武蔵の五輪書を読む
五輪書研究会版テクスト全文
現代語訳と注解・評釈

Home Page

 解 題   目 次    地 之 巻   水之巻巻頭   火 之 巻   風 之 巻   空 之 巻    異本集 

五輪書 水之巻 6  Back   Next 

 
   28 体当たり
【原 文】

一 身のあたりと云事。
身のあたりハ、敵のきはへ入込て、
身にて敵にあたる心也。
すこし我顔をそばめ、わが左の肩を出し、
敵の胸にあたる也。
我身を、いかほども強くなり、あたる事、
いきあひ拍子にて、はづむ心に入べし。
此入事、入ならひ得てハ、
敵二間も三間もはけのく程、強きもの也。
敵死入ほども、あたる也。
能々鍛錬有べし。(1)
【現代語訳】

一 身の当りという事
 身の当り〔体当たり〕は、敵のそばへ入り込んで、体で敵にぶつかるということである。
 (この体当たりは)少し顔をそむけ、左の肩を出して、敵の胸にぶつかるのである。我が身をできるだけ強固な感じにして、(そして)ぶつかるには、行きあい拍子〔いきなりという調子〕で、弾じけるような感じで入ること。
 この入り方を習得できれば、敵が二間も三間もぶっ飛ぶほど強いものである。敵が死んでしまうほどの衝撃でぶつかるのである。
 よくよく鍛練あるべし。
 
  【註 解】

 (1)敵死入るほども、あたる也
 これも「入込」とあるからには、入身の一種と考えてよかろう。しかし、こんどは体当りである。身体をぶちかますのである。
 直前の「ねばりをかける」が、《いかほど静に入ても、くるしからず》というものであったのに対し、こんどは逆に、《此入事、入ならひ得てハ、敵二間も三間もはけのく程、強きもの也。敵死入ほども、あたる也》という強烈なものである。まさにこれが、武蔵流兵法である。
《すこし我顔をそばめ、わが左の肩を出し、敵の胸にあたる也》
 この体当たりは左肩でぶちかます。なぜ、右肩ではなく、左肩なのか?――そういう質問もあろうから、それについて云えば、もちろんこれは二刀遣いの教えだが、利き腕の右手に太刀をもっているからである。そういう具体的なシーンを念頭におくべきである。これは一刀流でも、体当たりの時は同じことである。
 太刀で勝負ということからすれば、こんな体当たりは明らかにルール違反である。体当りを練習しろと言う武蔵は、反則行為を奨めているわけだ。「剣聖」とか何とか言うが、武蔵は汚い、ダーティ・ムサシである――?
 ところが、そんなことは剣の精神化・道徳化という、剣道イデオロギーが発生した後の偏見だ。むろん武蔵は、後世のそんなナイーヴな思考など搆っちゃいない。前にも再三強調したように、五輪書は、戦場の殺し合いの実戦で、いかに相手を倒すか、ということを教える教本なのである。
 ゲームの対戦ならいざ知らず、戦場ではルールなしの、何でもありの、リアルな殺し合いである。そのとき、太刀で切り殺すこともあれば、いざとなれば、体当りでも何でも、相手を倒すことが必要である。云うまでもないが、武蔵において、身体も武器の一つなのである。そこで武蔵は、体当りでも、訓練すれば人を殺せるようになると教える。
《此入事、入ならひ得てハ、敵二間も三間もはけのく程、強きもの也。敵死入ほども、あたる也》
 言うならば、わが肉体こそ凶器である。まさに、これこそ、リアルな「無刀」の教えなのである。だから、無刀取りを右のように教える柳生宗矩の兵法論が、いかに観念的なものか、五輪書のこういう性格と比較対照すればわかる。体当たりまで教える武蔵に対し、「きられてとるべし」と無刀を述べる宗矩の言説は、洗練されているが、教えは禅家亜流の逆説を弄して、リアルではない。
 さてもかように、人を殺せるほど強く体当りしろという武蔵は、実は巨躯の持主であったらしい。実際にそうやって――二間(3.6m)も三間(5.4m)もぶっとばして――相手を殺せたであろう。
 前条「たけくらべ」に、威丈高になって相手を圧倒する、という話があったが、やはり武蔵のような巨躯の持主に利があることになる。武蔵がどれほどの身長だったか、諸説あるが、ここで改めて推測してみることにしよう。
 それで、我々の資料は右の画像である。これがどれほど正確な図像であるか確証はないが、――その顔貌の変形は別にして――武蔵像のなかでも身体のデフォルマシオンが比較的少ないとみえる。よって、これを計測資料としたわけである。
 いま、t:身丈、h:頭部寸法とする。このとき、図上計測では、
       t = 7.0h
という結果である。いま、頭部寸法(h)を八寸五分(25.7cm)とすると、上の数式により、身丈(t)は五尺九寸五分(180cm)となる。ただし画像では、この下段の搆えの武蔵の体はやや腰をおとしている。とすれば、もう少し割増する必要があるだろう。
 これを要するに、この図を計測のための資料とする限りにおいて、武蔵の身長は六尺(182cm)はゆうにありそうである。とすれば、『丹治峯均筆記』などにみえる、身の丈六尺だったという武蔵の身長に関する伝説とほぼ一致する。
 六尺という身長は、今日の若い日本人ならザラにあることで、たしかに背は高いには高いが、とくに云うほどの高さではない。だから現今の日本人のサイズでこれを考えてはいけない。
 それに対し、武蔵当時の日本人成人男性の平均身長が、一六〇cm未満という話がある。とすれば、六尺の身長なら、これはかなりの巨躯だということになる。それを現代日本人のサイズに比例して当てはめると、二メートルちかい身長に相当する。
 五輪書では、こういう巨大な男が、体当りをぶちかまして人を殺せると言い、体当りの練習を奨めるのである。武蔵流は多様だが、なかでもこれはパワー戦法なのである。

――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 





身のあたり















*【兵法家伝書】
《無刀はとる用にてもなし。人をきらんにてもなし。敵から是非きらんとせば、取べき也。取事をはじめより本意とはせざる也。よくつもりを心得んが爲也。敵とわが身の間何程あれば太刀があたらぬと云事をつもりしる也。(中略)無刀は、刀のわが身にあたらざる程にては、とる事ならぬ也。太刀のわが身にあたる座にて取也。きられてとるべし》




武蔵の身長計測図
 なお、この条では校異に関して指摘しておくべき箇処がある。それは、肥後系諸本に、語の重複が見られることである。たとえば、
《少我顔をそばめ、我左の肩を出し、敵のむねにあたる也。あたる事、我身をいかほどもつよくなり、あたる事、いきあひ拍子にて、はづむ心に入べし》
とある。これに対し、筑前系諸本には、
《すこし我顔をそばめ、わが左の肩を出し、敵の胸にあたる也。我身をいか程も強くなり、あたる事、ゆきあひ拍子にて、はづむ心に入べし》
とあって、はじめの「あたる事」という語句はない。
 肥後系の写本に「あたる事」が二つ重出するのは、文脈からしても明らかに余分な語句であって、誤写とみなすべきところである。これは筑前系では見られない症状だから、肥後で後に発生した誤写であろう。
 つまり、この誤写は、《敵の胸にあたる也》の「あたる也」を「あたる事」として重複したものであり、もともと偶発的なものである。しかし、早期に派生した系統の子孫たる諸本にもみられるから、これは肥後系において門外流出後早々に、この誤写をした写本が発生し、それが先祖となって、以後子孫が増殖したのである。
 こうした偶発的な誤写が、後世広く派生した諸本に見られるということは、逆に云えば、肥後系諸本の先祖はある一本に還元できるのかもしれない。その一本は、初期写本の門外流出後まもなく生れたもので、以後生産される諸写本の祖となったものである。
 しかるに、現存写本を見るに、その後の伝写過程での写し崩れが多様を極めているので、その元祖一本を復元することは不可能なほどである。言い換えれば、肥後系諸本は何れも初期写本からの距離が大きいのである。
 ともあれ、この《あたる事》という字句重複については、肥後系早期における誤写としておく。我々のテクストでは、これを採らず、筑前系諸本にしたがい、「あたる事」という語句を一つにしている。

 ところで、ここでも語釈の問題がある。ひとつは、
《敵二間も三間もはけのく程、強きもの也》
とあるところの「はけのく」である。これは諸本共通の語句で、オリジナルにもそうあった語句であろう。ただし、「のく」(退く)は、今日でも日常語に残るもので、意味のわかる語だが、他方、「はけ」が付くとなると、現代語の感じでは少々わかりにくいかもしれない。
 しかし、「はけのく」の「はけ」は、現代語でも「はける」(捌ける)とあって、これはたとえば、商品などが売れて、消えて無くなるときの謂である。また、類似語では「はげ」(禿げ、剥げ)という語がある。これも頭から毛髪が消え失せた状態や、塗装が剥げたりする様を云う。
 そこで、当時の人々は、消え失せることを「はけのく」もしくは「はげのく」と言ったもので、五輪書の語用のこのケースでは、たんに「ここから消え失せる」というだけではなく、これがさらに、「向うへぶっ飛んでいってしまう」という語感のある口語になる。
 したがって、これを無理に現代語の語感に合わせて、「はねのく」(撥ね退く)とする必要はない。「はね」のくではなく「はけ」のくでよいのである。
 既成現代語訳をみるに、神子訳の「はねとばす」は誤訳である。他は、これを「ふっとぶ」「ふっとばす」と訳していて、その点おおむね正しい。ただし、訳者たちは、この語の言語分析をして調べたのではなく、「撥ね退く」の線上で、文脈からその意味を割り出したにすぎない。それでも、プロセスは間違っているが結果として、まあまあ合格、という事例である。
 さらに、語釈の点で、もう一つの問題箇所は、
《我身を、いかほども強くなり、あたる事、いきあひ拍子にて、はづむ心に入べし》
とあるように、「いきあひ拍子」「ゆきあひ拍子」と記すところである。
 これは、現代でも使うが、「行きあい拍子」である。「いきなり」(行き成)の類語である。ここでの「いきあひ拍子」のケースでは、いきなりという調子で、出しぬけにカウンター(counter)で激突することである。
 筑前=越後系の諸本では、「ゆきあひ拍子」としていて、これは「行きあい拍子」の意であろう。門流内部では、行きあいとして伝承されていたのである。また、底本は肥後系だが、越後の三巻兵書を参照したらしい大瀧家本では、「行合拍子」と漢字で記している。
 それゆえ、諸本の「いきあひ拍子」は、この「行きあい拍子」ということのはずだが、他方、肥後系異本には、「いきあひ」について、奇体な漢字表記をしているものがある。
 たとえば、丸岡家本は「息相」、富永家本は「息合」と記す。また同様に、肥後系派生の円明流系統の狩野文庫本では「息相」、稼堂文庫本では「息合」と記している。これらはいづれも、「いきあひ」という語を誤解釈して、如上の当て字をしたものである。
 岩波文庫旧版の高柳校註では、この「いきあひ」に、(息合)と傍注をふっている。そんな当て字のある写本を見たのかもしれない。ただし、岩波文庫旧版の「いきあひ」という字句は、細川家本が底本なら、これは誤写というべきである。なぜなら、細川家本はこれを「いきあい」と記しているからである。
 ところが、戦後の岩波文庫新版になると、由々しき問題がある。というのも、新版の渡辺校訂本では、細川家本の「いきあい」を、勝手に「いきあふ」に改竄しているのである。しかもその件について何の断りもない。戦前の高柳校訂本はたんなる誤写というべきだが、この新版は明らかな改竄である。
 しかも、この「いきあふ」以下の部分には、「勢いをつけて、弾み入るように、思い切って敵のふところに入れ」と脚注している。これでは、曖昧にしただけで、「いきあふ」の本義から逸脱を拡大するばかりである。
 ちなみに、戦前の五輪書訳本、――たとえば、石田外茂一訳では、これを、「勢いをつけて心にはづみをつけて入り込め」としている。これを見るに、戦後の岩波新版注記はこれとそっくりで、どうやらこれを頂戴したものらしい。
 そうすると、岩波新版が、細川家本の「いきあい」を「いきあふ」に改竄した動機が知れよう。つまり、「勢いをつけて」という誤解釈をもって、その線に近づけるべく、原文の字句を「改訂」してしまったのである。いうならば、こうした恣意的改竄を含むのが岩波版五輪書なのである。この点、読者の注意を喚起しておきたい。
 既成現代語訳は、以上の混乱に引きずられて、右掲の如く、おのおの誤訳を展開している。
 戦後最初の神子訳は、戦前版高柳校註の誤りを踏襲しているが、後二者は戦後岩波版の校註の誤りを反復している。大河内訳は神子訳をうけて、両方取りである。鎌田訳はそれを解消し、新版渡辺注記をそのまま頂戴している。かくして、以上を見れば、近年の現代語訳にはいかに進歩がないか、明らかであろう。
 五輪書解釈史という観点から、我々は既成現代語訳を論らっているわけだが、ここでも語釈上、看過できない誤りが認められるので、なぜこんな訳になったのかを含めて、それを指摘しておいたわけである。   Go Back

