で描くということじたい、すでに抽象に他ならぬが、こと水墨画に関しては、抽象は飛躍的に高度化する。つまり、線描の抽象というよりも、面描のもつ意味の発見という革命的展開をみるべきであろう。あえて言えば、水墨画は対象の輪郭を描くところの形象線描をすら超え出てしまうのである。そこで具体的には、破墨〔はぼく〕と溌墨〔はつぼく〕という手法を挙げなければならない。

 すなわち、「破墨」とは、墨を破る墨、墨が墨を破るのである。たとえば薄墨で描いた面に濃墨を重ねて、複雑な斑暈(ムラとボカシ)の無限諧調を発生させる手法である。先に描いた均一でムラのない平面もしくはその界面を暈潤で破壊する、その壊し方に妙味を見出すのである。
 まさにこれなどは、すでに現代の抽象画のマテリアルな手法と同軌であって、中国画ははるか昔に現代抽象画を先取りしてしまっているのである。
 張彦遠は、王維〔おうい〕の破墨山水を見た、筆迹勁爽だと書いている(歴代名画記)。これによれば、王維に破墨とされる絵画作品があったということになる。破墨という手法はもともと山水画の立体感を出す凹凸法に発しているらしいのだが、ここへきて、空気や光芒という本来描けなかった微妙なものが描けるようになったのである。
 しばしば引用されるところであるが、先にみた荊浩『筆法記』に、筆と墨を論じて、
《筆なるものは、法則によるといへども、運用変通、質ならず華ならず、飛ぶが如く動くが如し。墨なるものは、高低暈淡、品別浅深、文彩自然にして、筆を用るにあらざるに似たり》
とするのであるが、筆の線描は《飛ぶが如く動くが如し》の運動そのものとして認識され、しかも《筆を用るにあらざるに似たり》とするあたり、水墨画は、手法としては鈎勒(こうろく・線描)ではなく没骨(もっこつ・面描)において、自身の独自性を見出していることが確認されよう。
 言い換えれば、画が対象を描くものではなく、むしろあえて言えば、線描は筆の運動そのものを見せるものであり、さらにまたより重要なことに、画は筆を用いて描くとはいえ、もはやその筆の運用を超えてしまって、墨そのものを描くというような地点にまで越境してしまうのである。

伝石恪 二祖調心図 部分



伝許道寧 秋江漁艇図 部分




破墨法描例

*【破墨と溌墨】
 法有溌墨破墨二用。破墨者、先以淡墨勾定匡廓、匡廓既定、乃分凹凸。形體已成、漸次加濃、令墨氣淹潤、常若濕者、復以焦墨破其界限輪廓、或作疏苔於界處。溌墨者、先以土筆約定通幅之局、要使山石林木、照映聯絡、有一氣相通之勢、於交接虚實處、再以淡墨落定、[浸]濕墨一氣寫出、候乾、用少淡濕墨籠其濃處、如主山之頂、峰石之頭、及雲氣掩斷之處皆是也。
 南宗多用破墨、北宗多用溌墨。其為光彩淹潤則一也。 (沈宗騫『芥州學畫編』 用墨)




Jackson Pollock, Full Fathom Five, 1947


*【王墨】
 王墨は、何許の人なるや知らず、亦た其の名を知らず。溌墨を善くして山水を画く。時人故に之を王墨と謂ふ。多く江湖の間に遊び、常に山水・松石・雑樹を画く。性は多に疎野にして、酒を好む。凡そ図障に画かんと欲すれば、先づ飲む。醺酣の後、則ち墨を以て溌ぐ。或は笑ひ或は吟じ、脚は蹙り手は抹り、或は揮き或は掃き、或は淡く或は濃く、其の形状に随ひ、山と為し石と為し、雲と為し水と為す。手に応じ意に随ひ、倏〔たちま〕ち造化の如し。雲霞を図出し、風雨を染成すること、宛も神巧の若し。俯観するに其の墨汚の迹を見ず。皆な奇異なりと謂ふ。 (朱景玄『唐朝名画録』 逸品)


