武蔵の五輪書を読む
五輪書研究会版テクスト全文
現代語訳と注解・評釈

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五輪書 地之巻 2  Back   Next 


 
   2 地之巻 序
【原 文】
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夫、兵法と云事、武家の法也。
将たるものハ、とりわき此法をおこなひ、
卒たる者も、此道を知べき事なり。
今世の間に、兵法の道、たしかに
わきまへたると云武士なし。(1)
先、道を顕して有ハ、佛法として
人をたすくる道、又、儒道として文の道を糺し、
醫者と云て諸病を治する道、
或は歌道者とて和歌の道をおしへ、
或ハ数寄者、弓法者、其外、諸藝諸能までも、
思ひ/\に稽古し、心々にすくもの也。
兵法の道にハ、すく人まれなり。
先、武士ハ、文武二道と云て、
二の道を嗜む事、是道也。*
たとひ此道不器用なりとも、
武士たるものハ、おのれ/\が分才ほどは、
兵の法をバ勤むべき事也。(2)
大かた武士の思ふ心をはかるに、
武士ハたゞ、死(る*)と云道を嗜む事と
覚ゆるほどの儀也。
死(る*)道におゐてハ、武士ばかりに限らず、
出家にても女にても、百姓以下に至迄、
義理をしり、恥をおもひ、死する所を
思ひきる事は、其差別なきもの也。(3)
武士の兵法をおこなふ道ハ、
何事におゐても、人にすぐるゝ所を本とし、
或ハ一身の切合に勝、或ハ数人の戦に勝、
主君のため我身のため、
名をあげ身をもたてんとおもふ、
これ兵法の徳を以てなり。(4)
又、世の間に、兵法の道を習ても、
實のとき、役にハ立まじきとおもふ
心あるべし。其儀におゐては、
何時にても役に立様に稽古し、
万事に至り、役に立様におしゆる事、
是兵法の実の道也。(5)
【現代語訳】


 まさに兵法ということは武家の法〔なすべきこと〕である。武将たる者は、とりわけこの法を行い、士卒たる者も、この道を知るべきである。(しかるに)今の世の中には、兵法の道をたしかにわきまえたという武士はいない。
 まず、道を明らかにして存在するのは、仏法として人を助ける道、また儒道として文の道をただし、医者といって諸病を治す道、あるいは歌道者といって和歌の道を教え、あるいは数寄者、弓術者、その他、諸々の芸能までも、思い思いに稽古し、それぞれ深く心を寄せるものである。(それに対し)兵法の道に深く心を寄せる人は稀である。
(まず武士は、文武二道といって、二つの道を嗜むこと、これが道である)。
たとえ、この(兵法の)道に不器用であっても、武士たる者は、それぞれおのれの分才〔資質器量〕に応じて、兵法に励むべきである。
 おおよそ武士の思う心を推察してみるに、武士はただ「死ぬ」という道を嗜む事と考えているという程度のことである。しかし、死ぬ道においては、武士だけに限らない。出家者でも、女でも、百姓に至るまで、義理を知り恥辱を思い、(自分が)死するところを思い切ることには、(職業・性別の)違いなどないものである。
 武士が兵法を行う道は、何事においても、他人にまさることが根本であり、ある場合は一身の斬り合いに勝ち、ある場合は多人数の戦いに勝つ。そうして主君のため我身のために、名を揚げ身をも立てようと思うのも、これは兵法の徳〔すぐれた効能〕によるのである。
 また世間には、兵法の道を習っても、実際の(戦いの)時、役に立つはずがないと思う気持があるだろう。そのことにおいては、いつ何時でも役に立つように稽古をして、どんな状況になっても役に立つように教えること、これが兵法の真実〔まこと〕の道なのである。
 

 【註 解】

 (1)兵法の道、たしかにわきまへたると云武士なし
 兵法とは戦闘術である。この兵法ということは武家の「法」であるという。この場合、「法」は現代語の意味の「法」ではないから、すこし注意を要する。
 現代語に訳せば適切な概念に納まらず、多岐にわたる意味の幅をもつが、ここでは行動の規範(norm)・原則(principle)というほどの意味である。これを「おきて」とする訳もあるが、禁止を伴うものでない以上、掟(law)ではない。
 言うまでもなく、慶長二十年=元和元年(1615)の「武家諸法度」がある。これをみるに、武家法とはいえ、条項のなかには、
《文武弓馬之道、専ら相嗜むべき事》
《群飲佚遊を制すべき事》
《諸国諸侍、倹約を用らるべき事》
とあって、倫理綱領のようなものである。とくに酒を飲んで騒ぐようなことは規制しろ、というあたりは、法度の法度たる側面である。
 これが近世における最初の、公式の武家の法であるが、もちろん、犯罪人の処分、他国者の居住禁止、隣国の企てや徒党の報告義務、築城新設禁止、私の婚姻取締、等々あって禁制を含むから、これは掟に属するもので、武蔵のいう「武家の法」はこれとは意味が違う。
 武蔵の「武家の法」は、その実践思想からするものである。武蔵は、《将たるものは、とりわき此法をおこなひ、卒たる者も、此道を知べき事なり》とする。
 ここで「武家」というのは、指揮官たる武将クラスの者も、士卒たる配下の者も含む。武士の総体である。したがって、この五輪書において、武蔵が教えを説くのは、もっぱら武士たる者が対象である。
 言い換えれば、武蔵が教えを説くにあたって、武将と士卒、これに差異があるわけではない。ともに戦闘の構成要員である。この一種平等な扱いは、武蔵のいう「武家」が、戦国武士のポジションにある存在であり、個(individual)としての武士であるからだ。
 そこで、武将が行うべき「此法」とは、兵法のことであり、士卒が知るべき「此道」とあるのは、兵法の道のことである。
 だが、武蔵に言わせれば、――今の世の中には、兵法の道をたしかにわきまえたという武士はいない。この言葉はきわめて異例であり、かつ重要である。なぜなら、この五輪書は兵法、戦闘術を教える教本であるが、まさに、こんな批判を述べた兵法書は存在しないからである。
 このあたり、「実践理性批判」の書としての五輪書の面目である。本書全巻を通じて批判の書たる性格は一貫している。とりわけ後に見る風之巻は、その一巻が現状批判で特化されている。この批判の書という性格において、五輪書は極めて特異な存在なのである。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 





元和元年版武家諸法度 金地院蔵

*【武家諸法度】元和元年
一 文武弓馬之道専可相嗜事
一 可制群飲佚遊事
一 背法度撃不可隠置於国々事
一 国々大名小名竝諸給人各相抱士卒
 有為叛逆殺害人告者速可追出事
一 自今以後国人之外不可交置他国者
 事(翌年削除)
一 諸国居城雖為修補必可言上。況新
 儀之搆営堅令停止事
一 於隣国企新儀結徒党者有之者速可
 致言上事
一 私不可締婚姻事
一 諸大名参観作法之事(後年削除)
一 衣裳之品不可混雑事
一 雑人恣不可乗輿事
一 諸国諸侍可被用倹約事
一 国守可選攻務之器用事
    右可相守此旨者也

 
 (2)兵法の道にハ、すく人まれなり
 武蔵は世の人々の「道」について述べる。仏家、儒家、医家に道がある。歌人、数寄者(これは茶人などをいう)、弓術者、その他、諸々の芸能にも道があり、思い思いに稽古し、それぞれ心に好く、つまり深く心を寄せる。
 それがこれら諸々の職業のあり方、生き方である。専門家、職人としての道の姿である。仏家、儒家、医家も芸能の民だった。武士もまた本来そうした職人であり、芸能者の一種である。このことに注意したい。
 ところが、武蔵に言わせれば、そうした他の諸職業の人々とは違って、武家で兵法の道には「好く」人、その道に深く心を寄せる人は稀である。これは、今の世の中には、兵法の道をたしかにわきまえたという武士はいない、という先にあった批判と対応する言説である。こうした武家の現状は、すでに戦乱終熄後数十年、いわば戦後状況の特徴だったのであろう。
 武蔵が言うのは比較論である。他の職業の人々はおのれの道に熱心に努力し、またそれを好くものなのに、武士はそれとは逆ではないか。
 そこで武蔵は言う、――たとえこの道に不器用であっても、武士たる者は、それぞれの分才〔資質能力〕に応じて、兵法に励むべきである、という。
 この「たとえ、この道に不器用であっても」というところが、五輪書らしいし、また、武蔵らしい。というのも、五輪書という兵法教科書は、普遍的な入門書たる性格をここで示すからである。また、武蔵自身は、この道の天才であって、その天才が、不器用で資質のない者にまで語りかけるのが、この部分である。そういうところに、読者は感応すべきである。
 ところで、この部分には、異質な文言が唐突に紛れ込んでいる。それは、《兵法の道にハ、すく人まれなり》と《たとひ此道不器用なりとも》の間である。――《先、武士ハ、文武二道と云て、二の道を嗜む事、是道也》。まず武士は、「文武二道」という二つの道を嗜むことが最も肝要である、と。
 《たとひ此道不器用なりとも》の「此道」が請けるのは、《兵法の道にハ、すく人まれなり》の「兵法の道」である。したがって、《先、武士ハ、文武二道と云て、二の道を嗜む事、是道也》という文が間にあっては、「此道」の指示が妨げられ、前後が繋がらない。
 これは前後の文脈からすれば、文脈を切断する語句であり、脈絡のない文言である。したがって、我々のテクストでは、それをマークするために、字下げして示している。
 このような問題の指摘も、従来の五輪書研究には出なかったことである。この箇処が看過されてきたわけだが、ようするに、五輪書はこれまで、まともに読まれたことがなかったのである。
 これは武蔵草稿のこの箇処に書き付けられてあったものらしく、寺尾孫之丞の編集段階で、これを本文に流し込んだのである。ここで、武蔵は、文武二道について何か書くつもりだったらしいが、それが書きさしになっていたようである。
 その内容は、たとえば、後に「兵法二字の利を知る事」の後半に出てくる断簡らしき文も、その一つかもしれない。つまり、そこには、「道において、儒者・仏者・数寄者(茶匠)・礼法者・乱舞者(舞踏家)の道があるが、これらの事は武士の道ではない。(しかしこれが)その道(武士の道)ではないとはいえ、道を広く知れば、どんなことにでも対応できるのである。どの道であれ、人々の間で、自分のそれぞれの道をよくみがくこと、これが肝要である」というようなことが書かれている。
 しかし、ここでの文脈は、おそらくそれとは逆であろう。――なぜ文武二道なのか。
 武蔵のいうところは、通常の文武二道、両道の論とは違う。というのも、ふつうはこれは文化=教養(culture)を欠く武辺者に諭す話である。――武張ってばかりいないで、文化的な教養も身につけろ、という話の筋道である。
 最初のヴァージョンの「武家諸法度」第一條、《文武弓馬之道専可相嗜事》とある「文武」の文字にしても、近世における文武二道論の根拠とされるが、「武」には「文」が必要だというほどのところである。
 これに対して、武蔵の話の方位は反対である。つまり、武(militarity)の道を忘れた武士に対する説諭である。文武二道は、それゆえ、「文化」してしまった武士への警告である。
 もともと「文化」とは、東アジアでは、暴力的手段に依らない統治、政治支配のことである。本質的に幕藩体制は軍事政権による支配であるが、偃武以後、武士は自身の本質から乖離することによって、文化官僚として生き延びる存在となった。言い換えれば、自身の本質を否定することによってのみ延命しうるという、はなはだ厄介な矛盾を生きる存在になった。
 ここでの武蔵の批判を一つの歴史的証言と見るならば、こうした存在へ武士が転化したのは、徐々にではなく、むしろわずか数十年ほどの間の急激な変化であったということだ。
 「文武二道」という二つの道を嗜むこと。――これは、文化が欠如しているのではなく、文化が過剰になった、武士の「武」がもはや消滅しつつあるという状況、つまり寛永後期の状況を背景にして語られたのである。
 ここで、「嗜む」という言葉の意味に注意を向けておくべきである。普通我々の日常的用法では、「嗜む」は芸事趣味などに、好んで親しみ、一定程度の水準に達しているということである。しかし以前は、何かに備えてあらかじめ用意しておく準備のことであり、したがって用意怠りなきこと、そこから物事を工夫して行う、という意味である。
 したがって「文武二道」という二つの道を嗜むといっても、趣味で一定程度まで達するという遊びのことではなく、明らかに何かに備えて準備しておく、という意味での嗜みである。  
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渡辺家本












