宮本武蔵 サイト篇
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現地徹底ガイド 印南郡米田村 (兵庫県高砂市米田) 他  Back   Next 

 このページでは、武蔵の養子・宮本伊織(1612〜78)と関係のある土地をいくつか案内する。
 まずは、米田村(兵庫県高砂市米田町)。伊織はここで生れた。つまり伊織の産地である。そして、この土地から出て、明石城主の小笠原忠政に仕えるようになった。
 武蔵が伊織を養子にしたのは、この明石時代である。その後伊織は、主家の転封とともに播磨を去り、九州小倉へ移った。伊織は小笠原家の老職にまで出世した。
 ふたたび彼がこの出身地に関係するのは、故郷の神社を再建した折である。つまり、自分が生まれた村、米田の天神社と、周辺十七邑の氏神・泊神社の社殿再建の願主となったときである。武蔵の死んで八年後であり、伊織は四十代はじめである。
 ここでは、伊織が再建に関係したこの二つの神社を訪ねる。
   ・米田天神社  高砂市米田町米田
   ・泊 神 社  加古川市加古川町木村
 ただし、我々は、印南郡米田村で武蔵が生まれたという説を却けるので、必ずしも武蔵に直接関係した土地としては紹介しない。
 次に、伊織が兄弟とともに設けた父祖の墓を訪ねる。これは加古川中流域の三木にある。父祖までは「元来、三木侍」であったから、田原家の墓所が三木にあるわけである。墓碑は、現在、本要寺箕谷墓地にあるので、そこへ案内する。
 我々の現地ガイドはそれにとどまらない。さらにディープな探訪として、伊織の母の実家があり、そして伊織が育った村、つまり加東郡垂井庄宮脇村(現・兵庫県小野市垂井町)を訪ねる。
 そうして極め付きは、田原氏のルーツ、先祖の本地探訪である。我々が田原氏先祖の地と目するのは、加西郡田原村(現・兵庫県加西市田原町)である。そこへ案内する。
 高砂・加古川あるいは三木までは、従来の武蔵関連研究でも紹介されているが、加東郡宮脇村や加西郡田原村となると、武蔵研究史において、ここの場がはじめての紹介となる。ゆえに、武蔵マニア諸君にとって垂涎の案内情報であろう。
 伊織の実家・田原氏は加古川中流域が原郷であり、そこから加古川下流の地・印南郡米田村へ出てきた。したがって、ここでの現地案内は、米田村周辺からはじまり、順次河川を遡りつつ、田原氏を遡るという仕掛けである。

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 ではまず、「米田村」である。兵庫県高砂〔たかさご〕市というのはどこにあるのか。
 右図のように、高砂は明石と姫路の中間にある町だ。加古川は高砂の隣町である。以前はこのあたり全体が印南〔いなみ〕郡といっていた。聞きなれない地名だが、播磨風土記の記事に出てくる古い地名である。
 高砂は、結婚式の謠で出てくる「高砂や〜」の、あの高砂である。したがって、この高砂市は、
  「ブライダル都市高砂」
を宣言している(微笑)。
 この高砂・加古川へ行くにはどうするか。電車か、車か。

 【電車利用のケース
 電車にのって行く人は、まず、新幹線なら「西明石」か「姫路」まで行かなくてならない。ところが「西明石」はひかりはまず停まらない。すると、どうするか。
 東から行く人は、手前の「新神戸」で下りて、そこで次にくるこだまに乗り換えて、「西明石」まで行く。そこで、在来線(JR神戸線)に乗り換えだ。
 「新快速」という一種の快速電車が十五分おきに走っているので、姫路方面行きに乗る。下りるのは次の停車駅「加古川」である。西明石から加古川まで十五分ほどだ。のんびり行きたい人は各駅停車でもいい。三十分もあれば「加古川」だから大差はない。
 駅からタクシーで行く人は、この加古川駅で下りて、駅前でタクシーを拾えばいい。米田天神社までは四キロほどである。むろん、近い方の泊神社へ先に行ってもいい。そちらは駅から三キロ足らずというところだろう。
 一方、駅から歩く人は、この加古川駅で下りずに、各駅停車で次の「宝殿」〔ほうでん〕という駅まで行く。ドイツ語を知っている人なら、ちょっとこそばゆい名である。
 西から行く人で、「姫路」で新幹線を下りた人も、神戸方面行きの在来線各駅停車で、この「宝殿」まで行く。姫路駅からは、御着〔ごちゃく〕・曽根〔そね〕・ひめじ別所・宝殿と、四つめの駅である。これも大して時間はかからない。
 【宝殿駅から歩く
 この宝殿駅で下りた人は、駅出口が南北にあるから、必ず南の国道2号線側に出なくてはいけない。(右下の黄色い地図参照。ただし方向は上が「南西」方向)
 そして、国道を渡り、まず正面の真っ直ぐな道を進む。目印は、「米田小学校」だ。ただし、「米田西」小学校という似た名前の小学校が近くにあるから、道を尋ねるときは要注意である。
 歩いて行くと六百mほどで、三つめの信号(国道のは勘定にいれない)がある。これも渡る。
 すると、すぐ先にもう一つ信号がある。この信号の手前に信号のないやや広めの左へ入る道がある。これを曲がる。(三つめと四つめの信号の間にある角を左折するということ)
 そうして三百mほど行くと、小さな田んぼでつき当たりになる。角は幼稚園だ。この角を右に曲がる。すると、道の右側が保育園、それから米田小学校になる。ここまで来れば、もう間違いはない。
 小学校の前をずっと行って、学校の端まで行くと、道は十字路になる。この角を、こんどは、左に曲がる。すると道の左側に、目当ての米田天神社が見えてくる。
 というわけで、到着だ。宝殿駅から一キロ強、二十分も歩けば着いてしまう。

 【車で行く人の場合
 こんどは車で行く人の話だ。これも、上にある交通マップから見ていただきたい。
 比較的近い神戸・大阪の人は、阪神高速・第2神明・加古川バイパスと来て、「加古川西」ランプで下りるといい。その後はまた説明する。
 もっと遠くから行く人は、西からでも東からでも、いずれにしても山陽自動車道まで行くこと。
 そうして、東から行く人は、「加古川北」ICで下りる。すると、県道43号線である。これを、南の高砂方面へ8キロほど、そのまま米田付近まで一本道で行ける。
 西から行く人は、同様に山陽自動車道の「加古川北」ICまで行って下りる。
 あるいは、それよりひとつ手前の「姫路東」まで行って、そこから播但自動車道へ入り姫路方面へ進む。料金所を通過して、そのまましばらく走る。
 するとこんどは、バイパスに合流する姫路JCTになり、姫路方面と神戸方面があって、それを東の神戸方面へ入る。そうして八キロばかり走ると、二つめの出口が「加古川西」ランプである。ようするに、西からでも東からでも、バイパスにのってきた人はここで下りるわけだ。
 「加古川西」ランプで下りると、県道43号線であり、これを高砂方面へ曲がる。そのまま行くとすぐ平津の陸橋、これを渡りきれば、もう米田付近である。
 【米田交差点からの道順
 この平津の陸橋を通過して三つめの信号が、「米田」交差点であ る。「ブライダル都市高砂」と書いた歩道橋がかかっているのが目印になろう。
 この交差点を右折する。ここは手前と向うに二つ信号がある複雑な交差点だ。右折するのは手前の信号。
 すると、すぐに、ふた股に分岐するポイントある。ここを右手奥の方の狭い道へ進入する。右側に水路が走っている道である。道端に右のような案内看板が立っているからわかるはずだ。
 そして次に、三百mほど先の「いづもや」という店がある角で、右折する。
 この道は狭い。しかし、すぐに米田小学校の角で、右手に米田天神社が見える。

 車で行く人は駐車場はないと思ってもらった方がいい。神社前の道路に路上駐車である。たしか駐禁はなかったはずだ。トイレは神社前の公園にある。

印南郡米田村:兵庫県高砂市米田町米田



高砂・加古川への交通マップ




付近案内図



米田天神社 アプローチ図
左が徒歩コース、右が車コース





米田天神社 近隣図


←こんな案内看板が
  建っている


米田天神社前

米田天神社 拝殿

 続いて、泊神社へのアプローチである。これも「駅から歩き」のケースと「車でアクセス」の場合と、この二つを説明しよう。

 【駅から歩く
 先ほどの「加古川駅」が起点である。この駅まで行く方法は、上に説明しておいた。
 駅を出ると、駅前広場になっている。そこから商店街を抜けて、国道2号線の「加古川駅前」という交差点まで行く。
 それから右に折れて、国道2号沿いに歩き「大川町」交差点まで行く。
 次に、ここを左折して、県道18号沿いをどんどん歩いて行く。六百mほど行くと、「県立病院前」という交差点に出る。右手にキリスト教会があるからすぐわかるだろう。ここまでで、駅から1.5キロほどだ。(駅前からここまでバスで来るという手もある)
 この交差点を右に曲がる。そこから道をどんどん進む。歩道のついている道だ。七百mほど歩くと、二つめの信号の十字路に出る。トヨタカローラとか中古車屋がある角だ。「加古川西高校」の近所まで来ている。
 この信号を左に折れて、そのまま行くと、右手に県営住宅の団地があり、まもなく前方左手に杜が見えてくる。それが泊神社だ。
 ここまで、駅から約2.5キロほど、歩いて四十分くらいであろうか。

 【車で行く
 すでに上に述べてある米田天神社から泊神社へ行くには、加古川という河を渡らねばならない。右上の付近案内図参照。
 まず、県道43号に出て北上し、陸橋下の「平津」交差点で、右折し国道2号を行くことである。(これは、歩いて米田天神社から泊神社へ行く場合も同じ)
 まもなく加古川橋をわたり、そのまま行くと、「大川町」交差点に出る。ここを右折する。
 (車で泊神社の方へ直接行く人は、バイパスの「加古川」ランプ(「加古川西」ではない。注意)で下り、県道18号に出て、JRの高架をくぐれば、すぐこの「大川町」交差点である)
 以下は、上に示した歩いて行く場合と同じ経路だ。
 また、目印の「県立病院前」交差点で右折しなかった場合は、五百mほど先の2つめの信号の交差点で、右折する。この交差点は五差路のようで、角にガソリンスタンドがある。
 右折するとまっすぐ進む。道は広い。「加古川中学」の脇を通り、二つめの信号の交差点まで来ると、右手に川と橋がある。この橋を渡れば、泊神社の前である。
 以上はいずれも道に迷わないように、分かりやすい目印をたどって行ったコースである。歩きの人なら、わき道を行った方が車がうるさくなくてよいかもしれない。


泊神社案内図

伊織燈籠 本殿背後

付近案内図(再掲)


泊神社 アプローチ図



泊神社門前


泊神社拝殿
 さて、米田天神社と泊神社は、本サイトの諸論文で書かれているように、宮本伊織の関係した神社である。
 泊神社のばあい、社殿・石燈籠は外からいつでも見ることはできる。しかし泊神社棟札となると、そうではない。拝見を事前に申し込むことである。他施設の展覧会に貸し出されている場合もある。それを承知で行くことである。
 一方、米田天神社のばあい、地元の宮本武蔵伊織顕彰会による「宮本武蔵伊織資料館」という資料展示施設が生誕地之碑そばにある。伊織寄進の鰐口(神宮寺蔵)・三十六歌仙扁額(米田天神社蔵)その他があるので是非見ておきたい。しかし、これもふつうは開いていないようである。顕彰会に事前に申し込む必要がある。
 また、もうひとつ、『播磨鑑』の平野庸脩が住んでいた「平津村」と、「米田村」がどれほど近いか、それを自分の足で確かめるといい。歩いて10分ほどの距離である。当時は田んぼのなかの道だっただろう。
【泊神社】
 棟札参観希望は事前に申し込む。
   TEL 079-422-4813


【宮本武蔵伊織資料館】
宮本武蔵伊織顕彰会が平成八年(1996)に作った資料展示施設。生誕地之碑隣地にある。見学は顕彰会に事前に申し込む必要がある。
  TEL 079-432-3527

