宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 峯  均  以  後    Back 
以上で、『峯均筆記』の読解は一通り終ったのだが、立花峯均以後の当流伝系がいかなるものであったか、それを附記しなければ我々の任務は終りそうにない。肥後系の武蔵流諸派に対し、この筑前系の武蔵流兵法末孫はどのようにして存続したか、その伝系はいかなる経路を辿ったか。それを、現段階での我々の知見の範囲で、明らかにしてみたい。言い換えれば、これは本書『峯均筆記』を遺した立花峰均への報告のようなものかもしれない。貴殿の播いた伝系の種はここまで存続しましたよ、という報告である。そういう趣旨から、ここでは、『峯均筆記』の――もしくは寧拙本『南方録』の――例に倣い、我々の峯均筆記読解への「追加」を設け、附録論文を上掲することにした。題は文字通り「峯均以後」である。

 すでに見たように、享保七年(1722)正月十七日、立花峯均は門弟三人に一流相伝した。このとき峯均から相伝された三人とは、甥の立花勇勝と種章。それに、桐山丹英である。彼らについては、前に述べてあるので重複になるが、ここで再度整理しておく。
 甥の勇勝〔たけかつ〕と種章〔たねあきら〕は、『峯均筆記』に記すように、峯均の弟・立花重躬の長男と次男である。勇勝(1698〜1762)は 享保二(1717)、二十歳のとき父重躬の家督のうち八百石を継いで黒田継高に仕え、無足頭。五十五歳のとき致仕して隠居、号流水。この流水号の勇勝の方は、南坊流の茶の湯を継承している。こちらは峯均からではなく、立花実山(重根)の弟子・笠原道桂(勝久)からである。勇勝は立花一族に兵法と茶の湯を伝えた人といえる。宝暦十二年(1762)歿。立花勇勝が峯均から一流伝授された享保七年(1722)には、二十五歳である。
 次に、弟の種章(1701〜70)は初名大八、重貞。立花弥兵衛重直の養子になって平七、のち改増寿〔ますなが〕。種章は幼年の頃から、伯父の峯均に二天流剣術を学び、二十二歳のとき相伝(薦野氏系譜に二十一歳とあるは誤り)。また大坪流馬術を学び、二十二歳のときこれも免許皆伝。享保九年(1724)、二十四歳のとき養父・弥兵衛重直の家督千三百石を継いで黒田継高に仕え、さらに継高の嫡子・重政に仕えた。六十一歳とき致仕して隠居、号随翁。明和七年(1770)歿。種章が峯均から一流伝授された享保七年(1722)には、上記のように二十二歳。峯均が吉田実連から譲られた五巻の書(五輪書)は、種章に託されている。
 それから、最後の第三の人物は、桐山丹英〔あきひで〕。黒田二十四騎の一人・桐山丹波孫兵衛信行(1554〜1625)の子孫である。立花家と桐山家とは、前に話に出た小河権太夫(露心)の小河家を介して姻戚もあったが、桐山とは親戚というほどの関係ではない。むしろ享保当時、子孫の桐山作兵衛丹英(1688〜1740)が、立花増直(五千石中老)には従兄にあたるという縁がある。増直は、立花峯均の従兄・増能の養子になった人で、藩政中枢の役目を通じて丹英と増直が親しかった。
 その桐山丹英は黒田継高に重用され、御納戸頭として藩政中枢において短期間ながら権勢をふるったが、享保14年失脚した。桐山丹英が峯均から兵法伝授されたのが、享保七年(1722)だから、これはその七年後ということになる。

 さて、ここでの本題は、峯均以後ということである。
 峯均の相伝弟子の一人・桐山丹英に三男子あって、長子伊予之丞は早世し、二男が桐山孫兵衛丹誠(1718〜85)、三男は初名虎之丞、後に大助である。大助は丹羽理右衛門家へ養子に出て、丹羽五兵衛信英(1727〜91)、すなわち、後に武蔵伝記『兵法先師伝記』を書く人物である。
 この丹羽信英は父丹英に学んだが、遺言によって父の歿後、兄と共に立花増寿(種章)に入門して学び、相伝を受けた。その後、丹羽信英は故あって出奔し、諸国漂泊ののち越後国蒲原郡に寄寓。そしてついに筑前へ帰らず、その異郷で歿した。
 ところが信英は、同地で兵法指南して、越後に二天流の道統を遺した。したがって、筑前からすれば、丹羽信英の系統は傍系ということになろうが、遠い越後に当流伝播があったことは興味深い事実である。このあたりは、『兵法先師伝記』読解のページで詳述されるであろうから、ここでは省略する。
 また、峯均が相伝した甥の立花勇勝(増時)の系統は、おそらくたしかにあっただろうが、これは現段階では確認できない。勇勝は立花流水としてむしろ茶の道に名がある。今後の研究が待たれるところである。
 これに対し、筑前二天流兵法においては、種章(増寿・1701〜70)の系統が正系となって、以後立花一族のなかで明治まで存続して行くのである。すなわち、立花種章(増寿)→種貫→種純→種名→……という系統である。
 この伝系で、立花種章(増寿)の子・種貫(1724〜85)は、重要なポジションにある。種貫は、部屋住みが長かったが、宝暦十一年(1761)三十八歳、父増寿が致仕隠居して家督を嗣ぎ千三百石、弥兵衛を襲名。継高・治之に仕えた。以後、諸要職を歴任し、安永八年(1779)五十六歳のときいったん致仕退役を申請したが留任、治高・長嵩の代まで納戸頭を勤め、現役のまま天明五年(1785)病死した。享年六十二歳。
 こうしてみると、立花種貫は藩政中枢にあって有能な官僚であったようだ。その種貫が父・増寿(種章)に武蔵流兵法を学び、一流相伝されるのである。薦野氏系譜によれば、種貫は家父増寿に従って二天流剣術を学び、積年の功により、宝暦四年(1754)五月十九日、その奥旨を極めた証に五巻之書(五輪書)と先師玄信(宮本武蔵)伝来の「偃月刀」等を授けられたとする。「偃月刀」は、三国志の関羽が所持したという青龍偃月刀が有名だが、要するに、日本では薙刀のことである。すでに何度も話に出てきた例の武蔵伝来の薙刀である。
 ここで注意したいのは、薦野氏系譜には、増寿(種章)→種貫相伝の年を宝暦四年(1754)とすることである。しかるに、後にみるように吉田家本五輪書に継ぎ足された相伝証文(空辞)に見るかぎりでは、増寿(種章)が息子・種貫へ兵法相伝したのは、宝暦十三年(1763)十二月二十日で、九年の違いがある。薦野氏系譜の年記載には誤伝が多いこともあるが、これは、吉田家本五輪書の宝暦十三年を採るべきであろう。とすれば、種貫四十歳のときである。宛名も立花弥兵衛となっている。
 立花種貫には門弟が多かったと推測される。この種貫を嗣ぐのは、立花種純〔たねずみ〕。実父は家老の大音彦左衛門厚弘で、大音家子息から立花家に養子に入った人である。この系統が、明治まで存続したのである。なお、立花実山「岐路弁疑」(博多円覚寺蔵)の奥書に、立花弥兵衛種純所持とあり、とすれば、南坊流茶書にはとくにその名は見えないものの、種純も相当茶の湯に深く関わった者と思われる。
 注目すべきは、立花種貫や種純のあたりで、峯均を経由した武蔵流兵法伝承は、まことに黒田家中でも上級武士の担うものになっていることである。言い換えれば、武蔵流兵法は、いまや、保存すべき伝統文化事象となったかのようである。南坊流の茶の湯は、筑前ではいったん絶滅するが、それに対し、二天流兵法は、途絶が惜しまれ、連綿として続くのである。
 それゆえここで興味深いのは、立花種貫→立花増昆〔ますひで〕という伝系があったことである。増昆(1740〜1821)は、立花平左衛門増敬の息子で、上記立花家略系図に示すように、兄・増厚の養子になって家を継いだ。四千石の中老である。つまり、またまた上級武士というより、こんどは、老職クラスの重臣のご登場なのである。
 増昆は初名種賢、徳太夫、のち平左衛門で、立花本家ともいうべき平左衛門家の系統、すなわち峯均の長兄・重敬の子孫であり、重敬→重昌→増敬→増厚→増昆と次第する家系である。
 ただし流れは少し複雑で、平左衛門重種から重昌まで万石家老であったが、黒田綱政よる一連の粛清あり、重昌に至って失脚する。重昌の弟・徳太夫が継承を命じられ四千石中老で復活、これが立花平左衛門増敬である。増敬は、勘左衛門増直の子・次郎太夫を養子にして、これが家督して平左衛門増厚。増昆は父と同じように、兄の養子になったかたちで家を嗣いだわけである。
 系譜によれば、増昆は増敬の末男で、安永三年(1774)三十五歳、用人。天明三年(1783)兄増厚が死去して、四十四歳で家督相続して家老職。寛政五年(1793)五十四歳で退役、同八年(1796)五十七歳で致仕、隠居して号一樹軒。文政四年(1821)死去、享年八十二歳。
 立花増昆はまた茶人で号樹軒、俳号は秋水。いうなれば、立花重根(実山)・峯均(寧拙)ら、往時の立花家の文化的教養を受け継いでいる人である。諸書に立花樹軒・千鳥庵立花秋水・無事堂秋水皓山・一樹軒皓山とあるのは、すべてこの立花増昆である。
 ちなみに当時の俳人・蝶夢(1732〜95)は芭蕉の跡を追うて蕉風俳諧の復興をめざした出家だが、彼の「宰府紀行」に、明和八年(1771)筑前でこの秋水=立花増昆の別荘に招かれたときの交遊が記されている。《同行もおなじ流れを汲たれば、共にその道をかたりあひて》とあって、蝶夢も南坊流の茶を嗜んでいたらしい。
 ともあれ、立花種貫→立花増昆というの相伝は、いわば立花本家へ伝系の一端が移動したということだけではなく、黒田家中でも文化教養人として通った重臣が相伝者となったということを意味する。まことに筑前二天流は、教養ある上級武士あるいは重臣でなければ担えない、ある種貴族的でエクスクルーシヴな文化事象になったのである。
 このあたりは、峯均以後の、筑前二天流の興味深い特徴であるのだが、未開拓の研究分野ゆえ、従来だれも指摘した例がない。後学のために、ここで先鞭をつけておきたい。


*【筑前二天流立花派伝系図】

○新免武蔵守玄信―寺尾孫之丞┐
  ┌―――――――――――┘
  └柴任美矩―吉田実連┐
┌―――――――――――┘
└立花専太夫峯均┬立花権右衛門勇勝
        |
        ├立花弥兵衛種章
        |
        └桐山作兵衛丹英