*【兵法二字の利を知る事】
《道におゐて、儒者、佛者、数奇者、しつけ者、乱舞者、これらの事は、武士の道にてはなし。其道にあらざるといへども、道を廣くしれば、物ごとに出合事也。いづれも、人間におゐて、我道々を能みがく事、肝要也》(地之巻)



染付有田職人尽絵図大皿
有田陶磁美術館蔵




石川丈山 詩仙堂 寛永十八年
 
 (3)死ぬると云道
 武士は何によって武士なのか、武士たるゆえんは何か。一般に考えられているのは、武士は「死ぬという道」を嗜んでいる、いつでも死ぬ用意がある、死ぬことをわきまえているから武士なのだ、という程度のことだ。
 武蔵は言う。しかし、「死ぬという道」に、武士も、その他の人々との違いはないのだと。僧や女性であっても、百姓の身分であっても、武士と違いはない。武蔵はそう断言する。
 なぜなら、義理によって、あるいは恥によって、自分が死するところを思い切ることには、武士と他の職業との違いもないし、性別の差異もないからだ。
 このように、非武士的存在として、出家(僧)、女性、百姓の三つが出てくるところに注意したい。出家は武士とちがって世俗的存在でない者、女性は武士とちがって男性でない者、百姓は武士とちがって戦闘者でない者である。世俗/非俗の宗教的差異、男/女の性的差異、武士/百姓の社会的差異。そういう差異を横断して、だれでも自分の死に所をわきまえている。それが武蔵の見立てである。
 このあたり、「死ぬという道」における平等無差別を述べるところ、きわめて、武蔵の思想的ポジションは鮮明である。少なくとも「いつでも死ぬ覚悟ができている」ということしか売物にできないような武士が多く現れていたのである。
 そして後世、十八世紀になると、かの『葉隠』の有名な、「武士道とは死ぬ事とみつけたり」という科白もある。この後『葉隠』のせりふは、こうだ。
《毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課すべきなり》
 いつも死んだ身になっておれば、武の道に自由でありえて、一生落ち度なく、主君に仕える家職をやり通せる。――これなど「馬鹿なことを言うな」というところだろう。武士の道は、ずいぶん退転してしまったものである。武士が命がけの戦闘から遠ざかって生きるようになった結果、かえって、常住死身が売物になってしまうのである。まして、《常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得》となると、武蔵の世代の武士からすれば、嗤うしかないであろう。そしてむろん、武蔵にとって、死ぬという道は、決して武士の専売特許ではない。
 その点、後世武蔵伝説に奇怪な変形が生じたとみえるものに、「巌〔いわお〕の身」に関するものがある。
 これは、肥後の伝説にある逸話で、――あるとき、熊本城主・細川光尚が武蔵に尋ねた、「巌の身というのはどういうことか」。すると武蔵は、寺尾求馬助をこの席に召されたし、と云う。そこで求馬助が召し出されると、武蔵が求馬助に言った、「寺尾求馬助、御前において切腹を仰せ付けられた。速やかに覚悟しろ」と。求馬助は、ただちに刀を抜き、まさに切腹しようとする。その時、武蔵は大声で、「求馬助、切腹は止めよ」と言ったので、求馬助は差し控えた。そこで武蔵は光尚に言う、「いまご覧になられましたな。求馬助は命を受け、心の色変ることなく、ただちに覚悟した心意、これがすなわち、巌の身にて御座候」と、云々。
 もとよりこれは、後世、寺尾求馬助を称揚するために生れた伝説である。これが「巌の身」の通俗解釈たることは勿論だが、第一、武蔵がかようなことを仕懸けるか、ということである。武蔵の五輪書のこの「死ぬという道」の部分を少しでも知っていたら、こんな説話は生れようがないのである。いわゆる武士道の美学が勃興する十八世紀の産物である。

 そもそも「死ぬという道」に、武士とそれ以外の人々との違いはない、僧であっても、女性であっても、そして百姓であっても、義理によって、あるいは恥によって、自分が死するところを思い切ることには、武士と他の職業との違いもないし、性別の差異もない。武蔵はそう言う。
 少なくとも「いつでも死ぬ覚悟ができている」ということしか売物にできないような武士が多くなっていたが、その「いつでも死ぬ覚悟ができている」ことは、実際は世間では決して専売物件にはならないのである。
 このあたり武蔵は、世間の人心の実際を背景に語っている。個別の事件としては無数にその例があるだろう。そして、比較的近い時期の大事件としては、天草島原の切支丹一揆における、寛永十五年(1638)春の原城陥落があろう。
 原城籠城戦のときの矢文がある。それには、我々が今度籠城しているのは、何も「天下様」(将軍)に恨みがあってのことではなく、切支丹宗門を厳しく御制禁のゆえ、身の置きどころがないので、このようなことになったと。我々は切支丹宗門に立ち返った、もう無抵抗に易々と殺されはしませんぞ、という宣言である。
 切支丹の宗旨における作法では、自害するのは厳禁である。武士は何かというと「死ぬ、死ぬ」といって自害切腹するが、我々は決して自害しない。死ぬまで戦う。こちらから攻撃を仕掛けることはないが、そちらから攻撃なさるなら、身にふりかかる火の粉を払うのと同じで、防御撃退しますぞ。どんな攻撃をなさるか、お待ちしておりますと、まことに堂々たる応対である。
 あるいはまた、原城包囲軍を指揮する幕府上使には、百姓である我ら程度の者どもに、いつまで手間取って包囲しているのか。我々「たかが百姓づれ」の者に、上使まで差し向けられるとは、かたじけない次第、冥加の至りと存ずる。この上は、どんな御成敗を命じられようとも、尋常にお受けしますので、珍しい新手で我々をお攻めなされ。新しい戦術があれば、見せてもらいたいと、このあたりは、支配被支配の身分上下関係を、慇懃無礼に愚弄している。
 このように、我々は切支丹宗門に立ち返った、殺すなら殺してみろ、我々は決して自害しない、我々は「たかが百姓づれ」の者だが、ただでは殺されない、戦って死ぬぞ、というわけである。ここに明らかに浮上するのは、もう一つ別の「死ぬという道」である。
 この一戦では、上記の「百姓づれ」どころか、女子供までが戦って死んだ。攻め寄せる武士たちに、石や物を投げてさえ死傷させたのである。これに参戦した武蔵の眼前で、そのオルタナティヴな「死ぬという道」が演じられたのである。
 また、この「死ぬという道」に関して、もう一つ付け加えるべき事件があるはずである。森鴎外の短編「阿部一族」で知られる、細川忠利の死にともなう殉死とその後の騒動のことである。
 武蔵は寛永十七年の七月ごろ肥後へやってきて、以後、五年後に死ぬまで肥後に住んだ。細川忠利の招聘に応じて武蔵が肥後へ来たかどうかは別にして、その翌年、寛永十八年三月に忠利が病死した。
 その死を受けて十八人が殉死をゆるされて供をしたが、ひとり阿部弥一右衛門という者には殉死のゆるしが出なかった。数日後、弥一右衛門はゆるしがないが追腹を切った。――森鴎外は小説「阿部一族」で、そういう説を立てているが、それは事実ではなく、阿部弥一右衛門は皆と同じ日に殉死している。
 弥一右衛門は、豊前で召抱えられて細川忠利に取り立てられ、肥後で千石余の家格に出世した。その特別の恩義を感じていたので殉死したのである。ただし、この阿部騒動の原因は、千石余の阿部家の知行が分知されたことにある。親類分知は家格の下落を意味するからである。
 翌寛永十九年四月、忠利の一周忌に、弥一右衛門の嫡男・権兵衛が殉死者遺族の一人として位牌の前に進み焼香して退くと思うと、脇差の小柄を抜き取って自分の髻〔もとどり〕切って、位牌の前に供えたという椿事が生じた。嫡男・権兵衛は処刑され、これを機に阿部一族兄弟郎党が籠居するところを、攻め取られたのである。
 この事件は寛永十九年だから、武蔵はそのとき、肥後熊本にいた。それで、森鴎外は武蔵を小説に登場させたのである。むろん鴎外は、この臆病者の十太夫と、武蔵を交錯させることで、時代の変り目を一瞬でイメージさせるのである。
 おそらく、武蔵が五輪書のここで「死」という道について書いたとき、少なくともこの事件――殉死とその後の阿部討ち――が反響している。この事件に遭遇した時、武蔵は「これは違う」と思ったに違いない。それが、この五輪書の部分によって知れる。

















葉隠
山本常朝 葉隠





細川光尚






有馬陳(原城)諸大名布陣図


*【原城矢文】
今度籠城仕候義、對天下様御恨可申上ニテモ無御座候ヘトモ、吉利支丹宗門堅ク御制禁之故、身躰之住スル所モ無御座候ニ付而、如此御座候事》
《吉利支丹宗旨の作法ニ、自害仕候事堅ク戒メ置申候儀ニテ候間、此方ヨリ仕掛申儀無御座候。其元ヨリ御仕掛候へバ、身ノ火を拂申候ニて御座候間、御ハカライノ手ダテ相待申候》
《我等程之者共、イツ迄御詰候哉。百姓連之者ニ上使迄被成下悉次第、冥加之至ニ奉存候。此上ハ、如何様之御成敗ニ被仰付候共、尋常ニウケ可申候間、珍シキ新手ヲ以御責可被成候》





熊本城天守閣
熊本城天守閣


*【阿部一族】
《十太夫は大兵の臆病者で、阿部が屋敷の外をうろついていて、引上げの前に小屋に火をかけたとき、やっとおずおずはいつたのである。最初討手を仰せつけられたときに、お次へ出るところを劍術者新免武藏が見て、「冥加至極のことじや、ずいぶんお手柄をなされい」と言つて背中をぽんと打つた。十太夫は色を失つて、ゆるんでいた袴の紐を締め直さうとしたが、手がふるえて締まらなかつたさうである》
 [参照] go to:  鴎外 阿部一族 
――――――――――――