ついでにどこか見たい人のための周辺案内




宮本武蔵伊織生誕之地 碑
高砂市米田町米田





金ぴかの謎の物体
向うが生誕之地碑
 我々の案内は以上だが、ここまで来たのだから、近所に何かあればついでに見てみたい、という人もあろう。先の「宮本村」案内でもそうしたので、こちらもやらなくては不公平ということになる。(そのつもりはなかったのに、なんだか、観光ガイドみたいになっちまうが)
 そこで、まずひとつめは、やはり武蔵伊織生誕之地碑である。(実は、つい忘れておった)
 上掲の米田天神社近隣図をもう一度見ていただきたい。この碑は米田天神社の前の公園脇にある。
 これは何と言っても、百トンの巨石(!)というのが見ものだ。五トンや十トンの石碑なら見たことはあるが、百トンの巨大石碑なんて見たことはない、という人ならお薦めである。それに、これは平成元年の建立、揮毫者は細川家ご当主であった。
 けれど、ただそれだけである(苦笑)。

 ――と言ってしまえたのは、以前のこと。後で行ってみると、トンデモないものが出来ておった。
 それがすなわち、左の金ぴかの物体である。これが、武蔵生誕地碑の右脇に鎮座ましましているのだ。
 いったいこれは何か。「不老不死大門」とか何とかの文字が見えるから、ますますもって謎は深まるばかり。隣の百トンの石碑さえ顔色なからしめ、見る者をして狼狽させるに十分な、トンデモぶりである。
 これは、見て見ぬふりはできないから、いちおう報告しておかねばなるまい。(後になって知ったが、これは五輪塔を模したもので、田原家先祖代々の墓碑だという。いやはや、これは…)

 この周辺は、竜山石という石材の産地である。周辺の山は石材を切り出している。古墳時代の石棺の材料は、大和でもどこでも、たいていここの石だという。
 だから石の歴史があり石材のプロがいる土地である。百トンの碑にしても、中途半端な石碑は 建てない、という気慨(?)が感じられる。











竜山石の石切場
セザンヌを連想させる光景


生石神社
兵庫県高砂市阿弥陀町
 ならば、古い巨石を見てみたいという人には、すばらしいものがある。謎の巨石を祀った神社がある のだ。それが「生石神社」。
 播磨は古い国なので、上代日本語(あるいは原日本語)を知らなければ、読むのに難渋する名が多い。なかでも、この神社の名はまず読めない。正解は、「おふしこ」または「おひしこ」である。
 またこれが通称「石の宝殿」という。宝殿〔ほうでん〕の方が駅名になったわけだ。
 この「石の宝殿」へ行くには、駅から斜め右に、山へ向かってまっすぐ伸びる通りを行けばいい。途中、総合運動公園などがあり、わかりやすい。この道の突き当たりの山に神社がみえる。
 石段を登り、この神社の拝殿の背後に異様な巨大オブジェを発見する。幅6.4m・奥行7.2m・高5.7m、推定五百トンの物体である。「何だ、これは!」と思う瞬間、 その造形のあまりの異形ぶりに圧倒される。
 モダン芸術の彫刻作品ならいざしらず、こんな抽象芸術風オブジェがを古代人が造ったとは。しかし、何のために??と謎は深まるばかりで、宇宙人の贈物だという珍説まであるほどである。
 それはさておき、この石のオブジェは、日本中の無数の石神のなかでも最もユニークなものであることは間違いない。
 そして、米田天神社の前の公園脇にあった、生誕地碑に並んだあの謎の金ぴか物体が、実はこの石の宝殿をモデルにしたものらしいと、我々は気づくのである。
 もうひとつ、この生石神社で見落とせないのは「算額」である。
 算額というのは、数学問題を解いた人がその記念にこれを額にして奉納したものである。有名なものでは、京都八坂神社の長谷川鄰完奉納の算額(元禄四年)がある。これはなんと70次という高次方程式を用いて解いたものだという。
 この生石神社の算額も日本数学史の「その筋」では有名なものらしい。数学に自信のある人はチャレンジしてみるといい。「和算」のレベルがいかほどか体験できるだろう。数学にからっきし弱い人でもその図形の一種の美しさを味わえることだろう。

これが謎の物神


石の宝殿   Link 

参照文献:
間壁忠彦・間壁葭子著
『日本史の謎・石宝殿』
六興出版 昭和53年
生石神社算額 以下の幾何学問題五つのうち諸君はいくつ解けるかな?

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米田天神社の祭礼準備
 もう一度、米田にもどろう。米田天神社は昭和四十年に台風で倒壊して、建て直されたそうだが、至極質素で小さな社殿である。神社の門前の石碑や、例の金ぴかの物体とは、決定的に違う普通っぽさがある。
 そして、神社の近辺の古い街区は道が狭い。それだけに古い町並みも残っている。急速に都市化した時期があって、田んぼを潰して新しい家並ができたが、古い町がまだちゃんと息づいている。
 酒造蔵などもある。酒好きなら「惣盛」〔そうざかり〕の名を聞いたこともあろう。その製造元「西谷酒造」がここである(上掲・米田天神社近隣図・参照)。
 生産量は年間五千本と稀少である。武蔵マニアなら、伊織ゆかりの「米田村」だ、土産に買って行けばいい。うまい地酒である。

米田の地酒「惣盛」
西谷酒造
Tel 0794-32-3502

米田の懐かしい町並み
ご当地石屋の看板

「惣盛」のクラシックな看板
米田交差点のそば、県道に面す

慎ましい西谷酒造の店
つい見のがしてしまう


焼きあなご

下村商店
高砂市高砂町北本町1172
Tel 079-442-0124

城下商店
高砂市伊保崎南12-24
Tel 079-448-7536
 土産の話になってしまったが、もちろん、高砂あたりの名物は、昔から焼きあなごに決まっている、と主張される方もあろう。関東では鰻は食べても、穴子はなかなか食えない。そういう意味で珍しいものである。
 焼きあなご文化のなかでもこだわりがあって、「下村商店」のあなごでなければならない人もある。贈答品などで有名な高級焼きあなごの明石の「下村」にしても、ここが本家。その味は高砂の焼きあなごを代表するとされる。それだけに下村商店の存在は大きい。
 それに対し穴場とされるのが、「城下商店」である。炭焼きであり毎朝五時には火をおこす。秘伝のダシが独特の奥深い味を生む。亡父の後を嗣いだ娘さん2人でがんばっている。細腕繁盛記である。
 場所を言えば、下村商店は山陽電車「高砂」駅の南、城下商店は同「伊保」駅の南である。
 もうひとつ、食いものの話になるが、加古川名物といえば、カツめしである。駅前に「カツめし」という看板を掲げた店はいくつもある。外来者にはこの 「カツめし」が何だかわからない。
 カツめしというのは、戦後のまだ物が乏しい時代、気軽に箸で食べる「洋食」として発生した。皿に盛った飯の上にカツ(ビーフカツ)を載せ、デミグラスソースをかけ、キャベツを付合わせたのがそれである。
 カツめし屋は現在なお市内には四十店以上、カツめしを出す店なら百軒以上ともいう。むろん高砂にもある。
 このカツめしに対し好き嫌いが分かれるが、戦後一時期の「あの味」をノスタルジックに味わうという点では、なかなか捨てがたいものがあると思うが、どうか。

カツめし



宮本伊織と地元史料
ここからは、例によって、この現地案内はいささかディープな話になっていく。だから、武蔵関係地だけ知りたい人には、次のページへ移られることを薦める。
 さて、上記の通り、米田村周辺は、武蔵の養子伊織の関係地である。近年、武蔵が米田村で生れたなどという新説=珍説が幅を利かすようになっているが、それは江戸時代の地元史料ではありえない珍説である。この点を最初に明確にしておきたい。
 宮本伊織と地元史料ということでは、まず、泊神社の棟札であろう。棟札というのは、造営工事の記録を書いて棟木につける木札のことだが、それには年月・施主・工匠等を記す。今日でも上棟式の折にそれを掲げるケースが多い。
 この泊神社棟札は、承応二年(1653)、伊織が、故郷の氏神である泊神社の社殿を、自身の兄弟たちとともに再建した折のものである。この棟札にも、造営記録として、願主や作事奉行人、あるいは大工棟梁などの名を記す。が、それだけではなく、一面に伊織の表白文を記載する。これは棟札としてはあまり例のない体裁である。
 この泊神社棟札の記事は、武蔵を「父」とする宮本伊織が一人称(「余」)で述べる表白文であり、しかも武蔵死後最初のテクストである。したがって武蔵研究史上、この泊神社棟札の価値は極めて高い。現在までのところ、武蔵関係史料では、第一級の一次史料である。その史料的価値は、同じく伊織が翌承応三年(1654)に豊前小倉郊外の山上に建てた武蔵碑(北九州市小倉北区赤坂 手向山)にまさるとも思われる。我々はこれを「伊織棟札」と呼んでいる。
 この棟札の文章には、伊織の「父」武蔵や、武蔵の「父」である新免無二のことが、ごく短く述べられている。それは、

作州の顕氏で神免なる者があったが、天正年間に、あと嗣ぎが無いまま、筑前秋月城で亡くなった。その遺を受け家を承けたのを武蔵掾玄信という。〔玄信は〕後に氏を〔新免から〕宮本と改めた。また、子が無いため私が義子〔養子〕になった。ゆえに、私は、今その氏〔宮本〕を称するのである。(原文漢文)

ということであり、つまりは、神免(新免無二)、武蔵掾玄信(武蔵)、余(伊織)の三代の関係を記す。この短い記事が、武蔵研究においてきわめて重要な意義をもつのは、本サイトの[資料篇]泊神社棟札の読解研究で述べられている通りである。
 この記事から知れるのは、武蔵が新免無二の実子ではなく、また伊織が武蔵の養子になったことであるが、武蔵が新免無二の実子ではないことは、この棟札記事より他には記録がない。伊織は武蔵を「父」とする者である。したがって、これはきわめて重要な証言なのである。
 しかも、無二と武蔵の義理の父子関係について、看過できない重要な証言を含んでいる。つまり、武蔵は無二の生前養子になったのではない、無二が嗣子なく死んで絶えたその家を継いで再興したということである。そして、ここに記されているように、無二が天正年間に九州の筑前秋月城で死去したのであれば、武蔵はそのときまだ児童であり、無二とは一度も会っていない可能性すらある。
 したがって、伊織の棟札記事によれば、以下のようなことが言える。武蔵を無二の実子とする説は誤りである。また、武蔵が無二の生前養子になって、無二に養育されたとする説も同様に誤りである。双方とも近年興行されている説であるが、伊織の棟札記事はそれを事実無根と否定するものである。
 また、伊織の棟札記事によれば、武蔵は新免無二の遺した家を継いだとあるから、それで、武蔵は新免氏を名のるようになったことが知れるが、それに対し、宮本姓は、武蔵の代になってから用いはじめたものである。したがって、新免無二を、「宮本」姓にしてしまう後世文書は、すべてこの事実を知らずに書かれたものである。たとえば、「宮本無二」「宮本無二之助」「宮本無二斎」などという名は、それが無二を指すとすれば、本来ありえないものであり、この種の名を記すものはすべて後世の伝説によるものとみなしうる。
 このように、新免無二を宮本氏にしてしまうのは、無二が武蔵の実父だと思い込んでいるためである。武蔵が「宮本」武蔵なら、その実父は当然宮本氏だという臆測である。しかしこの臆測が始末に悪いのは、その主がこれが臆測だと気づかないところである。
 かくして、後世さまざまな文書に「宮本無二之助」や「宮本無二斎」が登場することになったのだが、今日でもなお、この謬説を無定見に反復している者が多い。しかし、伊織の棟札記事をみれば、それが誤りであることが知れる。
 伊織は、武蔵の養子になって、宮本氏を名のるようになった。そのときは、すでに武蔵は、宮本武蔵である。姫路で、三木之助を養子にして、宮本家を創設していたからである。
 すでに、姫路城下の案内で述べられていることだが、三木之助の甥に宮本小兵衛という人物があり、彼が残した宮本家の先祖書が『吉備温故秘録』に収録されている。それによれば、三木之助は武蔵の養子となり、本多中務(忠刻)に近習として仕えたのだが、宮本家の家紋として「九曜巴紋」を付けるようにとの忠刻の「御意」で、それを付けるようになった、この九曜巴は本多家の「御替御紋」だと聞いている、とのことである。
 つまり、三木之助は自家の家紋として、本多家の替紋を頂戴したというのである。この由来の当否はともかく、伊織の宮本家でも同じ九曜巴を用いた。とすれば、伊織の明石宮本家より早い成立の姫路宮本家から、九曜巴を用いはじめたということである。
 ところで、九曜巴紋は泊神社にも用いられていることに注目したい。この紋の由来は聞かないが、おそらくこれは古くはなく、泊神社は承応二年(1653)の社殿再建を期に、伊織の宮本家の家紋を用いるようになったのであろう。とすれば、泊神社の九曜巴紋は、そもそも姫路宮本家以来の家紋だったということになる。とすれば、これも奇縁というべきであろう。
 ただし、宮本家の家紋と同じものが泊神社に用いられているからといって、武蔵がこの地に生れたなどと、早とちりしないことだ。上述のように、泊神社は承応二年(1653)の社殿再建を期にそうしたのであって、それ以前には別の社紋であろう。しかもその九曜巴紋は、本多家の替紋を賜ったとすれば、武蔵の姫路以来の使用紋であり、それ以前ではない。
 伊織から八代目の子孫、宮本貞章が書いた宮本家由緒書(弘化三年・1846)に、おもしろい記事がある。それによれば、幸左衛門実貞の代、元禄年間に、播磨から泊神社の社人が九州の小倉へやってきた。伊織の家来筋の者というから、そういう家来筋の子孫が播磨に居たらしく、その者一人同道で、泊神社の社人が小倉の宮本家へやってきたのである。
 遠路はるばるの用向きは、泊神社が破損したので、補修の助成を願いたいとのことである。社人が言うに、「もし宮本家が少しも助成しないようであれば、社頭にある定紋の九曜巴を取り外し、別の紋を付けることにする」と。これは半ば脅迫である。子孫としては、先祖貞次(伊織)が再建した神社で、宮本家の紋が付いている。それを取り外されたら、先祖に申し訳が立たない。それでかどうか、白銀五枚を修繕費として与えたという話。
 これによってみれば、泊神社の九曜巴紋は、やはり宮本家の紋を使ったものらしい。そうでなければ、「九曜巴を取り外すがよいか」という社人の言葉も駆け引きの手段にはならない。余談になったが、後世の興味深い逸話である。