*【立花家略系図】

○三河守増時┬吉右衛門成家
      |
      ├増利
      |
      ├重時―増成=増武
      |
      └彌兵衛増重┐
┌―――――――――――┘
├重興┬重常
|  |
|  └重貫―重武

├重種┬重敬┬重昌┌増厚
|  |  |  |
|  |  ├増敬┴増昆=増名
|  |  |
|  |  └重直=種章種貫
|  |
|  ├重根―道ロ―増一
|  |
|  ├増武 増成養子
|  |
|  ├峯均 断絶
|  |
|  └重躬┬勇勝―種時
|     |
├重友   └重貞 重直養子種章

└増弘―増能=増直┬増厚 増敬養子
         |
         └時弘=増栄

*【桐山家略系図】

○桐山丹波守丹斎―作兵衛利行―┐
 ┌―――――――――――――┘
 ├六兵衛利房―┬喜兵衛利重
 |      |
 └市郎兵衛一章└長左衛門利昌┐
 ┌―――――――――――――┘
 ├金兵衛利直―作兵衛丹英――┐
 |             |
 └六兵衛利貞―森作左衛門  |
 ┌―――――――――――――┘
 ├伊予之丞 早世
 |
 ├孫兵衛丹誠―六兵衛利永 召放
 |
 └丹羽五兵衛信英 出奔し越後歿


丹羽信英関係地図


*【筑前二天流立花派伝系図】

○新免武蔵守玄信―寺尾孫之丞信正┐
 ┌――――――――――――――┘
 └柴任美矩―吉田実連―立花峯均
 ┌――――――――――――――┘
 ├立花勇勝 増時 流水
 |
 ├立花種章 増寿 ┬立花種貫――┐
 |       |      |
 ├桐山丹英   ├丹羽信英  |
 |       |      |
 └中山伊右衛門 └林成章   |
 ┌――――――――――――――┘
 ├立花種純―立花種名……→種美
 |
 ├立花増昆―吉田経年
 |
 └白水重能

*【薦野氏系】
《種貫 享保九甲辰四月二十五日生。初名大八。宝暦十一辛巳二月十一日、襲父封千三百石、仕于継高公、治之公、為大組。同年三月四日改弥兵衛。同十二壬午五月九日、依命為陸士司、于時三十九歳。同年十二月二十日、為無足頭、明和二乙亥【乙酉】歳、継高公如例格為参勤在江都之時、種貫有于国勤仕扈従惣司代役、同三丙戌歳五月二十七日為仕官長。種貫平常委于心、従家父増寿学二天流剣術、依積年之功、宝暦四年丁亥【甲戌】五月十九日、極其奥旨、授五巻之書及於先師玄信伝来之偃月刀等、明和九壬辰六月二十二日、為城代惣司。安永八己亥歳六月十日伺退役致仕、同月二十七日蒙懇命、被留退役致仕亦勤之又至治高公代、天明二壬寅年十二月五日、為納戸頭、後至長嵩公之代同役勤之、赴江都依発病帰。于国再発病、天明五年乙巳六月二十九日卒。享年六十二。葬東林寺、法号二天斎静厳宗隠》

福岡御城下絵図 九州大学蔵
立花弥兵衛・甚兵衛の屋敷(本町)
福岡御城下絵図 安永6年


*【丹治姓畧系】
《増昆 初種賢、徳太夫、平左衛門。実増敬末男。元文五庚申歳十二月廿九日、今野村屋舗ニ而生。安永三甲午歳用人勤、三十五才。天明三癸卯歳、遺跡相続、家老職。于時四十四才。寛政五年職分退役、五十四才。同八丙辰歳致仕、于時五十七歳。改一樹軒。文政四辛巳歳正月廿四日卒。葬妙典寺。享年八十二。法名一樹軒皓山日寛居士。室名テル、立花勘左衛門時弘養女、実大塚十右衛門直澄女。安永六丁酉年十二月廿二日卒。葬妙典寺、享年三十八、法名玲瓏院妙節日延大姉。後妻名トク、大音伊織厚通[致仕晴宇ト改]女。天明八戊申歳八月十四日卒。葬妙典寺、享年三十、法名真月院有光日性大姉。後々妻立花甚兵衛厄介之女、実田中杢右衛門晴実女。天保十己亥八月十日卒。葬香正寺、享年七十四、法名寛寿院妙栄日久大姉》

*【宰府紀行】
《けふは何がしの別荘にまねかれける。その亭のかたへは松原深く引き入りて、一むら竹の奥に池ありて土橋をわたしたり。蔦かづら昼顔の這かゝれる、楊簀戸も山里のあるじ風にて、風情またいふかたなし。主人の茶道は堺の南之坊より伝えしとかや。同行もおなじ流れを汲たれば、共にその道をかたりあひて、
 世の人の捨ても古茶のにほひかな 桐雨
 すゞしからねど松の下かげ  秋水
と亭主ぶりあり》
 しかも、いっそう興味深いことに、ここで、峯均の師匠・吉田実連の本家筋から、吉田六郎太夫経年(1766〜1817)が登場することである。この吉田経年によって、現存吉田家本五輪書があると言える。その意味で、この人物についてみておく必要があろう。
 吉田経年は「六郎太夫」という先祖・吉田壱岐長利の名を負う、吉田本家の当主である。立花増昆と同じく、彼も五千石の中老、重臣クラスである。
 しかし、封建社会もミクロにみれば決して安定したものではなく、重臣クラスの家でも命運不定で転変があった。この吉田家にも、経年に至るまで、激しい浮沈があった。それを『吉田家伝録』の続編で跡づけることができる。
 すでに吉田実連のページで解説されているが、吉田家はこの黒田二十四騎の一人・吉田壱岐を祖とする。吉田実連は六郎太夫長利の弟・六郎左衛門利昌の系統で、実連は利昌の孫にあたる。実連と同世代の吉田本家当主は、吉田増年(1638〜1702)、黒田光之に仕え、家禄七千石の家老であった。
 この増年の子が吉田式部治年(1659〜1739)、黒田家中老で、前述のように吉田実連を知っていた人だが、彼が記した『吉田家伝録』には宮本武蔵に関する記事もあって、諸史料のうち比較的早期のもので興味深い。実は、この吉田治年が、吉田実連所持の五輪書を預かって、その後吉田本家にしばらく死蔵されていたのである。
 再録すれば『吉田家伝録』に吉田治年はこう書いている。――私は、もとより剣術の名を忌む。けれども、実連は吉田壱岐長利の末葉で親戚の人だったので、時々実連を屋敷に招いて、その術を習った。いま、過ぎし昔を思い出して、ここに、実連の勤功および剣術の伝来を略記するばかりである、と。
 もとより、治年が忌むというのは「剣術」ではなく「剣術の名」である。言い換えれば、剣術の名を忌むというのは、剣術の名声を憚る、という意味である。謙遜はしているが、この吉田治年、なかなか兵法やぶさかではなかったようである。そういうこともあって、吉田実連が柴任美矩から伝授されて所持していた五輪書が、吉田治年に託されたのであろう。
 吉田治年は晩年号竹翁、また節山。前述のように辛辣な藩政批判を語る「此君居秘録」の竹翁である。八十一歳で死ぬまで長老として藩政に忠告を入れたいわば御意見番であった。この吉田治年の叔母(父増年の姉妹)ろくが野村勘右衛門為貞に嫁して生んだ次女たけは、立花重根(実山)の妻であり、立花峯均には兄嫁にあたる、ということはすでに述べた。立花重根(実山)の妻のたけは吉田治年の従姉妹であった。
 治年の子の吉田六郎太夫栄年(1685〜1761)は、父の遺徳もあって順調な人生であったが、晩年は波乱があった。
 吉田栄年は、宝永五年(1708)二十四歳の時継高に出仕、つまり立花重根(実山)が失脚し峯均が流刑になるのと前後して、召し出されたのである。享保6年(1721)三十七歳、父治年が隠居、五千石家督相続が認められ、中老となる。享保八年(1723)三十九歳、江戸御留守居。この時名を六郎太夫に改む。同十二年(1727)四十三歳、家老昇格。それゆえ立花峯均が青木村の隠宅で武蔵伝記を筆記していたころ、吉田治年はまだ存命中で、栄年は出世の最中であった。
 勤仕の功労を賞され、元文三年(1738)には先知二千石を返され、計七千石。同五年(1740)には、黒田孝高以来の諱の「高」の一字を子孫までも与えられ、栄年は「高成」に改名、ということで、いわば双六のあがりを迎えた。延享二年(1745)六十一歳、隠居して五十人扶持を与えられ、総髪となって号雲遅幽洞。家督七千石は養嗣子・七左衛門保年が相続、老職就任。諱の「高」の一字は保年にも与えられ「高年」と名のった。
 吉田保年(1709〜79)は、栄年の実子ではなく娘の婿養子である。実父は、吉田治年の実弟・松本弥右衛門全久(1682〜1731)で、それゆえ、保年は栄年には従弟にあたる。ただし、保年は最初、嶋井六郎右衛門増重(1675〜1732)の婿養子になって嶋井与八増方。この嶋井六郎右衛門も吉田治年の実弟、したがって、保年は伯父嶋井の家へ婿養子に入ったのである。ところが事情があって、享保十四年(1729)二十一歳のとき、嗣子のない吉田栄年の養子に入り吉田七左衛門保年、三年後栄年の三女と結婚した。義父栄年が現役なので、しばらく嗣子として部屋住みだったが、元文元年(1736)二十八歳のとき、継高に召出され、二十人扶持合力米百五十石。――おそらく、松本弥右衛門の二男を、嶋井六郎右衛門の養嗣子とし、さらにまた吉田栄年の養嗣子とするについては、隠居の竹翁吉田治年の指示があったものと思われる。
 吉田治年の死後しばらく吉田家は順調であった。ところが、栄年六十七歳の宝暦二年(1752)、吉田家には災難が生じた。つまり、保年が《勤方思召ニ叶ハサル由ニテ》隠居を命じられたのである。家禄のうち二千石を没収され、また諱の「高」の一字も没収、そして家督は、栄年嫡孫の安次郎直年へ相続を命じられた。保年は姓名を町五助保年に改め、簀子町浜屋敷に幽居した。つまり、保年が強制的に隠居させられたが、その子・直年が家督を相続できた、というわけである。七千石マイナス二千石で、まだ五千石の家督である。
 ところが、それだけではすまなかった。この年九月、吉田一族が長州萩へ退去するという風説が流れた。このあたりは讒言があらわで、権力抗争における政治的陰謀めいてくるが、忠臣吉田氏は逆賊の汚名を着せられたわけだ。かくして保年は直年と共に閉門、さらに十月には直年が家禄五千石を没収され、ここに吉田一族は配流の罪人で無一物となった。老いた栄年は孫の直年とともに、立花次郎太夫預りとなり、その知行地・裏糟屋郡薦野村(現・古賀市薦野)に籠居、また保年は、矢野安大夫預りとなり、その知行地・那珂郡下梶原村(現・那珂川町下梶原)へ籠居、つまり配流地で監禁されたのである。ここに吉田家の命運も尽きたかと思われた。