 ここで校異の問題で、指摘しておくべき箇処がある。すなわち、筑前系諸本のうちには、
《大形武士の思心をはかるに、武士ハ只と云道を嗜事、と覚ほどの儀なり。道におゐてハ、武士斗に限らず、出家にても、女にても、百姓已下に至まで、ぎりをしり、はぢをおもひ、所を思ひ切事ハ、その差別なきもの也》
とするものがあって、「死」と漢字一文字で記すところ、肥後系諸本には、《死ぬる》《死する》と送り仮名を入れる。
 ただしこれは、個別に見れば、必ずしもすべてが筑前系/肥後系を区分する指標的相異であるというわけではない。というのも、第三の《死所》は、立花峯均=越後系諸本には、《死する所》とするからである。
 この校異に関して、少し立ち入ってみる。筑前系で、この三ヶ所につき、すべてを漢字「死」一文字で記すのは、吉田家本・中山文庫本である。他方、第三の箇処を《死する所》とするのは、立花=越後系の渡辺家本や石井家本である。
 このケースにおいては、筑前系/肥後系を横断して共通する語句を、古型とみなす。したがって、肥後系において、第三の箇処を《死する所》とするのも、早期写本にあったものと思われる。これに対し、筑前系諸本のうち、早川系において、第三の箇処を《死所》とするのは、おそらく、前二ヶ所との統一を図った後智恵による措置であろう。
 しかるに、前二ヶ所については、筑前系諸本は共通して、「死」と漢字一文字で記す。ただしこれは、たとえば《死と云道》とあっても、「死」という名詞ではなく、「死ぬる」という動詞である。送り仮名がないだけである。したがって、前二ヶ所の「死」字は、「死ぬる」と読むところである。「死(ぬる)と云道」「死(ぬる)道」ということである。
 ところで、このばあい、越後系も含めた筑前系諸本に共通する表記であることから、《死と云道》《死道》というのは、筑前系初期にあった字句である。そして、柴任美矩が寺尾孫之丞から伝授された段階にまで遡りうる初期性がある。もし最初に送り仮名があれば、筑前系諸本では、作為なしにそれが落ちるということはない。それゆえ《死と云道》《死道》という表記が初期形態である。
 これに対し、肥後系諸本においては、「死(ぬる)と云道」「死(ぬる)道」について、それぞれ送り仮名を付す。前者は《死ぬる》、後者は《死する》である。つまり、前後送り仮名が異なるのである。いづれにしても肥後系の送り仮名は、寺尾孫之丞段階にあったものではなく、後になって付すようになった肥後ローカルのパターンである。したがって、後補の送り仮名はもともと恣意的なものである。後者が《死する》となっているのは、第三の《死する所》の波及効果であろう。
 以上、要するに、寺尾孫之丞段階では、前二ヶ所は、《死と云道》《死道》という表記であった。しかるに、第三の箇処のみ《死する所》と送り仮名を付した字句であった。筑前系の吉田家本・中山文庫本は、第三の箇処も漢字「死」一文字にして前後統一したが、これは後の修正である。
 また肥後系では、前二ヶ所の漢字「死」一文字を、早期に送り仮名を付すようになった。早期というわけは、早期に派生した系統の末裔たる富永家本や円明流系統諸本にも、送り仮名を付すからである。ただし、早期と云っても、これは寺尾孫之丞段階に遡りうるものではなく、孫之丞以後、門外流出後早期に、ということである。
 このあたりのことは、以下の多数の校異を分析してはじめて得る結論である。ここでは結論のみを示しておく。   Go Back



*【吉田家本】
《武士ハ只と云道を嗜事、と覚ほどの儀なり。道におゐてハ、武士斗に限らず、(中略)ぎりをしり、はぢをおもひ、所を思ひ切事ハ》
*【渡辺家本】
《武士ハたヾと云道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也。道におゐてハ、武士ばかりに限らず、出家にても女にても、百姓以下に至迄、義理をしり、恥をおもひ、死する所を思ひ切事ハ》
*【石井家本】
《武士ハたヾと云道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也。道におゐてハ、武士バかりに限らず、(中略)義理をしり、恥をおもひ、死する所を思ひ切事ハ》
*【楠家本】
《武士ハ、たゞ死ぬるといふ道をたしなむ事、と覚る程の儀也。死する道におゐてハ、武士計にかきらず。(中略)ぎりをしり、はぢをおもひ、死する所を思ひきる事ハ》
*【細川家本】
《武士は只死ぬると云道を嗜事、と覚ゆるほどの儀也。死する道におゐては、武士斗にかぎらず。(中略)義理をしり、恥をおもひ、死する所を思ひきる事は》
*【富永家本】
《武士ハ、たゞ死ぬると云道をたしなむ事、と覚る程の儀也。死する道におゐてハ、武士斗にかきらず。(中略)ぎりを知り、はぢを思ゐ、死する處を思ひきる事ハ》




楠家本 校異箇処
 
 (4)或ハ一身の切合に勝、或ハ数人の戦に勝
 武士の道は「死ぬ」ことにあるのではない。まったく逆なのだ。
 武蔵によれば、武士の道は「勝つ」ということにある。この勝負に勝つということは、隠喩として読んでは間違うことになる。勝つとは、端的に言えば、相手を殺すということである。
 このあたり、きわめて殺伐としているが、武蔵における武士の武士たる所以は、まさに戦闘者として敵を殺して勝つということなのだ。
 したがって、武士の兵法を行う道は、何事に於ても人に優る所を本として――これは単なる競争原理と見誤られてはならない。「優る」というのは、単に人に優ることではない。戦場で敵と戦って殺して勝つというリアルな場面でのことである。
 これは「いつでも死ぬ覚悟ができている」ということしか売物にできないような武士の口吻とはちがう。武士の道は「死ぬ」ことにあるではなく「勝つ」こと、もっと明確に言えば敵を「殺す」ことにある。
 ヒューマニズムの今日からすれば、武蔵のこのテーゼは、反道徳的なことであろう。しかし道徳の彼岸に、倫理というものあるとすれば、武蔵のポジションは、まさに殺人という悪の、道徳の彼岸としての倫理の次元にある。そしてこの悪と同義の倫理、その実践思想を語ったのが武蔵であった。
 したがって、《主君のため我身のため、名をあげ身をもたてんとおもふ。これ兵法の徳なり》というのは、まさしく欲望が肯定された戦国の空気を持ち越しているわけで、兵法の徳、兵法のメリットは、戦闘術、殺人術と同時に、そうした現世的欲望を否定するのではなく、肯定し、しかも実現する効用がある。
 幕末の幕臣・川路聖謨の喝破するところによれば、武士の役儀なんぞは余事であって、武士本来の職は、「人殺し奉公」というものだ、とする(寧府紀事)。川路聖謨の口吻には、武家社会末期のアイロニーが含まれている。川路のように、江戸末期になって見える本来の真実というものがある。それが、職人としての殺人者という武士の定義である。
 川路聖謨が近世武士の道の出口なら、武蔵はその入口に位置する。ここで注意を喚起しておきたいのは、五輪書のこれが、主君のために我が身を犠牲にするという犠牲の論理ではないことである。後世の君臣関係は、そういう家臣の犠牲を美徳とする片務的関係になってしまったが、武蔵の世代まではまだ、君臣関係は双務的である。すなわち、双方に義務のある契約であって、これが履行されないとき、主従契約はただちに廃棄されるのである。
 それゆえ「主君のため、我身のため」と武蔵は言えたが、後世の武士道は、「我身のため」とはもはや主張できない畸形的で倒錯的な道徳的関係になってしまったのである。上記の細川忠利の死にともなう一連の事件は、ちょうどその過渡を示すものであろう。
 この点は、武蔵の世代を、元和偃武以後の秩序確立後に人と成った世代から截然と分けるところである。武士はまだ近世的な武士道という道徳に縛り付けられていない。そういう最後のポジションを五輪書は語るのである。
 個人的な欲望を肯定する自由な戦国の無秩序。そこから武蔵という思想者は出現した。武士の道は、死ぬことではなく、勝つことだ、まさしく、敵を殺すことだという断言。こうした武蔵のアグレッシヴなポジションは、「剣聖武蔵」といった近代鼓吹された聖人的武蔵像とは異なる。まさにこうしたアグレッシヴなポジションが、死を前にしてさえ武蔵に貫かれていたことを知るべきである。   Go Back





















川路聖謨(1801〜68)

*【寧府紀事】
《武士にて銘々御役は余事にて、元来の職は、人殺し奉公といふものなれば》

 
 (5)何時にても役に立様に
 世の中には、兵法の道を習っても、実際の戦いの時、役には立ちそうにないと思う気持があるだろう、という。つまり、当時、そんな気分が支配的だった。
 武蔵の晩年には、もう兵法、戦闘術など軽んじられていたようだ。天下泰平になって、武士は戦闘者であった過去を忘れ、官吏役人へ変身していた。
 そこから、兵法など習っても、いざという時の実際の役には立たない、というネガティヴな見方が出てきた。兵法無用という状況があって、現実にも無用だとするわけである。
 また一方で、戦闘術を売物にする兵法者そのものが胡散臭い存在であった。兵法はアナクロニックな芸能であった。
 これに対し武蔵は、いつでも役に立てるように、実戦的な訓練をしておくべきだとする。つまり、ここでは「役に立つ」がキーワードである。武蔵の兵法論は、どこまでも実用的(practical)なのである。
 この実用的ということについて言えば、今日世間一般の思い込み、つまり武蔵は五輪書で、剣の道を極めることを教えたというのは錯覚である。武蔵が五輪書で教えたのは、武士として役に立つように、ということである。つまり、戦いと殺人を家業とする武士として役に立つ、ということである。剣の道を極めるなどというのは、修練が自己目的化して逆立ちした、近代のロマンチックな美的妄想である。武蔵はそんなことは言わないし、ましてや教えもしていない。
 もうひとつは、前に出てきた「文武二道」の意味がここにある。
 というのも、すでに大坂陣後の元和偃武によって、武は無用化し、武士はまさに政治支配秩序の官僚、文官となったのである。本来武官であった武家は、自身が政治権力を掌握したとき、武官は形式化し、実質的には文官となる。それゆえ、武蔵がここでいう「文武二道」とは、文武両道バランスのとれた者になれという説諭ではなく、まさに武士たる者、「武」を忘れるな、という警告なのである。
 「役に立つ」という武蔵の兵法実用論、それはいわば兵法無用論へのリアクションにほかならない。これが反時代的なポジションであったことは言うまでもない。それゆえ武蔵の五輪書は、一貫して批判的スタンスを通すのである。

――――――――――――






 