 ところで、周知のごとく、「泊神社棟札によって、武蔵が米田村に生れたとわかる」などという珍説が近年興行されている。しかし、上の引用記事をみればわかるように、当の棟札にはそんなことは一言も書かれていない。そして、武蔵がどこに生れたのかも記していないのである。
 そうすると、武蔵や伊織がどこに生れたか、それを書いているのはどの史料なのか。
 それは、本サイトでの読者にはおなじみの、言わずと知れた地元史料『播磨鑑』である。そこには、武蔵が揖東郡宮本村で生れたこと、武蔵養子の伊織が印南郡米田村に生れたことが、並べて明記してある。それ以外にはこの件の直接史料はない。そういう意味で、『播磨鑑』の記事は重要な意義をもつ。
 他方、地元史料ではなく、伊織子孫が十九世紀半ばに書いた、九州小倉の宮本家系譜文書には、伊織が田原甚兵衛久光の二男で、この米田村に生れたと記している。これは地元史料『播磨鑑』の記事と一致するから、問題はない。
 しかるに、問題は、その小倉宮本家系譜には、武蔵は「田原甚右衛門家貞二男」だと書いているところである。田原甚右衛門は伊織実家の祖父である。伊織の祖父の二男だから、伊織にとっては叔父にあたる人物にしている。
 ところが、そんなことは泊神社棟札の伊織は書いていない。祖父の田原甚右衛門、父の甚兵衛の名は出しているが、武蔵が祖父の二男(叔父)だとは述べていない。
 伊織が書いているのは、自分が武蔵の「義子」になったことである。これは養子縁組での義理の子である。ただし、通例、親類の子が養子になる場合は「猶子」と記す。もし、伊織が武蔵の甥ならば、ここは「義子」ではなく「猶子」と書いたはずである。そうでない以上、武蔵と伊織には親族関係はなかったとしなければなない。
 しかも、米田村の田原家のことならよく知っている平野庸脩の『播磨鑑』にも、そんなことは書いていない。平野庸脩は米田村隣村の平津村住の学者である。ゆえに、宮本伊織のことは、一項を立てて詳しく書いている。伊織の父は甚兵衛だと記す。伊織の母についても書いている。しかし、武蔵が伊織の祖父・田原甚右衛門の二男だとか、伊織の叔父だとか、そんなことは書いていない。
 もちろん、明確にしておくべきは、小倉宮本家系譜には、武蔵は「田原甚右衛門家貞二男」だと書いていても、武蔵が米田村の産であるとは書いて「いない」ことである。したがって、当節流行の武蔵米田村出生説は、実は根拠史料をもたない虚説にすぎない。
 もし武蔵が隣村米田村の産なら、『播磨鑑』の平野庸脩がそれを書かないはずがない。しかし、庸脩は書いていない。むしろ、庸脩は武蔵は揖東郡宮本村の産だと明記している。
 このように、九州の小倉宮本家系譜より一世紀早い『播磨鑑』の記事をみれば、十八世紀半ばには地元播磨、もっと言えば加古川下流域の地元では、武蔵が米田村に生れたなどという説は存在しなかった。また、武蔵が伊織の叔父だなどいう説もなかったのである。これは注意を喚起すべきところである。
 遠い九州の伊織末孫が書いた記事と、それより一世紀前に、地元も地元、米田村隣村の平津村の学者が書いた記事と、どちらが信をおけるか、そのことは論を俟つまでもない。
 かくして、結論を言えば、米田村あるいは加古川対岸の泊神社については、それは伊織関係地として意義があるのであり、武蔵関係地とみなすことはできない。
 近年、「武蔵は印南郡米田村に生れた」などという珍説の興行があるが、以上のことから、それは根拠なき妄説だと断じてよい。そして、武蔵は米田村に生れて、美作の新免無二の「養子」になり、美作で養育されたという、播磨説と美作説を足して二で割ったような珍説も同様である。泊神社棟札によれば、武蔵は無二の生前養子になったのではないし、無二に嗣子として養育されたのではない。伊織が明記しているように、新免無二は「無嗣」で死んだのである。
 これらの僻説は、泊神社棟札の記事を根拠にしていない。したがって、この棟札の記事から、武蔵が米田村で生れたことがわかる、などという虚説は、むしろ泊神社棟札の史料的価値を損傷するものにほかならない。言い換えれば、泊神社棟札の史料的価値を保全するためには、そうした虚説をあえて捨てる勇気が、顕彰会はじめ地元の人々になくてはなるまい。



泊神社棟札
文は漢文で伊織の自撰


[資料篇]   泊神社棟札 



【泊神社棟札】左の部分の原文
《有作州之顕氏神免者。天正之間、無嗣而卒于筑前秋月城。受遺承家曰武藏掾玄信、後改氏宮本。亦無子而以余為義子。故余今稱其氏》









新免無二関係地図















*【吉備温故秘録】
《宮本三木之助 [中川志摩之助三男にて、私ため實は伯父にて御座候] 宮本武藏と申者養子に仕、児小姓之時分、本多中務様へ罷出、七百石被下、御近習に被召出候。九曜巴紋被付候へと御意にて、付來候、御替御紋と承候。圓泰院様〔忠刻〕寛永三年五月七日御卒去之刻、同十三日、二十三歳にて御供仕候》



九曜巴 宮本伊織家家紋



泊神社本殿の九曜巴紋

*【宮本家由緒書】
《實貞ニ至り元禄年中泊り大明神破損之時、彼地之社人、貞次家来筋之者壱人同道ニ而罷下、右修覆助成之義願來、此度少シニ而も手を懸不申候得は、氏子中より修補致候、然ル上は、社頭ニ有之候定紋九曜巴取除、外之紋付申候由、右之者共申出候。遥路罷下右之趣故、白銀五枚爲修補料遣之。於于今棟木ニ九やう巴金めつきニて付有之。貞次寄進之石灯籠数多有之、山門舞台等も有之、餘ほどの大社也》



宮本氏歴代年譜

*【宮本氏歴代年譜】
《玄信  田原甚右衛門家貞二男。新免無二之助一真ノ為養子。天正十壬午年ノ出生。号宮本武藏》


*【播磨鑑】
《宮本武藏  揖東郡鵤ノ邊宮本村ノ産也。若年ヨリ兵術ヲ好ミ、諸國ヲ修行シ、天下ニカクレナク》
《宮本伊織  印南郡米田村ノ産也。宮本武藏、養子トス》
《宮本伊織  米田村に宮本伊織と云武士有。父を甚兵衛と云。元来、三木侍にて別所落城の後、此米田村え來り住居して、伊織を生す》

[資料篇]   播磨鑑 



印南郡細見図(部分) 寛延二年

伊織父祖の地・三木周辺案内

 米田村隣村・平津村の住人、平野庸脩の『播磨鑑』には注目すべき記事がある。それは、宮本伊織の父は、元来、三木侍であって、別所長治の三木城落城の後、この米田村へやって来て住居して、伊織を生した、ということである。
 伊織の実家・田原氏は、この米田村に居ついていたのではない。伊織の父・甚兵衛の代になって、米田村にやってきた。そうして伊織はここで生れたというのである。これは重要な証言資料である。
 なるほど、伊織は実家の兄弟たちと田原家の墓所を設けているが、それは米田村にはない。それはどこに設けたかというと、三木の本要寺である。三木は、加古川を遡った中流域にある町で、もともと別所氏の三木城があった土地である。
 平野庸脩が書いているのは、父甚兵衛は「元来、三木侍」だということである。三木侍とは、三木城主・別所氏の麾下にあった武家だということである。伊織ら兄弟が父祖の墓を三木に設置したのは、父祖が「元来、三木侍」だったからである。
 というわけで、我々は、その三木まで行かねばならない。以下は、伊織の父祖関係地の探訪記である。ガイドは、むろん『播磨鑑』の平野庸脩である。
 米田村は加古川下流域の村だが、三木は加古川中流域の内陸部にある。では、その三木へ行くにはどうするか。これはもちろん車でも行けるが、バスでも電車でも行ける。
 バス利用の人は、加古川駅前から三木行きのバスが出ているので、それで三木まで直行できる。これが一番かんたんである。

  【鉄道利用のケース
 ローカル鉄道の風情を楽しみつつ電車で行きたい人は、「加古川」駅からJR加古川線で出発である。加古川線は、神戸線と違って、発着本数が少ないので、事前にチェックが必要だ。まずは、その加古川線で、加古川沿いに「厄神」(やくじん)駅まで行く。そこで、三木鉄道に乗り換える。
 三木鉄道は第3セクターの路線である。厄神と三木の間、七キロ足らずを往復する。これも本数が一時間に一本ていどだから、チェックが必要だ。この三木鉄道で終点の「三木」まで行く。
 この三木鉄道は平成二十年(2008)春には廃線の予定とか。三木駅には国鉄時代の駅舎・改札口がそのまま残っている。レトロな昭和の姿をもう一度見たい人なら、乗っておくのは今のうちである。





三木への電車路線マップ

三木鉄道

三木鉄道 三木駅構内

三木鉄道 三木駅舎
 加古川からではなく、もっと遠くから新幹線で来て、直接三木へ行くという人なら、新幹線の「新神戸」駅で下りて、市営地下鉄で「湊川公園」(みなとがわこうえん)まで行き、そこから神戸電鉄に乗り換える。こちらは「湊川」駅である。
 神戸電鉄はローカル私鉄だが、このあたりは本数はあるから、そう気にしなくてよい。神戸電鉄「湊川」駅で、できたら粟生(あお)線直行の電車に乗りたいが、そうでなければ、有馬温泉へ行ってしまう(!)から、湯治の用のない人は、途中の「鈴蘭台」まで行って、そこから粟生線の電車に乗換えだ。
 粟生線の「粟生」(あお)というのは、読みが珍しいが、この路線の終着駅。その途中に「三木」駅がある。「湊川」からは小一時間、「鈴蘭台」からでも四十分と、かなり時間がかかるが、遠方から直行の人にはこのコースのほうが迷わなくてよい。