吉田栄年・保年配流地

 しかしながら、配流から半年も経たない宝暦三年(1753)二月、吉田一族は赦免された。このあたりは事情不分明で、黒田継高のまことに軽率な処罰であったらしい。直年は召返され新知千七百石、栄年へは隠居料として二十人扶持を与えられた。しかし、保年にはまだ疑惑あったのか、籠居御免となって福岡城下に戻されたものの、福岡簀子町の吉田家下屋敷に屈居、翌年(1754)まで外方徘徊御免にはならなかった。保年は以後吉田久兵衛と改名した。直年には八百石加増あり計二千五百石、中老を命じられ、栄年には以前の五十人扶持を回復された。晩年運命の転変をみた栄年は、宝暦十一年(1761)、中風を病んで那珂郡下警固村の隠宅で歿、行年七十七歳。
 保年は、この宝暦十一年再び召出され、翌年再勤を命じられ、合力米八百俵。諱の「高」一字を再び与えられ「高年」を名のり名誉回復、保年五十四歳のときである。明和五年(1768)保年六十歳のとき致仕を願い出ていったん引退するが、翌年には継高からまた召し出され、同七年(1770)には治之から、「御称号」つまり黒田姓を与えられ、黒田久兵衛高年と号す。これは名誉回復以上の措置であり、先年の配流処罰への償いであろうか。同九年(安永改元・1772)六十四歳、当職御免を願い出る。保年の合力米を采地千石に改め、追って嗣子高年(直年)が家督相続の時、これを繰り入れるとのはからいである。つまり、直年は七千石にプラスこの千石で、八千石の家禄になる予定。安永二年(1773)保年六十五歳、隠退を願い出て、父栄年と同様隠居料五十人扶持を与えられ、惣髪となって吉田自観高年と号す。かくして、老後の安穏平和も約束されたかにみえた。
 しかるに、まさに同じ年の閏三月、直年は《御咎ニ依リ隠居》、家禄三千石を没収され、諱の「高」一字も没収された。このとき、保年も「御称号」つまり黒田姓を没収され、高年名は保年へ。隠居料五十人扶持も没収され、新たに与えられたのは二十人扶持。直年が隠居させられ、吉田家は経年へ相続を命じられた。保年は安永八年(1779)痰症の病募り遂に本復せず歿、享年七十一歳。最後に波乱があったと言うべきである。
 隠居させられた直年は、那珂郡警固村の下屋敷に退去。同年六月に、表糟屋郡久原村内の吉田家の立山、柳ケ原の茶屋に移り屈居。この柳ケ原は、かつて吉田栄年が、先祖之地・播州姫路の八代村の大歳大明神を、吉田家の産土神として勧進した土地である。直年がこの地に屈居する意味はそれである。直年の父母・保年夫婦はたびたびこの直年の閑室を訪ねてきた。こんな深山に老人が往来するのは難儀だろうと、同じ立山の内の民屋近い砥石の元という所に小斎を結び、そこに保年夫妻が来て止宿した。その後、直年もそこに幽居したという。


表糟屋郡久原村柳ガ原



*【吉田家略系図】

○┌八代内蔵允道重
 |
 └八代藤三郎道嵩―六郎左衛門道慶┐
 ┌―――――――――――――――┘
 ├六郎太夫長利┬与次
 |      |
 ├与三太夫  ├重成┬知年―増年┐
 |      |  |     |
 ├六郎右衛門 └利成└利安―利重|
 |               |
 ├九右衛門利直         |
 |               |
 └六郎左衛門利昌―利貞―実連  |
 ┌―――――――――――――――┘
 ├治年―栄年=保年┬直年=経年
 |        |
 ├嶋井増重    └直恒 経年実父
 |
 └松本全久 保年実父


*【吉田家伝録】
《私ニ云、実連十五歳ニシテ亡父ノ家禄ヲ受継グベキヨシ先君命ジ置ルヽト云ヘドモ、実連是ニ泥〔ナヅ〕マズ、若年ヨリ勤ヲ励、年々ニ官禄ニ進ミ、自カラ其身ヲ立テ、父ノ禄ニ倍スルコト、孝ノ大ヒナルモノナリ。又実連、柴任三左衛門美矩ヲ師トシテ、宮本武蔵玄信ノ二刀ノ術ヲ習練ス。武蔵ハ播州ニ生レ、中比豊前小倉ニ下リ、浪客トナツテ在留シ、後肥後熊本ニ行、細川越中ノ守忠利ノ扶助ヲ得テ、同所ニ没。武蔵劔術ノ名世ニ高シ。肥後ニ致ツテ、細川ノ家士寺尾孫之丞信正ニ其ノ術ヲ伝へ、寺尾又柴任ニ伝フ。柴任肥後ヨリ筑前ニ来ル。光之君采地ヲ賜ヒ、扈従命ジラル。実連、柴任ニ因テ劔術ヲ精ク伝授シ、且自カラ修練ノ功ヲ積デ、師祖武蔵玄信ノ正術ヲ覚悟ス。柴任、後故有ツテ仕ヘヲ致シ、播州明石ノ浦ニ幽居シ、薙髪シテ道隨ト号ス。予、素〔モトヨリ〕劔術ノ名ヲ忌ト云ヘドモ、実連ハ長利ノ末葉ナリシ故、時々実連ヲ招テ其ノ術ヲ習ヘリ。今、過シ昔ヲ思ヒ出テ、此〔コヽ〕ニ実連ノ勤功及劔術ノ伝来ヲ略記セル而已》

*【吉田家伝録】
《栄年、貞享二年乙丑之歳五月十一日[庚午ノ日]辰ノ初剋、筑前早良郡福岡御城三ノ郭北西ヨリ二番ノ屋敷ニ生ル[生土神福岡西町鳥飼八幡宮]。父ハ吉田式部治年、母ハ久野仁右衛門一貞ノ女ナリ[一貞ノ伝ハ治年妻ノ章ニ出]。初名牛之助ト称ス。元禄十一年戊寅之歳五月五日栄年[十四歳]御舘大書院ニ於テ、綱政君ニ拝謁ス。同歳十一月十一日始テ介冑ヲ着ス。元禄十三年庚辰ノ歳栄年[十六歳]八月朔日半元服、同十六年癸未ノ歳九月朔日[今年栄年十九歳]元服。宝永五年戊子ノ歳五月十日[二十四歳]、綱政君御用勤命シラレニ十人扶持御合力米百五十石賜フ。翌日命ニ依テ名又助ニ改ム。同歳六月十一日婚嫁ス[妻ハ高木作太夫宗輔ノ長女、今年十六歳]。享保六年辛丑ノ歳三月十一日父治年願ニ依テ隠居、栄年へ家禄五千五十七石三斗六升弐合ノ地ヲ賜フ。継高君中老命シラル。享保八年癸卯ノ歳[三十九歳]江戸御留守詰命セラル。此時名六郎太夫ニ改、同十二年丁未ノ歳八月十四日[四十三歳]継高君家老命シラル。同十五年庚戌ノ歳七月十七日当職命シラル。元文三年丁巳ノ歳五月五日御居間ニ召サセラレ、天災ノ節御国家浮沈ノ砌精力ヲ尽相勤ルニ附、只今ニ至御政事折合御唱宜段聞召サレ、御感悦遊ハサレ候。其上父竹翁在勤ノ内、道祥様[長清公]仰談シ置レタル次第モ有之、旁此節先知二千石返シ下サルゝ由命ヲ蒙ル。元文五年庚申ノ歳春、惣髪相願、同歳八月廿一日、継高君御前ニ召出サレ、年来精ヲ出相勤御政事折合去年ニ至、家中平等ニ御扶助有之、江戸表上方其外ニテモ子ノ年大変以後御唱宜御満悦遊ハサルヽニ附賞セラレ、御諱ノ高ノ一字子孫マテモ下シ賜ヒ、御脇指[信国]御手自賜、則高成ニ改ム。延享元年甲子ノ歳十一月三日願ニ依テ当職御免[在役ノ間十五年]、同二年乙丑ノ歳[六十一歳]十月四日願ニ依テ退隠、五十人扶持賜フ。乱髪トナリ雲遅幽洞ト号ス。家禄七千石余嗣子七左衛門高年ニ賜ヒ、直ニ職分命シ置ル。宝暦二年壬申ノ歳六月十一日、高年へ当職命シ置レシ処、勤方思召ニ叶ハサル由ニテ押テ隠居、拝知ノ内二千石減シラレ、御諱ノ一字召上ラレ、嫡孫安次郎直年へ相続命シラル。同歳十月四日、直年、御咎ニヨリ拝知召放サレ、此時栄年ハ直年一所ニ裏糟屋郡薦野村へ屈居、同三年戊酉ノ歳二月廿日召返サレ、直年へ知行千七百石余賜ヒ、栄年へ隠居料トシテ二十人扶持賜フ。同四年甲戌ノ歳直年へ八百石加増、中老命シラレ、栄年へ五十人扶持再ヒ賜フ。宝暦十一年辛巳ノ歳十一月二十日中風ヲ病ンテ、那珂郡下警固村ノ隠宅ニ没ス。行年七十七歳》