 校異の問題で、指摘しておくべき箇処が、ここでもいくつかある。すなわち、筑前系諸本には、
《又世のに、兵法の道を習ても、實のとき、役にハ立間敷とおもふ心有べし》
とあって、《世の間》《實のとき》とするところ、肥後系諸本には、これを《世の中》として「間」ではなく「中」に作り、また、《實の時の》として「の」字を付す。これは、若干例外はあるが、ほぼ、筑前系/肥後系を区分する指標的相異であるといえる。
 この校異を見るに、一見したところ、肥後系諸本の字句が正しいように思われる。というのも、「世の中」は五輪書に頻出する語句であるし、また《實の時の》として「の」字を付すのにも、不都合はなく、筑前系諸本の《實のとき》は、「の」字の脱字ではないかと見えるからである。
 しかし、そうは行かないのが、五輪書研究の研究たる所以である。字句が正しそうにみえるからという理由だけでは、それが原型たということにはならないのである。
 すなわち、越後系も含めて筑前系諸本に共通して記すものは、初期性を示す語句である。寺尾孫之丞前期に遡りうる可能性が高い。それに対し、肥後系諸本は、五輪書相伝とは無縁な場所で伝写されたものであり、門外流出後の写本の末裔である。したがって、筑前系諸本と異なるばあい、その語句表記は、基本的に、後世門外での変更を蒙ったものである。
 たとえば、《世の中》という語句にしても、もし最初《世の中》という一般的な表現があれば、それをわざわざ《世の間》と誤写することはありえない。逆に、《世の間》という表現に異を感じた後世の者が、世の中に一般的な《世の中》という語句に変更したようである。あるいは《實の時の》という語句は、《實の時》とあれば文の歯切れがよかろうに、あらずもがなの「の」字を加えたものらしい。ようするに、こうしたことは、肥後系諸本のみを見ていては、思いも寄らぬことである。
 なお、この部分で、筑前系諸本の間に、ひとつ校異がある。それは、立花=越後系の渡辺家本・石井家本が《實のとき、役にたつまじきと》として、《役に》と記すところ、早川系ではこれを《役にハ》として「ハ」を入れる。
 これはどうかと云うに、それは肥後系諸本を参照すればよい。筑前系/肥後系を横断して存在する語句は、基本的に、それが古型である。ところが、このケースでは、肥後系諸本には《役にハ》と《役に》の両方がある。つまり、両方とも筑前系/肥後系を横断して存在する語句である。
 とすれば、このケースではどちらが正しい語句か、それを決することはできない。ただし、「ハ」を入れない《役に》があるのは、肥後系のうち円明流系統である。これは写し崩れの多い後期写本だから、こちらを却下すべきということになろうが、それは早計拙速というものである。
 それというのも、円明流系統諸本は早期に派生した系統の末裔であるから、肥後系早期のかたちを残している可能性もある。とすれば、こちらもあながち「ハ」字の脱落とは云えないことになる。
 円明流系の狩野文庫本では、《実の時、役ニ立まじきと》とするから、肥後系一般の《時の》ではない。そうしてみれば、越後の石井家本と円明流系狩野文庫本は、同じ文の構成を示す。
 しかも、云うまでもなく、両者は最も遠い関係にある。これが偶然ではないとすれば、これが筑前系/肥後系を横断して存在する古型ということになる。ようするに、柳田國男の蝸牛論ではないが、辺縁に古型が残されることがあるという理である。
 したがって、《役にハ》と《役に》のどちらが正しいか、我々の所見では、この問題は、当面、未決事項とすべきところである。それゆえ、我々のテクストでは、《役に(は)》と記して、両方可能性のあることを示しておいたのである。   Go Back

*【吉田家本】
《又、世のに、兵法の道を習ても、實のとき、役にハ立間敷と》
*【渡辺家本】
《又世のに、兵法の道を習ても、實のとき、役に【】たつまじきと》
*【石井家本】
《又、世のに、兵法の道を習ても、實のとき、役に【】たつまじきと》
*【楠家本】
《又、世のに、兵法の道をならひても、實の時の役にハたツまじきと》
*【細川家本】
《又、世のに、兵法の道をならひても、實の時の役にハたつまじきと》
*【富永家本】
《又、世のに、兵法の道をならひても、實の時の役にハ立間敷と》
*【狩野文庫本】
《又、世に、兵法の道を習ひても、実の、役ニ【】立まじきと》



石井家冊子本 校異箇処


狩野文庫本 校異箇処

 
   3 兵法の道
【原 文】

一 兵法の道と云事。
漢土和朝迄も、此道をおこなふものを、
兵法達者と云傳たり。
武士として、此法を学ばずと云事有べからず。
近代、兵法者と云て世をわたるもの、
これハ劔術一通りの儀也。
常陸國鹿嶋かんとりの社人共、
明神の傳として流々を立て、
國々を廻り人に傳事、近き比の事也。
いにしへより十能七藝とあるうちに、
利方と云て、藝にわたるといへ共、
利方と云出すより、
劔術一通りにかぎるべからず。
劔術一へんの利までにてハ、劔術もしりがたし。
勿論、兵の法にハ叶べからず。(1)
世の中を見るに、諸藝をうり物に仕立、
わが身をうり物の様に思ひ、
諸道具に付ても、うり物にこしらゆる心、
花實の二つにして、
花よりも実のすくなき所也。
とりわき此兵法の道に、
色をかざり花をさかせて、術をてらし、
或ハ一道場、二道場など云て、此道をおしへ、
此道を習て利を得んと思事、
誰か謂、なまへいほう大きずのもと、
誠なるべし。(2)

凡、人の世をわたる事、士農工商とて四の道也。
一にハ農の道。
農人ハ、色々の農具をまうけ、四季轉変の
こゝろへ暇なくして、春秋を送る事、是農の道也。
二にハ商の道。
酒を作るものハ、それ/\の道具を求め、
其善悪の利を得て、とせいを送る。
何もあきなひの道、其身/\のかせぎ、
其利を以て世をわたる、是商の道也。
三にハ士の道。
武士におゐてハ、さま/\の兵具をこしらへ、
兵具品々の徳をわきまへたらんこそ、
武士の道なるべけれ。兵具をもたしなまず、
其具/\の利をも覚へざる事、
武家ハ、少々たしなミの淺きものか。
四には工の道。
大工の道におゐてハ、種々様々の道具を
たくみこしらへ、其具/\を能つかひ覚へ、
すみかねをもつて、其指圖をたゞし、
暇もなく其わざをして、世をわたる。
是士農工商、四の道也。(3)

兵法を、大工の道にたとへて云顕す也。
大工にたとゆる事、家と云事に付ての儀也。
公家、武家、四家、
其家の破れ、家のつゞくと云事、
其流、其風、其家などゝいへバ、
家と云より、大工の道にたとへたり。
大工は、大にたくむと書くなれバ、
兵法の道、大なるたくミによつて、
大工に云なぞらへて書顕す也。
兵の法を学ばんと思はゞ、此書を思案して、
師は針、弟子は糸となつて、
たへず稽古有べき事也。(4)
【現代語訳】

一 兵法の道という事
 中国から我が国まで、この道を(自在に)行う者を、兵法達者〔兵法に熟達した者〕と言い伝えてきた。武士である以上、この法〔兵法〕を学ばないということはあってはならない。
 近年、兵法者と称して世渡りをする者(がいるが)、これは(兵法というより)剣術だけのことである。常陸国の鹿島・香取の社人どもは、明神からの伝授として諸流派を立て、国々を廻って人に伝授しているが、これは近年のことである。
 昔から「十能七芸」とあるなかで、(近代の兵法者は)「利方」〔りかた、役立つ〕と宣伝して、(剣術の)芸で世渡りをしているのだが、「利方」〔実用性〕を主張するのなら、剣術だけに限定してはならない。剣術だけに偏った「利」に留まるなら、その剣術でさえ知ることは難しい。勿論、兵法(全般)に叶うことはありえない。
 世の中を見るに、諸々の芸を売物に仕立て、我身を売物のように思い、諸道具についても売物に拵える。そういう心は、花と実の二つに分ければ、花よりも実が少ないというところである。とりわけこの兵法の道に、色を飾り花を咲かせ、術を衒し〔見せびらかし〕、あるいは第一道場、第二道場などといってこの道を教え、またこの道を習って、利益を得ようと思うこと、たれかいう、「なま兵法、大けがのもと」とは、まさにこのことだ。

 およそ、人が世を渡るには、「士農工商」といって四つの道がある。
 一つには「農」の道。農民は色々の農具を設け、四季の気候の変化にたえず注意して日々を送ること、これが農の道である。
 二つには「商」の道。酒を造る者はそれぞれの道具を求め、その(商品の)善し悪しで利を得て、渡世とする。どんな商売でも、それぞれ自身の稼ぎ、その利をもって世を渡ること、これが商いの道である。
 三つには「士」の道。武士においては、さまざまの武器をこしらえ、兵具それぞれの徳〔特性〕を弁えていることこそ、武士の道というものであろう。兵具の嗜みもなく、その道具それぞれの利点をも知らないようでは、武家は少々嗜みが浅いということか。
 四つには「工」の道。大工の道においては、種々様々の道具を工夫して拵え、それぞれの道具をうまく使うことを覚え、墨矩〔すみかね〕をもってその指図〔設計〕を検討し、たえずその仕事をして世を渡るのである。
 これらが「士農工商」四つの道である。

 兵法を大工の道にたとえて言いあらわすのである。大工にたとえるのは、「家」ということに(関連)付けてのことである。
 公家、武家、四家*〔しけ〕。其家の破滅、家の存続という事、あるいは、その流、その風、その家などという。そこで、家ということから、大工の道にたとえるのである。
 大工は「大いにたくむ」と書く。それゆえ、兵法の道も、大いなるたくみ〔企み〕によって、大工に云いなぞらえて書きあらわすのである。
 兵法を学ばんと思うのなら、この書を読んでよく考えて、師は針になり弟子は糸となって、たえず稽古するようにしなければならない。
 

 【註 解】

 (1)劔術一通りにかぎるべからず
 武蔵はかくも状況批判的だが、その論点の第一は、武士である以上、兵法、つまり戦闘術を学ばなければならない、この戦闘術は総合的な武芸であって、剣術だけに限ってはならない、ということである。
 この武蔵による批判を見るかぎりにおいて、当時すでに兵法という広義の戦闘術の意味は廢れ、武士の戦闘術といえば剣術、というように兵法の意味の幅は狭くなっていたらしい。
 かくして我々のいう、剣の精神化・剣の物神化が始まっているのだが、ここで武蔵が具体的に名指しして批判しているのは、鹿島香取の社人たちである。これはどういう存在であったか。
 鹿島は常陸国(現・茨城県鹿嶋市宮中)、香取は下総国の、それぞれ一之宮、古い神社である。祭神をみると、鹿島はタケミカツチ(建甕槌命)、香取はフツヌシ(経津主命)と、共に日本神話のハイライト、国譲りの段に登場する神である。
 両社はともに武剣の神社として古来伝統があり、鹿島神宮神宝の国宝直刀は、八尺を超える長大なもので、平安期の作刀とされる。家康以来、将軍家の社殿造営があり、鹿島・香取ともに全国に末社が多い。『撃剣叢談』に、
《鹿島流は常陸國鹿島に出づ。鹿島並に下總國香取の社の神宮等は、往古より剣術を業とす。夫故上手も多かりし。此鹿島神官等の門人に入て學び、鹿島流と稱へて世に傳ふる者往々有也》
とあり、また『北条早雲記』に、
《神道流の術は鹿島香取の両神より長威齋へさづけ給ふ刀術ゆゑ、傳書に天真正傳とあり天真正とは両神の事也と云へり》
とある飯篠長威斎の神道流にしても、神授の武術を売物にしたのである。新当流の祖・塚原卜伝は鹿島神宮の神官、吉川氏の出ということである。
 戦いに当って、全員一致の一揆性を神前で確認し、誓約するだけではない。そもそも戦闘術が神授のものであった。これは鹿島香取の神道流に限らず、他の流派にも謂う事例は尠なくない。いわば戦闘者の《マナ》は中世的宗教性を帯びていた。
 たとえば、それは、陰流始祖愛洲移香斎、九州鵜戸神宮に参籠し感霊を蒙り、念流慈音、同じく鵜戸神宮に参籠し、また筑紫の安楽寺に奥旨を感得したという。神道流始祖飯篠長威斎、鹿島・香取神宮に神授を得て、新当流塚原卜伝、鹿島神宮に祈願し霊夢を得る。天道流斎藤伝鬼坊、鶴岡八幡宮に参籠し霊夢の瑞を得て、また東軍流川崎鑰之助、上州白雲山に神旨を悟り、林崎甚助重信、林崎明神に祈って術を悟り、片山伯耆守久安、阿太古社に詣で霊夢を得て明悟という。竹内流始祖竹内中務大夫久盛、異人より業を教授されるという等々、その事例は多い。
 しかしながら、それだけではない。別の事情もある。
 戦国期を通じて大きな寺社は武装し領地を維持していた。言うならば、地域に割拠する武装集団の一種であって、その限りにおいて武士団と変りはなかった。この伝統は平安末期の叡山・多武峰の僧兵社人にまで溯る。とくに山岳の寺社などはそれが要塞化して、後の武家の山城のモデルになったのである。
 かくして後世の常識とは違って、戦国期までは、寺社は武装した僧兵社人を多く擁し、さながらそれが一つの領主であった。この武装寺社の伝統の中から、戦闘術がさまざまに誕生したのである。したがって武士だけではなく、寺社の僧や社人は武術の発達を支えた集団であった。
 この点で、「鹿島香取の社人ども」とあるところ、岩波版注記に《鹿島香取の神官たち》とするのは社人のことを知らないからである。社人とは神人〔じにん〕とも呼ばれた部類の者らで、寺院でいえば僧兵にあたる。これを「神官」と訳してしまっては間違いである。
 従来の解釈本や現代語訳も同様であるが、とくに「社人」を、あろうことか「神主」と解し訳してしまうのは、無知な情けない誤謬である。