 【車で行く人の場合
泊神社のある加古川からだと、県道18号で加古川沿いに10kmほど行く。途中、国包(くにかね)あたりで土手の道に標識があって、そこを右へ細い道を土手を下りて県道20号線。このポイントが少しわかりにくいから要注意だ。そこからは、道なりに9kmほど行けば、三木に着く。
 遠くから三木へ直行という人は、山陽自動車道。東から来る人は、中国縦貫道の「神戸JCT」から山陽道へ入る。そのまま姫路方面へ行けば「三木小野」ICがある。それを下りると、三木である。山陽道の途中に「三木JCT」があるが、これを間違えると、淡路島へ行ってしまう(!)ので注意のこと。
 比較的近い神戸・大阪の人は、阪神高速・第二神明と来て、「垂水JCT」から「三木JCT」を経由して、同じく「三木小野」ICで下りる。
 それとも、第2神明で「玉津」ICまで来て下り、そこから国道175号を十三kmほど北上すれば、三木である。時間は大して変らないだろう。

 三木周辺まで来ると、右の図のようなぐあいである。山陽道を「三木小野」ICで下りた人は、国道175号を右折して南下して、間もなく「大村」という交差点があるので、それを左折して、道なりに行けば、三木の中心部へ出る。
 国道175号線を北上してきた人は、「福井」ランプというのがあるので、それを下りる。下りると高架下の道があるので、それを右折して、三木方面へ行く。すると間もなく、「鶯谷」という三叉路に出るので、それを左折するとよい。
 加古川方面から車で来た人は、県道20号で来ているはずだから、そのまま国道175号の高架下をくぐって、まっすぐ行けば「福井」という交差点に出るので、それを左折すれば、三木の中心部である。
 鉄道で来た人は、三木鉄道のばあいは終点「三木」駅で下りる。そこで東に歩けば、三木の中心部、「本町」である。神戸電鉄で来た人は、同名の「三木」駅で下りる。駅前の道を左手にとり、美嚢川にかかる橋を渡ると、これも本町へ出る。


神戸電鉄 三木駅



三木への道路マップ


三木周辺マップ

三木市街マップ

三木 本要寺
 さて、この三木でのお目当ては、本要寺(現・兵庫県三木市本町二丁目)と箕谷墓地(同本町三丁目)である。
 本要寺は、「本町」交差点から東へすぐのところにある。道路に面した大きな寺なのでわかりやすい。近年(平成十六年か)堂宇を新築したらしい。以前と異なり、すっかり新しくなっている。
 吉祥山本要寺という。日蓮宗の古刹で、田原家の菩提寺であったらしく、もともと伊織ら兄弟は父祖の墓をここに建てたのである。『播磨鑑』には、「法華宗一致派、在三木町。京都本國寺末寺。境内壱丁四方、竹木大多シ」とある。
 本要寺は、そのように、もとは一町(百m)四方の広い寺域であったが、戦後の市街地区画整理で削られ、墓地は箕谷の方へ移転した。伊織ら兄弟が建てた墓碑も、現在は箕谷墓地へ移っている。
 かくして、本要寺には墓がないのだから、それでは、本要寺からその箕谷墓地の方へ行くとして、いちおう本要寺さんには、礼儀として断りを入れておきたい。

 さて、旧市街のこととて、道は細いし少しわかりにくい。が、歩行の人なら、「本町」交差点から南へ行き、突き当りを左へ折れ、大宮八幡宮の鳥居をくぐって参道を進む。石段から少し手前の角、家の壁に「宮前町公民館」の案内板がある。そこで右折して、民家の間を行けばよい。
 車の人も、墓地のそばまでアプローチできるが、道が狭いので要注意だ。わかりやすいのは、上記の歩行者のケースと同じく、大宮八幡宮の参道に入って、石段より少し手前の「宮前町公民館」の案内板がある角で右折して、路地を入るコース。民家の間の狭い道を200mほど行くと、宮前町公民館と公園の前に出るから、その三叉路あたりに車を停めさせていただいて、歩けばすぐそこである。
 そこから奥の谷あいは公営墓地になっているが、田原家の墓はその中ではなく、手前にある。公民館のすぐ先の右手に、ひとかたまりの小さな墓地がある。「本要寺箕谷墓地」の碑がある。民家に隣接して二方を囲まれたかっこうである。
 水路にかかる小橋がある。それを渡って、錆びた鉄柵の脇から入り、古い墓石群の右奥の突き当たりに、大きめ墓碑がこちらを向いている。それが、田原家の墓碑である。
 市街地区画整理で、本要寺からここへ移されたのだが、現状は見ての通り、窮屈に押し込まれたかっこうである。伊織の父祖の墓を訪ねて来た者には、すこし気の毒な感じがするだろう。

箕谷墓地へのコース


大宮八幡宮


墓碑の場所

本要寺箕谷墓地 奥に田原家墓石がみえる

田原家墓碑

伊織両親の墓碑銘
 田原氏関係の石塔は三つある。中央の高い壇に設置されているのが、伊織ら兄弟の父母の墓碑。これは伊織ら四兄弟が建てた。
 そして、今日では墓石風化して碑銘はほとんど読めないが、向って右手が父方、田原家祖父母の墓碑であり、左手は母方、小原家の方の祖父母の碑ということらしい。この二つは、伊織の母・理応院が建てたというが、おそらく、泊神社の灯籠のように、彼女の名義で息子の伊織らが設けたのであろう。
 なお、伊織弟の小原玄昌の子孫の一人が、三木にもどって一文字屋という商人となり、三木に存続したという話もある。本要寺が宝蔵に保存してきた膨大な文書があって、三木の歴史研究に欠かせない史料である。それが『三木市有宝蔵文書』として刊行されている。むろんそこには一文字屋も名を出している(同書・第五巻)。十八世紀後期、三木町の酒造株六軒の中に、一文字屋「四拾石 中町一文字屋 庄右衛門 」がある。『播磨鑑』の平野庸脩の時代は、それよりすこし前だが、三木の酒造家として中町の一文字屋は知られていたことであろう。
 平野庸脩の『播磨鑑』に、「伊織の弟に大原玄昌という人があり、この人の石碑が、いま、三木町本要寺にある。これは伊織が玄昌とともに寄附したものだ」という記事がある。したがって他にもあったかもしれないが、現存するのはこれだけである。
 さて、我々の探訪に関係するのは、この三基の墓碑、中央の伊織ら兄弟の父母の墓碑と、左右の祖父母の墓碑である。
 これらの墓碑は現在では風化が著しく、また父母墓には補修のためかセメントで埋めた箇処もある。そのままでは判読できない刻字があるが、その昔、読み取った記録があるので、とりあえずそれをここに示すが、再度読み取りの上訂正の必要があるのは申すまでもない。
 伊織ら兄弟が建てた父母の墓碑銘を見るに、播州印南郡河南庄米堕之生の田原久光とあって、これが父の田原甚兵衛久光である。寛永十六年(1639)六十二歳とあるから、生年は天正六年(1578)であり、天正十二年(1584)生れの武蔵よりも六歳年長ということになる。
 母の方は「理応院」で、攝州有馬郡小原城主、源信利女とある。この信利は、泊神社棟札に、「上野守源信利」としてその名が出ているところである。棟札の伊織によれば、摂州有馬郡小原城主・上野守信利に嗣子・信忠がいたが、播州三木城主・中川右衛門大夫(秀政)の麾下に属し、秀吉の朝鮮侵略戦に従軍して戦死してしまった。兄弟姉妹が私を生んだ母一人で、男子が無く、小原家は信忠で絶えた。それで玄昌(貞隆)が母の実家を継いだのである、云々。
 母は、承応元年(1652)六十六歳とあるから、生年は天正十五年(1587)であり、それも播州三木之生とあるから、彼女は三木生れだということになる。
 そして、葬山城國深草山寶塔寺という記事があるから、京都伏見の深草山宝塔寺に葬ったということである。これは、父の田原久光にも廟深草山宝塔寺とあるから、父母の本墓は深草の宝塔寺にあるというわけである。三木本要寺の法華宗(日蓮宗)の本山という縁であろう。現に、その宝塔寺に墓が残っている。
 これは、伊織弟の玄昌が、京都で医師として出世してそちらにいたので、おそらく老父母を引き取っていて、伊織の父母は京都で死去したのであろう。そこで、玄昌が中心となって、深草の宝塔寺に墓を設けたのである。宝塔寺の墓は、建碑者代表名が貞次(伊織)だが。
 三木の本要寺にも、同じように墓を設けたのは、この三木が父母の故地であったからである。田原氏は三木侍であり、また母・理応院は三木生れである。
 墓碑には、「孝子」として4人の兄弟の名を記す、右に「田原吉久・田原久次」、左に「宮本貞次・小原玄昌」の名がある。
 泊神社棟札には、家兄・田原吉久、舎弟・小原玄昌、及び田原正久と記している。田原吉久は、長男の吉久で、大山茂左衛門。田原久次は末弟の正久で、田原庄左衛門。それに宮本貞次が二男の伊織で、四男が小原玄昌である。三男は早世したので、実際はこの四兄弟である。
 では、続いて祖父母の墓碑も見ておこう。これは、いまや風化損耗が進んで、ほとんど判読できないので、昔の記録を転記しておく。ただし、記録内容については保証のかぎりではない。








深草山宝塔寺の墓
京都市伏見区



*【田原氏略系図】

 田原右京大夫  田原甚右衛門
○貞光(曽祖父)─家貞(祖父)┐
 ┌─────────────┘
 │田原甚兵衛 大山茂左衛門
 └久光(父)┬吉久
       │
       ├貞次 宮本伊織
       │
       ├某 丑之助 早世
       │
       ├某 小原玄昌法眼
       │
       │田原庄左衛門
       └正久

母方小原氏外祖父母の墓碑銘

三木 田原家墓碑
三基のうち中央が父母墓、
左が外父母、右が内祖父母


父方田原氏内祖父母の墓碑銘
 ここには、父方と母方の祖父母四人を記している。右の方が父方田原氏の祖父母、左の小ぶりな方が母方小原氏の祖父母である。伊織ら兄弟からすると、右は「内祖父母」、左が「外祖父母」ということになる。
 父方の「慈性院」は、田原甚右衛門家貞である。天正五年(1577)死去である。三木侍としては、三木合戦の前だから、これは戦死ではなく病死であろう。しかし、甚右衛門家貞が天正五年三月に死んで、息子の甚兵衛久光が、翌天正六年(1578)生れだから、かなり微妙なところだが、これは勘定が合わないでもない。胎中にあるうちに我が父が死ぬことがあるからである。
 伊織子孫の小倉宮本家の系譜では、武蔵を田原甚右衛門家貞二男とするが、武蔵は天正十二年生れだから、はじめから勘定が合わない。甚右衛門が死んで、七年後に武蔵は生れているのである。そうした矛盾を無視して、武蔵は田原甚右衛門の二男で、甚兵衛の弟(つまり伊織の叔父)だと強弁する近年の説の妄説たることは杲らかである。
 それよりも、久光の母たる「清光院」の方が問題である。彼女の没年は、天正元年(1573)だから、甚兵衛久光の出生より五年前に死去している。ゆえに彼女は甚兵衛の実母ではない。伊織の父・甚兵衛久光が、三木生まれではなく、印南郡米田村生まれというのも、何かそのあたりの事情がありそうである。ようするに「清光院」は甚右衛門の正室ということで、墓碑にその名をとどめたものと思われる。
 他方の、母方の祖父母はいかがか。「善照院」は、前述の小原上野守信利である。伊織らの外祖父である。この人は天正十五年(1587)歿である。祖母は「常光院」で、彼女は元和九年(1623)歿だから、伊織や玄昌が幼少の頃まで生きていたようである。
 墓碑には小原信利は摂州有馬郡小原城主とあり、泊神社棟札にも同様の記述があるが、有馬郡には「小原城」はない。しかし、これは誤伝かというとそうでもなく、「大原城」なら存在した(現・兵庫県三田市大原)。三木からは、美嚢川を遡って、武庫川水系の谷に出れば、摂津有馬郡の三田であり、大原城址までその距離約十里、歩行一日というところである。
 地元史料の『播磨鑑』でも、「小原」玄昌ではなく、「大原」玄昌と記す。そういうところをみると、播磨を離れた後、「大原」を「小原」とするようになったのであろう。大原(おおはら)は小原(おはら)に転訛しやすい。たぶん伊織の世代になって「大原」を「小原」と記すようになったのであろう。
 この大原城主について、従来の武蔵研究では正確な情報がない。したがって、ここで若干説明しておく。
 摂津有馬郡の大原城主の大原氏は、大原村と川除村二村の小領主、その大原城は、天正のはじめ荒木村重(1535〜86)に攻められて落城した。泊神社棟札や墓碑に、小原信利を「摂州有馬郡小原城主」と記すから、信利は最後の大原城主であったのだろう。ただし、摂津側の史料には、この信利に関する情報はない。また大原氏菩提寺の青原寺が同地に現存するが、信利の名は確認していない。
 三木合戦の当時、摂津の荒木村重は、信長に叛旗を翻し毛利方についたが、麾下の高山右近や中川清秀が織田方に寝返って、村重は敗走して毛利氏に身を寄せた。そういう経緯のあるなか、大原城を退転した信利は、中川氏に属したようである。
 中川清秀の子・秀政(1569〜1593)は、天正十三年(1585)に、摂津茨木城主から、播州三木城主に転封してきた。そのおり、伊織の祖父・信利も三木へやってきたと思われる。娘の理応院は三木生れというから、大原家が三木へ移った後に生れた子である。
 信利の歿年は天正十五年(1587)である。豊前で戦死。これは、秀吉の九州制圧戦の一端、豊前田川郡香春岳の城攻めの際のことである。一方、嗣子の信忠は、秀吉の朝鮮出兵に中川秀政麾下で参加して戦死した。小原家系図によれば、信忠の歿年は文禄元年(1592)である。
 伊織の母(理応院)は、墓誌によれば、承応元年六十六歳歿だから、彼女は父信利が死んだ年(天正十五年・1587)に生れたことになる。そして、兄信忠が文禄の役で死んだとすれば、六歳の時(1592)兄を失ったということになる。
 このため、理応院の母・常光院は、幼い娘を連れて、三木の近くの垂井庄に身を寄せたと思われる。それが、伊織母について、『播磨鑑』が《此伊織殿、母は加東郡垂井ノ荘宮ノ脇村ノ人也。依之、伊織も久敷、宮ノ脇村に被居由》というところ、その垂井庄宮脇村で、伊織の母は人となったのであろう。ここは後で行ってみる。