*【吉田家伝録】
《保年、宝永六年己丑ノ歳六月二十二日、鞍手郡直方ニ生ル[生土神直方多賀宮。実ハ松本弥右衛門全久ノ二男、母ハ全久ノ前妻ニテ、全久ノ養父松本弥右衛門全延ノ女ナリ。松本ノ伝ハ増年ノ子孫末葉之両章ニ出ツ]。幼名松本安之丞ト称ス。始メ嶋井六郎右衛門増重ノ養子トナリ、嶋井与八増方ト号ス。享保十四己酉ノ歳六月二十九日[二十一歳]吉田栄年ノ養子トナリ、同歳七月七日吉田七左衛門保年ニ改メ、継高君ニ拝謁ス。(中略)延享二年乙丑ノ歳十月四日養父栄年願ニ依テ隠居、保年[三十七歳]父ノ家禄七千五十七石三斗六升弐合ノ地、相違無ク継高君賜フ。直ニ家老命シラル。寛延二年己巳ノ歳五月二十八日保年[四十一歳]継高君当職命シラル。宝暦二年壬申ノ歳六月十一日保年[四十四歳]勤方思召ニ叶ハサル由ニテ押テ隠居、御諱ノ一字ヲモ召上ケラレ、家禄ノ内弐千石減セラレ、嫡子安次郎直年へ家督命シラル。此時保年姓名ヲ町五助保年ニ改メ、簀子町浜屋敷ニ幽居ス。同歳九月四日長州萩へ家内引越風説之レ有ル由ニテ、安次郎直年ト倶ニ閉門、同歳十月四日直年拝知召放サレ、保年那珂郡下梶原村へ籠居。同三歳戊酉ノ年二月二十一日籠居御免、福岡簀子町ノ下屋敷ニ屈居シ、同四年甲戌ノ歳外方徘徊御免、以後吉田久兵衛ニ改ム。同十一年辛巳ノ歳七月二十日保年[五十三歳]継高君召出サレ拝謁、同十二年壬午ノ歳四月七日保年[五十四歳]再勤、当職命シラレ、御諱ノ高ノ一字再ヒ賜ヒ、御合力トシテ米八百俵下サル。則実名高年ニ改ム。明和五年戊子ノ歳十一月六日高年[六十歳]願ニ依テ当職御免[在職ノ間七年]、同六年己丑ノ歳九月三日継高君又当職命シラル。同七年庚寅ノ歳十二月十五日治之君御称号并ニ三原ノ御刀ヲ賜フ。是皆高年漸々老衰情力及難キニヨツテ頻リニ致仕ヲ請ト雖トモ、許容シ玉ハズ。故ニ斯ノ如ク称誉ヲ加ラレシナリ。依テ黒田久兵衛高年ト号ス。同九年[安永改元]壬辰ノ歳七月二十一日、高年[六十四歳]願ニ依テ当職御免[在職ノ間四年]。御合力米ヲ采地千石ニ直シ、追年嗣子弾番高直、家督ノ節結ヒ賜ハルヘキ由命シラル。安永二年癸巳ノ歳三月十七日、高年[六十五歳]願ニ依テ隠退、五十人扶持ヲ賜フ。惣髪トナリ吉田自観高年ト号。同歳閏三月十四日、弾番高直御咎ニ依リ隠居、三千石減シラレ、御諱ノ一字召上ケラレシ時、自観へ下シ置レシ御称号并ニ五十人扶持召上ラレ、新タニ二十人扶持賜ヒ、実名保年ニ改ム。同八年巳亥ノ歳ニ至リ連々ノ痰症ノ病募リ、遂ニ本復セズ、同歳八月五日御城三ノ郭西御門外[下ノ橋]堀端西一番ノ屋敷ニ没ル。享年七十一歳》


*【吉田家略系図】

○┌八代内蔵允道重
 |
 └八代藤三郎道嵩―六郎左衛門道慶┐
 ┌―――――――――――――――┘
 ├六郎太夫長利┬与次
 |      |
 ├与三太夫  ├重成┬知年―増年┐
 |      |  |     |
 ├六郎右衛門 └利成└利安―利重|
 |               |
 ├九右衛門利直         |
 |               |
 └六郎左衛門利昌―利貞―実連  |
 ┌―――――――――――――――┘
 ├治年―栄年=保年┬直年=経年
 |        |
 ├嶋井増重    └直恒 経年実父
 |
 └松本全久 保年実父
 さて、直年が隠居させられ、家督を嗣いだのが、前に名が出た吉田経年(1766〜1817)。経年は直年の甥、保年の孫である。経年の実父は斉藤杢直恒(1741〜96)、吉田保年の息子で、斉藤与左衛門直茂の養子になった人である。家禄五百石、馬廻組。
 経年は長男だったが、安永二年(1773)吉田直年隠居のさい、父の実家を相続することを命じられた。すなわち、家禄は三千石没収されたものの五千石、経年は中老に加えられた。しかし、このとき経年はわずか八歳の児童安吉である。この相続が吉田家にとっていかに非常事態であったか、知れようというものである。祖父保年夫婦が同居して後見していた。経年の元服は相続から十年後の天明三年(1783)十八歳のときで、このとき六郎太夫経年と名のるようになった。
 吉田経年の勤仕はほぼ順調で、前代までのような波乱はない。ここでの話は、この吉田経年が武蔵流兵法を学んで兵法伝授をうけたことである。これは、吉田家本五輪書空之巻に継足された相伝証文写しにある立花増昆の跋文(寛政四年・1792)によって知れるところであり、また現存吉田家本五輪書の由来も知れるのである。
 この跋文によれば、吉田経年は立花種貫の門弟になって修行していたが、途中で種貫が死んでしまったとある。立花種貫は天明五年(1785)六月二十九日に歿、つまり吉田経年が二十歳のとき種貫が死去しているから、吉田経年は十代のころ立花種貫に入門していたことになる。
 種貫没後も、吉田経年はその志を失わず、白水與左衛門重能を招き、しはしば鍛練に勤めたというから、この白水〔しろうず〕與左衛門は、黒田家家臣で知行百五十石(安永分限張)、大塚藤實(藤郷秘函)によれば、立花弥兵衛の弟というから、世代からしてたぶん立花種貫の弟であろう。つまり、立花増寿の息子で、白水家へ養子に出た人らしい。我々の知見はそこまでで、詳細は後学の研究を待ちたい。
 とにかく吉田経年は、この白水を自邸に呼んで二天流兵法の修行をずっと続けていたようだから、筑前二天流でも早川系ではなく、立花系に属するわけである。そうして寛政四年の冬、吉田経年が立花増昆のもとを訪れる。このとき、立花増昆は立花本家の当主で四十六歳、吉田経年は吉田本家の当主で二十七歳である。両者が四〜五千石クラスの中老であることは前に述べた通り。増昆は安永八年(1779)四十歳のとき、立花種貫から一流相伝を受けていた。
 吉田経年が立花増昆を訪れたとき、文書一箱を持ち込んだ。その文書はなんと、柴任美矩が吉田実連に与えた五巻之書(五輪書)一式であった。それは、経年の先祖・吉田治年が預かって、そのまま篋底に埋もれていたものであった。そのように偶然吉田本家に保管されていた五巻之書(五輪書)を、当主の吉田経年が発掘したものらしい。実連死後八十三年たって、吉田経年は立花増昆のところへそれを持ち込んだ、というわけだから、話はまさにドラマティックである。
 すでに述べたように吉田実連は、延宝八年(1680)播州明石で柴任美矩から兵法伝授された。入門以来それまでに二十六年かかった。吉田経年が持ち込んだ五輪書の五巻それぞれに日付けが違う。それらの年月は吉田実連の長い修行の軌跡を示す。最も早い水之巻は、明暦二年(1656)閏四月十日の日付で、吉田実連十九歳のときである。
 吉田経年が立花増昆のところへ持ち込んだ五巻之書(五輪書)は、むろん立花増昆は未見のものである。というのも、立花増昆が得ているのは、武蔵流兵法5代立花峯均を経由した五輪書である。これに対し吉田経年が所持しているのは、四代吉田実連止まりのもので、峯均以前の古い五巻之書である。つまり、

 ○新免武蔵守玄信→寺尾孫之丞┐
    ┌――――――――――┘
    └柴任美矩→吉田実連┐…(吉田治年)……… 吉田経年
              |
              └立花峯均→種章→種貫→立花増昆

 こうしてみると、吉田経年は、たまたま家に伝来保管されていた、吉田実連所持の五巻之書を、吉田家当主として所有しているにすぎず、云うならば、兵法に無縁の兵法書コレクターと同じポジションなのである。そこで、吉田経年が立花増昆に依頼したのは、自分は立花種貫から教えを受けたが、師匠はすでに死去しているので、立花増昆から兵法伝授されたし、ということである。
 吉田経年は、来年の「東武旅行」、つまり主君黒田治之の江戸参勤に随行することになっている。それで、立花増昆は、師匠の種貫卒し、林成章は病に臥せっている、《予人がましといへど》――厚かましいけれど、自分がすぐにでも伝授しよう、と引き受けたのである。
 これをみると、本来なら林成章という人物が兵法伝授の適任者であるような話で、それゆえ、この人物は立花弥兵衛増寿の弟子の林七郎右衛門であろうが、目下のところ不詳である。これも宿題とし、今後の研究を待ちたい。
 ところで、通例なら、立花増昆が自分が立花種貫から授与されて所持する五巻之書(五輪書)を書写して、また寺尾孫之丞以来の相伝証文(空辞)も書写し、それに自分の空辞を記して、それを吉田経年に与える、というかたちである。
 すなわち、吉田経年が吉田実連所持の五巻之書を保有しているとしても、それは言わば当流の歴史資料であるから、それはそのまま吉田経年が所蔵しておけばよい。それとは別に、立花増昆→吉田経年の相伝を示す五巻之書を新調して与える、それが普通のやり方であろう。
 ところが、このケースでは違った。つまり、吉田経年が立花増昆のところへ持ち込んだ吉田家所蔵の五巻之書を、そのまま生かすことにした。吉田実連以後の空白を埋めるかたちで、相伝証文(空辞)を列ねたものを立花増昆が、空之巻巻末に継ぎ足して、それを吉田経年に与える=返す、という処置法をとったのである。
 かつて吉田実連から立花峯均へ与えられて、以後数代を経由して伝写され立花増昆のもとにある五巻之書、しかしこのとき出現した柴任美矩→吉田実連の五巻之書の史的価値を認識したうえで、立花増昆は、いったん死物と化したこの文書に再び生命を与えた。
 このようなやり方は、なかなか道理の分かった処置である。というのも、このケースでは、授与はすなわち返却でもあった。武蔵流兵法は、吉田実連から立花峯均へ伝授されて、この立花増昆に至る。立花増昆から吉田経年に一流相伝するということは、立花氏から吉田氏へ返却することでもある。
 このあたりの経緯は、立花氏と吉田氏の本家当主同士の交流ぶりを示すところで、興味深いシーンである。しかしながら、この場面から距離を措いてみれば、これはいささか両家の文化伝承に傾いた振舞いで、もはや実戦的兵法の相伝伝授という次元ではない。言い換えれば、ここでは二天流兵法は、茶の湯と同じ文化事象なのである。

*【吉田家伝録】
《経年ノ実父ハ斉藤杢直恒[馬廻]ノ長男ニシテ、母ハ頭山左仲[馬廻]ノ女ナリ。初名安吉。[斉藤杢直恒ハ、吉田久兵衛保年ノ八男ナリ。養父与左衛門直茂ノ養子トナリ、安吉誕生ノ時、祖父保年幼名ヲ撰ベタルヨシ]。経年、明和三丙戌ノ歳十月二十二日[己未ノ日]辰ノ上尅、筑前早良郡荒戸通町、北側西ヨリ七番ノ屋敷ニ生ル。安永二癸巳ノ歳閏三月十四日、吉田弾番直年押テ隠居命シラレシ時、甥経年ハ血族タルニヨリテ、其節相続命シラレ、拝禄ノ内三千石減シラレ、五千八十弐石賜ヒ、治之君中老ニ加ヘラル。此時安吉八歳。安永五申ノ年四月二十四日御目見ノ願指出セシ処、同年五月五日治之君ニ拝謁ス。安永九年子ノ十一月十五日、額直シ致シ度トノ願差出セシ処、願ノ通仰出サル。天明三年二月朔日、前髪執リ名六郎太夫ト改度トノ願差出セシ処、願ノ通ニ仰出サル。故ニ同月二十三日ニ元服ノ式ヲ行ヒ、六郎太夫経年ニ改ム》