 さてここで、武蔵は《常陸國鹿嶋かんとりの社人共、明神の傳として流々を立て、國々を廻り、人に傳事、近き比の事也》と記す。ここには鹿島・香取は古い神社かもしれないが、その社人が神授の剣術だと宣伝して売って歩くようになったのは、最近のことだ、決して古いことではないという。この武蔵一流の揶揄から、我々は剣道史の常識とは違う証言を得るのである。
 すなわち、当今の剣道史において、鹿島香取に由来する諸流派をもって重要な起点とされるところであるが、実際の歴史は決して鹿島香取を中心とするものではなかったことである。実はこれは、神君家康が両社を保護した結果に過ぎず、江戸の幕府の威光を背景にして、この流派が全国展開に乗り出し、その宣伝を通じて、自らは剣の道の本家なり、元祖なり、とする歴史を捏造したものであった。
 ところが、それを真に受けた後世の剣道史家が再生産した物語が、支配的になってしまったのである。武蔵の《近き比の事也》という証言は、剣道史に根本的な変更を要求するものだが、まだそれをまともに受けとめた論は出ていない。
 ところで、《近代、兵法者と云て世をわたるもの》と武蔵が書いているところをみると、天下泰平になって、武芸を売る芸能者は却って増えたのかもしれない。ところが、その武術が剣術にのみ偏向したものである。武蔵はこれに異を称えるのである。「剣聖武蔵」などいうイメージからすれば、逆であろうが、実際は武蔵は剣への偏向、剣術中心主義(swordmanship-centrism)を批判しているのである。
 剣術中心主義批判。――これは、本来総合的な兵法が、剣術に収斂されてしまう状況の中で、その一元化を批判しているのである。戦場での実戦性能をみれば剣が有利なのではない。しかし明らかに、武芸が実戦から乖離してしまう状況の中で、こうした剣術の特権化が生じたのである。言い換えれば、戦場のリアリティが喪失されると同時に、剣がシンボリックな覇権的ステイタスを獲得したのである。

――――――――――――

 以下、もう少し踏み込んで読み解くために、ここで、語釈の問題にふれておく。
 まず、「十能七芸」というのは、多種多様な芸能ということである。ここでは、もろもろの戦闘術のことを指して、「十能七芸」というわけである。
 ここには「七芸」とあるが、本来は「六芸」という。六芸とは、古代中国で云われたことである。この場合、士以上の階級の学修すべきものとして、礼・楽・射・御(馬術)・書・数の六種の技芸があった。
 これは日本に文化輸入されたが、後世、兵法の六種の武芸、すなわち剣・槍・弓・馬・柔・砲を指して謂うようになった。柔は体術、つまり格闘術であり、砲は鉄砲のことで、これも兵法のなかの種目である。
 ここでの「芸能」は武術諸般のことである。「芸能者」「芸者」とは武芸者のことであった。
 戦闘術としての兵法は、実戦において多様な武術を含んでいた。武蔵が、兵法は剣だけに限定してはならない、とするわけである。
 ところで、五輪書では、この「六芸」を「七芸」としている。この「六」と「七」の相違に注目すれば、この「七芸」のようにどうして「六芸」から一つ数が増えたかというと、それは上記の剣・槍・弓・馬・柔・砲の六芸に、「兵法」を追加しているからだ。いいかえれば、兵法は類概念であって、その中に六つの種(species)を含むのであるが、その種に類が並列する。
 歴史的にいえば、「七芸」と記すのは、近世の新しい用法である。しかし、武蔵の時代では、それはまだ定位を得ているわけではない。それゆえ、五輪書では、武蔵はこの類概念としての兵法について、あれやこれや述べざるをえないのである。
○此条諸本参照 →  異本集 






鹿島神宮 奥宮
茨城県鹿嶋市宮中



国宝 直刀黒漆平文太刀拵
鹿島神宮所伝神剣
刀身 長223.4p 茎長36.8p




香取神宮 本殿
千葉県佐原市香取宮中



国宝 海獣葡萄鏡
香取神宮所伝神鏡
白銅円鏡 直径29.6cm



*【現代語訳事例】
《常陸国、鹿島・香取の神官たちが、明神から授かったものとして剣術の各流派を立て》(神子侃訳 昭和38年)
《常陸国の鹿島・香取の神官たちが、明神の伝えとして剣術の各流派を立て》(大河内昭爾訳 昭和55年)
《常陸国、鹿島・香取神社の神主たちが、明神から伝えられたものとして流派をたて》(鎌田茂雄訳 昭和61年)




飯篠長威斎
武者修行巡録傳



鹿島神道流の組太刀図
天真正神道流圖解皆傳書




訓蒙圖彙大成
 さて次に言えば、ここで、武蔵は、重要なことに言及する。重要なことだが、語釈にやや難しい点があり、これまで正しく読まれたことがない、という曰くつきの箇処である。
 ――昔から「十能七芸」とあるなかで、近代の兵法者は、「利方」、役立つぞと言って、剣術の芸で世渡りをしているのだが、そのように利方〔実用性〕を主張するのなら、剣術だけに限定してはならない。剣術だけの「利」に留まるなら、その剣術でさえ知ることは難しい。勿論、兵法(全般)には叶うことはありえない。――というわけである。
 ここでいう「利方」は、現代語で言えば、実践的勝利法というほどの意味合いである。ただしこの語のニュアンスは、きちんとわきまえておかねばなるまい。「利方」という語は、「りかた」「りがた」と訓むが、実効性がある、実用的というほどの意味あいである。たとえば、
《大小の拵へも、りかたを好む立派の侍》(浄瑠璃・近江源氏先陣館)
がそれで、この文意は、大小の刀の拵えも、装飾的ではなく実用性を好む、ということである。このケースでは、「りかた」は実用性の意味である。
 「利」という語も、利益にとどまらず、効果的、実効性があるという意である。ちなみに「利発」とは賢〔さと〕いという意味だけでなく、役に立つことを意味する。《りハツ(利発)なる小判を長櫃の底に入置》(日本永代蔵)とは、実効性がある、役に立ってくれる金貨という意である。
 とくに兵法に「利」ということを言うのは、たとえば『孫子』に、
《利あらずば動かず、得あらずば用ゐず、危あらずば戰はず》
《利に合して動き、利に合せざれば止む》(火攻篇)
とあるように、あくまでも戦争における実利主義的原則からくる。この反精神主義的な原則は、古来のものであって、とくに言うべきことはない。武蔵の「利」の概念とその論も、この伝統の系譜のうちにある。
 そういう「利」につく戦法、「利方」という以上、これは兵法全般にかかわることなのである。そこで、《劔術一へんの利までにては、劔術もしりがたし》――剣術だけに偏った「利」に留まるなら、その剣術も知ることは難しい、という。
 この《劔術一へんの利》の「一へん」は、「一偏」〔いっぺん〕、すなわち、それだけに偏るということである。「一遍、二遍」、一回、二回という方の「いっぺん」ではない。武骨一偏、正直一偏という方の「いっぺん」である。それだけが取り柄の、という意味もある。
 したがって、《劔術一へんの利までにては、劔術もしりがたし》とは、剣術だけに偏った「利」に留まるなら、その剣術も知ることは難しい、ということである。「鹿嶋香取の社人ども」にはじまり、いわば、このあたり明確に剣術中心主義批判が提起されているのである。
 そして言う、――勿論、「兵の法」には叶うことはありえない、と。ここでいう「兵の法」の「兵」は、軍隊という意味ではなく、本来「兵器」「武器」の意味である。したがって、「兵の法」とは武器の取り扱い方というのが字義通りの意味である。
 ただし、その意味合いを残しながら、一方で「兵の法」は文飾で、本来たんに「兵法」というところを「兵の法」と書いて、少し気取ったスタイルにしているのである。我々の訳では、これをたんに「兵法」としているが、上述の「兵の法」の「兵」は、「兵器」「武器」の意味だという含みも念頭においていただきたい。文章語句は意味の揺らぎの中でふくらみをもつのである。

――――――――――――

















*【孫子】
《夫戰勝攻取、而不修其攻者凶、命曰費留。故曰、明主慮之、良將修之、非利不動、非得不用、非危不戰。主不可以怒而興師、將不可以慍而致戰。合于利而動、不合于利而止。怒可以復喜、慍可以復ス、亡國不可以復存、死者不可以復生。故明君慎之、良將警之。此安國全軍之道也》(火攻篇)