*【墓碑による祖父母関係図】

田原
慈性院(家貞)
    ├─正法院(久光)
   (?)  ├──┬吉久
小原      │  ├伊織
善照院(信利) │  ├玄昌
    ├──理応院 └久次
   常光院      (正久)











有馬郡大原城址
兵庫県三田市大原







伊織母関係地図

ついでに三木周辺案内
 せっかく三木まで来たのだから、ついでに三木城址でも見たいところである。それだけではなく、『播磨鑑』に「元来、三木侍」という田原家に関係するところなので、いちおう問題の三木合戦について述べておけば、こうである――。
 天正のはじめ信長の頃、播磨の状況は群雄割拠、その中で、三木城の別所氏は東播磨6郡を勢力下において、播磨中西部の諸城主と抗争を繰り返していた。
 別所氏は赤松末葉の一土豪であったが、戦国時代加西郡から出て東播磨に抬頭し三木城を拠点にして、十六世紀半ばには一大勢力となっていた。
 しかし全体の情勢は、東から信長勢が伸張し、西からは抬頭した毛利氏が備前美作に迫り、播磨地方は織田方と毛利方の勢力拮抗線上にあろうとしていた。
 天正五年(1577)信長は、中国攻めの前線として播磨制圧に乗り出し、秀吉を主将とする軍勢を差し向けた。当時の三木城主・別所長治(1558?〜80)は、信長の意を受けて播磨掃討の先導役をつとめた。
 しかし、翌天正六年(1578)になって状況は一変した。別所長治ほか同じ播磨の、御着城主・小寺政職や長水山城主・宇野政頼が、信長に叛旗を翻し毛利方に与したのである。他方、赤松宗家の置塩城主・赤松則房や龍野城主・赤松広秀らは従前通り信長方についた。秀吉は再度播磨制圧のやり直しである。かくして、播磨は全面戦争の様相を呈するようになった。
 別所の手勢はまず四月に細川庄の冷泉氏を討った。三木城は八月には籠城戦となり、秀吉の大軍が包囲する干殺しの持久戦となった。籠城したのは家臣や与党武士団、そして領民たちで、その数一万人という。包囲軍と小競り合いを繰り返しながら籠城は一年半に及び、城内は過酷な飢餓状態におちいった。そして周辺の諸城が陥落するなかで、天正八年(1580)正月、別所長治は降参の使者を立て、妻子もろとも自害し果てた。
 かくして三木城の別所氏は滅亡したが、一族の中で長治の叔父・別所重棟だけは信長に従った。秀吉の指示で重棟女と黒田官兵衛嫡男松寿丸(長政)の婚約があり、重棟は黒田官兵衛の手の内にあったという。重棟はその後豊臣大名になり、福島正則の姉妹を妻にした。この系統は後世まで存続したが、地元では裏切り者扱いで後々まで酷評されたらしい。
 ともあれ、天正八年(1580)正月に別所長治は降伏し、将兵と領民の助命と引き換えに切腹した。現在、三木城址にはいくつか碑が立っている。「今はただうらみもあらじ諸人の命にかはる我が身と思へば」の辞世の歌碑が上の丸公園にあり、雲龍寺には夫妻の首塚があり、別所町の法界寺には別所氏廟所がある。そのあたりは地元の観光案内にあるので、三木城関係のガイドはそれらを参考にされたい。→  Link 



秀吉侵攻当時の播磨諸城主





三木合戦絵図 法界寺蔵
兵庫県三木市別所町東這田
別所長治の菩提寺。命日には毎年
追悼供養に絵解きが上演される


別所長治辞世歌碑 上の丸公園

首塚 雲龍寺

別所氏廟所 法界寺




藤原惺窩像



睡隠姜先生影幀
 三木まで来ているのだから、もうひとつ、見のがせないスポットがある。それが、藤原惺窩ゆかりの細川庄である。
 藤原惺窩(1561〜1619)は、近世儒学の黎明を開いた人で、日本思想史に名を残した学者である。武蔵が京都の知的・芸術的環境の中で修養をつんだときの人脈の中心にこの惺窩がいたと思われる。
 武蔵は『五輪書』で、天道や理という語を使用しているが、これは藤原惺窩の影響である。惺窩は、通俗道徳思想としての天道観念を朱子の理学で洗練させた。「夫れ天道とは理なり。此理天に在りて未だ物に賦せざるを天道といふ。此理人心に具わりて未だ事に応ぜざるを性といふ。性も亦理也」等々の言説が惺窩文集に記録されている。
 すでに[サイト篇]龍野のページで紹介されているように、惺窩の在京人脈に武蔵を送り込む機縁となったのは、もと龍野城主の赤松広秀(1562〜1600)であろう。惺窩と赤松広秀は、龍野で少年時代からの知友である。
 秀吉の朝鮮侵略の獲物には財宝以外にさまざまあるが、陶工や美女など人材も拉致してきた。その一種が学者である。朱子学者・(カンハン)は藤堂高虎の捕虜となって、日本へ連行され、はじめ四国の大津(大洲)城下にいたが、慶長三年(1598)に京へ移され藤堂家の伏見屋敷で軟禁された。そのとき、惺窩は姜と知り合い、その朝鮮朱子学に大いに思想的刺激を得て、四書五経新版板行により新しい儒学運動を興起した。それをサポートしたのが、旧友・赤松広秀である。
 姜の『看羊録』に、――自分は倭京(京都)で、倭(日本)の実情を知ろうとして、ときおり倭僧(日本人僧)と会った。妙寿院の僧で、舜首座という者(惺窩)があり、京極黄門(藤原定家)の子孫で、但馬守赤松左兵(左兵衛、広秀)の師である。きわめて聡明で古文(儒書古典)をよく解し、書に通じないものがない。性質は強く厳しく、倭で容れられるところがない、云々。
 上記のように三木城の別所長治はじめ、信長に抵抗した播磨諸城主は滅亡したが、赤松広秀は早期に秀吉に与し、その後豊臣大名として活路を見出した。広秀は慶長五年の関ヶ原戦のおり、西軍に属し、細川幽斎の丹後田辺城包囲戦に加わったが、その後東軍に鞍替えし、鳥取城を攻め落とした。しかし家康の勘気を買い、鳥取で切腹自害した。これにより、大名家としての赤松氏は最終的に滅亡した。
 この広秀の死により、新宋学文書の刊行も挫折したが、その後惺窩は、広秀より十九年長生きして、その門下には林道春(羅山)・那波活所・松永尺五・堀杏庵など俊英を輩出して、近世日本儒学の祖と言うべし。
 この惺窩は、三木に近い細川庄の生れである。というのも、惺窩の父は、藤原定家の子孫、下冷泉家の冷泉為純(1530〜78)。戦国時代になって、京の公家たちも自家荘園のある地方へ逃れることが多かった。また新興武士勢による押領が流行して、荘園管理も行き届かない。そこで下冷泉家も、十六世紀はじめ、権大納言で播磨権守兼任の政為・為孝のころには、細川庄へ下向して、京と播磨の二重生活というのが常態になっていたらしい。
 為孝の子・為豊のころには、京と疎遠になりほとんど在庄するようになった。為豊の子が為純で、惺窩の父である。もうこの頃には、公家とはいえ、冷泉為純は城郭を構えて、戦国武士と変らぬ姿となっていたのである。細川城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸に濠を備え、西に美嚢川(吉川川)を天然の掘割に取り込んだ城館であった。ただし「細川城」とはいえ、東西幅百mほどにすぎないから、構居というに近い規模である。
 天正六年(1578)、信長との対決を覚悟した三木城の別所長治麾下へ七千五百騎の武士が結集したとき、冷泉為純はこれに応じず、信長方に与した。別所勢は細川館を攻め落とし、為純・為勝父子は戦死した。
 そのとき、惺窩は十八歳である。すでに出家して法号は宗舜、龍野近在の禅院・景雲寺にいた。林羅山の『惺窩先生行状』によれば、惺窩は七〜八歳のころ景雲寺で出家し、そこでに学ぶ。師の九峰宗成は相国寺の塔頭玉龍庵に住したことがある。中世の禅宗寺院は、じつは儒学ことに宋儒の学問の府でもあった。そういう知的環境のなかで、少年時代の惺窩は儒書を読みふけって、すでに新しい知の方向を模索していたことであろう。
 上記のように、惺窩十八歳の天正六年(1578)、三木城主別所長治が細川荘を攻め、惺窩の父為純や兄為勝が戦死した。これをきっかけに惺窩は播磨を去り、叔父の寿泉清叔を頼って京都の相国寺に入った。もう一人、叔父の董甫宗仲は春屋宗園の弟子で大徳寺に住した。ちなみに董甫宗仲は、沢庵を但馬から京都へ連れ出した人である。
 下冷泉家の叔父たちは禅僧となって京都にいたわけである。宗舜(惺窩)も以後、京都で僧として生きることになる。慶長三年(1598)に姜と出会ったとき、三十八歳。姜の『看羊録』に「妙寿院の僧、舜首座」とある。まだ名は僧籍にあった。そしてその後、惺窩は、仏から儒へ出て還俗、儒服を着た前代未聞の儒家として生きることになる。
 下冷泉家は、為純と嫡男為勝が戦死して、為将(惺窩弟)が嗣いだ。のちに惺窩は為景という男子を得て、これに為将の跡、下冷泉家を継がせた。かくして、播磨で戦死した公家・下冷泉家の家系は、惺窩を媒介にして存続したのである。
 さて、居館・細川館比定地には惺窩生誕地碑とその像がある。ここでは、それを訪ねてみようというわけである。



惺窩播磨関係地図


*【下冷泉家略系図】

○定家─為家─┐
┌──────┘
├為氏(二条家)―為世

├為教(京極家)―為兼

├為相(冷泉家)―為秀―為尹┐
│             │
└為守           │
┌─────────────┘
├為之(上冷泉家)―為富─為広→

└持為(下冷泉家)─政為─為孝┐
┌──────────────┘
│         弟  惺窩男
└為豊┬為純┬為勝=為将=為景→
   │  │
   ├宗仲├教勝     ↑
   │  │       │
   └寿泉├宗舜/惺窩─為景
      │
      ├俊久
      │
      └為将