*【立花増昆跋文】
《二天流の兵書、地水火風空五巻ハ、新免玄信居士により、寺尾孫之允信正、柴任三左衛門美矩に傳り、美矩より吉田太郎右衛門實連に与へし書五巻、貴家の高祖父式部治年丈所持ありて、代々傳ふといへども、只筐底に埋れぬ。しかるに、貴子執心ありて、同氏弥兵衛種貫が門に入り、執行なかば、種貫卒しぬ。されど其志を失ハず、今以てかの教を護り、猶白水與左衛門重能を招き、しば/\練り煅へり。明年東武の旅行に臨ミ、家に傳ふる書一箱を携来り、ふかき心ざしの旨趣聞へければ、予、人がましといへど、種貫卒し、林成章ハ病臥せり。仍て、この奥儀を傳へんことを約し、筆を執て、実連が同氏巌翁峯均につたへし空の意、同随翁増壽、同宗隠種貫、某々の空意を左に書寫しつらねて、正統の傳を授け、その奥に予が意を跋し侍る也。
  寛政四子年冬    立花増昆[印]
書 》








九州大学蔵
吉田家本五輪書










*【筑前二天流伝系図】

○新免武蔵守玄信―寺尾孫之丞信正┐
 ┌――――――――――――――┘
 └柴任美矩―吉田実連立花峯均
 ┌――――――――――――――┘
 ├立花勇勝 増時 流水
 |
 ├立花種章 増寿 ┬立花種貫――┐
 |       |      |
 ├桐山丹英   ├丹羽信英  |
 |       |      |
 └中山伊右衛門 └林成章   |
 ┌――――――――――――――┘
 ├立花種純―立花種名……→種美
 |
 ├立花増昆吉田経年 吉田家本
 |
 └白水重能

福岡城下古図 九州大学蔵
吉田六郎太夫(経年) 五千石
福岡城下古図 九州大学蔵
福岡御城下古図 文化年間
福岡城下古図 九州大学蔵
立花平左衛門(増昆) 四千石
 ところで、立花増昆が吉田経年に与えた相伝資料から、武蔵研究において重要な、ある事実が見出される。それは五輪書における空之巻の意味と機能である。
 しかるに従来、五輪書空之巻の受け取り方は、ここに武蔵流兵法の究極的な真理が説かれているとのことで、たとえばここに記されている「空」の意味を、それぞれ勝手に解釈して、それで、空之巻の意味を語ったつもりになっている。なかでも戦前から、武蔵が悟った兵法の究極的な真理が「万理一空」であるという、ある種のテーゼまで持ち出されて、それが武蔵参禅修行説と平行して戦後まで流通し流行していたこともある。
 しかしながら、すでに本サイトの[資料篇]五輪書読解に示されているように、武蔵の「空」概念は禅家のそれではなく、むしろ朱子の位相に近い儒家のものである。しかも、当時「空」という言葉が、兵法諸流で濫用されているほど通俗化していたわけで、奥義秘密などこの言葉にはない。空之巻に語られた「空」は、仏教のスコラ的教学を離れて、平明単純である。したがって、武蔵はこの「空」という言葉の秘密なき通俗性を利用して、これを相伝の道具もしくは契機としているのである。
 そうしてみると、空之巻の運用法というものがあるわけで、そういう運用法を知らねば、五輪書空之巻の意味もわからないのである。従来の空之巻読解がことごとく誤ってきたのは、空之巻のこの機能面を看過したためである。なかには、空之巻そのものが後世の捏造ではないか、などという珍説も出たが、それは空之巻の機能を知らない半可通の意見であった。
 されば、空之巻はいかに機能したか。それは云うまでもなく、「空」をツールとする伝承の再生産としてである。武蔵がなぜこの空之巻を設定したのか、それは、この「空」を伝えるためではなく、再生産させるためである。
 すなわち、立花増昆跋文が記すように、その相伝の具体的な方法は、吉田実連が立花峯均に伝えた空の意、そして峯均から立花増寿(種章)、種貫、某々へ伝えた空意を左に書写し列ねて、正統の伝を授け、その奥に自分の空の意を示す、というものである。つまり空之巻は、この空の意(空意、空辞ともいう)を師匠が弟子に提示することにより、武蔵の空之巻に対する各自の応答を再生産するためのツールなのである。
 この空之巻が五巻の書のなかでもまったく異質であるのも、この巻が読まれるべきものではなく、もっぱら相伝を挑発する作用を発揮するだけのためにあるからである。言い換えれば、武蔵は五輪書に空之巻を設定することにより、兵法末裔に、
     《おまえの「空」を示せ》
という宿題を与えたかたちである。ところが、「空」はそもそも意味を欠くゆえ「空」であって、言語化不可能で、実践的次元でのみ体得可能である。それゆえ、《おまえの「空」を示せ》という要求じたいが、ある種の不可能性の要求であり、禅家でいうところの公案のごときものとして機能する。
 なるほど、寺尾孫之丞が柴任美矩に出した相伝証文(吉田家本五輪書奥書)では、空之巻相伝の仕方がわかる。
 寺尾孫之丞は空之巻の所存を武蔵から聞かされていない。しかし、寺尾の云うには、「しかし私は、四冊の書(地水火風の4巻)の理を明らかに得道して、道理を離れたので、おのづから空の道に適った」と。一般には、最終の理を知らされずには相伝とは云えない。したがって、これはかなり興味深い相伝形態である。それとともに、空之巻相伝の仕方がいかなるものか、それが判明する。
 武蔵は空之巻の理を空白のまま残した。武蔵の遺志は、その空白としての空の意を自分で埋めてみろということだったと、寺尾孫之丞は理解したのである。しかも、その空白を埋めるのは、道理を離れることが空の道に相応することだと思い至った。地之巻には《すでに空という時は、何を「奥」と云い何を「入口」と云うのか、そんな区別などありはしない。道理を得てしまえば、道理を離れ自由になる》と述べられていたのである。
 道理を離れること――これは、武蔵が残した空白に対する寺尾孫之丞の解答である。そして寺尾孫之丞は、その弟子たちに、お前はこの空白をどう埋めるか、という問いを残す。寺尾の弟子は、自分はこう思い至ったと解答を記す。以下、流末各人がその都度、それぞれの証を提示する。
 この相伝方式は、武蔵に発するのではなく、寺尾孫之丞に発するものである。武蔵はたまたま、病のため、空之巻の理を寺尾孫之丞に明かさずに死んだにすぎない。しかし空之巻の理とは「空」にほかならぬことは、空之巻の内容が示すところである。それゆえ、空之巻の理を寺尾孫之丞に明かさずに死んだのは、みずから発明してみろという、まさに武蔵的な要求なのである。


*【吉田家本空之巻】
《二刀一流之兵法の道、空の巻として書顕す事。空と云心ハ、物毎之なき所、しれざる事を空と見たつる也。勿論、空ハなきなり。ある所をしりて、なき所をしる、是則空なり。世の中におゐて、悪ク見れバ、物をわきまへざる所を、空と見る所、実の空にはあらず。皆まよふ心なり。此兵法の道におゐても、武士として道をおこなふに、士之法をしらざる所、空にはあらずして、色々まよひありて、せんかたなき所を、空と云なれども、是実の空にはあらざる也。武士ハ兵法の道を慥に覚、其外武藝を能勤、武士のおこなふ道、少もくらからず、心之まよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二ツ之心をミがき、観見二ツの眼をとぎ、少もくもりなく、まよいのくものはれたる所こそ、実之空と知べき也。実之道をしらざる間は、佛法によらず、世法によらず、おのれ/\ハ、慥成道とおもひ、能事とおもへども、心之直道よりして、世の大がねにあわせて見ル時は、其身/\の心のひいき、其目/\のひずミによつて、実之道にハそむく物也。其心をしつて、直成所を本とし、実之心を道として、兵法を廣クおこなひ、たゞしくあきらかに、大き成所を思ひとつて、空を道とし、道を空とみる所也。
 正保二年五月十二日 新免武藏玄信
在判 
   寺尾孫丞殿 》


*【立花増昆跋文】(再録)
《二天流の兵書、地水火風空五巻ハ、新免玄信居士により、寺尾孫之丞信正、柴任三左衛門美矩に傳り、美矩より吉田太郎右衛門實連に与へし書五巻、貴家の高祖父式部治年丈所持ありて、代々傳ふといへども、只筐底に埋れぬ。しかるに、貴子執心ありて、同氏弥兵衛種貫が門に入り、執行なかば、種貫卒しぬ。されど其志を失ハず、今以てかの教を護り、猶白水與左衛門重能を招き、しば/\練り煅へり。明年東武の旅行に臨ミ、家に傳ふる書一箱を携来り、ふかき心ざしの旨趣聞へければ、予、人がましといへど、種貫卒し、林成章ハ病臥せり。仍て、この奥儀を傳へんことを約し、筆を執て、実連が同氏巌翁峯均につたへし空の意、同随翁増壽、同宗隠種貫、某々の空意を左に書寫しつらねて、正統の傳を授け、その奥に予が意を跋し侍る也
  寛政四子年冬    立花増昆[印]
書 》