 かくして、武蔵の剣術中心主義批判が提起されたわけだが、このあたり、既成現代語訳はいかがと見るに、いづれも見事に間違っている。
 戦前の石田訳は、《劔術一へんの利までにては》を、「劍を使ふ理を知つてゐるといふだけでは」と訳して、《劔術一へんの利》を訳していない。そもそもここでは「利方」という話なのに、「利」を「理」とすり替えるというのは、どういうわけか。「剣理」だの何だのという近代剣道の先入見が、明らかな文字さえ別の文字に読んでしまう。
 この訳文では、剣理を知っているだけではダメだ、実際に剣で戦わなければ、という文脈が発生してしまう。武蔵の剣術中心主義批判が霞んでしまっている訳文であり、誤訳である。
 では、戦後になるとどうか、というに、まず神子訳は、これを「剣術だけの技術によっているうちは」と読んだ。ここで「技術」という語が出てくるのは、どうにも解せないことだが、おそらく、ここに出てくる「利」を「利業」と読んだものらしい。これでは、「利方」うんぬんという文脈を見失ってしまっているのである。これも、武蔵の「利」という概念を理解していない誤訳である。
 また、神子訳は、《兵の法》という語を、「戦争の原則」と訳しているが、これは《兵の法》が「兵法」の修辞的表現だと知らないために、無理な誤訳に及んだのである。
 ちなみに神子訳の後の岩波版注記は、《劔術一へん》の「一へん」について、「一通」と同意の語だとして、「通り一遍。ただうわべだけの実意のこもらぬこと」と注釈している。これは、「一へん」を、偏るの「一偏」ではなく、一回二回の「一遍」と誤読したものだが、どうして、続いてこれが「通り一遍」の意味に化けるのか、奇怪ななりゆきである。
 この語釈のように、ただうわべだけの実意のこもらぬ剣の修行ではダメだ、ということなら、心底実意のこもった剣の修行をすべきだ、という文脈が発生してしまう。これも、武蔵の剣術偏向批判を、どうしても読みたくないらしい。「剣聖武蔵」が剣術中心主義を批判しているなどとは思いも寄らぬものらしく、文章をねじ曲げて解釈しようとするのである。
 この岩波版注記が出て、混乱の度合いを増したのが、続く現代語訳二者である。大河内訳は、《劔術一へんの利までにては》を、「剣の技術だけによっているうちは」と訳した。これは神子訳の翻案だが、それを誤って翻訳している。「剣術だけの技術」ではダメだというのが神子訳だが、大河内訳は、「剣の技術だけ」ではダメだという具合に、文意をズラした。これでは、剣の技術だけではダメだ、剣の心がなくては、という文脈が発生してしまう。つまり剣術への偏向を批判する武蔵の論旨はどこかに消えてしまったのである。もちろん、「利方」うんぬんの話も消滅してしまっている。
 もう一つの鎌田訳は、これを「剣術だけに役立つのでは」と訳した。これは「利方」という文脈に留意した点で、既存の諸訳とは異なる方向に進んだのだが、もちろん訳文は誤訳である。《劔術一へんの利》というのは、「剣術だけに役立つ」ということではなく、「利方」といっても、剣術だけに偏った「利」にとどまっているようではダメだ、ということである。ようするに、この訳文では「利」という武蔵語彙が消えて、「利方」ということに関説しての、武蔵の剣術偏向批判という趣旨が行方不明なのである。
 また、大河内訳・鎌田訳ともに、神子訳の影響を受けて、《兵の法》を、それぞれ「兵法の原則」「戦争の掟」と訳出している。むろん、「戦争の原則」「兵法の原則」「戦争の掟」、どれもこれも珍訳の類である。この点、戦前の石田訳はこれを「兵法」と記して、誤っていない。他例にも明らかなように、戦後になって五輪書翻訳能力が低下したのだが、これもその一例である。
 というわけで、この肝心な、武蔵の剣術中心主義批判の箇処は、正しく翻訳されたことがなかったのである。言い換えれば、近現代の剣道イデオロギーもさることながら、「剣聖武蔵」という思い込みがあって、武蔵の剣術中心主義批判が読めていないのである。あるいは訳者には、無意識にそうは読むまいという否認の諸機制(mechanisms of Verleugnung)が、作動しているようである。

――――――――――――


*【現代語訳事例】
劍を使ふ理を知つてゐるといふだけでは劍の使ひ方も解つてゐないものだ。兵法には勿論及びもつかない》(石田外茂一訳)
剣術だけの技術によっているうちは、剣術そのものものの真価を知ることはできない。まして戦争の原則などは及びもつかないである》(神子侃訳)
剣の技術だけによっているうちは、剣術そのものものを知ることもむずかしい。もちろん、兵法の原則には叶うはずもない》(大河内昭爾訳)
剣術だけに役立つのでは、剣術そのものものを知ることもできない。もちろん戦争の掟にかなうはずがない》(鎌田茂雄訳)

 次に、この部分の諸本校異に立ち入ってみる。校異箇処が二、三蟠っているので、以下に、まとめて示す。
*【吉田家本】
《漢土和朝迄も、此道をおこなふものを、兵法達者と云傳たり。武士として、此法を学ばずと云事有べからず。近代、兵法者と云て世を渡もの、これハ劔術一通の也。常陸國鹿嶋かんとりの社人共、明神の傳として流々を立て、國々を廻り、人に傳事、近き比の也。いにしへより十能七藝と有うちに、利方と云て、藝にわたるといへ共、利方と云出すより、劔術一通にかぎるべからず》
*【楠家本】
《漢土和朝迄も、此道をおこなふ者を、兵法達者といひつたへたり。武士として、此法を学ばずといふ事有べからす。近代、兵法者と云て世をわたるもの、是ハ劔術一通の也。ひたちの國鹿嶋かんとりの社人共、明神の傳へとして流々をたてゝ國々を廻り、人につたゆる事、ちかき比の也。去しへより、十能七藝と有内に、利方と云て藝にわたるといへども、利方と云出すより、劔術一通にかきるべからず》
*【丸岡家本】
《漢土倭朝までも、此道を行ふ者を、兵法の達者といひ傳へたり。武士として此法を不学といふ事有べからず。近代、兵法者と云て世を渡る者、是は劔術一通りのなり。常陸の國かしまかんとりの社人共、明神の傳へとして流々をたてゝ國々を廻り、人に傳る事、近き比のなり。古へより、十能七藝とある内に、利方と云て藝にわたるといへども、利方と云出すより、劔術一通りに限るべからず》
*【石井家本】
《漢土和朝迄も、此道をおこなふものを、兵法達者と云傳たるハ、武士として、此法を学バずと云事有べからず。近代、兵法者と云て世をわたるもの、これハ劔術一通りのなり。常陸國鹿嶋かんとりの社人共、明神の傳として流々を立て、國々を廻り人に傳事、近き比の也。いにしへより十能七藝とあるうちに、利方と云て、藝にわたるといへ共、利方と云出すより、劔術一通りにかぎるべからず》
*【細川家本】
《漢土和朝までも、此道をおこなふ者を、兵法の達者といひ傳へたり。武士として、此法を学ずと云事あるべからず。近代、兵法者と云て世を渡るもの、是は劔術一通の也。常陸國かしまかんとりの社人共、明神の傳へとして流々をたてゝ國々を廻り、人につたゆる事、ちかき比の也。古しへより、十能七藝と有うちに、利方と云て藝にいたるといへども、利方と云出すより、劔術一通にかぎるべからず》
*【富永家本】
《漢土和朝迄も、此道を行ふ者を、兵法の達者といひ傳へたり。武士として、此法を学ばずといふ事不可有。近代、兵法者と云て世を渡る者、是ハ劔術一通のなり。常陸国鹿嶋かんとりの社人ども、明神の傳へとして流々を立て国々を廻りて、人に傳る事、近比のなり。古より、一能七藝と有内に、利方と云て藝に渡るといえども、利方と云出すより、劔術一通にかきるべからず》
 まず、この箇処につき、肥後系諸本の中には、相互に異なる語句を記すものがある。
 それは筑前系諸本に、《兵法達者》とするところを、細川家本・丸岡家本ほかの諸本は《兵法の達者》として、「の」字を入れる。これは、あらずもがなの衍字誤記である。
 というのも、肥後系のなかには、楠家本のように、《兵法達者》として、筑前系諸本と同じ語句に書くものがある。そして、筑前系/肥後系を横断して共通する語句は、基本的に古型を示す。このことから、細川家本と丸岡家本などの《兵法の達者》という語句の「の」字は、後に発生した衍字であり、楠家本の《兵法達者》が正しいのである。
 こうしたことは、肥後系諸本のみを見ていては、その正誤の判別のしようがあるまいし、ことに細川家本を信奉している者らは、《兵法の達者》の「の」字が余計な誤記であることに、いまだに気づきもしない。筑前系/肥後系を横断して広く諸本を校合するという基本的な手続きを踏む研究者は、今まで現れたことがなかったのである。
 次に、興味深い校異がある。すなわち、筑前系諸本が、
《これハ劔術一通の也》《近き比の也》
とするところ、肥後系諸本は、
《是ハ劔術一通の也》《ちかき比の也》
とするのである。つまり、「儀」と「事」という文字が、そっくり入れ替わっている。
 これは、筑前系諸本では、立花峯均系統の越後本まで同じだから、筑前系初期からこうなっていたものである。さらに、柴任美矩が寺尾孫之丞から承けた五輪書には、こう記されていた可能性がある。つまり、寺尾孫之丞前期の語句ということである。
 それに対し、肥後系では、諸本ほぼ同じく、事/儀(義)の順序だから、おそらく肥後系早期にこの順序でこの語句があったものである。しかるに、これが寺尾孫之丞段階まで遡る校異か、というと、それをサポートする要件がない。
 この順序の相異は、「儀」と「事」という文字だから、大きく文意を変えるものではないとしても、寺尾孫之丞が前期と後期で、この二語を入れ替えたとみるには、その理由がない。これは寺尾孫之丞以後、さらに門外流出後の後人の所為であろう。
 他方、もし仮にこれが前期/後期の相異だとしても、筑前系諸本が示すのは、寺尾孫之丞前期、承応年間の柴任相伝のものである。したがって、後期のものより優先順位は高い。したがって、ここは、《劔術一通の儀》《近き比の事》とあるところを採るべきであろう
 また、ここの別の校異では、諸本に《藝にたる》とするところを、肥後系細川家本にのみ、《藝にたる》として、「わ」字を「い」字としている。これは単純な誤写である。
 山本源介を宛名とする細川家本と同系統の写本に、常武堂本がある。それはどうかと見るに、常武堂本は、諸本と同じく、これを《藝にたる》と記している。とすれば、これは、細川家本固有の誤写であり、しかも、常武堂本の祖本と細川家本が分岐派生した後に発生した誤記である。
 この種の事例は、五輪書を通じて、他にも尠なくない。ようするに、このように肥後系諸本のなかでも細川家本に特徴的誤記があることは、細川家本が繰り返し伝写された後の写本だということを示す。
 世の中には、細川家本が古型を保つと、いまだに信じて妄説を反復する者が跡を絶たないのだが、そうした盲信には根拠がないということは、こうした事例でも明らかである。   Go Back




石井家本 校異箇処






細川家本 校異箇処


*【肥後系五輪書系統派生図】

○寺尾孫之丞―初期写本…流出…┐
 ┌―――――――――――――┘
 ├……………………富永家本
 |
 ├…┬…┬………楠家本
 | | |
 | | └…┬………常武堂本
 | |   |
 | |   └…細川家本 いたる
 | |
 | └…┬………丸岡家本
 |   |
 |   └…┬………山岡鉄舟本
 |     |
 |     └……田村家本
 |
 └…流出……………円明流系諸本