惺窩生誕地案内マップ



現地案内図
 惺窩遺跡のある現地までの案内だが、このコースには残念ながら鉄道はない。車あるいはバスで行く人のためのガイド、ということになる。
 三木から車で行く人は、まず「本町1」交差点から県道20号へ入る。そこから一本道で約7kmの道のりである。比較的わかりやすい。
 車を走らせると、やがて道は山陽自動車道の高架をくぐる。そこからしばらくして、「豊地」のT字路交差点に行きかかるが、曲がらずそのまま直進である。
 すると、しばらくして道は、美嚢川に渡る豊金橋を過ぎる。このあたりから右手に注意である。「藤原惺窩生誕地/大雄寺」という看板が出ている。そこで右折して東へ入る。
 目的地の惺窩生誕地よりはかなり南で右折して入ることになる。道はすぐに、美嚢川を渡る橋を渡る。「冷泉橋」とある。ありがたい名である。
 橋を渡ってそのまま行くと、「藤原惺窩生誕地/大雄寺」という小さな案内板がある。以下は、次々にある案内板をたよりに進んでいく。集落は桃津の村である。
 やがて右折して、上り坂になり、突き当たりのT字路である。そこが藤原惺窩生誕地と大雄寺の分岐点。そこを左折する。
 田んぼの中を直進すると、左手に高圧線の鉄塔があり、その先で左に入る。ここから道はますます狭い。しかし、すでに藤原惺窩の銅像が立っているのがみえる。
 かくして、現地到着である。そこは小さな公園になっていて、簡易トイレもある。
 バスで三木から行く人は、吉川(よかわ)・三田(さんだ)方面行きのバスに乗る。上記の車コースと同じ道を行くことになる。下りるバス停は「桃津」である。
 そこから、東へ歩いて、橋を渡り、集落の中へ入る。その道がやや広い道に出たら左折して坂をあがり、途中で左折して集落の中の道を進む。車だと、坂上まで行く必要があるが、歩きのばあいは、途中で村中に入る道の方がよい。
 やがて大きな立派な家が見え、その側をを道なりに行くと田んぼの間を登る坂があり、それをあがると藤原惺窩生誕地の公園である。

桃津の集落

細川城址

藤原惺窩生誕地
 藤原惺窩像は儒服姿である。当時、儒者は剃髪した僧形で、名も僧侶のスタイルである。弟子の林羅山(1583〜1657)は、幕府御用学者になったとき、剃髪して「道春」と法号。「羅山」は後の儒者流の号である。
 惺窩は、それまで禅院の知的副産物だった宋学を、禅僧の手中から自立させた。それはすなわち、惺窩自身の思想的軌跡であった。彼自身が、禅僧から還俗して、僧衣を捨て頭髪をたくわえ儒服を着用した。それがどれほど、当時の日本では奇矯かつ先鋭な前衛の振舞いであったか。上述のように、朝鮮儒者・姜は、惺窩について「性質は強く厳しく、倭で容れられるところがない」と記している。妥協はしない原理主義者である。惺窩は家康の誘いを断わって、京の北山に隠棲した。
 武蔵が京都で吉岡一門と数度にわたって勝負を決したころ、林羅山は惺窩の門に入った。羅山は武蔵より一歳年上で同世代である。羅山は「新免玄信像」に賛を寄せた人である。武蔵には羅山は京都時代からの知友であろう。惺窩スクールの文芸ネットワークである。
 羅山は、著作では惺窩の折衷主義を踏み越え、ラディカルな朱子学者となったが、その排仏論とは裏腹に僧形の体裁であった。しかし彼が権力中枢の側近にあること数十年、やがて儒者は仏僧から職掌を奪い、また僧形と法号を捨てることができたのである。
 藤原惺窩は、諸大名の支援を受けたが、幕府に親近するのを避けた。羅山はその逆を行って、数十年後、儒者のポジションを認知せしめた。この師弟の対照は興味深い。武蔵の生き方は、どちらかというと、在野を選んだ惺窩に近い。
 さて、ここは細川城本丸のあたりだが、藤原惺窩像と生誕地碑と、そのほかに何があるというわけではない。しかし、ここで戦死した惺窩の父・冷泉為純の細川城をしのばせる、古い石などが点々とあって、しかも周囲の田園風景はすばらしい。往昔の、豊かな日本の農村を髣髴させる世界である。


藤原惺窩像
三木市細川町桃津




城址遺石

伊織母の里 垂井庄周辺案内

 伊織父祖の地・三木を訪ねたので、ふつうならこれで切り上げとなるが、そこは、この現地徹底案内のこと、タダでは帰さない。まだ、続きがあって、こんどは伊織の母ゆかりの地である。
 先に見た墓碑では、伊織の母・理応院は、三木の生れである。だが、父も兄も戦死したので、母(常光院)に連れられて三木の町を離れたようすである。
 『播磨鑑』によれば、伊織の母は加東郡垂井庄宮脇村の人で、そのため、伊織も久しく宮脇村に居られたそうだ、と記している。つまり、母の実家が垂井庄宮脇村にあり、そこで伊織も育ったようなのである。
 弟の小原玄昌は、同じ垂井庄の池尻村で生れた。伊織の幼時、彼は印南郡米田村には居らず、母とともにこの加古川中流域の垂井庄に居たのである。そこで、この探訪もその加東郡垂井庄へ行ってみるわけである。

 垂井庄というのは、宮脇・門前・小野・市場・池尻など十六ヶ村があったものらしい(播陽諸郡荘郷録)。このうち、垂井庄宮脇村というのは、三木から北西へ五kmほど離れたところにある。住吉神社南の「宮ノ脇村」である。したがって、目印はその住吉神社である。
 ここへ行くにはどうするか。
 【電車で行く人の場合
 ローカル鉄道が好みなら、神戸電鉄で行く。上掲の三木中心部のマップを参照してもらえばよいが、本町交差点から北へ行くと、美嚢川にかかる橋があり、それを渡ると、右手に神戸電鉄「三木」駅の小さな駅舎がある。そこから、粟生(あお)方面行きの電車に乗る。一時間に四本くらいあるから、待っても知れている。
 三木を出ると、大村・樫山・市場を経て、まもなく「小野」駅に到着。そこから、南へぶらぶら歩いていく。
 駅前からすぐの角を右折して細い路地に入り、民家の間を行く。しばらくすると、神明神社の杜があり、県道へ出る。神戸電鉄のガードをくぐり、そこから斜め左へわき道に入る。そこはかつては街道筋のようで垂井の村、しばらく家並みが続く。
 それが切れたところで、万勝寺川にかかる垂井橋。住吉神社の杜がすぐ側にみえる。橋を渡れば、住吉神社の脇へ入ることができる。
 バスで行く人は、三木から小野方面行きに乗って、「大島」バス停で下りると、住吉神社の前である。
 【車で行く人の場合
 三木から車でとなると、まず県道23号を行く。神戸電鉄が平行して走る。道なりに行くと、樫山で国道175号の高架をくぐる。すると、そのまま道は県道18号になる。そこから三kmほど走ると、右手に住吉神社の看板が出ている。住吉神社の方へ入る道がある。
 そこを入ると、すぐに左へ入る細い道がある。神社が見えているので、道を直進すると駐車場が左手にある。そこに車をおいて参拝である。









住吉神社近辺マップ

住吉神社 南門

住吉神社 拝殿

本殿拝殿脇
 伊織の母なる人の実家があったこの加東郡垂井庄宮脇村は、住吉神社のそばの集落のようである。伊織は米田村で生れたが、久しくこの宮脇村に居た(播磨鑑)というから、ここで育ったのである。
 あるいは『播磨鑑』には、伊織の弟(実は甥也)に宮長清兵衛という人ありとして、この人の宿願で、三十六歌仙の絵馬和歌その他が奉納され、「今、垂井荘内氏宮の神庫に藏め、宝物とす」とある。住吉神社の記事にも、「歌仙三十六枚、絵は甲田重信、書は季賢中将の筆跡也」と記している。そして、これらは住吉神社に現存する。
 伊織の弟分になったという甥の宮長清兵衛という人、甥というところからすれば、伊織に姉妹があって、彼女の嫁ぎ先が宮長(宮永)氏で、その子であろう。
 この宮永氏については、『加東郡誌』(大正十二年刊)に興味深い記事がある。天正年中、三木落城の後、別所の遺臣・宮永樫之助という者が、この地に来住し、開発を図ったとある。とすると、宮永氏は宮脇村の開発地主であったわけで、伊織の姉妹はその家へ嫁いだということになる。
 伊織の母は三木で生れたが、父も兄も死んで、三木町を離れてこの宮脇村で育った。また、田原久光との結婚後も、伊織ら子供をここで育てたようである。宮永樫之助が同じ別所遺臣、もと三木侍であり、また、宮脇村の地縁があって、伊織の姉妹が宮永家に嫁いだのである。
 その宮永家の一子が田原家の養子になったのが清兵衛で、伊織の甥が弟になったというわけである。この人は、そのまま宮脇村にいたようで、上述の三十六歌仙絵馬を奉納するに一役買ったのであろう。
 この絵馬は、泊神社のものと同じ絵師・甲田重信の作である。そして万治二年(1659)の日付があるところからすれば、伊織は泊神社造営の六年後、「垂井荘の氏宮」へ奉納したのである。とすれば、彼の母は、加東郡垂井荘宮脇村の人だという『播磨鑑』の記事が裏づけを得るのである。
 伊織は泊神社の造営に当り、米田天神社のほかに、この加東郡垂井庄の住吉神社にもこれを奉納したわけだ。それはここが、母の実家の氏宮であったからだろうし、また伊織自身にとっても、幼少時しばらくここで育った故郷でもあったからである。
 ところが面白いことに、その絵馬が現在ある住吉神社の箱書きによれば、宮脇村出身で小倉の小笠原家臣の大原重政という名の者が、寛政八年(1796)に奉納したという。どうしてこういうことになったか、経緯はわからないが、寛政八年とすれば、『播磨鑑』より後のことで、何か事情があってこの大原重政なる者がこれを手に入れ、神社に奉納(もしくは返納)したということになる。大原という名からすれば、おそらく伊織の母の縁者の子孫であろうか。
 『播磨鑑』にはまた、伊織弟の玄昌(貞隆)について、「加東郡垂井庄池尻村ノ産」と記している。玄昌は印南郡米田村の生まれではなく、加東郡垂井庄池尻村産だというのである。この池尻村は、宮脇村より南東二キロほどのところにあり、もう少し三木に近い村である(現・小野市池尻町)。
 玄昌は四男の貞隆で、母の実家・小原氏を継いで、京都で医師になり、法眼にまで出世した。小原家系図によれば、貞享二年(1685)歿、六十九歳というから、元和三年(1617)の生れ。伊織より五歳年下である。
 印南郡米田村生れの伊織が、加東郡垂井庄の宮脇村で育ち、また、このように玄昌が池尻村で生れたということになると、伊織の父・田原久光は当時は池尻村に居たようである。いったんは印南郡米田村へ来て、伊織が生れたが、その後、また三木に近い垂井庄で暮らしていたのかもしれない。そのころはまだ、印南郡米田村と、この加東郡垂井庄と、二重生活であったか。つまりは、伊織が子供の頃は、田原家はまだ印南郡米田村に居着いていなかったのである。
 それが、伊織にしてみれば、宮脇村は母の里であり、自分が幼少の頃育った土地でもある。そこから、氏宮の住吉神社に――泊神社や米田天神社と同じ――三十六歌仙絵馬を奉納したというわけである。
 以上のことは、従来の武蔵研究では看過され、また知見の範囲外あった諸事項である。ここで諸氏の注意を喚起しておきたい。