*【寺孫之丞相伝証文】
《令傳受地水火風空之五卷、~免玄信公、予に相傳之所、うつし進之候。就中、空之卷ハ、玄信公永々の病氣に付テ、所存之程あらはされず候。然ども、四冊之書の理、あきらかに得道候て、道理をはなれ候へバ、おのづから空の道にかなひ候。我等数年工夫いたし候所も、道利を得ては道利をはなれ、我と無爲の所に至候。只兵法は、おのづからの道にまかせ、しづか成所、うごかざる所に、自然とおこないなし、豁達して空也。
実相圓満兵法逝去不絶。
是は、玄信公碑名にあらはしおかるゝもの也。能々兵の法を、可有鍛錬也。以上
  承應二年十月二日 寺尾孫丞信正
在判 》
 そうすると、寺尾孫之丞以下の武蔵流末各人が、空之巻に対していかなる空意の応答を提示したか、興味深いところである。楠家本五輪書等に文面類似の寺尾孫之丞相伝証文があるのだが、ところが、寺尾孫之丞以後となると、実は、筑前系の吉田家本にしか、その事例がないのである。
 それというのも、肥後系武蔵流兵法では、寺尾求馬助が伝授されたという簡略版の兵法三十五箇条が用いられ、そもそも五輪書の武蔵執筆さえ疑うところまで一時は行っていた。それには、寺尾孫之丞の伝系が廃れ、寺尾求馬助の伝系のみが繁栄したという状況があったからだ。肥後において五輪書が正当な処遇を受けるようになったのは、十八世紀後期のことである。
 寛保二年(1742)の著述である志方半兵衛(之経)の『兵法二天一流相傳記』には、武蔵の五巻の書は、「序地水火風」とあり、これすなわち一流の伝書なり、とするのだが、五輪書』五巻は、序・地・水・火・風の諸巻であって、空之巻の記載がない。つまり、十八世紀半ばには、五輪書から空之巻が消えていたのである。空之巻の所在認識がない以上、おそらく肥後系伝承では、武蔵流末各人が、空之巻に対して空意の応答を提示する、という慣習も消滅していたのであろう。
 これに対し、海外に出た日本人移民の子孫が父祖の古い日本語を保存しているように、肥後を離国した柴任美矩の伝系であるところの、筑前系武蔵流末には、この慣習が保全継承されたのである。このあたりは、文化伝承の法則の興味深い顕現であると云えよう。
 とすれば、柴任以下、武蔵流末各人が、空之巻に対していかなる空意の解を提示したか、それを以下に見てみたい。参考のために、現代語訳も付してある。
 まず、延宝八年(1680)、柴任美矩が播州明石で、吉田実連へ与えた相伝証文がある。これにより、筑前二天流が派生したのである。云うまでもないことだが、これは現存資料では吉田家本にしかない、空意の貴重な事例である。筑前系諸本はこれを写したものである。


*【武公伝】
《正保二年[乙酉]五月十二日、五輪書ヲ寺尾孫之亟勝信[後剃髪、夢世云]ニ相傳在。三十九ケ条ノ書ヲ寺尾求馬信行ニ相傳ナリ。同日ニ自誓ノ書ヲ筆ス。[五輪書序、武公奥書、孫之亟ヘ相傳書、自誓書、今豐田家ニ在リ]》

*【兵法二天一流相伝記】
《武蔵平日語て曰、「我六十余州廻国して望の者に伝ふと雖も、未信行の様なる弟子を得ず。空しく我道を失し事歎き思ふ所に、幸達人を得る事、是我道の天理に叶ふ故と悦び、一流の奥儀少も不残伝授し畢。門弟多き中に此道を伝ふる事、信行一人に限る」。太守光尚公へ、武蔵其旨を申上、則召出され、於御前兵法御覧遊され、其後御大切の御稽古にも度々御打太刀相勤、武蔵同前御前に相詰、御稽古の御相手に相成、数年相勤。然ども様子有て押立弟子を取、指南不致》
《(武蔵)六十歳の頃、兵法得道書を、当国城西の霊岩洞にて書顕。五巻[序地水火風]、是則一流の伝書なり》


  柴任美矩→吉田実連 相伝証文

武州一流至極之兵書五巻、寺尾信正ニ傳、我是ヲ請テ、三代之兵法ヲ次と云とも、未武州之心ヲ不得。然共、貴殿此道ニ志有テ、二十六年之間執行不絶。いやしくも我請ル所、一流一通令傳受可申、五巻ノ書不殘相渡也。於兵法ろくと云ハ、中立之位、しづか成事岩尾のごとく成テ、敵に發事、直通也。敵ニつく事なかれ。敵を爰に取テ、劔ヲ踏者也。
 
               柴任三左衛門
 延寶八年申四月廿二日  美矩[花押印]
 
           吉田太郎右衛門殿

   (現代語訳)

武州は当流の究極の兵書五巻を寺尾(孫之丞)信正に伝え、私はこれを受けついで、(武州以来)三代の兵法を継ぐといえども、いまだ武州の心(真意)を得ることができない。しかれども貴殿はこの道に志あって、二十六年の間たえず修行してきた。不相応にも私が受けついだところ、当流の一通りを伝受せしめ申すべく、五巻の書を残らず渡すのである。兵法においてろく(陸)というのは、中立の位であり、しずかなること、岩のごとくなって、敵に当ること、これが直通である。敵(の後手)につくことなかれ。敵をここに捕まえて、剣を踏むのである。
 
                 柴任三左衛門
 延宝八年(1680)四月二十二日   美矩[花押印]
 
            吉田太郎右衛門殿
 宛先の「吉田太郎右衛門」は、吉田太郎右衛門実連のことである。相伝は延宝八年(1680)四月二十二日とあって、実連43歳の時である。二十六年というから長い修行期間である。この点の経緯は、吉田実連のページに記されている。
 この相伝証文で、上述の空の意に相当するのは、《於兵法ろくと云ハ中立之位、しづか成事岩尾のごとく成テ、敵に發事、直通也。敵ニつく事なかれ。敵を爰に取テ、劔ヲ踏者也》の部分である。語彙からすると、五輪書諸巻が参照されているのだが、なかでも柴任が選んだのは、火之巻の「岩石の身と云ふ事」である。
 すなわち、いわお(巌・岩石)の身というのは、兵法の道を会得して、たちまち岩石のようになって、どんな場合でも、当らない、動かない、ということだ、と記されている部分である。ここには「口伝」とあって、むろんここには記さないが、それが柴任から吉田実連へ伝授された「X」である。
 ポイントは、《忽ち岩石の如くになつて》と《万事あたらざる所、動かざる所》の関連するところである。これについては、本サイトの五輪書読解のページにユニークな所見が披露されているので、それに譲ることにする。関心のある向きにはそれを参照されたい。
 これに対し、この相伝証文に記された、――兵法においては、ろく(陸・平衡不偏)というのは中立の位である。しずかなること岩のごとくなって、敵に当ること、これが直通である。敵に左右されることなかれ。敵をここに取って、剣を踏みしだくのである、というのは別の意味で面白い。
 この「剣を踏む」というのも、五輪書火之巻にあって、敵を決定的に征圧する先制攻撃の肝要を説く。したがって、空之巻に記された空に対する応答として、一見直接性を欠くものである。たとえば、寺尾孫之丞のケースだと、――道理を離れてしまえば、おのづから空の道にかなう。私が多年工夫したところも、道理を得ては道理を離れ、おのづから無爲の地点に到達した。ただ兵法はおのづからの道にまかせ、しずかなるところ、うごかざるところに、自然と振舞うようになり、豁達して空である、というわけである。
 寺尾孫之丞の空意の特徴は、五輪書地之巻「此兵法の書五巻に仕立る事」にある《道理を得ては、道理を離れ》という武蔵の言葉をふまえて、道理を離れた自由性、その無為自然を強調する。この老荘的無為自然への傾きが寺尾的である。
 しかしながら、柴任美矩の空の解は、空という言葉を使わずに、むしろ「ろく」(陸)という平衡を語り、寺尾が示した「しずかなるところ、うごかざるところ」を、より具体的な「いわお(巌・岩石)の身」の方へ牽引し、さらに「剣を踏む」というところまで持っていく。寺尾的抽象性は、柴任によって、先制攻撃というおそろしく具体的なイメージへ変換されている。
 このあたりのシフトの仕方、いわばその外し方は、柴任のユニークなところで、「空」に具体的身体を受肉させるのである。したがって、「空」をこんな風に語ってはいけないのではないかというのは、半可通の意見であって、武蔵の空が、こんな荒々しい戦闘機械としての身体という具体的様相をもつ、という柴任の空意は、なかなかもって十分工夫された解答なのである。
 さて、この柴任の空意を受けて、次世代はいかなる解を提示しうるであろうか。以下は、筑前二天流の諸師の空意の解である。また、これ以下は、吉田経年所持の五輪書にはもともとなかったもので、立花増昆が吉田経年に書写して与えたところの、吉田家本五輪書空之巻の附録、継ぎ足し部分にみられる文書である。

九州大学蔵
柴任美矩→吉田実連 相伝証文

*【五輪書】
《一 岩石の身と云ふ事  いわおの身と云ふは、兵法を得道して、忽ち岩石の如くになつて、万事あたらざる所、動かざる所。口傳》(火之巻)

*【五輪書】
《一 けんをふむと云ふ事  劔をふむと云ふ心は、兵法に專ら用ゆる儀なり。先づ大きなる兵法にしては、敵、弓鐵砲にてもはなしかくる時、我は其後にかゝらんとするによつて、敵は更に又弓をつがい鐵砲に藥をこめて撃出すゆゑ、こみ入がたし。我は敵の弓鐵砲を放つ内に、早くかゝるべし、と云ふ心なり。早くかゝれば、矢も番ふ暇なく、鐵砲をも撃出するいとま無く、敵何事をも施し得ざる心なり。物毎を敵のしかくると、其儘其の理〔利〕を受て、敵のする事をふみつけて勝つ心なり。又一分の兵法も、敵の打出す太刀の後へ打てば、とたんとたんとなりて、捗ゆかざる所なり。敵の打出す太刀は、足にてふみ付ける心にして、打出す所を勝つ。二度目を敵の打得ざるやうにすべし。ふむと云ふは、足にはかぎるべからず、身にてもふみ、心にてもふみ、勿論太刀にてもふみ付て、二の目を敵によくさせざるやうに心得べし。是れ則ち物毎の先〔せん〕の心なり。敵と一度にといひて、行當る心にてはなし、其まゝ後につく心なり。能く能く吟味有べし》(火之巻)
《第五、空の巻。此巻空と書顕す事、空と云出すよりしては、何をか奥と云、何をか口といはん。道理を得ては道理をハなれ、兵法の道に、おのれと自由ありて、おのれと奇特を得、時にあいてはひやうし〔拍子〕を知り、おのづから打、おのづからあたる、是ミな空の道也》(地之巻)


  吉田実連→立花峯均 相伝証文

武州一流之兵法、依御執心、先師已來被傳置趣、不殘令相傳、至極之兵書五卷、渡進候。空は、無にして有なる事、勿論也。ろくハ、かたよる心なく、汚たる意味之なきを、兵法之空と云べき也。已上
 
 元禄十六年未五月廿八日
            吉田太郎右衛門実連
                      在判
 
         立花専太夫殿
   (現代語訳)

武州一流の兵法、(貴殿が)ご執心により、先師(武州)以来、伝えられてきた趣旨を残らず、相伝せしめ、究極の兵書五巻をお渡しする。空は、無にして有なることは勿論である。ろく(陸・平衡不偏)はかたよる心なく、汚れたる意味のないのを、兵法の空というべきである。以上
 