*【吉田家本】
《すこし我顔をそばめ、わが左の肩を出し、敵の胸にあたる也。我身を如何程も強くなり、あたる事、いきあひ拍子にて、はずむ心に入べし》
*【伊丹家甲本】
《すこし我顔をそばめ、わが左の肩を出し、敵の胸にあたる也。わが身をいか程も強くなり、あたる事、いきあひ拍子にて、はづむ心に入べし》
*【赤見家丙本】
《すこし我顔をそばめ、わが左の肩を出し、敵の胸にあたる也。我身いか程も強くなり、あたる事、ゆきあひ拍子にて、はづむ心に入べし》
*【近藤家乙本】
《すこし我顔をそばめ、わが左の肩を出し、敵の胸にあたる也。我身をいか程も強くなり、あたる事、ゆきあひ拍子にて、はづむ心に入べし》
*【石井家本】
《すこし我顔をそばめ、わが左の肩を出し、敵の胸にあたる也。我身をいかほども強くなり、あたる事、ゆきあひ拍子にて、はづむ心に入べし》
*【楠家本】
《少わが顔をそばめ、わが左の肩を出し、敵のむねにあたる也。あたる事、わが身をいかほどもつよくなり、あたる事、いきあい拍子にて、はずむ心に入べし》
*【細川家本】
《少我顔をそばめ、我左の肩を出し、敵のむねにあたる也。あたる事、我身をいかほどもつよくなり、あたる事、いきあひ拍子にて、はヅむ心に入べし》
*【富永家本】
《少我顔をそばめ、我左の肩を出し、敵の胸に當る也。當る事、我身を如何程もつよくなり、當る事、息合拍子にて、はずむ心に入べし》








*【現代語訳例】
《こうしてとび込みことに修練をつめば、敵を二間も三間もはねとばすほど強力となるもので、敵が死んでしまうまでにぶつかれるものである》(神子侃訳)
《この飛び込みの修練をつめば、敵が二間も三間もふっ飛ぶほど強力となるもので、敵が死んでしまうほどにもあたる》(大河内昭爾訳)
《こうして入ることに修練をつめば、敵を二間も三間もふっとばすほど強力となるものである。敵が死にそうになるまでにあたるものである》(鎌田茂雄訳)





*【楠家本】
《あたる事、いきあい拍子にて》
*【細川家本】
《あたる事、いきあい拍子にて》
*【丸岡家本】
《あたること、息相拍子にて》
*【富永家本】
《當る事、息合拍子にて》




「いきあひ」(息合)部分
旧版岩波文庫 昭和17年


*【現代語訳事例】
《當るにはどんなにも強く當るのである。勢いをつけて心にはづみをつけて入り込め》(石田外茂一訳)
《ぶつかるには、こちらはできる限りの力で、呼吸を合わせてはずむようにとびこんでいくのである》(神子侃訳)
《ぶつかるときは、身体にできる限りの力でを込め、呼吸を調え、勢いをつけて、弾むように、思いきって敵のふところに飛びこんでいくのである》(大河内昭爾訳)
《あたるには、自分の身はできるだけ強くなってあたり、勢いをつけて、はずみ入るように、思い切って敵のふところに入ることである》(鎌田茂雄訳)


 
   29 三つの受け
【原 文】

一 三つのうけの事。
三のうけと云ハ、敵へ入込時、
敵うち出す太刀をうくるに、
我太刀にて、敵の目をつく様にして、
敵の太刀を、わが右のかたへ
引ながしてうくる事。
又、つきうけと云て、敵の打太刀を、
敵の右の目をつく様にして、
くびをはさむ心に、つきかけてうくる所。
又、敵の打時、みじかき太刀にて入に、
うくる太刀ハ、さのみかまハず、
我左の手にて、敵のつらをつく様にして入込。
是三つのうけ也。左の手をにぎりて、
こぶしにてつらをつく様に思ふべし。
能々鍛錬有べきもの也。(1)
【現代語訳】

一 三つの受けの事
 三つの受けというのは、敵の方に入り込む時、敵が打ち出す太刀を受けるに、(次のような受け方がある)。
 我が太刀で敵の目を突くようにして、敵の太刀を自分の右の方向へ引き流して、受ける。
 また、「突き受け」といって、敵の打ちかかる太刀を、敵の右の目を突くようにして、相手の首をはさむ感じで、突きかけて、受ける。
 また、敵が打ってくる時、(こちらが)短い太刀で入るばあい、(敵の打ちを)受ける太刀の方はさしてかまわず、左の手で敵の顔面を突くようにして、入り込む。
 以上が、三つの受けである。(どの場合も)左の手を握って拳で(敵の)顔面を突く、そのように思えばいい。よくよく鍛練あるべきである。
 
  【註 解】

 (1)左の手をにぎりて、こぶしにてつらをつく様に思ふべし
 相手の打ってくる太刀を、どう受けるか、その受けかたである。これには、三つあるとして説明している。
 しかし武蔵流の「受け」は、たんなる受けではないのが、おもしろいところである。どれも、アグレッシヴな受けかたである。いわば能動的な受けというよりも攻撃的な受け、攻撃に他ならぬ受けなのである。受けといいながら、まさに攻撃なのである。
 それが、相手の眼なり顔なりを突くという動作である。
《我太刀にて、敵の目をつく様にして》
《敵の右の目をつく様にして》
《我左の手にて、敵のつらをつく様にして》
 いづれにしても、わが太刀(手)は「受ける」というより、相手の目や顔に向かっている。これを果たして「受け」というのであろうか?――それほど、武蔵の教えの「受け」は、タフで荒々しい。
 ところで、以上のことは一読してだれでも言えることなのだが、この三つの受けも、従前の一連の「入る」という教えの一部であることが、案外忘却されている。
 この教えの冒頭また途中にあるように、この三つの受けは「入る」と同時の受けなのである。入ると敵は打ってくる。それを受ける、という話の筋道である。
 したがって、動作の基調は攻撃的なのである。これをたんなる「受け」の教えと思うから、意外な気がするだけである。
 さて、問題は、この三つの受けについて具体的なイメージは?――となると、従来の解説書はどれもこれも、はなはだ心許ないと言わざるをえない。
 それというのも、まず、ここで武蔵の語っている「受け」において、一刀なのか、二刀なのか、それすら明確にしていない解説なのである。大部分は、これを一刀での受け太刀と誤解したまま、珍妙な解説に及んでいる。
 この五輪書読解で再三指摘されているように、従来の五輪書解説本には、具体的にイメージされないままの文字面だけの解説が多すぎたのである。これが五輪書を読む環境の最大の悪弊であった。
 実際に剣道をやっていると自称する者らにしても、自己流の近代剣道の先入観に囚われている。武蔵流二刀、これを例外的な剣法だという偏見を棄てきれないうちは、五輪書は正確に読めないのである。
 五輪書では武蔵の教えは二刀一流、したがって、この条を読む第一の前提は、二刀での受けだということである。すると、話は従来の解説書とはまったく違ってくる。
 三つの受けの第一、《我太刀にて、敵の目をつく様にして、敵の太刀を、わが右のかたへ引ながしてうくる事》。言うまでもなく、二刀だからこれができるのである。
 もし一刀なら、「我が太刀で敵の目を突くようにして、敵の太刀を自分の右の方向へ引き流して受ける」なんてことは、できない。敵の目を突くようにするのは、左手に持った太刀である。左手から目を突きかけると、相手の身体は思わず右へ流れる。その右の方向へ引き流して受けるのは、右手に持った太刀である。
 そして、「右の方へ引き流して」というのだから、強いて逆方向へ流すのである。一般に受け太刀でお互いに相手の太刀を受け流すのは「左」方向であるので、「右の方へ引き流して」となると、これは相手にとって具合の悪い不利な体勢になる。相手は逆手になって次の打撃に惑ううちに、一撃をくらうであろう。
 三つの受けの第二、《つきうけと云て、敵の打太刀を、敵の右の目をつく様にして、くびをはさむ心に、つきかけてうくる所》。「突き受け」、これも二刀だからできる。もし一刀なら、一体どうやって、「相手の首をはさむ」感じで突きかけることなどできるのか。一刀が前提の解説は、このあたり、まったく混乱してしている。
 ここでは、X字形に組んだ二刀で、相手の太刀を受けるのはむろんだが、このX字形に組んだ二刀が、相手の首をはさむように押し込むのである。
 三つの受けの第三、《みじかき太刀にて入に、うくる太刀は、さのみかまはず、我左の手にて、敵のつらをつく様にして入込》。これもまた、二刀だからできることである。
 ここでいう、短い太刀とは、左手の太刀であり、受ける太刀とは、右手の太刀である。まさに、敵の打ちを受けるこの太刀の方は、さしてかまわず、左の手で敵の顔面を突くようにして、左から(逆方向から)入り込むのである。この第三の受けでは、もう「受ける」という意識はない。左手から入り込むという方が勝っている。「受けるのはどうでもいいよ」という、受けに搆わない受けである。
 これを総括して、武蔵は「三つの受け」と言うが、なお付け加えて、
《左の手をにぎりて、こぶしにてつらをつく様に思ふべし》
と書いている。左手の太刀の突き方である。突くのは握った拳で顔面を突くという感じだ――とまで、武蔵は教えている。懇切な教訓である。
 以上のように、この三つの受けはすべて二刀だからできること、二刀を前提にしなければイメージできないことである。このケースではどれも、左手の太刀が積極的に働いている。
 そういうわけだから、《左の手にさして心なし》という右の肥後兵法書の記述は、内輪の要諦と心得る必要があろうが、それにしても、五輪書での左手の活躍ぶりを見れば、《左の手にさして心なし》とは言えないのは、明らかである。この点、武蔵死後、教義の逸脱もあれば変形もあったということである。