*【顧子】
 大暦中、呉の士、姓は顧なる者、山水を画くを以て諸侯の門を歴抵す。毎に画くに先づ絹数十幅を地に帖す。乃ち墨汁を研ぎ、及び諸采色を調へ、各々一器に貯へ、数十人をして角を吹き鼓を撃ち、百人をして声を斉しくしてくらひ叫ばしむ。顧子、錦襖・錦纏頭を着け、酒を飲み半ば酣は、絹を遶り帖まり走ること十余匝、墨汁を取り絹上に攤き写し、次いで諸色を写す。乃ち長巾一を以て一頭を所写の処に覆し、人をして座圧せしめ、己は巾角を執りて之を曳く。回環すること既に遍くして、然る後に筆墨を以て勢に随い開き決めて峰巒島嶼の状を為る。夫れ画は淡雅の事なるに、今顧子目を瞋らせ鼓噪し、戦の象有り。其れ画の妙なる者ならんや。(封演『封氏聞見記』巻五 図画)




溌墨法描例
 このような域にまで達してしまった手法が「溌墨」である。
 溌墨の「溌」とは、辞書的語義では、そそぐという意味で、それゆえ溌墨とは墨をそそぐということになろうが、むしろ溌墨には、勢いよくぶちまける、吐き出すという語感がある。筆で描くのはたしかであるが、筆線に依存せず墨だけで、飛沫もかまわず一気呵成に描きあげる。だから、輪郭線などもはやない。
 張彦遠『歴代名画記』に、唐代の張璪〔ちょうそう〕の画法について、「ただ禿筆を用ひ、或は手で絹を模す」とある。筆先を切った粗笨な筆を使ったり、手で画面を擦ったりするというのだから、これは溌墨で描いたとみてよい。
 さらに、それにとどまらず、この溌墨という画法がしばしば類比されるところは、パリからニューヨークへ、つまりシュルリアリズムから抽象表現主義へ展開した現代絵画の様相であり、さしあたってその名を挙げれば、ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock 1912〜1956)やウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning 1904〜1997)など戦後一時流行ったアクション・ペインティングである。
 たしかに、中国の画論文献(封氏見聞記・唐朝名画録・歴代名画記等)に認めうるところでは、王洽〔おうこう・王墨〕、張志和〔ちょうしわ〕、顧子〔こし〕など、唐代の溌墨画家たちについては注目すべき内容の伝記がある。
 たとえば――まず、画を描くより先にまず酒を飲む。十分酔っ払ったところで、音楽や歌に合わせて踊るように画を描く、墨汁を足で蹴るわ、墨を手で布で塗りたくるわ、はては髻〔もとどり〕を筆代わりにして画を描く――彼ら溌墨画家たちの作品は現存せず、そのパフォーマンスは伝説的なものであるが、それでも、これが世界最初のアクション・ペインティングの記事であることは動かない。
 後世溌墨はずいぶん大人しい馴致された画法に収拾されてしまっているが、要するにここで確認すべきは、そもそも溌墨は、単に絵画手法の一つというよりも、当初、アクション・ペインティングに類似の、こうした不確実性と偶然性を織り込んだパフォーマティヴな即興性のものであった、溌墨法はこういう言わば一種チャンス・オペレーションに似たところから出発したということである。