三十六歌仙絵馬 住吉神社


三十六歌仙絵馬箱書 住吉神社




宮脇村と池尻村

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浄土寺案内マップ



極楽山浄土寺 入口
 小野まで来ているのだから、ひとつ、見のがせないスポットがある。それが浄土寺(小野市浄谷町)である。「浄谷」は「きよたに」とよむ。
 このあたりは史学上は「東大寺文書」の大部庄で有名である。奈良東大寺の荘園だった土地。そして重源上人開基の浄土寺がある。奈良東大寺再建勧進の俊乗房重源(1121〜1206)である。この寺院には国宝の建築と仏像があって、それがお目当てである。
 車で浄土寺へ行くには、国道175号へ出て北進、「浄谷町南」交差点で、斜め右折。そこから直進である。あるいは、その先の「浄谷町中」交差点で右折、三百mほど行くと坂下の交差点があり、直進せずに、そこを斜め左へ進む。一キロも行かないうちに、右手に浄土寺である。駐車場がある。
 バスで行くなら、神戸電鉄の小野駅前からバスが出ている。「図書館前・高山町経由」の「天神」行きあるいは「鹿野」行きバスを利用する。「図書館前・高山町経由」というのをお忘れなく。浄土寺へ行くのか、確かめて乗車すること。また、本数が少ないので時間調整が必要かもしれない。
 小野駅前にはタクシーもあるから、急ぎの人はそれを利用してもよい。浄土寺には、車で五分、バスで十分ほどと近い。行かないことはあるまい。
 浄土寺の国宝・浄土堂(阿弥陀堂)は鎌倉期の建築。天竺様の建築様式で、東大寺南大門以外にはここだけである。堂内には国宝・阿弥陀三尊立像(木造阿弥陀如来及両脇侍立像)がある。快慶作と伝える。阿弥陀如来は高約十八尺、観音・勢至の両脇侍立像は高約十二尺、国宝のステイタスを裏切らない圧巻の優れた仏教美術作品である。
 浄土堂西面の蔀戸が開く。そして真っ赤な落日の陽光を背景に、黄金の阿弥陀三尊が立つとき、さながら西方浄土を眼前に見るという。
 境内の開山堂には重源上人坐像がある。こちらは国重文である。ほぼ等身大の坐像で、鎌倉彫刻のリアリズムを感じさせる。東大寺にある国宝・重源上人坐像に劣らない作品である。

国宝 浄土堂

国宝 阿弥陀三尊像

重文 重源上人坐像
 浄土寺まで来て、ちょっと休憩したい、でも門前の食堂ではねえ、という人には、近所に「共進牧場」のレストラン「ミルカーズ」がある。
 浄土寺から三百mほど北の「北丘町」交差点、そのすぐ西に右折して北へ入る小道があり、それを少し行くと、右のような建物が現われる。
 乳牛といえば、白黒まだら模様のホルスタインと相場が決まっているが、この牧場の乳牛は茶色の牛、詳しいことはわからぬが、英国産のジャージー牛という種類だそうな。まったりした牛乳がうまい。牛舎の見学もできるらしい。
 お釈迦さまのスジャータの例もある。浄土寺の阿弥陀如来も、牛乳や乳製品なら、お許しあることであろう。というわけで、最寄りのお勧めスポットである。→ TEL 079-463-7497
   営業時間 10:00〜18:00  定休日 月曜日


共進牧場

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東大寺蔵
国宝 重源上人坐像 東大寺


*【武蔵円明流伝系図】

俊乗房重源─八尾別当顕幸─┐
┌─────────────┘
└(赤松円心)―岡本三河房─┐
┌─────────────┘
└(省略)―岡本新右衛門義次┐
┌─────────────┘
├岡本小四郎 宮本武蔵守義貞

└岡本馬之助祐実─(省略)─┐
┌─────────────┘
└岡本新右衛門照方―勘兵衛正誼
           武蔵円明流



武蔵円明流口授書



豊国画 勧進帳
 浄土寺の俊乗房重源について、以上の観光案内だけで済まそうと思っていたところが、さらにディープな話題に拘泥する人もあって、「ふん、重源について、話は浄土寺だけかい」と、不満を鳴らすのである。
 そうなると、これは仕方がないので、以下のような話を紹介しなければならない。つまり、
 ――俊乗房重源は、円明流流祖である
と。これは冗談ではなく、実は、そんな伝承を有する円明流一派があったのである。
 円明流といえば、この[サイト篇]龍野城下のページで紹介されている、播磨や尾張の円明流がある。そこでは武蔵の門流が円明流として存続した。
 しかるにこれは、それらとは異なる円明流であって、十八世紀前半に、因幡国鳥取で興った「武蔵円明流」の伝系である。中興の祖とされるのは、岡本勘兵衛正誼(1698〜1753)、『播磨鑑』の平野庸脩と同時代の人である。彼は諸国武者修行して、鳥取にやってきて道場を開き、家中の師範と仕合をして名を挙げ、松平兵庫頭(定就か)に召抱えられたという。そうして岡本勘兵衛は、因州鳥取で「武蔵円明流」を号したのである。
 その流派伝承によれば、俊乗房重源の剣術を八尾の別当顕幸が伝承し、そしてそれが、いかなるわけか「楠正成公の臣」(?)赤松円心に伝わり、円心は猶子の岡本三河房にこれを伝授した。そうして、岡本三河房八代の裔、岡本新右衛門義次に伝承され、これが備中蘆森(足守?)城主。新右衛門の二男・岡本小四郎は、父の流儀を受継ぎ、宮本武蔵守義貞と称した。新右衛門三男が岡本馬之輔祐実、この人は兄の小四郎に学び、以下この系統で数代岡本氏が伝承して、上記の岡本勘兵衛正誼に至るというわけである。
 岡本勘兵衛の鳥取における門弟は、松井源太夫・井尻武左衛門・鱸(すずき)豊之亟ほか、それぞれ一派を立てたらしい。しかし、岩流の小谷新右衛門成福まで円明流門下に取り込んでいるのが、ご愛嬌である。
 また、この武蔵円明流の伝承によれば、赤松庶流の備中蘆森城主・岡本三郎義次(というから新右衛門か)、彼は後に新免無二斎(!)と号し、十手の刀術をもって家業とした。無二斎の嫡子が、初名・岡本小四郎、後に宮本武蔵守政名(!)と改める。当流の元祖、岡本馬之助は、兄の宮本武蔵守を元祖として、子孫代々二刀一流の兵法を伝来し、武蔵円明流と称した。馬之助祐実の子孫・岡本新右衛門照方は岡本流体術を発明し、その嫡子、六代目岡本勘兵衛正誼は、二刀一流と岡本流体術の達人で、当国因幡鳥取の城下にやって来た、云々。
 こちらの伝承では、岡本三郎義次=新免無二斎であり、岡本小四郎=宮本武蔵守政名であって、その宮本武蔵政名の弟・馬之助はこの兄に学んだので、武蔵円明流は宮本武蔵守政名を元祖とする。しかし、これは『武芸小伝』の宮本武蔵政名という記事を見て書いた伝承改訂版である。それに、備中に蘆森城などという城の名は聞かないから、新免無二斎は備中某城の城主だったというこの話は、誤伝というより荒唐無稽な伝説と謂うべし。
 ともあれ、武蔵円明流の伝説記事は、十九世紀天保期を遡りえない新しいものだが、この流派の伝説では、円明流の流祖は、それを遡行していけば、岡本三河房、赤松円心、八尾別当顕幸、そうして、俊乗房重源にまで行き着くという次第である。
 しかるに、その先はまだあって、岡本氏剣術本起伝卷二に曰くとして、俊乗房重源は源義経門下であったというのである。義経は剣術史において神話的人物で、いわゆる虎の巻はじめ兵法伝書が多数あるが、義経はそれを鞍馬僧から伝授されたというのは伝説として一般的である。
 かくして武蔵円明流では、俊乗房重源は源義経の門弟となって、八箇之妙術を得道して、円明流を創流したという。また曰く、文治頃、源頼朝と義経が不和となって義経は奥州高館城に亡命、よって重源は頼朝を憚って、義経流の名をやめ、陰流と改める。こちらは、俊乗房重源→愛洲移香斎の系統である。
 しかし、どうして、俊乗房重源は源義経に剣法を学んだというような伝説が生じたのか。それは、おそらく歌舞伎の「勧進帳」の流行である。武蔵坊弁慶が主君義経をかばって読み上げる勧進帳は、東大寺再建の勧進帳であり、そこに俊乗房重源の名が登場する。言い換えれば、歌舞伎の「勧進帳」には、義経も重源も、そして「武蔵」坊弁慶もある。それらの名の組み合わせが、武蔵円明流の、俊乗房重源は源義経に剣法を学び円明流を創始したという説話素を生んだのである。むろん、時代は江戸後期のことである。
 もう一点付加すれば、武蔵円明流の伝承によれば、備中蘆森城主の岡本新右衛門義次は、蘆森城没落後、新免無二斎と称し、「播чチ古郡泊の八幡宮本村」に住居したという。彼が上洛したのはその後である。ただし、足利将軍義昭から日下無雙兵法者の称号を賜り、洛陽において大いに流名を鳴らしたというあたりは、『本朝武芸小伝』を見れば作文できることである。
 しかしながら、岡本新右衛門義次(新免無二斎)が住んだという「播чチ古郡泊の八幡宮本村」とは、どういうことか。これも後世形成の伝説らしく、泊神社付近に宮本村があったと勘違いしている。同地は「木村」あるは「泊村」とはいっても、「宮本村」という名はなかった。これは、武蔵円明流で、宮本武蔵守義貞の名から連想した「宮本村」であろう。また、泊神社は「正一位泊大明神」であって、八幡社ではない。それに第一、泊神社の所在地は、「加古郡」ではなく「印南郡」である。
 これら諸点の間違いをみるに、播磨の事情を知らない因幡の流派末裔の伝説である。しかし、ここに思いがけなく、「泊の八幡」なる語が出てくるところが、興趣を誘われるところである。よって、そんな流派伝書もあるという珍例としてここに紹介しておく。
 俊乗房重源・円明流剣術・宮本武蔵。――この意外なる三題噺は、以上のようなことで、おしまい。

田原氏ルーツ・加西郡田原村への案内

 さて、宮本伊織の母の里を探訪して、以上終り、かというと、さにあらず。ここで文字通りのディープな探訪になる。というのも、伊織実家の田原氏のルーツ、まさにその出所本地と我々がみなす場所に案内しようというわけだ。
 宮本武蔵の関係地だと思って、ここまでついてきた人は、この脱線ぶりに呆れて帰ってしまうかもしれないが、我々の現地徹底案内はここまで徹底するのである。
 伊織実家の田原氏、泊神社棟札によれば、赤松持貞以来の赤松末葉のごとくだが、赤松党八十八家等のリストには「田原」という枝族はない。そこで、この名字は、比較的新しいもので、しかも先祖の出身地、ルーツの地名から採った氏名(うじな)であろうと見当がつく。
 そこで、地名を手がかりに探索する。播磨で「田原」を探すと、ひとつは、市川流域の神東郡田原村(現・神崎郡福崎町)がある。だがこれは、三木侍・田原氏という点ではすこし離れすぎていて、田原村辻川が日本民俗学の父・柳田國男先生の故郷という以外には、ここではとくに参考地とするまでもない。
 これに対し、もうひとつの「田原」がある。こちらは、もっと三木に近くて、同じ加古川中流域にある。すなわち、加西郡田原村(現・加西市田原町)がそれである。こちらなら、別所氏本地の別所村(加西市別所町)に近いし、別所氏麾下の三木侍だった田原氏のルーツとして諸条件適合である。したがって、我々はそこが田原氏先祖の地と目したのである。


 では、この加西郡田原村を訪ねてみよう。どのようにして行くか。
 【鉄道で行く人の場合
 田原へ行くのに、ローカル鉄道がお好みなら、それができる。さきほどの小野駅を起点すれば、まず神戸電鉄で、粟生(あお)方面行きの電車に乗ることだ。
 隣の駅が終点で「粟生」(あお)駅、そこで乗り換え。この粟生駅は、JR加古川線、神戸電鉄粟生線、そし第三セクターの北条鉄道と、三つの路線が接続する駅である。そこでこんどは、北条鉄道(三番線)に乗り換えて行く。
 いうまでもなかろうが、第三セクターのローカル鉄道のこと、「当然」運転本数は一時間に一本である。接続の具合が悪ければ、相当待つことを覚悟しなければならない。
 始発の「粟生」駅からは、「網引」(あびき)、「田原」と、わずか2駅である。動き出せば、すぐに到着である。
 「田原」はまさに、田んぼの真ん中の小さな無人駅である。駅舎もない。そのたたずまいは、ほとんど美しいとさえ言えよう。北条鉄道が絶滅する前に、ぜひ見ておくことを薦める。
 ただし、見とれていないで、帰りの乗車時刻を確認しておこう。

 【車で行く人の場合
 上掲右図を見ていただく。小野あたりから車で行くとなると、どのコースでもまず加古川を渡って、粟生の南で県道81号を西へ行く。加古川支流の万願寺川沿いの道である。道なりに四キロほど行くと田原の村である。北条鉄道の田原駅の前までくる。
 車で現地直行の人は、山陽道で行ける。「加古川北」ICで下りて、左折し北へ進めばよい。また、加古川方面から来る人は、県道43号を北へ行けば、山陽道の「加古川北」ICのポイントを通過、山陽道の高架をくぐって、北進である。
 途中、「倉谷西」の三叉路があるので、それを右手斜めに行けば、坂を下り、まもなく「田原」交差点に出てくる。