――――――――――――

 ここで校異の問題である。これは、筑前系/肥後系を区分する指標的相異であるから、とり上げておきたい。すなわち、筑前系諸本に、
《又、つきうけと云て、敵打太刀を、敵の右の目をつくやうにして》
とあって、《敵の打》とするところ、肥後系諸本には、この「の」字を欠いている。
 この相異は、筑前系/肥後系を截然と分かつものである。これについてまず云えば、筑前系諸本において、越後系諸本も含めて、《敵の打》と「の」字を入れるのが共通するところである。このように《敵の打》が筑前系諸本に共通することからすれば、筑前系初期からこれがあったものと思われる。既述のように、このケースでは、寺尾孫之丞前期の姿を伝えている可能性が高い。したがって、当初は、この《敵の打》であったものとみえる。
 それに対し、肥後系諸本に「の」字を欠くについては、その経緯に二つ可能性がある。
 ひとつは、寺尾孫之丞後期、寺尾が伝授した五輪書の記述が、《敵の打》とはせず、「の」字を欠いていたこと。このケースでは、寺尾孫之丞の時期による表記のゆらぎである。したがって、寺尾孫之丞の段階では、正しいのはどちらとも云えない。ただし、前に柴任へ伝授したのであるから、前期の文言の方を古型として採るべきであろう。
 また、この校異に関するもう一つの可能性は、寺尾の段階ではなく、その後の写本に脱字が発生したという可能性である。そのばあい、おそらく、門外流出後早期であろう。というのも、早期派生系統の子孫たる富永家本や円明流系統の諸本も同じく、「の」字を欠くかたちであるからだ。かくして、肥後系諸本においては、早期に発生したこの脱字をそのまま伝写伝播したのであり、現存写本は何れもその子孫である。
 このうち何れであったか、むろんそれは確言できない。文の内容を見るに、表記のゆらぎの範囲ともみえるし、このケースでは、「の」字のない方が文体が引き締まるようにも思える。だが他方で、続く後の文に、《又、敵の打とき、みじかき太刀にて入に》ともあって、《敵の打》という文言は異例ではない。したがって、文章構成の点でもどちらとも言えないのである。
 したがって、これは外在的条件によって何れかを決することになる。つまり、筑前系諸本の示すところ、その共通してあることから、寺尾孫之丞前期の表記である可能性が高い。そこから、この箇処の《敵の打》については、これを採るべきである。かくして、我々のテクストでは如上の文言としている。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 






赤見家丙本











三つの受け 第一
右のかたへ引ながして受ける



三つの受け 第二
首をはさむ心につきかけて受ける



三つの受け 第三
左の手にて敵のつらをつく様にして





*【肥後兵法書】
《此道二刀として太刀を二ツ持つ儀、左の手にさして心なし。太刀を片手にて取り習はせん為なり。片手にて持得る時は、軍陣、馬上、川、沼、細道、石原、人籠、駈走り、若し左に道具など持たる時は不如意に候へば、片手にて取候なり》(此道二刀と名付事)



*【吉田家本】
《又、つきうけと云て、敵打太刀を》
*【伊丹家甲本】
《又、つきうけと云て、敵打太刀を》
*【赤見家丙本】
《又、つきうけと云て、敵打太刀を》
*【近藤家甲乙本】
《又、つきうけと云て、敵打太刀を》
*【石井家本】
《又、つきうけと云て、敵打太刀を》
*【楠家本】
《又、つきうけといひて、敵【】打太刀を》
*【細川家本】
《亦、つきうけといひて、敵【】打太刀を》
*【富永家本】
《また、つきうけといひて、敵【】打太刀を》



石井家本 「敵の打」

 
   30 敵の顔を刺す
【原 文】

一 面をさすと云事。
面をさすと云ハ、敵太刀相になりて、
敵の太刀の間、我太刀の間に、
敵のかほを、我太刀先にてつく心に
常におもふ所、肝心也。
敵の顔をつく心あれバ、
敵のかほ、身ものるもの也。
敵をのらするやうにしてハ、
色々勝所の利有。能々工夫すべし。
戦のうちに、敵の身のる心有てハ、はや勝所也。
それによつて、面をさすと云事、
忘るべからず。兵法稽古のうちに、
此利、鍛練有べきもの也。(1)
【現代語訳】

一 顔を刺すという事
面〔おもて、顔〕をさすというのは、敵と太刀あい(接近戦)になって、敵の太刀の合間、我太刀の合間に、敵の顔を我が太刀先で突くのだ、と常に思うこと、そこが肝心である。
 敵の顔を突く心持があれば、敵の顔も身体ものけぞるものである。敵をのけぞらせるようにすれば、いろいろと勝機がある。(これを)よくよく工夫すべし。
 戦いの最中、敵に身をのけぞる気持が生じれば、もはや勝てるのである。そうだからこそ、顔を刺すということを忘れてはならない。兵法を稽古するなかで、この利〔戦法〕を鍛練することである。
 
  【註 解】

 (1)敵のかほを、我太刀先にてつく
 これは前条「三つのうけの事」と関連があって、敵の顔を突くことである。ここでは、敵の顔を突くという攻撃を仕懸て、敵の身をのけぞらせる、という戦法の教えである。
 ここは、とくに説明を要しないであろう。話は明快だからだ。敵と打合っている合間、合間に、敵の顔を突いてやれ、ということがポイントである。ただし、語釈上で、若干説明する必要のある語がありそうである。
 一つは「太刀相」〔たちあい〕という語である。これは、「立合」から「太刀相」となると兵法用語であるから、そのままでよいが、語義としては、敵と接近戦になって、敵我互いに太刀を振るい合う状況のことである。《敵の太刀の間〔あい〕、我太刀の間に》とあるように、太刀を振っての戦闘の最中である。
 もうひとつは、「のる」という語である。これは「乗る」ではない。「伸る」でもない。「反る」「仰る」である。
  《急所を一つ真の当、うんとのるを》(浄瑠璃「源平布引滝」四)
  《太刀の少し仰たるを、門の扉に当てて推し直し》(太平記 八)
という用例がある「のる」である。要するに、「のけぞる」である。このあたり注意すれば、読むのに苦労はないであろう。

 しかし、既成現代語訳は、どうしたものか、あまり正確なものがない。
 とくに、上記《敵太刀相になりて、敵の太刀の間、我太刀の間に》というところを、戦後になって、神子訳が「敵味方が五分五分になったときに」と意訳してしまった。神子訳は、《敵の太刀の間、我太刀の間に》とある部分を無視して訳している。まことに不正確な翻訳であるが、それが後の現代語訳にそのまま流用されている。
 大河内訳は、「敵味方の太刀が対等になったときに」とし、また鎌田訳は、「敵味方が互角になったときに」としており、独自の工夫は何も見られない。むしろ、神子訳の文言を「翻訳」しているだけである。五輪書を訳さずに、神子訳を言い換えているのである。五分五分、対等、互角と、どう訳そうが、それは「太刀相」の意味ではない。
 鎌田訳は、右例のように《肝腎だというのである》というところなど、神子訳の引き写しであろう。原文に当たらずに、神子訳しか見ていないのではないか、とさえ思われる。
 ようするに、ここでも戦前の石田訳の方が、(多少不正確であっても)戦後の諸訳と比べれば、まだしも上等である。五輪書現代語訳は、戦後、明らかに退歩したのである。今日、流布しているのは、そうした退歩した現代語訳なのである。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 






面をさす







*【現代語訳事例】
《面をさすといふのは、敵と立ち合って、敵が太刀を打ち込んで來る間合にも自分が打ち込んで行く間合にもいつも敵の顔を太刀先で突く氣持で居ることが肝腎である》(石田外茂一訳)
《顔を刺すというのは、敵味方の太刀が五分五分になったときに、たえず敵の顔を自分の太刀の先で突く心でいることが肝腎だというのである》(神子侃訳)
《「面をさす」というのは、敵味方の太刀が対等になったときに、敵の太刀の間、我太刀の間に、敵の顔を自分が太刀先で突くように、たえず機会を窺うことが肝心だということである》(大河内昭爾訳)
《顔を刺すというのは、敵味方の太刀が互角になったときに、たえず敵の顔を自分の刀の先で突く気持でいることが肝腎だというのである》(鎌田茂雄訳)


 
   31 敵の胸を刺す
【原 文】

一 心をさすと云事
心をさすと云ハ、戦のうちに、
上つまり、わきつまりたる所などにて、
切事いづれもなりがたきとき、敵をつく事、
敵の打太刀をはづす心ハ、
我太刀のむねを直に敵に見せて、
太刀先ゆがまざる様に引とりて、
敵の胸をつく事也。
若、我草臥たる時か、
又ハ刀のきれざる時などに、
此儀専用る心也。能々分別すべし。(1)

【現代語訳】

一 胸を刺すという事
 心〔むね、胸〕をさすというのは、戦いの最中、上が詰まり脇も詰まっている(余裕のない)場所などで、切ることがどうしてもできない時、敵を突くこと(である)。
 敵が打ちかかる太刀を外す要点は、我が太刀の棟(峰)を真っ直ぐ敵に見せて、太刀先が曲がらないように手前に引いて、敵の胸を突くことである。
 (ただし)もし自分が疲れきってしまった時、あるいはまた、刀が切れなくなった時などに、これをもっぱら使うというのが趣旨である。よくよく分別すべし。
 