 さらに興味深いのは、中唐の封演『封氏聞見記』にある、顧子という画家の記事である。彼は遍歴画人のようで、画を描くにあたって、まず数十人の楽隊に喇叭を吹かせ太鼓を叩かせ、百人に声をそろえて大声で叫ばせる。顧子自身は錦の上衣・錦の頭巾といった派手な衣装で登場、そこでまず酒を飲み酔払ったたところで、画布(絹)の周りを十回以上もぐるぐる走って廻る。ますます酔いがまわる。そうして墨汁を画布の上に撒き散らしたりいろいろな色をぶちまけたと思うと、こんどは人を座らせて画布上を引きずり回す。十分引きずり回したところで、顧子は筆をとり、引きずり回した迹に偶然にできた模様を利用して山峰や島嶼の姿を描き出した……。
 これによって見れば、この絵画パフォーマンスは、数十人あるいは百人を動員するかなり騒々しく派手なスペクタクル(見世物)であったらしい。ポロックのアクション・ペインティングどころではない。
 つまり、唐代に現れた溌墨は、伝統的画法を破壊する暴力的なパフォーマンスであり、自他共にそう認めていたらしい。それゆえ同時に、張彦遠(歴代名画記)などが、溌墨のごときは画に非ずとしたように、もはや絵画ではないと否定されるほどものであった。
 美術史は前衛芸術を現代社会の産物として歴史的に特権化する傾向があるが、それは西洋中心主義的な錯覚にすぎない。あきらかに、唐代に世界最初の前衛芸術がすでに出現していたのである。
 おそらく、水墨画の根本は、逸品(逸格)とされるこうした盛唐期の――そして五代には蜀というローカルなアートシーンでの――ラディカルな前衛的画法を起源として再発見することにあった。水墨画の抽象とは、線描に依拠しない没骨画法によるものだが、少なくとも画家の意図を超えたこの不確実性と偶然性を呼び込む一回性のパフォーマティヴ performative な次元がなければ、水墨画とは言えないのである。
 このパフォーマティヴな次元ということでは、上述の『封氏聞見記』の記事に、《夫れ画は淡雅の事なるに、今顧子目を瞋らせ鼓噪し、戦の象有り》という部分に注目すべきであろう。絵画行為はそこでは戦闘の形態をとったものであったのである。
 このあたり、顧子のパフォーマンスも、単に奇矯な前衛の身振りではなく、本来はトランス状態の憑依を含む民俗的な祭祀行為に根拠をおくものであったかもしれず、文化人類学的裏づけがとれるなら興味深いところである。
 あるいはまた、張彦遠『歴代名画記』が、呉道子について、
《開元中、將軍裴旻剣舞を善くす。呉道子、旻の剣に舞ふを観、出没神怪なるを見、既に畢りて揮毫益々進む》
というエピソードを記録していることに注意したい。開元年中、裴旻〔はいびん〕という将軍が剣舞の上手であったが、呉道子はこれを見て何事か悟るところがあったらしい。剣術と絵画の一連性、これはすなわち身体性の領域でのことである。
 呉道子が張旭の書法を学んだことから、その神変不測の狂草といわれるものとの類縁を推測しうることはすでに述べたのであるが、書から画へ、書と画の重合する領域という理解を越えさせるものは、この剣術から絵画へという方向である。ことにこの剣舞云々の一節を見るに、おそらく絵画は剣術と領域を共有する身体性のパフォーマティヴな次元において、その本質が了解されることさえあったのである。
 ところで、この溌墨と破墨は、同じく偶然性に依拠する画法であるところから、定義上混同されることが多い。破墨は統御された暈潤の部分的手法だが、溌墨は即興的で全面的だとか、墨で墨を破る破墨をもっと過激にしたものが溌墨だという程度の理解が一般的であり、またそのようにして両者は同じようなものとされる。
 たとえば、右の雪舟作という山水画にしても、これを通例「破墨山水図」と名づけている。ところが、ここにあるのは、破墨法ではなく明らかに溌墨なのである。ことほど左様に、破墨と溌墨は混同されるようになったのは、溌墨の有する根源的逸脱性が忘却されてしまったからである。
 しかし、もっともラディカルな面が物事の本質を示す。繰り返して言えば、水墨画の根本は、不確実性と偶然性を呼び込む即興性によって、作者の主体的作為を超えたものが出現する、というところにその妙味にある。それを溌墨と呼ばれる方法が代表するであろう。
 したがって、飛沫を飛ばすほどの気勢に意味があるのではなく、たとえば酒に酔って作画するのがある種必須条件であったように、その憑依風狂の行為のなかで主体的な作為を超えたリアルなものの出現に期するパフォーマティヴなところに、水墨画の本質があるということである。溌墨はおそらくロールシャッハ・テストの図様に似たところがあり、そのかぎりにおいて、絵画行為は無意識的なもののアクティング・アウトなのである。
 この、作者の作為を超えたものが出現する、というあたり、すでに呉道子の言説に認めうるところである。今日的な語彙で言えば、まさにシュルリアリスティックな境位であるが、これはすなわち、画の写実という本来的リアリズムに対する一種のアンチテーゼとして、あるいは古典的リアリズムに対する芸術的反乱として発生したものである。
 通例、白描画(筆)と水墨画(墨)の両者対置の構図として語られるところを見れば、それを要するに、前者が対象を描く対象(客観)主義 objectivism であるのに対し、後者は作者の心勢気象の表出による主体(主観)主義 subjectivismという理解がある。言い換えれば、いわゆる院体画の古典的なリアリズムに対し、近代的な心象表現主義であると。
 これはこれで、大雑把な把握としては間違ってはいないが、それでも、溌墨に至る水墨画固有の新しさがどこにあったかと言えば、そうした主体の単なる心象表現、内面の外在化といったことではなく、対象化されるものがあるとすればそれは偶然性そのものであること、そこに作者の主体的作為を超えたものが出現する――というところに、リアリズムに対するシュルリアリズムの様相を確認すべきである。