 元禄十六年五月二十八日 吉田太郎右衛門実連
    (1703)                      在判
 
           立花専太夫殿
 宛先の「立花専太夫」は、立花専太夫峯均のことである。つまり、本件の『峯均筆記』の筆者である。相伝は元禄十六年(1703)五月二十八日とあって、峯均三十三歳の時である。峯均は二十一歳のとき吉田実連に入門しているから、足かけ十三年の修行期間を経て、一流相伝を得た。この点の経緯は、立花峯均「自記」読解のページに述べられている。
 ここでまず、「武州一流の兵法」とあるのは、武蔵流兵法というほどの意味である。この「一流」の用法は五輪書各巻に準拠したもので、現代語の一流、二流という等級づけの意味とは異なる。我が流派、当流、という意である。また、貴殿ご執心により相伝するというのは、だいたいどの流派でも常用する決まり文句である。「ご執心」というのは、つねに兵法修行を心にかけて熱心に求めるということである。
 この相伝証文で、上述の空の意に相当するのは、《空は無にして有なる事勿論也。ろくハかたよる心なく、汚れたる意味之なきを兵法之空と云へき也》の部分である。使用語彙から判断すると、先の柴任美矩空意にみえる、「ろく」に応答しているようである。
 しかし、寺尾孫之丞のオーソドックスな解に対し、それをシフトして「ろく」からさらに、「剣を蹈む」までもっていくという柴任の奇手からすれば、これはまことに優等生の解答である。
 つまり、ろく(陸・平衡)は偏った心なく、汚れた意味のない、つまり清浄なところを、兵法の空というべきである、となると、あまり面白味がない話で、武蔵が仕掛けた一種の公案レベルに対する応答にはなっていない。寺尾孫之丞はオーソドックスな解を示したが、こちらの吉田実連の空意は優等生風である。師匠の柴任とは違って、彼の生真面目な性格がよく現れている。
 ただ、注意すべきは、この解答のシンプルな形式そのものが暗示する背景である。武蔵の空について、それが筆舌に尽しがたいことは、吉田実連は十分承知している。それゆえ、この公案解答ゲームに対し、多くを語らない。その饒舌でない実連の、節度ある寡黙というスタンスを看過してはなるまい。
 さて、次を見てみよう。どんな解が提示されるか。


吉田実連→立花峯均 相伝証文写



*【五輪書】
《一 岩石の身と云ふ事  いわおの身と云ふは、兵法を得道して、忽ち岩石の如くになつて、万事あたらざる所、動かざる所。口傳》(火之巻)


  立花峯均→立花増寿 相伝証文

先師以來相傳之兵書、地水火風空都而五巻、予不肖之身たりといへども、此兵法を吉田實連に受て、すでに五代たり。幸に、猶子重貞其器たるに依て、一流一通令傳授、實連より予相傳ふ所之自判之兵書五巻、直に相譲候。聊親疎之二邊に堕せず。就中、空之巻におゐて、先師達其意を顕し置るゝといへ共、深理妙慮ハ言葉にわたらず、筆に及ばず、意より意に傳ふ。直通すなハち空、々即直通也。われこゝに至て毫を抛也。
 
 享保七年寅正月十七日 立花専太夫峯均
                   法名
                     廓巌翁
                        在判
 
         立花平七殿
   (現代語訳)

先師(武州)以来相伝の兵書、地水火風空の合計五巻(五輪書)。私は不肖の身であるといえども、この兵法を吉田実連から受けついで、すでに(武州以来)五代である。幸いに猶子*重貞(種章)はその器たるによって、当流の一通り伝授せしめ、実連から私が相伝したところの、自判の兵書五巻を、直ちに譲る。いささかも親疎の二極に堕さず、なかんづく空之巻において、先師たちがその(空の)意を明らかにされている。とはいえ、深い理、微妙な思慮は、言葉で言い表せず、筆に書き表せず、意から意に伝達される。直通すなわち空、空即直通である。私はここに至って筆を投げるのである。
 
  享保七年(1722)正月十七日 立花専太夫峯均
                        法名
                          廓巌翁
                             在判
 
           立花平七殿
 これは立花峯均の相伝証文である。宛先の「立花平七」は、立花種章、のちの弥兵衛増寿である。平七は弥兵衛を名のる以前の通称である。本文中に「猶子重貞」とあるのは、立花種章のことだが、猶子というのは養子の意ではない。このケースでは親族の子という意味で、じっさい種章は立花峯均の甥である。また名が重貞とあり、これにより、弥兵衛以前に平七重貞を名のっていたと知れる。
 つまりは、種章は、立花権右衛門重躬の二男で、立花弥兵衛重直(1675〜1759)の養子となって、弥兵衛家を相続した。平七は弥兵衛家の初名であり、この享保七年当時、種章は立花平七重貞である。家督は享保九年だから、この二年後である。
 既述のように、立花峯均は同時に三人の門弟に兵法伝授した。一人は立花勇勝、つまりこの「立花平七」の兄である。もう一人は、桐山丹英。そしていま一人が、この「立花平七」つまり立花増寿である。相伝は享保七年(1722)正月十七日とあるから、峯均は五十二歳、増寿二十二歳の時である。三歳年上の兄・勇勝と同時相伝だから、種章はおそらく兵法は兄と遜色ない、むしろ兄より上手だったかもしれない。
 立花峯均の相伝証文で、上述の空の意に相当するのは、直通すなわち空、空即直通、とする部分である。使用語彙から推察するに、先の柴任美矩空意にみえる、「直通」に応答しているようである。
 かろうじて吉田実連と関連しそうなのは、《聊親疎之二邊に堕せず》、つまり、いささかも、プラスとマイナス、ポジティヴとネガティヴの両極に堕すことなく、というところで、これは吉田実連が出した「ろく」に相応する意である。しかし、この平衡公平としての「ろく」は、すでに柴任美矩が、兵法においては、「ろく」というのは中立の位である、と明言していたのだから、峯均が《聊親疎之二邊に堕せず》と記すのは、柴任のいう中立の位としての「ろく」に応答したものである。
 こうしてみれば、立花峯均の空意の解が、吉田実連よりも柴任美矩の方に反応しているところが面白いのだが、それは、長年吉田実連から教えを受けたとはいえ、最後の局面で吉田病気のため、播州明石に居た、師匠の師匠である柴任美矩から、実質的には最終的伝授を受けたようだから、という事情だけのことではあるまい。つまりは、武蔵の宿題としてのこの空意解答ゲームでは、吉田実連の解が、さして実のある面白いものではないので、むしろ柴任美矩の解の方に直通応答したものとみえる。
 ところで、「直通」〔じきづう〕ということは、五輪書火之巻で武蔵が「直通の位といふ事」として措定していたところを参照している。つまり、直通の心は、二刀一流の真実の道をうけて、伝えるところである。よくよく鍛練して、この兵法に身をなすこと、つまりこの兵法を体現することが肝要である、と述べている。要するに、自身が武蔵流の伝統を具体化し、実現するのである。
 ここでは、武蔵流兵法の道を体現した個人によって伝承されるとするのである。こういう伝承論は、禅家はじめ仏教の法燈伝承システム、師嗣相伝のそれと同じである。たとえば道元が説くに、《佛佛かならず佛佛に嗣法し、祖祖かならず祖祖に嗣法する、これ證契なり、これ單傳なり。このゆゑに無上菩提なり。(中略)佛の印證をうるとき、無師獨悟するなり、無自獨悟するなり。このゆゑに、佛佛證嗣し、證契すといふなり。この道理の宗旨は、佛佛にあらざればあきらむべきにあらず》(正法眼蔵・嗣書)。たとえ無師独悟でも、あるいは師の歿後生まれた者が後嗣となっても仏仏嗣法。これが口伝のことであっても、ようするにポイントは、仏法であれ、兵法であれ、「直道」「直通」というリアルな存在論的事実なのである。
 ただし、この直通のポジションにまでアプローチしながら、立花峯均が、《深理妙慮ハ、言葉にわたらず、筆に及ばす、意より意に傳ふ》と記すのは、以心伝心の通俗解釈に汚染されているところが、いまひとつ、という不足のあるところである。立花峯均は禅を学んだ人で、こういう直指すべきところではそれがかえって災いしている。すなわち、《直通すなわち空、空即直通》との解を提示するが、このテーゼは、「筆に及ばず、筆を抛る」という終句とともに、いささか禅家風に堕したというところである。
 さて次から、まさに峯均以後となる。立花峯均から相伝をうけた立花増寿による空意である。


立花峯均→立花種章 相伝証文写



*【筑前二天流伝系図】

○新免武蔵守玄信―寺尾孫之丞信正┐
 ┌――――――――――――――┘
 └柴任美矩―吉田実連―立花峯均
 ┌――――――――――――――┘
 ├立花勇勝 増時 流水
 |
 ├立花種章 増寿 ┬立花種貫→
 |       |
 ├桐山丹英   ├丹羽信英
 |       |
 └中山伊右衛門 └林成章











*【五輪書】
《一 直通の位といふ事  直通の心、二刀一流の實の道をうけて、傳ゆる所なり。能々鍛練して、此兵法に身をなす事肝要なり。口傳あり》(水之巻)




瑠璃光寺本正法眼蔵

  立花増寿→立花種貫 相伝証文

武州傳來之兵書都而五巻、從峯均公、我是を傳受て、已ニ六代およぶ。貴殿此道に志有により、我受る所之兵書地水火風空、三ヶ之大事迄、不殘令傳授畢。就中、空之巻に於てハ、先師達も心をバ砕き、書顕し、言解んと思ハるゝといへども、誠に妙慮にして、筆舌に不及事を知べし。表五ツを楹〔はしら〕とし、兵法の身を常の身になし、朝鍛夕練して、心體円満と成て、千変万化踏破して見よ。空おのづから備る所、直通也。努々道にまよひなく、兵法不絶の念を忘るべからず。其機にあたる者あらば、傳之置て、永久に此道を殘し、武州再来を待べきもの也。
 
宝暦十三年未十二月廿日 立花弥兵衛増壽
                      法名
                       隨翁
                        在判
 
         立花彌兵衛殿
   (現代語訳)

武州伝来の兵書合計五巻、私は峯均公からこれを伝え受けて、すでに(武州以来)六代に達した。貴殿がこの道に志あるにより、私が受けついだところの兵書・地水火風空(の五巻)、三箇之大事まで残らず伝授せしめた。なかんづく空之巻においては、先師たちも心を砕き、書き表し言い解かんと思われたのだが、まことに微妙な思慮なので筆舌に及ばざることを知るべし。表五つを柱として、兵法の身を日常の身とし、朝夕鍛練して心体円満となって、千変万化を踏破して見よ。空のおのづから備わるところ、それが直通である。ゆめゆめ道に迷いなく、兵法不絶の念を忘れるべからず。その機にあたる者があれば、これを伝えておいて、永久にこの道を残し、武州再来を待つべきである。
 