  【註 解】

 (1)若、我草臥たる時か、又ハ刀のきれざる時などに
 これも前節以来の一連の「突く」の教えである。とくに、敵の胸を突くと云うここは、きわめてリアルな話になっている。
 胸を突くのは、前条のような顔を突くのと違って、どうやら窮鼠猫を囓む式の攻撃である。あまり威勢のいい話ではない。だから、こんな劣勢のことまで、五輪書には書いていることに、まず注意すべきである。
 では、どういうケースなら、この胸を突くことに理があるのか。
 武蔵の教えでは、まず、上も横も、太刀を振回せる空間の余裕がない場所で、切ることも入身することもできない時である。つまり、上中下段、右脇も左脇も、五方の搆えどころではない場面である。これは屋内など狭い場所で戦う時、もしくはそういう場所に追い込まれた状況であろう。
 しかし、なかんづく武蔵が言うのは、自分が疲れきった時、あるいは、刀が切れなくなった時、である。現実の戦場では、戦いに疲れ切って、なおかつ敵を相手にしなければならない時がある。こんなとき、もう太刀を振り回せる力がないかもしれない。あるいは、敵を何人も斬ると、太刀は刄がこぼれ、血糊で切れなくなる。そんな切れない太刀しかなくて、敵と闘うという場合である。
 武蔵が言うのは、いづれにしても、窮地に立っている場面である。もう太刀で切れない、こういう状況に陥って、どうしようもないとき、最後の手段が突きである。しかも胸だけを狙って突くのである。
 しかし戦場では、六具固めて、もちろん鎧も装着している。だから、胸を突く、刺すといっても、むやみにて突くのではない。いわば胸板も貫けとばかりに突くのである。
《敵の打太刀をはづす心は、我太刀のむねを直に敵に見せて、太刀先ゆがまざるやうに引とりて、敵の胸をつく事也》
 ここで、敵の打つ太刀を「外す」と言うのだから、これはもう、攻撃されても「受け」もできないほどの最悪の状況を想定しているとみえる。それで、一気に敵の心臓を突くのだが、このとき我が太刀の「むね」(棟/峰)を、真っ直ぐ敵に見せたかっこうで、太刀先が曲がらないように、いったん手前に引いて、そして敵の胸を突く――というのが、指南のポイントである。
 それはなぜかというと、戦場で鎧を装着しているのが前提だからだ。胸を防護する鎧を刺し通すには、真っ直ぐに突くのでなければならない。斜め角度があっては刺し込むことはできない。だから、このあたりも疎かには読めないところである。
 ところが、《我太刀のむねを直に敵に見せて》――というこの部分が、実は解釈の点に関して問題がある。
 太刀の棟(峰)とは刃の反対側、刃のない背中の方である。ここでの太刀の持ち方は、太刀の刃は下向き、太刀の棟は上向き。これが通常の持ち方である。これで、ずいと水平に突くということである。
 ところが、岩波版注記は、これを「切先を下げることをいう」とわざわざ解説している。それはご丁寧なことであるが、間違った余計な解説である。切先を下げると刀身の背が相手に見えるかたちである、だから「我太刀のむねを直に敵に見せて」というのはそうだろう――という臆測でしかない。しかし、そもそも、武蔵は「切先を下げる」などということは一言も言っていない。
 我が太刀の棟(峰)、これを「直に敵に見せる」と、武蔵はわざわざ言うのだから、これは敵から見て真っ直ぐに、ということである。つまり軸線の問題を教えているのである。
 敵から見て真っ直ぐな軸線は、自分から見て真っ直ぐな軸線とは一致しない。角度がある。それは、自分の太刀が右手にあるからだ。その太刀をいったん引いて突き出すのだから、その軸線が、敵から真っ直ぐにしろ、という教えである。
 こうしてこの軸線に沿って真っ直ぐ突き出せば、相手には太刀の棟が見える恰好である。わざわざ切先を下げる必要はない。もちろん切先を下げては、胸は突けない。切先を下げるという珍解釈は、そんな基本的なこともイメージできないらしい。
 従来の現代語訳はどうであったか、それを見てみよう。神子訳の「敵に垂直に向け」は、原文《直に》を「垂直に」とするのが誤りである。これでは、太刀を垂直に立てることになってしまう。ここは「真っ直ぐに」という意味であって、「垂直に」ということではない。大河内訳は、神子の誤訳をそのまま頂戴している。また、鎌田訳は明らかに、上記岩波版注記の解説をそのまま頂戴した訳文であり、誤訳は明白である。しかも切先を下げて、手前に引く、となると、まったく別の動作である。先ほども述べたように、武蔵は「切先を下げる」などということは一言も言っていない。これは余計な解釈が誤訳を招いた事例である。
 ようするに、戦前の石田訳が最もまともな語訳である。神子訳以下の戦後の現代語訳、岩波版注記ともに、ひどい誤訳・誤釈である。この事例でもそうだが、戦後になって、五輪書の語訳能力が格段に落ちたのである。
 ともあれ、そんな劣悪な状況にばかり付き合っておれない。いまひとつ、別の解釈があるすれば、こうだ。
 右手の太刀が役に立たない。そういう状況だ。――とすれば、残る左手の太刀で刺すのである。より具体的に言えば、敵の打つ太刀を左に外して、左手の刀で胸を刺す。つまり、左手の脇差しか使えないというミゼラブルな状況まで想定したものと読み込めば、こういうシーンもありうる、ということである。
 こうした場面は、前節の「顔を刺す」と一連の教えとして読む必要がある。つまり、左手の太刀の活用がここでも語られているものとみえる。
 いづれにしても、従来の解説書は、一刀をもっての動作を暗黙の前提にしており、そこでさまざま解釈の破綻が出来したのである。ここでも、左右両手に太刀を持った二刀の場面をイメージすれば、従来のそうした誤読の袋小路を突破できるはずである。
 ここは窮地に追い込まれて敵の心臓を刺すという必殺術の教えである。それにしても、ここで「むね」という言葉が二通りある、それが注意されるところである。「心」〔心臓〕と「棟」〔太刀のむね〕である。
 武蔵が言語遊戯をしているわけではないが、このあたり、窮地に立って心臓を突くという最後の手段まで教える武蔵には、読む方が胸を突かれる思いがしないか。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 











右に外して胸を突く






太刀各部



太刀 棟が上




敵我の軸線



*【現代語訳事例】
《我が太刀の背を眞ッ直ぐに敵に見せて太刀先が歪まぬやうに引いてから》(石田外茂一訳)
《わが太刀の峯を敵に垂直に向け、太刀尖がゆがまぬように引いて》(神子侃訳)
《自分の太刀のみねを敵に垂直に見せて、太刀先がゆがまないように引いて》(大河内昭爾訳)
《わが太刀のみねを真直に敵に見せるように切先を下げ、太刀先がゆがまないよう引いておいて》(鎌田茂雄訳)





左に外して胸を突く

 
   32 喝咄〔かつとつ〕
【原 文】

一 かつとつと云事。
喝咄と云ハ、何れも
我うちかけ、敵をおつこむ時、
敵又打かへす様なる所、
下より敵をつく様にあげて、かへしにて打事、
いづれもはやき拍子をもつて、喝咄と打。
喝とつきあげ、咄と打心也。
此拍子、何時も打あいの内にハ、専出合事也。
喝咄のしやう、切先あぐる心にして、
敵をつくと思ひ、あぐると一度に打拍子、
能稽古して、吟味有べき事也。(1)

【現代語訳】

一 喝咄という事
 喝咄〔かっとつ〕というのは、いづれにしても、こちらが打ちかけて敵を追込んだ時、敵が再び打ち返すような場合、下から敵を突くように突き上げて、「返し」で打つことである。いづれも早い拍子で喝咄と打つ。「喝」〔かつ〕と突き上げ、「咄」〔とつ〕と打つ心持である。
 この拍子は、いつでも敵と打ち合いの最中には、もっぱら使えることである。喝咄のやり方は、太刀の切先を突き上げる感じで、敵を突くぞと思い、突き上げると同時に打つ、その拍子をよく稽古して、吟味しておくことである。
 
  【註 解】

 (1)喝とつきあげ、咄と打心也
 これは、突き上げて、そして打つ、という連続攻撃である。それを、早い拍子で喝咄〔かつとつ〕と打つ、とあるごとく、喝〔かつ〕・咄〔とつ〕という音声語を援用して教えている。
 この突き上げて打つ連続攻撃は、もう少し言えば、《下より敵をつく様にあげて、かへしにて打》というように、下から突き上げて、「返し」で打つのである。ようするに、突きあげるときに敵をのけぞらせ、返す刀で敵を打つ。だが戦場では、甲冑で覆われた頭や肩を切るのではなく、腕や手を切るのであろう。
 この「返し」は兵法語彙として、語訳せずにそのまま用いる。行って戻す復路である。ここは、突き上げた太刀を、こんどは上から打つということである。これは応用範囲が広く、《此拍子、何時も打あいの内には、専出合事也》、この拍子は、太刀打合いのときはいつでも使えるというものだったらしい。
 具体的な場面としては、右掲肥後兵法書のように、まず、敵の顔を狙って突き上げる。相手がのけぞるところを、すかさず打つということである(喝咄切先返)。これは前出「面をさす」の条にも語られていたことである。あるいは、喝咄する時、大小の太刀の刄を立て、敵の打つ右の手を突く気で、打ち上げる。それが、敵の太刀にあたっても、あたらなくても、同じ事。ようは、我が手元が違わぬように早く打つ事、これが肝腎だともいう(儀談の搆)。
 ただし、肥後兵法書には、喝咄への言及はあっても、これを独立した一条としては扱わない。諸条に分散して言及がある。このかぎりにおいて、後の肥後の門流では、重点の置き方が変ったのである。
 しかしながら、この五輪書でわざわざこれに一条を立てて云うからには、喝咄という拍子、攻撃リズムを教えることが、重要だと思われていたらしいのである。つまり、《此拍子、何時も打あいの内には、専出合事也》とあるように、技法解説は欠かせないはずである。
 「喝」というのは、本来は禅宗用語で、どなりつけることである。『正法眼蔵』に、臨済と慧然の応酬を引例するなかに、
   《慧然便ち喝す》*(佛道)
とあるごとくである。さら言えば「喝」は、言語表現の不可能な内容を表現する発声であり、また、死者に引導を渡すさいの一喝でもある。
 現代語では「一喝」は、叱りつける意味で用いられるところであり、「喝を入れる」という言葉もある。「喝破」〔かっぱ〕というのは、物事を見抜いて真実を明らかにするといった意味で使われるが、これも本来は、大声で叱りつけることである。
 もうひとつの、「咄」という語は、落語家のことを「咄家」〔はなしか〕とも云うように「談話」の意味があるが、それは和製の語義である。もともと「咄」とは、見て字の如し、これも言語表現不可能な内容を表現する発声であり、驚いたときに使った言葉である。「咄咄」〔とっとつ〕とは、おやまあと驚いたとき思わず出る語である。「咄呵」〔とつか〕というのは、舌打ちの発声だが、本来「咄」には、「こらっ」と叱るという意味があったらしい。
 周知のように「咄嗟」〔とっさ〕という言葉があり、現代語でも使用されている。「咄嗟に打つ」とかいう用法があるのだが、これは急なこと、瞬間のことである。ところが、この咄嗟、本来は叱るという意味だったらしい。
 以上、ようするに、「喝」「咄」も言語表現不可能な内容を表現する発語であり、どなりつける、叱りつけるのが本義の発声である。こういう語だから、太刀を突いて打つという攻撃に際し、武蔵は援用したものらしい。こんなかたちで「喝」「咄」が生き延びるとは、昔の禅家たちには思いも寄らなかったであろう。
 しかしここで、誤解があってはならないことは、突いて打つ、この連続攻撃のとき「かつ、とつ」と実際に発声しろとは、言われていないことである。ここは攻撃リズムを分りやすく教えているのである。
   《喝とつきあげ、咄と打心也》
である。そういうリズムで、そういう心持で打て、ということである。したがって、これは発声なき発声である。思えば、語用の変貌もあったのである。
 この喝咄は、武蔵門流では、稽古の基本であったらしい。たとえば、丹羽信英は『兵法列世伝』において、師匠の立花増寿の日常稽古について、次のように記している。
 立花増寿は、公務繁多なれども、毎朝出仕の時、兵法稽古場で、表二回、喝咄二回ずつ稽古するのが決まりだった。大急用があっても、吉日でも凶日でも、そういう決まった定式だったので、屋敷の表を掃除する者も、稽古所に木刀を組置くこと、主人の指図に違うことはなかった。三歳の児でさえ立花増寿のこうした習慣を知っていた、云々。
 この立花増寿は筑前黒田家の家臣、知行千三百石で用人等を勤めた重臣である。立花峯均の甥で、峯均から二天流兵法の相伝を受けた一人である。武蔵から数えて六代目である。
 その人物が毎朝稽古を欠かさなかった。その稽古メニューは、「表二回、喝咄二回」だったという。この「表」は、この水之巻にすでに出た、五方の搆の五つである。そして「喝咄」は本条記事にある通り通りである。この喝咄が毎朝稽古されていたことは、これも「表」五本と並ぶ基本技として修行されたようである。