 
 (2)なまへいほう大きずのもと、誠なるべし
 これも状況批判、とくに剣術中心主義の兵法者に対する批判である。世の中を見るに、諸芸を売物に仕立てて、我身を売物のように思い、諸道具についても売物に拵える心がある、というのは、ある意味で文字通り、《武芸の商品化》である。つまり、武芸が芸能化して「売る」という風俗が生まれたのである。
 この芸能商品化批判は、しかし、大切な武術を商品にするな、といった後世の道徳主義的・精神主義的な武道神聖観念からの批判と同じではない。むしろまったく逆なのだ。
 武蔵は、この兵法の芸能商品化において、実がなくて花しかない、兵法が実戦において役に立たない見かけだけ、格好だけの飾り物に堕してしまっていると批判するのである。武蔵はあくまでも実戦主義である。
《とりわき此兵法の道に、色をかざり花をさかせて、術をてらし》
 とりわけ、この兵法の道に、という。この《此兵法の道》というのは、前からの文脈からすれば、とりわけ、剣術兵法の道に、という意味である。
 ここでの「花/実」の比喩に関して云えば、武蔵の念頭にあったのは、たとえば稲であろう。稲の花ばかり多くて実りの少ない、そんなケースもある。実践主義において豊穣とは、花の多いことではなく、実のあることなのだ。この実の道、花よりも実、という比喩のラインを見ておくことである。
 また、《一道場、二道場など云て、此道をおしへ》とあるのは、門人を多数集め、門前市をなすありさまで営業繁昌して、一つの道場だけでは足らず、第二道場まで設けて、剣術指南しているという場面を指している。
 なるほど、門人数千という伝説のあるケースも少なくない。今日の例でもわかるが、何事であれ、人気があるからといって、それが上等だと思うのは錯覚である。商売上手は、商人のみではなく、剣術指南にもあることである。
 売れているから偉いと思うのは、現代人にもある錯覚で、それゆえ、通俗剣術評論などでみかける話である。何某は門弟何千人、だから強かったのが分るなどと、たわ言が語られているが、現代の流行作家でも同じことだが、人気があるからといってその作品が上等なのではない。
 武蔵が、《一道場、二道場など云て》と、ここで揶揄しているのは、おそらく上方や江戸など、大都市で繁昌して門人多数を擁するケースであろう。世間に売れている道場である。これも、武芸の商品化という一連の話である。
 ここで、《なまへいほう大きず(大疵)のもと》(なま兵法、大怪我のもと)と、俚諺を引くのは、武蔵のユーモアであるが、これによって知れるのは、この諺が当時すでに出来ていたということである。
 こういう戯言めいた語り口は、「どうしようもない連中だよ」といった武蔵の苦笑が見えそうだが、そういう言葉の端々から知れるところ、武蔵は五輪書を、けっこう楽しんで書いているようである。
 なお、この《なまへいほう》という字句について、注意を喚起すべきべきことがあろう。
 この五輪書では、「兵法」という語が頻出するのであるが、今日、この「兵法」という語を「ひょうほう」と読む者がある。漢音・呉音の相違であるが、「兵法」を「ひょうほう」と読むのは後の時代のことである。
 この箇処で知られるように、武蔵の時代では、「兵法」は、「ひょうほう」ではなく、「へいほう」と読んだ。したがって、五輪書の「兵法」を「ひょうほう」と読むのは誤りである。
 こうしたことが知れるのも、この書物が異例にも、和語仮名を多用して書かれているからである。

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稲の花と籾





枸杞の実と花
 ここで、校異の問題について、指摘すべきところは、次の点であろう。すなわち、筑前系諸本には、
《色をかざり花をさかせて、術をてらし、或ハ一道場、二道場など云て、此道をおしへ》
とあって、《術をてらし》とするところ、肥後系諸本では、面白いことに、字句がさまざまで一定しない。
    術とてらし (楠家本)
    術とてらひ (細川家本)
    術をてらひ (丸岡家本)
    術をてらし (富永家本)
 これを見るに、肥後系諸本は、文字の交換ゲームのように、写本ごとに語句が異なっている。つまりは、この部分に関して、肥後系諸本には写し崩れがあって、繰り返し伝写を経たものだと知れるのである。
 どれが正しいかといえば、筑前系諸本の字句を参照すればわかることである。つまり、筑前系/肥後系を横断して共通する語句が、基本的に、寺尾孫之丞段階へ遡りうる初期性を有する。このケースでは、肥後系のうち、富永家本のみが正しい書記を示している。
 つまり、このことで判明するのは、第一に、写し崩れの多い富永家本だが、こうした正しい語句を伝えているケースもあることである。
 第二点は、後期写本にもかかわらず、他の諸本にはない正しい語句を、しばしば記載するのは、肥後系早期写本の痕跡を留めているということである。言い換えれば、肥後系のなかでは早期に派生した系統の末裔である、ということである。
 もう一つ、このことで判明することがある。つまり、肥後系のうち、比較的正確な部類に入る楠家本・細川家本・丸岡家本であっても、このようにそれぞれ異なる写し崩れがあるということは、この三本の写本としてのステイタスを示している。
 すでに述べたように、肥後系諸本のなかでも細川家本のみ誤記するケースでは、細川家本の古さを主張する説は、妄説として否定されるところだが、このように、三本とも間違っている事例をみれば、楠家本・丸岡家本とも、細川家本と大差ない段階での写本である。どれも、肥後系初期写本からの距離が相当あるものとしなければならない。
 それに対し、富永家本は、これら三本よりも後の時代の写本であろうが、早期に分岐した別系統の写本であるため、この三本が誤写する以前の形を保全しているケースもあるということである。
 さて、ここでのもう一つの校異は、筑前系と肥後系を区分するものである。つまり、筑前系と肥後系では相異があるが、肥後系は諸本共通であるから、筑前系/肥後系に明瞭な相違があるということである。
 それは、筑前系写本では、《或ハ一道場、二道場など云て》という部分であるが、肥後系はそこを、《或ハ一道場、或ハ二道場など云て》として、第二の「或ハ」と挿む。このケースについて見てみよう。
 これはどちらが正しい書記であるのか。もしこれを、従来のように肥後系諸本を中心にして見れば、筑前系諸本は、第二の「或ハ」を落としていることになる。すると、筑前系はここに脱字を有するという結論になるが、それは妥当な判断であろうか。
 これも、爾後にも多い例の一つだから、ここで、この種の校異パターンを見出すために、少し立ち入って見ておく必要がある。
 まず、検証するのは、筑前系諸本に共通するものか否か、という点である。これは既述のごとく、共通ならば、初期性を示す語句である。
 さらに、念のため見ておくべきは、文意の点でどうか、ということである。このケースで、第二の「或ハ」がない筑前系のばあい、文意は、上掲の我々の読解のように、ここは、門人を多数集め、一つの道場だけでは足らず、第二道場まで設けて、繁昌しているという場面である。
 それに対し、肥後系諸本のように第二の「或ハ」を挿むばあいは、そういう文意にならず、第一道場、あるいは第二道場、というような別項枚挙の「或ハ」になる。たとえば、五輪書の記述例では、次条に、《棟梁におゐて、大工をつかふ事、其上中下を知り、或は床まはり、或は戸障子、或は敷居、鴨居、天井已下、それ/\につかひて》とあるように、「或ハ」という語は別のケースを枚挙するのに用いるのである。
 しかし、ここでの文脈からすれば、このケースもあれば、あるいは別のケースもあるという枚挙では、文意不通である。つまり、「ある場合は第一道場、ある場合は第二道場などと云って、この道を教え」ということでは、何のことだか、話が胡乱である。これは第二の「或ハ」が介在するためである。「或ハ」は第一のそれだけでよい。「或ハ」は、「第一道場、第二道場などと云って、この道を教え」という文にかかるのである。
 要するに、肥後系諸本の第二の「或ハ」という字句は、第一の「或ハ」に引かされて、挿んでしまった偶発的誤写なのである。それが肥後系諸本に共通するところをみると、これは肥後系早期の写本に発生した誤記なのである。
 しかも、文意不通のところからすれば、寺尾孫之丞段階で、これがあったとは思われない。孫之丞相伝の写本より後に発生した誤記である。このように、肥後系早期の誤写だが、寺尾孫之丞段階より後に発生した誤記、つまり門外流出後、書写された段階で生じた誤記がある。
 そして、寺尾孫之丞以後に発生した偶発的誤記が、肥後系諸本に共通するとすれば、それは、その誤記を発生させた写本こそ、肥後系現存写本の元祖なのである。その後も派生伝写されて行って現存写本に至るのだが、このことから帰結されるのは、肥後系諸本は当初、複数の系統から発したのではない、ということである。筑前系/肥後系を区分する校異において、このパターンがあることを、以後念頭におかれたい。
 こうしたことは、むろん、肥後系諸本だけを見ていては分らないことである。筑前系諸本へも横断して照合してみなくては、肥後系諸本のどれが正しいのか、判断がつかなし、あるいは肥後系諸本全体が間違っている場合はなおさら想定外のことで、そんな問題があるとさえ、気づかれもしなかったのである。
 従来の五輪書研究は、肥後系諸本を中心としたものであったから、諸本照合の範囲が決定的に限定されており、そのため根本的に誤った史料評価を繰り返してきた。そういう悪弊にも、そろそろ気づかれて然るべき時なのである。   Go Back



*【吉田家本】
《色をかざり花をさかせて、術をてらし、或ハ一道場、二道場など云て、此道をおしへ》
*【渡辺家本】
《色をかざり花をさかせて、術をてらし、あるひハ一道場、二道場など云て、此道をおしへ》
*【石井家本】
《色をかざり花をさかせて、術をてらし、あるひハ一道場、二道場など云て、此道をおしへ》
*【楠家本】
《色をかざり花をさかせて、術とてらし、或ハ一道場、或ハ二道場など云て、此道をおしへ》
*【細川家本】
《色をかざり花をさかせて、術とてらひ、或ハ一道場、或ハ二道場など云て、此道をおしへ》
*【丸岡家本】
《色をかざり花を咲せて、術をてらひ、或は一道場、或は二道場などゝ云て、此道をゝしへ》
*【富永家本】
《色を飾り花を咲せて、術をてらし、或ハ一道場、二道の場などゝ云て、此道を教》



富永家本 「術をてらし」



楠家本 第二の「或ハ」
 
 (3)人の世をわたる事
 ここから以下、話の趣ががらりと変る。つまり、前段までは、剣術中心主義批判だが、ここで話が一変する。
 本条のタイトルは「兵法の道と云事」だが、それに適合するのは、前段までである。しかし、それは、「生兵法、大疵のもと」の俚諺が出たところで終っているから、剣術中心主義批判の文は、書きさしのままの草稿だったのである。
 これは、この条が武蔵草稿にこの順序で書かれていたというよりも、武蔵の断簡が種々あって、それを寺尾孫之丞が編集して、この「兵法の道と云事」の後に、武蔵の草稿文章を編入したのである。したがって、本条は長くなっているが、それだけではなく、五輪書が未定稿だったという特徴を示すところである。
 とりわけ、如上の事情なので、本条の話の筋は統一性を欠く。この条に収録された文は、武蔵の断簡を集めたとは言え、編集の手に余るもので、収拾がついていない。それは武蔵のオリジナルそのものが、諸文書きさしのままで、未完成だったからである。
 ようするに寺尾孫之丞は、武蔵の断簡を捨てることなく、ここへ編入したのである。後世の我々は、寺尾孫之丞がここに集めた三つの断簡を読んでいる途中である。すなわち、
A 剣術中心主義批判
B 士農工商、渡世論
C 兵法を大工の道に譬えること
 我々の目下の場所は、この三つのパートのうち、二番目の話の入口にいるわけである。
 さて、ここでは、およそ、人が世を渡るには「士農工商」四つの道がある、として武蔵は、社会を構成する諸職業の渡世の道について語り出す。
 この部分はとくに説明は要しない。それは、現代の我々にも、そのままさして抵抗なく入る考えであるからだ。そのこと自体が不思議に思えなくてはなるまい。
 というのも、当時すでに近世的身分観念が相当支配的になっていたから、垂直的身分制度を、自然または当為として語る社会構成論が大半であった。そうでない場合でも、せいぜい士農工商を社会分業論で説くにとどまる。
 これに対し、ここで武蔵が言うのは、もっと具体的な話で、「世を渡る」という個人の渡世の仕方で差異を説明し、同時にその渡世の仕方は根本的に差異はないのだ、ということだ。この無差別論は、先に「死ぬ」という道においても示されたが、この「生きる」という道においても、同じスタンスで語られるのである。
 士農工商という成語にも関わらず、五輪書が、武士を最初に挙げるのではなく、農商の次の三番目に武士を挙げるのも注意されるところである。
 言い換えれば、これは実践的な社会論である。士農工商とはいえ、武蔵は決して身分の上下など語ってはいない。渡世の生活次元で職業の差異を云うにすぎない。権力や富で人間に差異があるのではない。渡世の仕方で違いがあるだけだ。武士もまた渡世の一つであるにすぎない。
 こうした考えは、武蔵の世代までは可能だった。というのも、下克上によってわずか一代で大名に成り上がった者の珍しくない情況を経験した世代であるからだ。暴力的抗争に勝ち残って獲得された権力が、封建的身分として固定するのを横目に見てきた世代である。渾沌とした実力主義の時代から、世襲的身分秩序固定化の時代へ――。武蔵の世代はその両方を経験している。そのことを念頭において、この一節は読まれなければならない。
 そうして士農工商の四つの道を説くなかで、他の渡世はそのまま語るのに、武士について、《兵具をもたしなまず、其具/\の利をも覚へざる事、武家は、少々たしなみの淺きものか》と批判的なのは、むろん五輪書が、武士である者を読者に想定して書かれているからだ。他の渡世の者がこうであるのに、武士は何という体たらくか、という次第である。