北条鉄道


北条鉄道 田原駅

田原村現況

 田原村の現況は、ごらんの通りの田園集落。加古川支流の万願寺川が下里川と合流するあたりである。南へ山越えすれば、印南郡である。
 ただし、この田原に何か伊織実家の家系・田原氏の遺跡があるわけではない。泊神社棟札で明らかな伊織の先祖は、曽祖父の田原左京太夫貞光以来である。したがって別所氏が勢力を伸張して、三木城を拠点とするようになって以後である。もうその頃には、田原氏は三木侍で、この地を離れて三木に居たことであろう。
 それ以前はいかがかというと、『播磨鑑』に田原村の古城跡を採録しているので、それをみると、田原城・千歳山城・土器山城の三つである。千歳山城は田原村東端の万願寺川沿いにあり、土器(かわらけ)山城は、田原村西部の尾根が切れる端にある。
 いまの田原駅の北のあたりは小字名が「かまへ」とあるから、ここに構居があったものと思われる。ただし、これは構居であって、城ではない。そのため、千歳山城を田原城と混同する説もあるが、『播磨鑑』には両者を別とする伝承があり、田原城は河南中央の孤立した小さな低い丘あたりを比定地にしうる。現状は周囲が切り取られて田となっている。この小丘は市有地で、丘上には戦後の木造市営住宅の廃屋が残っている。
 これら三城は、もとは鎌倉期関東から来た相馬氏(平将門末裔と称す)が城主で、その後赤松氏に属し、赤松満祐が将軍義教を弑した嘉吉の変(1441)の折に、山名軍に攻撃されて敗亡した伝承をもつ。相馬氏はその後高田氏を名のり、赤松家再興なった応仁以後赤松政則に属し、戦国期には城主が合戦に出陣してたたびたび討死している。
 『播磨鑑』に、田原城について「城主ハ高田采女正信兼、嘉吉比也。同丹後守政光、天正比也」とあるのによれば、天正期の城主・高田政光は三木城の別所氏に属し、この地にあったようである。
 ただし、この田原城は、千歳山城・土器山城のような中世初期型ではなく、平城であり、また「城」というには頼りない小規模なもので、三木城の出城ではありえない。おそらく高田氏の居館があったにすぎず、高田氏も三木城下に居たことだろう。
 この田原城主・高田氏が、伊織の曽祖父・田原左京太夫貞光とどういう関係があったのか、それは知れない。ただし田原を名のる以上、田原氏先祖は田原村に居て、おそらく、本来は高田氏に属した武士であり、伊織の曽祖父の頃、別所の麾下に入って三木に移って以後、出世もあったのであろう。田原姓を名のるようになったのは、それ以後のことと思われる。




*【播磨鑑】
《田原城 [在田原村]
城主ハ高田采女正信兼、嘉吉比也。同丹後守政光、天正比也》
《千歳山城 [西河合郷]
城主ハ相馬小七郎民部少輔。嘉吉元年、赤松左馬助ニ附従、水田籠城》
《土器山城 [同郷 在田原村]
城主ハ相馬小市郎政由。嘉吉元年赤松國祐附従、三草山籠城》





田原城址


千歳山城址


土器山城址

*【泊神社棟札】
《余之祖先、人王六十二代自村上天皇第七王子具平親王流傳而出赤松氏。迨高祖刑部大夫持貞、時運不振。故避其顯氏、改稱田原、居于播州印南郡河南庄米堕邑。子孫世々産于此焉。曽祖曰左京太夫貞光、祖考曰家貞、先考曰久光。自貞光来則相継、屬于小寺其甲之麾下。故於筑前子孫見存于今焉》







田原氏ルーツのトライアングル



泊神社と燈籠の位置
 しかし、曾孫の伊織らの世代になると、もう話はすっかり変って、泊神社棟札にあるような出自伝承となってしまった。
 この加西郡田原村あたりの城址伝承は、嘉吉の変後の山名軍との合戦が焦点である。泊神社棟札の記事も、赤松持貞(?〜1427)を引き合いに出して、そのあたりを語るもののようであるが、何しろ伝説変異が大きい。嘉吉の変より以前に、京都で自害して死んだはずの持貞が、播磨に下って「田原」と改称し印南郡米田村に子孫を残したという、荒唐無稽な話になっている。
 これは史実から大きくかけ離れた出自伝説で、いわば貴種流離譚の一種である。田原氏が本地を離れて子孫の世代になると、そのような伝説が生じていたのである。
 そして泊神社棟札で、田原氏が代々小寺氏に属したというのは、これも後世の伝説である。印南郡なら御着〔御着〕城主・小寺氏のテリトリー、そこで、米田村の田原家は代々小寺氏の麾下にあったという説に進展したようである。伝説は推論し解釈するものである。
 代々小寺氏に属したならば、田原氏は「御着侍」ということになるが、これも『播磨鑑』の平野庸脩は、わざわざ「元来、三木侍」だと記している。地元では話はかようにも違うのである。
 ともあれ、印南郡から北へひと山越せば、加西郡田原村である。その田原村と三木と、そして米田村と、この三点が形成するトライアングル、それを右回りに加古川流域を下ってきたのだが、伊織が見るべきは、原郷を指す点線の方向なのである。
 ここで興味深いのは、伊織が寄進した泊神社の石燈籠が、神社本殿背面に立つことである。これは神社正面から慎ましやかに裏に身を潜めたということではない。

泊神社本殿背面
中央が伊織燈籠、左右に父母
名義の小ぶりの燈籠二基がある


伊織寄進燈籠
 本来神社正面に設置される石燈籠が神社背面に立つこと、この作為の意味を解くのは難しくはない。なぜなら、本殿背面とは、加古川の上流を指す方向である。すなわち、これは父母の故郷の方を向いているのである。ゆえに、伊織にとって、まさに正面は背面なのである。あるいは背面こそ正面なのである。
 しかしながら、方向をよく見れば、これは父母の故郷の方を向いているようでいて、実は田原氏原郷の加西郡田原村の方を向いていると思えないこともない。
 この方向は泊神社神殿の軸線として、本来あったものであろう。ところが、父母の故郷の方という伊織の意図とは別に、石燈籠の方向が先祖本地の方を向いてしまっている。よって、これはもって奇縁とすべき偶然なのである。

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 この田原村まで来て、ついでに近所の名所を訪ねたいとなれば、西国二十六番札所・法華山一乗寺(加西市坂本町)である。
 開基は法道仙人。仙人開基とするもの、播磨に四十八ヶ寺あるというから、一大プロデューサーであったということなるわけだが、何しろ天竺から空を飛んでやってきた超能力者であるからタダモノではない(!?)。かように法道仙人は播磨の諸寺に多い伝説的人物であるが、中でもこの一乗寺はその随一であろう。
 『元亨釈書』に、法道仙人実は徳道上人なりとする説を載せている。徳道上人は大和の長谷寺開基として有名だが、天竺産どころか、播州揖保郡産である。そういう実在の人物に事寄せては、法道仙人の超能力ゴシック・ロマンが失われる。
 ただし『元亨釈書』には、法道仙人は天竺の人なりとして、天竺から紫雲に乗って、支那や百済を通り過ぎて、播州印南郡法華山にやってきたとする。そしてその法華山の法道仙人が、空鉢を飛ばして、播磨灘の沖行く船から米俵を奪った、いわゆる飛鉢伝説を語っている。
 大化元年(645)秋八月――と、時日は不思議に明確だが、法道仙人、海上の船に鉢を飛ばし米の寄進を頼んだところ、船師の藤井という者が、御厨の供米だから自分勝手にはできないと拒否、すると、積み荷の米すべてが空を飛んで法華山の仙人の方へ。慌てた船師藤井が謝罪して千石の米俵は再び船に戻ったが、ただ一俵だけ戻らず、南河上に落ちた。米俵の落ちたところは、そのため富人が多い。俗に地名を米堕村という、また米田ともいう、云々。
 この「米堕村」が印南郡米田村、つまり宮本伊織の出生地だから、ここへ案内するのもあながち無関係な話ではない。ようするに、米田村の地名起源譚に関連する寺院なのである。
 この『元亨釈書』の話にはさらに続きがあって、上京した船師藤井がこのことを孝徳帝に奏し、帝は大いに感嘆した。大化五年(649)、帝病んで、法道仙人を宮中に召して念持させたところ、五体快癒。君臣嘆美して、仙人は法華山に帰った。この年、勅命で法華山に大殿建設工事が始まり、白雉元年(650)九月落成し、帝の行幸があった。それまで日本人は神を重んじ仏を軽んじていたが、仙人の教化で天下は仏を重んじるようになった。
 それから仙人は数十年この山に住んだが、ある日、天竺へ帰ると言い出した。もともと自分がここへ来たのは、人々を誘導するためにやって来ただけだ。それが済んだから帰る、というわけである。そうして偈を説くや、仙人は大光を放って雲中に飛び入った――。
 ともあれ、法華山一乗寺は播磨の古刹である。現存する三重塔は、平安末期の承安元年(1171年)の建立で、国宝。まだ、図像に絹本著色聖徳太子及び天台高僧像十幅あり、これも国宝である。他にも、建築・仏像など重文多数。
 それに、重文の本堂(金堂)は、武蔵所縁の姫路城主・本多忠政(1575〜1631)による寛永五年(1628年)の再建である。つまり、一乗寺の本堂は、まさに武蔵が播磨に居たころの建築であり、忠政肝入りの堂宇新築とあれば、武蔵もここへ来たかもしれない。
 それやこれや、この法華山一乗寺は、近所まで来たなら見逃すことはできないであろう。というわけで、その案内である。

法道仙人像



錦絵 観音霊験記
法華山一乗寺
法道仙人飛鉢伝説




法華山一乗寺と米田村


一乗寺案内マップ

 法華山口 バス停時刻表
  (平 日) 10:11 11:36
         13:06 14:36
  (土日祝日) 10:56 12:26
          13:26 15:06





一乗寺門前
 では、この一乗寺を訪ねてみよう。どのようにして行くか。
 田原あたりから車で行くとなると、まず国道372号の「法華口」まで出る。そこから姫路方面、つまり西へ行き、まもなく「三口西」交差点へ出る。そこを左折して、田んぼの中の道路を山の方へ行く。やがて上り坂の山道になり、それを登って行くと、一乗寺である。
 時間もあって健脚の人なら、歩いて行けばよい。田園風景の中の近道を歩き、坂本で山に登る道。一時間半くらいで一乗寺につく。しかし、バスで行きたいという人もあろう。ただしこれは、すこしわかりにくいかもしれない。
 まず、国道372号の「法華口」まで出る。それには、歩くか、それとも時間があえば北条鉄道で一駅、「法華口」駅で下りる。そこで、姫路方面行きのバスに乗り、三つめの「法華山口」バス停で下りる。これは、上記の「三口西」交差点である。
 そこからが問題だが、南へ歩いて山を登れば一時間足らず一乗寺門前まで行ける。歩きでなければ、ここで、交差点南のバス停「法華山口」へ移り、一乗寺経由のバスを待って乗りたい。一日四本と、便数が限られているから、要注意である。待ち時間がだいぶあるようなら、交差点東の富久錦(後述)の店で休むとよい。この一乗寺経由のバスに乗れば、山上まであがって、「法華山一乗寺」バス停で下車である。

国宝 三重塔

重文 本堂
 一乗寺あたりまで来て、ちょっと休憩したい、何なら食事でも、という人には、上記の「三口西」交差点の東に、「富久錦」(ふくにしき)の店がある(加西市三口町)。
 富久錦は、名だたる酒米・山田錦の生産地のど真ん中にある造り酒屋。天保十年(1839)稲岡作五郎が創業、法華山一乗寺の紅葉の「錦」に、福=「富久」を合わせて「富久錦」と名づけたという。以来代々今も稲岡氏子孫が経営している。地酒・富久錦はやや辛口の旨い酒、ほかにも各種多数の酒商品あり。
 その富久錦が酒蔵を改造して「ふく蔵」(ふくくら)、そこにショップや食事処を設けている。駐車場あり。食事は土日はできたら予約していただきたいとのこと。




 富久錦 ふく蔵
  TEL 0790-48-2005
 食事 (昼) 11:30〜14:30
     (夜) 17:30〜22:00




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