 ところで、語釈の問題が一つある。それは、
《我うちかけ、敵をおつこむ時》
とある、その「おつこむ」である。この語は、『日葡辞書』*に《voccomu》(ヲッコム)とあって、当時の語用が確認できる語である。これは諸本にある「おつこむ」ではなく、表記としては「をつこむ」が正しい。
 要するに、「をつこむ」は、追い込む、押し込める、という意味で、他の語例に、
   《其外の兵共、城の内迄をつこみ》(幸若「三木」)
などとあって、攻め込むという意味もある。
 しかしながら、この「をつこむ」がオリジナルの表記であったかどうか、確証がない。これが「追込」で、寺尾孫之丞の段階で平仮名表記にして、それが後に定着したものかもしれない、という可能性もある。「追込」という文字の方が先にあったかもしれぬ。――というわけで、必ずしも仮名にはこだわらない。音声に先立つグラマトロジーである。
 それはともあれ、喝咄は、敵を追い込んだときの攻撃技である。この点に特徴がある。したがって、重要な業であるのだが、前に述べたように、肥後兵法書では、これに独立した一条を与えていない。その点で、教義の変質があったのである。
 これに対し、筑前二天流では、上述の立花増寿の朝稽古のように、五つの表とともに毎日稽古するほどの基本技であった。あるいは、『丹治峯均筆記』に、以下のような話もある。
 ――ある時、肥後で、小知の武士が、十八九歳の息子を一人連れて武蔵のところへやって来て、息子を弟子にしたいと頼んだ。武蔵は健やかなる若者ゆえ、許可した。親は帰って若者は残り、終日稽古した。武蔵は「喝咄の位」を数百回教えた。晩になって若者が帰る。その途中の町なかで、人を殺めた者が血刀を振って向って来る。後から追手が声々に、「その者を、留めてくだされ」と言っている。かの若者は、さっき稽古したところなので、両刀を抜き放ち、喝咄で打ち懸かる。狼藉者もよんどころなく応戦して、双方切り合いになった。若者は喝咄で、突き上げて打込む。しかし相手が後ヘ退いたので当たらない。若者はまた追いかける。何度も何度も喝咄で打つが、狼藉者は後へ退いて行く。そのうちに、町の戸口の門を閉ざされ、貫抜(閂)を打つ。若者は、門際まで相手を追つめる。背後の貫抜に塞がれ、相手はもう退くことができない。そこを袈裟がけに切って捨てた。追手の者どもは悦び、死骸などを片づけた。かの若者の父親が、早速現場へ駆けつけ、以上のことすっかり聞いて、息子を召連れ、武蔵のもとヘ伺候し、云々。
 つまりは、一日喝咄を習って、それが思わぬ役に立ったという話だが、筑前二天流には、喝咄にこういう逸話があったのである。それだけ、この喝咄を重要視していた、ということである。その点で、肥後の門流とは相異がある。余談であるが、一応念頭におかれたい。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 




喝とつきあげ、咄と打つ


*【肥後兵法書】
《敵打出す心を請、敵の打太刀に當らざるごとく向の顔ニ突かけ、敵にたくみをうしなはせ、是非もなく打所を、切先を返して上より手を打也。其太刀、前に捨たる如く提さげて、我身を動さず、敵又打かくる所を、三分一にて下より手をはるものなり》(喝咄返切先 中段)
《太刀筋、喝咄する時、太刀大小の刄を立、敵の打右の手を突心にあげて、打上る。あぐる事、敵の太刀にあたりても、あたらでも、同じ事なり。我手前違はぬやうに早く打事、專也》(儀談の搆 上段)



*【正法眼蔵・佛道】
《臨濟將示滅、囑三聖慧然禪師云、「吾遷化後、不得滅却吾正法眼藏」[吾れ遷化の後、吾が正法眼藏を滅却すること得ざれ]
 慧然云、「爭敢滅却和尚正法眼藏」[爭か敢へて和尚の正法眼藏を滅却せん]
 臨濟云、「忽有人問汝、作麼生對」[忽ちに人有つて汝に問はんに、作麼生か對せん]
 慧然便喝。
 臨濟云、「誰知吾正法眼藏、向這瞎驢邊滅却」[誰か知らん吾が正法眼藏、這瞎驢邊に向つて滅却せんことを]》

*【普勧坐禅儀】
《若し坐より起たば、徐徐として身を動かし、安詳として起つべし、卒暴なるべからず。嘗て観る、超凡越聖、坐脱立亡も、此の力に一任することを。況んや復、指竿針鎚を拈ずるの転機、払拳棒喝を挙するの証契も、未だ是れ思量分別の能く解する所に非ず、豈神通修証の能く知る所とせんや。声色の外の威儀たるべし、那ぞ知見の前の軌則に非ざる者ならんや》







*【兵法列世伝】
《如斯公務繁多ナレ共、毎朝出仕ノ時、兵法稽古ノ場ニテ、表二返、喝咄二返宛、大急用有テモ、吉ニテモ凶ニテモ、究リタル格式ナレバ、表ヲ掃除スル者モ稽古所ニ木刀ヲ組置事、主人ノ差圖ニ不違。三歳ノ児モ如斯ノ格ヲ知ル》










*日葡辞書
 慶長年間(1603〜4)長崎で刊行された切支丹版日本語・ポルトガル語辞書。ボドレイ文庫本とエヴォラ公立図書館本の2種の異本あり。中世日本語の語義と発音が知れるというので、国語学のみならず歴史学一般の貴重な資料。





*【丹治峯均筆記】
《又或時、肥後ニテ、小知ノ士、十八九歳ノ賎息ヲ一人召連、武州ノ處ニ来、弟子ニイタシ度由ヲ申ス。健ナル若者ユヘ許容アリタリ。親ハ罷帰リ若者ハ残リ、終日稽古ス。喝吐ノ位ヲ数百返教ヘ、及晩皈ル所ニ、町ニテ、人ヲ誤リタル者、血刀ヲ振テ向ヒ来ル。跡ヨリ声々ニ、「其者、留テタマワレ」ト申ス。彼若者、唯今稽古ノ事ナレバ、両刀ヲ抜放シ、喝吐ニテカヽル。狼藉者無拠一刀打込、後ヘシサル。若者カスリ揚テ打込。サレ共、跡ヘシサリシ故、不當。又追カクル。以前ノ如ク、打チ込ミテハシサリ、カスリ揚テハ打チ、五六度、七八度モ右ノ如ニテ、跡ヱシサリ行。其内ニ町口ノ門ヲタテ、ノ〔クハンヌキ〕ヲ打。門際マデ追ツメ、打込ム所ヲカスリ揚テ打。跡ノクハンヌキニツカヘ、シサル事不能。袈裟ガケニ打放ツ。追手ノ者共悦ビ、死骸ナドカタヅケタリ。彼者親早速カケ付、右之趣聞届ケ、賎息召連、武州ヘ伺公、「御影ニテ手柄仕忝」由、及謝礼。武州ノ玉フハ、「我等ノ兵法ニテ候間、今日稽古シ今日打勝候段、不珍候。同ジ事二三度ハ左モアルベシ。数反ノ間、指南ヲタガヘズ、遂打勝候段、志シ丈夫ニテ祝著」ノ由、甚感稱シ玉ヘリト云ヘリ。コレハ武州ガ手柄ニ非ズトイヘ共、聞置タル咄ユヘ記置ナリ。志シ、丈夫ナラデハ、何事モ調イガタカルベシ》

 
   33 張り受け
【原 文】

一 はりうけと云事。
はりうけと云ハ、敵と打合とき、
とたん/\と云拍子になるに、
敵の打所を、我太刀にてはり合せ、うつ也。
はり合する心ハ、さのみきつくはるにあらず、
又、うくるにあらず。
敵の打太刀に應じて、打太刀をはりて、
はるよりはやく、敵を打事也。
はるにて先をとり、うつにて先をとる所、肝要也。
はる拍子能あへバ、敵何と強くうちても、
少はる心あれバ、太刀先の落る事にあらず。
能習得て、吟味有べし。(1)
【現代語訳】

一 張り受けという事
 張り受けというのは、敵と打ち合う時、「トッ、たん、トッ、たん」という拍子になるばあい、敵の打ってくるところを、我が太刀で張り合わせて打つのである。
 張り合わせる感じは、さほどきつく張るのでもなく、また受けるのでもない。敵の打ちかかる太刀に応じて、(敵の)打つ太刀を張って、張るより早く敵を打つことである。張ることで先〔せん〕を取り、打つことで先を取る、そこが肝要である。
 張る拍子がよく合えば、敵がどれほど強く打っても、(こちらに)少し張る気持があれば、太刀先が落ちることはない。よく(これを)習得して、吟味あるべし。
 