 ここで余談になるが、この士農工商のうち「商」について、商売はさまざまあろうに、なぜ武蔵はここで酒造の話を出してくるのか、――という問いがあった。なるほど言われてみれば、たしかにそうで、商いの代表例として、なぜ酒屋なのか。
 しかし、これは大して難しい話ではない。武蔵の当時――十七世紀前半の近世初期――商売で最も成功した代表例は、大坂の鴻池、住友などである。井原西鶴が、
《難波の津にも、江戸酒つくりはじめて一門さかゆるもあり、また銅山にかかりてにわか分限になるものあり》(日本永代蔵)
というところである。この銅山の方は住友だが、江戸酒というのは鴻池である。
 蛇足であるが、鴻池の創業者新六(1570〜1650)は、慶長五年(1600)に伊丹で酒造業を始め、これを江戸に運んで売った。ドブロクしかなかった東国へ清酒を持ち込んで売って、莫大な利益をあげたという伝説的人物である。三代目善右衛門宗利のとき明暦二年(1656)に両替商を始め、酒造はやめたが、金融業・海運業・新田開発へ手を広げ近世最大の豪商となった。諸地方の民話伝説でも大金持といえば「大坂の鴻池」が登場する。
 ただし「大坂の鴻池」とはいうが、正確には西鶴の当時、鴻池本家は伊丹にあった。武蔵の時代ではまだ酒造家であっただろう。摂津にある伊丹・池田などは灘よりも先に栄え、鴻池だけではなく酒造で分限者になった商家が多く出たのである。
 武蔵が商いの道で酒造家を例に出したのは、おそらく鴻池のこうした成功を、当時の誰でも知っていたからである。商売の話で「酒」となると、みんなの頭に連想されるのが鴻池であった。したがって、入門書たる五輪書はこうした誰でも知っている話をしているのである。
 周知のごとく、近代になって、武蔵の五輪書が「剣禅一如」の極意を述べている、などと阿呆を公言する論者もあった。だが、ようするに彼らは、五輪書に何が書かれているか、それを読んでいないのである。

 ここで、語釈の問題を挙げれば、大工の話で《すみかねをもつて、其指圖をたゞし》とあるところが、見慣れないという向きもあろう。「すみかね」〔墨矩〕は、後述のように、大工の道具、墨壷と矩尺(曲尺)であり、建材を削ったり部材を組み立てたりするさい、寸法を計測し墨で線を入れたりする。「差圖」は現代語に「指図する」という意味で残っているが、ここでは設計(図)というところである。
 逐語的にはそういう語釈であるが、《すみかねをもつて、其指圖をたゞし》は一種の成語であり、ようするに「設計を吟味する、検討する」というほどの意味である。
 既成現代語訳はいづれも明らかに珍訳誤訳である。ようするに、「指圖をたゞし」の意味がわかっていない。要領を得ないから、逐語訳にして却って間違うという例である。  Go Back






吉田家本 当該箇処









四職之図 士農工商
画本商売往来絵字引













加工商品
画本商売往来絵字引




鴻池稲荷 鴻池家発祥の地
伊丹市鴻池字中北









*【現代語訳事例】
ものさしで図面どおりにきちんとし、せっせと仕事して世を渡るのである》(神子侃訳 昭和38年)
すみかねで図面を正しく製図し、せっせと仕事をして世を渡るのである》(大河内昭爾訳 昭和55年)
ものさしで図面どおりに正しくし、ひまもなく仕事をして世を渡るのである》(鎌田茂雄訳 昭和61年)

 
 (4)兵法を大工の道にたとへて
 既述の通り、ここから、三つ目のパートに入る。まず、《兵法を大工の道にたとへて云顕す也》とあるのだが、前に、《是士農工商、四の道也》とあって、すぐに《兵法を、大工の道にたとへて云顕す也》と続いてくるのだが、これがいかにも唐突な文の続き方である。
 しかし、それは前段と連絡を付けようとするから、そういう印象を抱くのである。前段の文章は《是士農工商、四の道也》で終って、武蔵は書きさしにしておいた断簡を、寺尾孫之丞の編集段階で、ここへ編入したのである。同じくまた、別のこの《兵法を大工の道にたとへて云顕す也》以下の断簡をここへ編入したのである。その結果、本条は三つの寄せ集めの文章を構成内容とすることになった。
 その結果、本条を一つの文章と読もうとすると、文章の不連続をあらわに残す唐突な話の振り方に見えるのである。寺尾孫之丞は、すでに前段の士農工商、渡世論を、編入しており、ついで、この第三のパート、「兵法を大工の道にたとへて」以下の文章が編入されているという前提で読まねばならないのである。
 それにしても、次条に「兵法の道、大工にたとへたる事」というのが出てくるから、内容としては、これは重複である。しかしこれは、次条に兵法を大工の道に喩えて説明することを予告するものではない。寺尾孫之丞は、次条と類似のこの断簡を、他に持って行き場がなくて、関連のある次条の前においたのである。
 したがって、これが本条「兵法の道と云事」の一部とはみなすことはできない。むしろ、次条「兵法の道、大工にたとへたる事」に関連のある断簡として読んだ方がよいのである。
 さて、ここでは、兵法を大工の道にたとえるというわけだが、そこに入る前に、語釈の問題を一つ、片付けておく。
 つまり、公家、武家、四家〔しけ〕、というのだが、この「四家」は、いろいろなケースで使われる言葉である。たとえば、藤原氏の南家・北家・式家・京家を指していうこともあれば、仏教で、苦清浄家(三蔵教)・捨煩悩家(通教)・般若家(別教)・諦家(円教)といって、四家(四派)を立てることもある。通例、その道の代表的な家なり人物を「四家」と呼ぶ。たとえば、蘇軾(東坡)・黄庭堅・蔡襄・米芾は、宋四家である。これは書画に堪能な武蔵にはなじみのある四家である。
 日本では、後に江戸狩野派は、加治橋・木挽町・中橋・浜町の奥絵師四家を立てた。また周知の如く、茶道の千家にも四家がある。あるいは、「四家髄脳」とは古典的歌学書四本、無名抄・綺語抄・奥儀抄・和歌童蒙抄のことである。「四」というのは特別な数字で、「四天王」と云ったりもする。四職、四姓などもある。
 ところで、武蔵はここで、「公家、武家、四家」と、「家」の付く語を並べているだけである。そういう「家」のつく言葉の連想を演じている。「家」といえば、「四家」という言葉もあったな、という具合である。
 この場合、「四家」〔しけ〕は、何か代表的な四人ないし四派を指す一般的な言葉である。この点、岩波版注記に、これを「源平藤橘」を指すものかと解釈案を提示しているが、これは教養不足による誤りである。「源平藤橘」は「四姓」という。「四家」とは言わない。
 武蔵のいう「四家」は、「家」の連想から召喚された語である。これは様々な分野の代表的四派を意味する「四家」であって、とくに何という特定のことではないのである。

 さて、公家、武家、四家〔四派〕、其家の破滅、家の存続という事、あるいは、その流、その風、その家などという。そこで、家ということから、大工の道にたとえるのである。――これが、武蔵の話である。
 かくして、士農工商のうち「工」は数ある中で大工に代表させるわけだが、これは普請(建設工事)という特別な業務が、兵法と関連するところからくる。なかでも、もっとも密接な関連は築城術である。
 しかも、武家の仕事は合戦と普請だという話もある。とすればすなわち、軍事技術(military engineering)と土木技術(civil engineering)は、ともに戦争から発生するのである。したがって、ここで武蔵が大工の話をするのは、兵法家として当然の話題ということである。
 しかしながら、とくと考えてみれば、兵法を大工の道に喩えて言おうとは、意外なことではある。ここは武蔵一流の皮肉もある。
 まず第一に、大工は建築・建設のテクノロジーであり、武士の兵法は、破壊と殺人のテクノロジーである。つまり武蔵は何と、破壊的(destructive)な技術を、建設的(constructive)な技術で譬えようというのである。正反対のものを、もっとも遠い者同士の間を、架橋する弁証法である。
 また第二に、これは、身分的には下の者によって上の者を説明するということである。通常は話は逆で、武士は支配階級として他の諸階級のモデルとされる。ところが武蔵は、それを逆転してしまう。武士のモデルが大工なのである。したがって武蔵の言説実践は、云うならば、ここでも、転覆的(subversive)である。
 武士は大工の隠喩で語られる。この隠喩としての大工の背景には、少なくとも十七世紀前半の高度成長期の全国的建設ブームで建設業が異例の脚光を浴びた状況があるかもしれないし、また武蔵の好みもあるかもしれない。つまり武蔵には、兵法家としての築城術や、あるいは町割という都市計画、作庭など造園術といった事蹟伝承があるからだ。
 もう一つ、注意されるのは、《師は針、弟子は糸となつて》とあるところ、この針糸の比喩は、糸の導き手としての針というところからきている。さらにいえば、兵法/大工の比喩が男性的であるのに対し、この針糸の比喩は意外にもフェミニンなものである。そういう五輪書の記述特性も見落としてはなるまい。

 最後に一つ確認しておけば、上述の通り、本条末尾のこの部分は、大工にたとえるという話なので、次条との区分が曖昧である。というか、むしろ、編集段階で関連のある断簡をここへ編入したものである。
 もともと地之巻の相当部分は完成稿として遺されたものではなく、草稿であった。それゆえ、武蔵から本書草稿を遺贈された寺尾孫之丞は、原稿を編集する必要があったのである。いづれにしても、地之巻はもともと完成稿ではなく、あちこち未完成部分を遺している。このことは、「武蔵は五輪書を完成して死んだ」とは決して言えない、ということを意味する。このあたり、誤解のないように注意しておきたい。   Go Back






吉田家本 当該箇処







蘇軾像


蘇軾 赤壁賦 故宮博物院蔵




姫路城天守閣



真柴久吉公播州姫路城郭築之図
貞秀画 文久二年




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