 しかしながら、ここで誤解を避ける必要がありそうなので、一言加えておけば、ここでいうシュルリアリズムとは必ずしも、20世紀前期のアンドレ・ブルトン(André Breton 1896〜1966)らの芸術運動のことではない。あるいはまた、シュルリアリズムが幻想芸術だとか、無意識的欲望の解放だとか、そういう従来クリシェと化した――のみならず、家元のアンドレ・ブルトン自身も誤認していた――シュルリアリズム論の視点からそれを言うのではない。ただ、ブルトンのいう――通例「客観的偶然」と誤訳されている――《hasard objetif》の偶然対象性という局面は拾っておいてよかろうかと思う。
 まず第一に、リアリティ(reality)とリアルなもの(the Real)、という二つの次元が区別されなければならない。およそリアリズムなるものが依拠するところのリアリティの次元とは異なる、あるいは、それを超えたリアリティの彼岸からリアルなものが出現する場所、それが我々のいうシュルリアリズムの現場である。それゆえそこには、リアリティとは虚仮、まさにイデオロギカルな錯覚もしくは幻想に他ならないという含みがある。
 第二に、この行為の現場では、主体が行為に対し先在するのではなく、行為を通じて主体が生産されること。つまり、それがパフォーマティヴということの内実である。認識論的次元と行為の次元は混同されるべきではない。作者の作為を超えたリアルなものの出現とは、憑依に似た風狂の境位だが、それは主体的行為を放捨した単なるオートマティズム、自動書記なのではない。まさにそうした行為の産物として、あたかもアクシデントのように主体が生産される、リアルなものの応答としてひょいと主体性が飛び出す、そのような行為の次元での場面を指すのである。
 この2つのポイントは、我々のいうシュルリアリズムのミニマルな綱領である。

 以上を要するに、水墨画固有の様相は、色彩の墨色への還元、その抽象は骨法(線描)のそれにとどまらず没骨(面描)に展開し、古代的な対象(客観)主義に対する近代的な自己表出性を本体とする抽象表現主義にあるものの、それだけではなく、パフォーマティヴな不確実性・偶然性を織り込んだシュルリアリズム、という本質的な様相を見るべきである。
 このような我々の水墨画理解は、それに気韻生動の東洋的自然主義を見たり、あるいは禅機心境の深浅を鑑定したりする理解とは大きく異なっている。当初水墨画とは、正統規範から逸脱した暴力的でアヴァンギャルドな行為芸術、しかも今日流に平たく言えば、ポップなアートという側面もあった。
 そして、慶長から元和・寛永という文化革命のプロセスと交差したアーティスト武蔵が、なぜ、いかにして、水墨画に遭遇したのか――その根本のところはおそらく、こうした水墨画というアートの本質を把握した上でなければ理解不能であろうと思われるのである。
 なぜなら、我々がすで見たとおり、身体性のパフォーマティヴな芸術、一回性の偶然性の芸術、すなわち水墨画の行為芸術というこの側面は、確かに剣術者・武蔵のパフォーマティヴな芸能と呼応するところがあり、それは「剣画一如」などと言ってしまう通俗的理解を超えて、武蔵画の芸術的本質を示すものだからである。

雪舟 破墨山水図 部分


*【呉道子】
《夫れ運思揮毫するに、自ら画んと以為ば則ち愈々画に失ふ。運思揮毫するに意画に在らざれば、故に画に得たり。手に滞らず心に凝らず、然るを知らずして、然り》 (張彦遠『歴代名画記』)



慢性的精神病患者の絵
(H.M.Fay, "Réflexions sur l'art et les aliénés", Aesculape, no.9, 1912)
シュルリアリストが言うオートマティズムはもとは精神医学用語。シュルリアリズムはこれに着想を得て自身の方法のなかに組み込んだ。





玉澗 山市晴巒図 部分





宮本武蔵 葡萄栗鼠図 部分



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