  【註 解】

 (1)はるよりはやく、敵を打事也
 ここは前条「喝咄」につづいて、やはり連続技である。すなわち、喝咄が打つ拍子、攻撃リズムの教えであったのに対し、ここは受ける方である。
 敵との太刀の打ち合いで、どうしても拍子が単調になってうまくいかない、というばあいがある。そういうケースでは、「張りうけ」をしろというのがここでの教えである。
 前出「三つの受け」という条があったが、受けといっても、それとはちがう。張るといっても、さほど強烈に張るのではなく、まさに敵の太刀に拍子を合わせるように軽く張る、ということである。
 この張り合せは、相手の攻撃リズムに同調し、拍子を調えるという感じである。これが「張り受け」であるのは、相手の太刀を受け止めるのではなく、まさに相手の拍子を吸収し受けとる、という心であろう。
《はる拍子能あへば、敵何と強くうちても、少はる心あれば、太刀先の落る事にあらず》
とあるところである。受けが強ければ、反力も大きい。しかし、相手の拍子を吸収し受けとるこの張り合せでは、太刀先が落ちることもない。
《敵の打太刀に應じて、打太刀をはりて、はるよりはやく、敵を打事也》
 この張り合せは軽く合せ、一瞬後には打ちへ移る。喝咄が「突きあげて打つ」拍子であったのに対し、ここは「張り合せて打つ」という拍子である。
 この張り合わせは、二刀の場合、左右いづれにしても、敵の打つ太刀を外側へ流すものであろう。右手の太刀を張り合わせたら右へ流し、左から回り込んで左右どちらの太刀でも打つ。また左手の小太刀で張り合わせて左へ流せば、右から回り込んで右の太刀で打つ。
 前者がかなり粉砕的な攻撃であるに対し、張り受けからの打ちは、いわばスマートな打法である。それは、《はるにて先〔せん〕をとり、うつにて先をとる所、肝要也》とあるごとく、戦闘のイニシアティヴをとるのが目的なのだから。
 肥後兵法書では、これに対応する条文がないが、あえて探せば、《喝咄つゞく太刀筋なれば、つくる事もあり。敵合近くしてハなりがたし、受て取事》とあるところが関連するだろう。

 この条で語釈上の問題点をあげれば、《敵と打合とき、とたん/\と云拍子になるに》というところがそれであろう。この《とたん/\》が問題なのである。
 この《とたん/\》というのが、擬音であることは見易いところである。つまり、「喝咄」〔かつとつ〕が漢語もしくは禅宗由来の語であったのに対し、これは純粋な擬音語である。
 「喝咄」が、カツと突き上げ、トツと打つ、という自分の連続技のことであったのだが、この「とたん」は、「トッ、たん」という相互応酬の恰好である。つまり、我が「トッ」と打つ、敵が「たん」と返す、またその逆である。
 たとえば、尾張円明流の福冨三郎右衛門親茂の相伝書(正徳六年)に、
《とたんとハ、我より「と」の拍子を打時に、「たん」の拍子を敵より打事也》
とあるごとくである。これは、異本「五七階級巻」も同様である。
 ようするに、この「とたん」は一語ではなく、「と」「たん」という二音で、我と敵の打合いを示している。そして、「とたん/\」というのは、その「トッ、たん」という敵我の打合いが、連続するさまをいうわけである。
 ところで、この「トッ、たん、トッ、たん」という打合いの拍子が、よくない。というのも、この「とたん/\」という拍子とは、つまり、リズムが単調になったときのことである。言い換えれば、打合いの拍子が単調に膠着した状態である。そこで、五輪書は、この「はりうけ」を教えているのである。

 しかしながら、この《とたん/\》は、これまでの五輪書語釈を見ると、手に負えない難題だったようで、正しく読み解いた例がない。
 戦前の石田訳は、《とたん/\》の語を消去して、「調子がはかばかしくなくなった」と意訳している。「はかばかしくない」という意味では、大筋では誤りはないが、《とたん/\》の場面がわかっていないので、語訳というほどのものではない。
 戦後の神子訳では、《とたん/\》の語訳を放棄しているが、「互に打合う」というあたりに、やや見處がある。しかし剣術の打合いは、テニスのラリー(rally)ではないのである。
 ところが、その後に出た岩波版五輪書の注記で、状況は一変した。なんと、これを「どたどたと拍子がかみあわなくなったさま」と解釈したのである。これは語釈上の新機軸だが、まさに爆笑物である。もとより、前近代の剣術に無知としか言いようがないが、《とたん/\》の場面のイメージが大間違いなのである。そして、もっと嘆かわしいことに、この「どたどた」という誤った場面イメージを鵜呑みにした、現代語訳が目下一般的である。悲惨と云うべし。
 申すまでもないが、武蔵は、拍子が噛み合わないなどとは書いていない。単調な拍子に膠着することを、ここでは問題にしているのである。
 音楽の演奏でもそうだが、いつもの相手と合奏していても、何となく調子が出ない。ノリが悪い――そういうことがあるが、太刀で切り合って戦うのは、音楽の合奏ではないのである。
 相手と拍子が合わないことが問題なのではなく、むしろ逆に、相手と拍子が合いすぎる方がよくない。思い起こそう、五輪書の随所に、拍子をずらしたり、外したりする、破調戦法の教えがあるではないか。
 したがって、この《とたん/\》を、「どたどた」とか「どたばた」とか、そういう具合にイメージ解釈するのは、誤りである。ここで武蔵が問題にしているのは、拍子の齟齬ではない。また拍子の「乱調」ではなく、あくまでも拍子の「単調」なのである。そして、その《とたん/\》という「単調」を破れ、と教えているのである。
 この点で、要するに、五輪書のこの《とたん/\》を正しく読めたものは、これまで出なかったのである。我々のこの五輪書読解研究以前、既存の語釈・語訳はすべて、見当違いの誤りを反復するのみであった。
 なお、戦後の神子訳以来、おおむね既成現代語訳は、ここでいう「張る」を、「はたく」と訳している(大河内、鎌田訳)。はたきをかけるように軽く「はたく」ということのようである。
 鷹揚に言えば、この現代語「はたく」でも間違いとはしないが、この訳語の使用は適切ではない。これは近代になって変化した語意であり、標準語帝国主義の一端でしかない。「はたく」という語の伝統的な語感はそれとはちがう。厳密に言えば「はたく」はもともと「叩く/砕く」である。「張る」という意味はない。したがって、こういう系統の違う語種をわざわざ訳語にすることは不適切である。
 むしろ、この「張る」もまた、「打つ」と同じく、五輪書におけるスペシフィックな兵法語彙であるから、ここは無理に現代語に訳そうとはせずに、そのまま「張る」としておいた方がよかろう。  Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 






*【三つのうけの事】
《三のうけと云は、敵へ入込時、敵うち出す太刀をうくるに、我太刀にて、敵の目をつく様にして、敵の太刀を、わが右のかたへ引ながしてうくる事。 又、つきうけと云て、敵の打太刀を、敵の右の目をつく様にして、くびをはさむ心に、つきかけてうくる所。又、敵の打時、みじかき太刀にて入に、うくる太刀は、さのみかまはず、我左の手にて、敵のつらをつく様にして入込。是三つのうけ也。左の手をにぎりて、こぶしにてつらをつく様に思ふべし。能々鍛錬有べきもの也》(水之巻)






*【肥後兵法書】
《太刀筋、喝咄する時、太刀大小の刄を立、敵の打右の手を突心にあげて、打上る。あぐる事、敵の太刀にあたりても、あたらでも、同じ事なり。我手前違はぬやうに早く打事、專也。喝咄つゞく太刀筋なれバ、つくる事もあり。敵合近くしてハなりがたし。受て取事、分別すべし》(儀談の搆 上段)





個人蔵
福富親茂相伝書 正徳六年




*【現代語訳事例】
《張り受けといふのは、敵と戰ふ中に、調子がはかばかしくなくなった時に》(石田外茂一訳)
《はりうけ(張り受け)とは、敵とたたかう際、「トタン、トタン」というように、互に打合うようになったならば》(神子侃訳)
《「張り受け」というのは、敵と打ち合うとき、どたどたと拍子がかみあわなくなったならば》(大河内昭爾訳)
《はりうけとは、敵と打ちあうとき、「どたどた」というように、拍子がかみあわなくなった状態になったならば》(鎌田茂雄訳)



石井家本 近藤家本
とたん/\と
石井家本/近藤家本




紙はたき

 
   34 一人で多数と戦う
【原 文】

一 多敵の位の事。
多敵のくらゐと云ハ、
一身にして大勢と戦ときの事也。
我刀脇指をぬきて、
左右へ廣く太刀を横に捨て、搆る也。
敵は四方よりかゝるとも、
一方へおひまはす心也。
敵かゝる位、前後を見分て、
先へすゝむものにはやく行あひ、
大に目を付て、敵うち出す位を得て、
右の太刀も左の太刀も、一度に振ちがへて、
行太刀にて、其敵をきり、もどる太刀にて、
わきにすゝむ敵をきる心也。
太刀を振ちがへて待事悪し。
はやく両脇の位に搆、敵の出たる所を、
強くきりこミ、おつくづして、其まゝ、
又敵の出たるかたへかゝり、振くづす心也。
いかにもして、敵をひとへに、
うをつなぎにおひなす心にしかけて、
敵のかさなるとミヘバ、
其まゝ間をすかさず、強くはらひこむべし。
敵あひこむ所、ひたとおひまはしぬれバ、
はか行がたし。
又敵の出るかた/\と思ヘバ、
待心有て、はか行がたし。
敵の拍子をうけて、くづるゝ所をしり、勝事也。
おり/\相手をあまたよせ、
おひこミ付て、其心を得れバ、
一人の敵も、十、二十の敵も、心安き事也。
能稽古して吟味有べき也。(1)
【現代語訳】

一 多敵の位の事
 多敵〔たてき〕の位というのは、一人で多勢と戦う時のことである。
 わが刀と脇差を抜いて、左右に広く太刀を横に拡げておくようにして搆えるのである。
 敵が四方からかかってくるとしても、敵を一方へ追廻すようにする心持である。敵がかってくる出方、その前後を見分けて、先へ進む者に素早く行き合い、大どころに目をつけて、敵が打ち出してくるところを捉えて、右の太刀も左の太刀も同時に振りちがえて、行く太刀で前の敵を切り、戻る太刀で脇に進む敵を切るのである。
 太刀を振りちがえて待つのはよくない。素早く両脇の位に太刀を搆え、敵の出てくるところを、強く切り込み、追い崩して、すぐさま、また敵の出てくる方へ切りかかり、振り崩すのである。
 できるだけ、敵を一列に魚つなぎ*にしてしまうように追いやるように仕懸けて、敵が(一列に)重なったと見れば、すぐさま、間をあけず強く(横に)払い(切り)込むべし。
 敵と接近したところで、しつこく敵を追い廻すのでは、捗〔はか〕が行かない。また(逆に)、敵の出てくる方、出てくる方と思っていると、待つ心があって、(これも)捗が行かない。
 敵の拍子をうけて、その崩れる部分を見分けて撃破するのである。
 ときおり相手を多数集め(練習して)、追込むのに慣れて、その感じをつかめば、一人の敵でも、十人二十人の敵でも、平気だということになる。よく稽古して、吟味しておくべきである。
 
  【註 解】

 (1)一身にして大勢と戦ときの事也
 これは、一人で多数を相手に戦う、その戦法の要諦である。「多敵」は「たてき」と読む。
 タイトルの《多敵の位》の「位」という語は、これまで何度も出てきたのであるが、これは兵法用語として、訳さずそのまま使いたい語である。
 この「位」を現代日本語に訳せば、状態、態勢、搆え、戦法、その他多義的であるが、要するに、現代日本語よりも英語の《position》が近いのである。なかでも、メラニー・クラインの《position》概念、つまり日本語では「態勢」とでも訳すところの意味である。
 こうした語釈のポイントを押さえて、「位」という語を読むべきである。《多敵の位》の「位」という語は、さしあたりここでは、態勢、搆えという意味に絞り込んでよい。
   《我刀脇指をぬきて、左右へ廣く太刀を横に捨て、搆る也》
とあるように、これが《多敵の位》、一人で多勢と戦う時の搆えである。
   《太刀を振ちがへて待事悪し。はやく両脇の位に搆》
ともあるところからすると、この両脇に左右へ広く搆えた形が、その基本的なポジションなのである。
 この「両脇の位」は、実は、五方の搆のカテゴリーにはない。上中下は「体」の搆え、右脇・左脇は「用」の搆えである。この「両脇の位」は、右脇の搆えでも左脇でもない。両脇の搆えなのである。
 したがって、これは、「第六の搆」とでもいうべきものである。前に見たように、五方の搆以外には構えはない、という解説があったところだが、実は、その他にこの「両脇の位」があったのである。
 五方の搆は、見るところ、一人を相手にして戦い斬り合う時のものであるが、この第六の搆は、その位置づけとしては、《多敵の位》、一人で多数と戦うためのものであり、いわば「用の用」たる応用の極である。
 こうした点についても、これを五方の搆との関係で、第六の搆として明確に述べた解説は、これまでなかった。世の五輪書読みは、この重要な箇条ですら、まともに読んでいなかったのである。
 さて、――ここはまさしく、五輪書中、白眉とも言うべき一文、もっとも有名な箇処の一つである。
 武蔵は二十代までに六十余回対戦したというが、一方で、こうした集団戦で、一人で多数を相手に戦う武蔵、というのが伝説的なイメージとなった。それもこれも、この五輪書の記述に淵源があるとも言えるだろう。
 武蔵の説明は、この有名な文章をそのまま読めばわかる。とくに難解な部分はない。ここでの話は、とりわけ具体的であるからだ。
 なかでも、二刀で敵を追廻し、一列に「魚つなぎ」にして殲滅する――というあたりの、描写の鮮やかさは、戦闘教本たる性格を超えて、近世国語史上の言語表現の新しさを告知する部分である。
 曰く、――敵が四方からかかってくるとしても、敵を一方へ追廻すようにする心持である。敵がかってくる出方、その前後を見分けて、先へ進む者に素早く行き合い、大どころに目をつけて、敵が打ち出してくるところを捉えて、右の太刀も左の太刀も同時に振りちがえて、行く太刀で前の敵を切り、戻る太刀で脇に進む敵を切るのである。
 太刀を振りちがえて待つのはよくない。素早く両脇の位に太刀を搆え、敵の出てくるところを、強く切り込み、追い崩して、すぐさま、また敵の出てくる方へ切りかかり、振り崩すのである。
 できるだけ、敵を一列に「魚つなぎ」にしてしまうように追いやる。そのように仕懸けて、敵が一列に重なったと見れば、すぐさま、間をあけず強く横に払い切り込むべし。
 敵と接近したところで、しつこく敵を追い廻すのでは、捗〔はか〕が行かない。また逆に、敵の出てくる方、出てくる方と思っていると、待つ心があって、(これも)捗が行かない。敵の拍子をうけて、その崩れる部分を見分けて撃破するのである、云々。
 多敵を相手の戦法のポイントは、敵を一列に「魚つなぎ」にすることである。つまり、四方から包囲してかかる敵でも、それを線状にしてしまえば、一人ずつ片付けて行けるというのが、この戦法の要諦である。
 ちなみに言えば、一人で多数を相手にするこの「多敵」相手の戦闘ということは、何も武蔵だけの教えではない。沢庵宗彭の『不動智神妙録』にも、千手観音を譬えにして似たような右掲の一節があるだろう。
 これによって見れば、一人で十人を相手にする要諦を語っているようにみえるが、ここでもまた、禅家常套句の「心を留めず」が反復されているだけである。沢庵の話は抽象的というよりも、床屋談義に近い。
 こうした禅家(もしくはそれに影響された兵法書)の教訓と、武蔵の五輪書の相違がどんなものか、それを如実に現すのがこの「多敵の位」の記述である。一つだけ例にとれば、武蔵の「魚つなぎ」スキーマに対し、沢庵の「一人にも心をとゞめず」という言葉のいかに粗笨なことか。
 ようするに、武蔵が沢庵の思想に影響されたなどという珍説は、吉川英治をもって代表とするが、史実上は両者遭遇の記録はないというよりも、むしろ武蔵の五輪書を読めばただちに解ることだが、沢庵流の通俗的教訓など歯牙にもかけていないのである。
 武蔵がこの五輪書で、禅家亜流の通俗的兵法思想を大きく踏み越えているのは明らかである。むしろ武蔵は、そうした兵法書のスタンスを批判するために五輪書を書いたのではないかとさえ、思われるほどである。
 というのも、武蔵は、当時支配的な思想的言語であった禅家の言葉を、苦心して遠ざけようとしているからだ。兵法の固有言語を探っている。従来、類似ばかりを突き合わせて、両者の差異に注意しない五輪書解説書が多すぎるが、もうそろそろ気づかれてよいはずである。
○此条諸本参照 →  異本集 








両脇の位


















敵に包囲されて戦う

「魚つなぎ」 戦闘スキーマ







*【不動智神妙録】
《譬へば十人して一太刀づゝ我へ太刀を入るとも、一太刀を受流して跡に心をとゞめず、跡をすて候ば、十人ながらへ働をかゝぬにて候、十人に十度心は動けども、一人にも心をとゞめぬは、次第に取合て働きかけ申間敷候。若又一人の前に心が留まらば、一人の打太刀をば受流すべけれども、二人しての時は手前のはたらき脱け可申候》

祥雲寺蔵 大阪市立美術館寄託
沢庵和尚像
――――――――――――

 さて例によって、この一節にも校異の問題がある。そのもっとも重大な箇処は、細川家本に文字列の欠落があるところであろう。同じ肥後系の諸本では、この箇処に細川家本のような脱落はない。
*【吉田家本】
《先へすゝむものにはやく行あひ、大に目を付て、敵うち出すを得て、右の太刀も左の太刀も一度に振りちがへて、行太刀にて其敵をきり、もどる太刀にてわきにすゝむ敵をきる心也。太刀を振りちがへて待事悪し》
*【楠家本】
《先へすゝむものにはやくゆきあひ、大きに目をつけて、敵打出すくらゐを得て、右の太刀も左の太刀も一度にふりちがへて、ゆく太刀にて其敵をきり、もどる太刀にてわきにすゝむ敵をきる心なり。太刀をふりちがへて待事あしゝ》
*【丸岡家本】
《先へ進む者ニ早く行合、大に目を付て、敵打出すを得て、右の太刀も左の太刀も、一度に振違へて、行太刀にて其敵を切、もどる太刀にて脇に進む敵を切心なり。太刀を振違て待事あしゝ》
*【石井家本】
《先へすゝむものにはやく行あひ、大に目を付て、敵うち出すを得て、右の太刀も左の太刀も、一度に振ちがへて、行太刀にて其敵をきり、もどる太刀にて、わきにすゝむ敵をきる心也。太刀を振ちがへて待事悪し》
*【細川家本】
《先へすゝむものにはやくゆきあい、大きに目をつけて、敵打出すくらいを得て、右の太刀も左の太刀も一度にふりちがへて、【★★★★★★★★★★★脱文★★★★★★★★★★★】待事悪し》
*【狩野文庫本】
《先え進ム者ニ早行逢、大に目を付て、敵打出スを得て、右の太刀も左の太刀も一度に振違へて、行太刀ニて其敵を切、戻る太刀ニ而脇に進ム敵を切心也。太刀を振違て待事悪し》
 明らかに細川家本は、《…行太刀にて、其敵をきり、もどる太刀にて、わきにすゝむ敵をきる心也。太刀を振ちがへて…》という無視できない重要部分を欠落させている。これは単純なミスであって、「ふりちがへて」という重出する語句に引かされて、その中間の文言を写し忘れたのである。
 ただしこの脱落は、細川家本と同系統の常武堂本にもみられる。とすれば、細川家本の作成段階で生じた誤写ではない。細川家本と常武堂本のこの系統の祖本に、すでにこの脱落が発生していたというわけである。両本はそれに気づかず、脱落を継承したのである。
 もとより、書写者の粗忽に起因するこの文言脱落は、写本によくあることなので、それ自体に目くじらをたてる必要はない。筑前系諸本を参照するまでもない。こうした誤写を継承した細川家本がどの程度の写本か、ということを示すだけのことである。このあたり、むやみに細川家本を古いと信奉してはならないという証拠である。
 上掲の部分について、他の校異をいえば、諸本に《敵うち出すを得て》として、「位」を漢字で記すところ、楠家本は「くらゐ」と仮名で記し、細川家本も、おなじく「くらい」と記す。
 しかし、同じ仮名でも、細川家本の「くら」は特異表記である。他の箇所でも同様の仕儀だが、楠家本は、これを「くら」と記し、また、細川家本と同系統の常武堂本でも、これは「くら」と記す。したがって、細川家本の「くら」は、常武堂本・細川家本の祖本にはなかったもので、細川家本作成段階で発生したものである。
 つまり、この字句の変遷プロセスは、こうである。
    「位」 → 「くらゐ」 → 「くらい」
 すなわち、それをいえば、筑前系諸本はもとより、肥後系の他の諸本にも、これを漢字「位」で記すのだから、肥後系早期には、「位」と記していたのである。それを、楠家本と細川家本系統の祖本の段階で、「くらゐ」と仮名文字に変換してしまった。そして、楠家本と常武堂本はこれを受け継いだが、細川家本の作成段階で、「くら」を「くら」と書いてしまったのである。したがって、この「くら」という細川家本の文字は、そのポジションが末端たることの標識なのである。
 しかるに、岩波版五輪書などに、これを「くらい」と記している。それは、むろん細川家本を底本にしたせいだが、その校訂者は、他の諸本の字句表記を知らず、ましてや、細川家本の「くらい」という表記が、五輪書諸写本全体の中でどのようなポジションにあるか、それを知らない。そうした無知ゆえに、漢字「位」でもなく、仮名変換後の「くらゐ」でもなく、「くらい」と記した擬い物の五輪書テクストを公刊してしまうのである。
 細川家本についてさらにいえば、この条文には、《敵の敵の(重複)拍子をうけて、くづるゝ所をしり、勝事也》とあって、語句の重複を示す箇処もある。これは、常武堂本にはない重複だから、細川家本作成の段階で発生した固有の誤記である。
 大幅な脱字があるかと思えば、こうした語句重複もある。不足も過剰もある。せっかくの「多敵の位の事」の条文なのに、細川家本には他の諸本にはない誤記がある。このていどの写本が、他の諸本を寄せつけない特権的地位を得てきたことに、今更ながら驚くのである。
 改めていえば、上記の脱文は、肥後系諸本の中でも、細川家本・常武堂本の系統のみに見られる脱文である。前に見たように、この水之巻の「太刀の持様の事」でも同じく、細川家本・常武堂本の系統のみが脱文を示している。他の諸本にはない特異性のある誤写である。その脱文の意味は、このケースと同じく、後発的な誤写である。
 こういう特異性のある脱文脱字は、偶発的な誤写であるが、史料批判の視点からすると、無意味なものではない。そういう誤写が当該資料の位置づけを可能にするからである。
 他の箇処でも見るように、楠家本と細川家本に共通する仮名変換や脱文脱字があることから、この両本は近縁関係にあると知れる。そして、このケースのように、他の諸本にある字句が、細川家本には脱落している。それゆえこれは、楠家本の系統と分岐派生した後の、脱文発生である。
 こうしてみれば明らかであるが、この細川家本の脱文は、その祖本の段階で発生したものの、かなり後発的なものである。しかも、上述のように、同系統の常武堂本にはない「くらい」という異字表記や重複もある。したがって、そうした示差的特徴から、細川家本のステイタスも知れる。細川家本は決して早期の写本ではなく、後発的な写本である。それをこの誤写が示しているのである。
 しかし、この脱文について云えば、問題は、それでは文意が通らないにもかかわらず、そのまま無理やり読まれてきたことである。細川家本を金科玉条とする状況において、そういう経緯があった。言い換えれば、この有名な「多敵の位の事」は、脱文のある細川家本を底本として、流布され読まれてきたのである。
 この欠落のあるテクストに依拠する現代語訳は、右掲のごとく、苦労して文意の通るようにしている。つまり、あらぬ文言を捏造して改竄している。そのため、気づかない読者が多いのである。
 この部分の現代語訳も、そのうち訂正されねばならぬであろう。というのも、ここは、《右の太刀も左の太刀も、一度に振ちがへて、行太刀にて、其敵をきり、もどる太刀にて、わきにすゝむ敵をきる心也》という肝心の記述があるのに、訳文読者は、それを知らずに読まされているからである。
 岩波新版の脚注では、ここに脱文の可能性のあることを指摘している。しかし、そこに引用しているのは、何と戦前版『武術叢書』所収の五輪書なのである。ここに同書が底本とした狩野文庫本の文言でも引いておれば、まだしも、これで、岩波版校訂者が実は異本照合などしなかったことが露呈してしまった。云うならば、そんな諸本校合もしていない恣意的なテクストが武蔵の五輪書だと称しているのが、岩波版なのである。

 なおまた、ここで別の校異の問題箇処を指摘しておきたい。すなわち、筑前系諸本に、
《敵あひこむところ、ひたとおひまわしぬれバ、はか行がたし》
とあって、《はか行がたし》とするところであるが、肥後系諸本には、《はかゆきがたし》として「の」字を入れるものが多い。
 さてこれは、筑前系諸本に「の」字の脱落があるのか、それとも肥後系諸本の「の」字が余計な文字なのか。これについては、すでに前例で示したのと同じく、筑前系諸本に共通したところなので、古型は「の」字を入れないものとみなしうる。また、五輪書の他例を見ても、《はかゆきがたし》として「の」字を入れないケースが多い。
 ただし、肥後系では、円明流系統の狩野文庫本と多田家本に、「の」字のないケースが見られる。この系統は肥後系の早期に派生した系統である。したがって、肥後系も早期写本の段階には、《はか行がたし》としていた可能性がある。とすれば、肥後系諸本の「の」字は、門外流出後の早期に発生したものではなく、それ以後の二次過程で発生した衍字である。
 それゆえ、我々のテクストでは、ここを、「の」字を入れない《はか行がたし》としている。
――――――――――――


*【肥後系五輪書系統派生図】

○寺尾孫之丞―早期写本…流出…┐
 ┌―――――――――――――┘
 ├…………………富永家本 脱文無
 |
 ├…┬…┬……楠家本 脱文無
 | | |
 | | |脱文発生
 | | └◎┬……常武堂本 脱文
 | |   |
 | |   └…細川家本 脱文
 | |
 | └…┬……丸岡家本 脱文無
 |   |
 |   └………田村家本 脱文無
 |
 └…流出……円明流系諸本 脱文無







○寺尾孫之丞―早期写本…流出…┐
 ┌―――――――――――――┘
 ├…………………富永家本
 | 仮名変換
 ├…┬◎┬……楠家本 くらゐ
 | | |
 | | └┬……常武堂本 くらゐ
 | |  |
 | |  └…細川家本 くらい
 | |
 | └…┬……丸岡家本
 |   |
 |   └………田村家本
 |
 └…流出…………円明流系諸本






*【細川家本】
《敵の敵の[重複]拍子をうけて、くづるゝ所をしり、勝事也》
*【常武堂本】
《敵の【】拍子をうけて、くづるゝ所をしり、勝事也》






細川家本 脱文異字箇処







*【現代語訳事例】
敵が打かかってくる状態を心えて、左右の刀を一度にふりちがえるようにして切る。切ったあとは、そのまま待つことなく、》(神子侃訳)
《敵が打かかってくる状態を心得て、右の刀も左の刀も一気に交差させるようにして切る。そのあと間を置いてはいけない》(大河内昭爾訳)
《敵が打かかってくる位置を心えて、左右の刀を一度にふりちがえるようにして斬るのである。太刀をふりちがえて、そのまま待つのはよくない》(鎌田茂雄訳)





*【吉田家本】
《敵あひこむところ、ひたとおひまわしぬれバ、はか【】行がたし》
*【近藤家甲乙本】
《敵あひこむ所、ひたとおひまハしぬれバ、はか【】行がたし》
*【石井家本】
《敵あひこむ所、ひたとおひまハしぬれバ、はか【】行がたし》
*【楠家本】
《敵あいこむ所、ひたとおいまはしぬれバ、はかゆきがたし》
*【細川家本】
《敵あいこむ所、ひたとおいまハしぬれば、はかゆきがたし》
*【富永家本】
《敵間込所、ひたと追廻しぬれバ、はか行がたし》
*【狩野文庫本】
《敵あひ込所、ひたと追廻シぬれバ、はか【】行がたし》
 次に、語釈につき、若干の説明が必要と思われる点がある。まずは、
《我刀脇指をぬきて、左右へ廣く太刀を横に捨て、搆る也》
とあるところ、この「捨てる」という語である。この「捨てる」は、現代語の「捨てる」とは意味が違っている。そのままにしておく、という語義である。これは「放置する」というのに近いかもしれない。
 面白いのは、鉄道用語に「捨てる」という語があり、車両を切り離して置いてくることを云ったものらしい。「捨てる」には、もともと「離す」「放す」というニュアンスがある。
 ここでは、「捨てる」は身体から太刀を離したかたちで、大きく左右に広げるという話である。したがって上記部分の訳は、「左右に広く太刀を横に拡げておいて搆える」ということである。むろん、刀と脇差を抜いて搆える、これは二刀である。
 ところが、ここも岩波版注記に、「我が両刀を抜いて左右にひろげもち両脇に下げて搆えるのである」と記すのは、明白な誤りである。「横に捨てる」には「両脇に下げる」という意味はない。だいいち、「左右にひろげもち」「両脇に下げる」では話が矛盾している。このあたり、誤りは明白であろう。
 また同じく語釈の点では、以下の部分が問題である。
敵あひこむ所、ひたとおひまはしぬれバ、はか行がたし》
 この「敵あひこむ」は、「敵合(敵相)こむ」であろう。敵合(敵相)とは敵との距離のことである。「こむ」には「込む」「籠む」の意味があるが、間合い、距離のことをいうここでは、間近い(close)状態を指す。
 他に類似の表現としては、「敵合(敵相)近く」がある。これは敵との接近戦のことである。逆に「敵合(敵相)遠き時」とは敵との距離があるときである。そこで、「こむ」というのは、距離が接近することで、つまりは敵方へ入り込んだ状態である。
 岩波版注記はこれについて、ノーコメントである。そこで、従来の現代語訳は、ここをどう工夫しているか。――と思って見るに、右掲の如く、なんと、驚いたことに、戦後現代語訳の三者とも同じである。これは神子訳の創案であるが、後二者は何の工夫もせずに、それをそのまま頂戴したのである。ただし、神子訳も、戦前の石田訳の「敵が込み合つて」という誤訳を先輩にもつのである。
 しかし、「敵あひこむ」を、「敵が込み合つて」「敵がかたまっている」と誤訳してしまうのは、いかなる考えのあってのことか。
 おそらく、これは敵合(敵相)という語を忘れて、「敵、あひこむ」と誤って読んだものと推量される。しかも「あひこむ」を「相籠む」、つまり相互にびっしりと混みあっている状態と錯覚したのであろう。もっとも、「こみ合う」という言葉はあっても、「相籠む」なんてことは云わないが。
 いづれにしても、「敵あひ」(敵合/敵相)という語が、五輪書の他の箇所でも使用されている以上、ここは「敵、あひこむ」では間違いなのである。
 ついでにもうひとつ指摘しておけば、上記《ひたと》という語を、「まともに」とか「真正面から」と訳すのも間違いである。「ひたと」とは、「ひたと詰め寄る、ひたと寄り添う」といった用例があるが、ここでは、「ひたと」は、執拗に、しつこく、というニュアンスである。
 とくにこの部分、敵と接近したところで、しつこく敵を追い廻すのは、捗が行かないし、逆に、敵の出てくる方、出てくる方、あっちこっちに気が奪われると、待つ気持になって、これも捗が行かない、とある。
 前のケースは敵に接近して追いまわし過ぎるし、後のケースでは敵の出方を窺って待ちの状態であり、それでは両方とも捗が行かないと、対照的なケースを指しているのである。
 なおここでは、武蔵は「はか行きがたし」と再三述べている。「はかが行かない」とは、仕事が捗らないことである。実効的(efficient)でなく、効率が悪いのである。何の仕事が捗らないのかというと、つまり、敵を殺傷して片付けるという仕事が、である。このあたり、武蔵の性格というより、戦場の実効主義的空気を伝えるところである。   Go Back



太刀を横に捨てる (再掲)












*【現代語訳事例】
敵が込み合ってしまつてからユツクリ追ひ廻したのでは捗ゆかない》(石田外茂一訳)
敵がかたまっているところばかりを追おうとすればはかが行かない》(神子侃訳)
敵がかたまっているところをまともに追ってばかりいては、はかがいかない》(大河内昭爾訳)
敵がかたまっているところを真正面からまともに追いまわせば、はかがいかない》(鎌田茂雄訳)




 PageTop    Back   Next