 宝暦十三年十二月二十日  立花弥兵衛増寿
   (1763)                 法名
                          隨翁
                            在判
 
           立花弥兵衛殿
 この宛先の「立花彌兵衛」は、立花弥兵衛種貫のことで、彼は増寿の息子である。種貫はこれより二年前に父増寿から家督相続して、弥兵衛を襲名した。この家系は立花弥兵衛家である。
 相伝は宝暦十三年(1763)とあるから、増寿は六十三歳、種貫は四十歳である。ここに収録された立花峯均→増寿(種章)の相伝が享保七年(1722)だったから、その間四十年以上の歳月が経過している。この間隔はかなり長い。
 桐山丹英の三男・丹羽信英が増寿の相伝弟子(明和四年一流相伝)のようだから、当流は一子相伝というわけでもない。他にも相伝門弟があった。先年来、越後で発掘した伝書(兵法列世伝)によれば、立花種貫・丹羽信英の他に、林七郎右衛門、山中伊右衛門某という二人の名がある。
 立花増寿の相伝証文で、上述の空の意に相当するのは、《表五ツを楹〔はしら〕とし、兵法の身を常の身になし、朝鍛夕練して心體円満と成て、千変万化踏破して見よ。空おのづから備る所直通也》とする部分である。使用語彙から判断するに、五輪書水之巻の「兵法の身なりの事」に応答しているようである。
 「兵法の身なりの事」は武蔵に独特な、初歩の初歩を説く一節である。身のなり、つまり体勢を整えるところから教える。つまり太刀を持つ手足より先に、その前に習い覚えることがある。顔や全身をどう構えるかという話である。顔をどうつくるか、全身をどう整えるか、これをマスターしないと、まだ初歩の初歩から出ないのである
 したがって、立花増寿がここでそれを持ち出したとき、「表五ツ」、五つの表(型)、つまり五輪書水之巻では「五方の構え」という、そうした表(型)への言及とともに、実は基本回帰を述べて強調している。つまり、立花峯均の空意の解が、《直通即空、空即直通》といった禅家ふうな悟達の振舞いを見せたのに対し、立花増寿はやはり具体的な身のなりや五つの表へ引き戻して、いわばなかなか力量のある復元力をみせる。
 しかも、兵法の身を常の身になし、というところへ進める。「常の身」というのは、禅家の「平常心是道」というテーゼに相応しそうだが、実はちがう。通俗流布した平常心、常の「心」とは云わず、常の「身」というところが、武蔵的である。兵法の身を常の身にするとは、戦闘身体を日常身体とすることである。
 立花増寿は武蔵のこれを援用して、そのように戦闘身体を日常身体として、朝夕鍛練して心体円満となること、つまり心も身体も完全になるというイデアルな状態を示し、その心も身体も完全になった状態で、千変万化のあらゆる多様性を踏破して見よ、そうすれば、空は自然と備わる。それが直通である、と述べる。
 これはかなり理論的訓練をしたインテリの書きぶりで、おそらくは立花増寿はすぐれた教師でもあっただろう。多少、文体に偉そうな身ぶりがあるが、それも、弟子としての息子に対する、師匠としての父のポジションだと思えば、むべなるかなである。
 そして立花増寿は、ゆめゆめ道に迷いなく、兵法不絶の念を忘れるべからず、と述べる。この「兵法不絶」が、小倉の碑文頭冠部に掲げられた武蔵遺偈、《天仰實相圓満兵法逝去不絶》の12文字(天を仰げば実相円満の兵法、逝去して絶へず)を想定しているのは明らかで、増寿はここで、当流の永続的伝統のために尽力しようではないかと語るのである。
 すなわち、その機(器)に相当する者があれば、これを伝えておいて、永久にこの道を残し、武州再来を待つべきである、という。この伝統を保持しておいて、「武州再来」を待つべし、という、この「第二の武蔵」がいつ出現するのかわからないが、そのための準備をしておこう。そのためにも、この道統を絶やしてはならない。これが立花増寿の教えである。
 立花増寿に至ってすでに6代目である。ますます元祖武蔵から遠ざかる一方だが、この地点で、兵法不絶の念を忘れるべからず、武州再来を待つべし、との未来記の意識が発生していることに注意したい。こうしてみると伝系状況は、来たるべき未来を待つ待機状態にあり、もはや直接性を闕いていると云わざるをえない。言い換えれば、リフレクティヴ(再帰的反省)な状況に入りつつある。これが、筑前において、武蔵流兵法が茶の湯と変らぬ文化事象になった、その内実である。
 この立花増寿が知的にすぐれた人であるだけに、空意の解のその以後は、また困難を背負うであろう。


立花増寿→立花種貫 相伝証文写

*【五輪書】
《一 兵法の身なりの事  身のなり、顔は俯むかず、仰がず、傾かず、ひずまず、目を見出さず、額に皺をよせず、眉間〔まゆあひ〕に皺をよせず、目の玉の動かざるやうにして、瞬きをせず、目を少しすくめるやうにして、うらやかに見ゆる顔、鼻すじ直にして、少し頤〔おとがひ〕を出す心なり。首は後ろの筋を直に頸に力を入て、兩の肩をさげ、脊すじをろくに、尻をいださず、膝より足の先まで力を入て、腰の屈まざる樣に腹をはり、楔をしむると云て、脇差の鞘に腹を持たせ、帯のくつろがざるやうに爲す可しと云ふ教へあり。總じて、兵法の身に於て、常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とすること肝要なり。よくよく吟味すべし》(水之巻)












「天仰実相円満兵法逝去不絶」
小倉武蔵記念碑頭冠部

  立花種貫→立花増昆 相伝証文

此於一流は、其初、天道と観音を鏡として、先師玄信、五巻之兵書被書顕置、其器に當る人に傳り来る。今我、その流を汲て家に有り、常に兵意を練る事、専也。就中、空之卷にをいてハ、兵法至極の意味、先師達書あらわし置るゝといへども、不肖の某、何をか書、何をか説ん。空則空にして、利業を離れ、到る所の極意、此空に皈す。依而五巻の奥儀に秘して、悉令傳授畢。能々鍛練工夫あるべきもの也。
 
  安永八年亥
       六月五日     立花弥兵衛
                      種貫判
 
         立花徳太夫殿
   (現代語訳)

この一流においては、そのはじめ、天道と観音を鏡として、先師玄信が五巻の兵書を書きあらわしおかれ、その器に相当する人に伝わって来た。いま私は、その流れを汲んだ家にあり、常に兵意を練るのを専らにしてきた。なかんづく、(五輪書)空之巻においては、兵法の究極の意味を、先師たちが書き表しておかれるのだが、不肖の私には、何を書き、何を説けようか。空則空にして、利業(理事)を離れ、いたるところの極意はすべてこの空に帰す。よって五巻の奥儀に秘して、ことごとく(貴殿に)伝授せしめる。よくよく鍛練工夫あるべきである。
 
  安永八年(1779)六月五日
                     立花弥兵衛
                         種貫判
 
           立花徳太夫殿
 この宛先の「立花徳太夫」は、立花徳太夫増昆のことで、上述の如く、彼は立花氏本家の当主になる人である。つまり、立花峯均の父・平左衛門重種から峯均の兄重敬へ続く嫡流である。峯均の兄重敬から数えて増昆で五代目だが、実際は増昆は重敬の孫である。弟が兄の家の養子に入るというかたちを反復したのである。増昆の徳太夫は初名で、のち兄増厚の後を継いで平左衛門を襲名している。
 相伝は安永八年(1779)とあるから、このとき種貫は五十六歳、増昆は四十歳である。立花種貫には門弟が多かったと推測される。この種貫を嗣ぐのは、立花種純〔たねずみ〕。実父は家老の大音彦左衛門厚弘で、大音家子息から立花家に養子に入った人である。立花増昆跋文によれば、相伝高弟とおぼしき林成章や白水與左衛門重能の名があるから、立花種貫にはこの種純の他にも派生伝系があったものと思われる。
 さて、立花種貫の相伝証文で、上述の空意の解に相当するのは、《空則空にして、利業を離れ、到る所の極意此空に皈す》とする部分である。この部分だけをとれば、「空則空」という定式化が種貫の空意である。これは、立花峯均の空意、《直通すなわち空、空即直通》とテーゼからさらに抽象化されている。利業〔りわざ〕を離れ、というのは、「理」と「事」を離れて自由になるという意。自由になって、いたるところの極意、すべてこの空に帰す、というわけだが、18世紀後半の観念的兵法論の特徴が出はじめている。
 立花増寿があまりにも余地を浸食し尽してしまった気味があるので、種貫の空意の解は、こんな「空則空」という定式に行き着かざるをえないのである。このトートロジーは、深遠そうにみせてはいるが実はやせ細ってしまった定式である。空之巻においては、兵法の究極の意味を、先師たちが書き表している、というのはすでに現れていた文言だが、「極意」だの「奥儀」だのという、まったく武蔵的ではない語彙がここに出現して、いわば、通俗化が進行している。
 「空則空」「極意」「奥儀」という語彙は、現代と同様の思想の通俗化を示すが、それは同時に、武蔵の空意をめぐる公案ゲームの終焉を示すものである。しかしある意味では、この通俗化こそ内実が空虚であろうと、兵法不絶の外見を保持しうる、形式なのである。言い換えれば、武蔵流兵法が空虚になってしまうことがなければ、それが伝承されないというのが、まさに歴史の帰趨であった。
 では、とどのつまり、立花増昆はいかなる空意を吉田経年に提示するのか、それがこの空之巻解釈リレーのゴールである。


立花種貫→立花増昆 相伝証文写



*【立花家略系図】

○三河守増時┬吉右衛門成家
      |
      ├増利
      |
      ├甚兵衛重時―増成=増武
      |
      └彌兵衛増重┐
 ┌――――――――――┘
 ├長左衛門重興┬重常
 |      |
 |      └重貫―重武
 |
 ├平左衛門重種┬重敬┬重昌┌増厚
 |      |  |  |
 |      |  └増敬┴増昆
 |      |
 |      ├重根―道ロ―増一
 |      |
 |      ├増武 増成養子
 |      |
 |      ├峯均 断絶
 |      |
 ├重友    └重躬┬勇勝―種時
 |         |
 |         └種章種貫
 |
 └勘左衛門増弘―増能=増直┬時弘
              |
              └増厚



  立花増昆→吉田経年 相伝証文

抑當流の兵法、空の理は、玄信居士より七代の傳来、文面品かわるといへど、極意にをゐてハ、代々の空々、則武рフ空なり。予も又其空に皈す。聊も鑽細にわたらず、大なる道を究め、心の鏡あきらかに、身巖のごとく、必勝の利を備へば、などか故人の空に到らざらんや。
 
                初名徳太夫
 寛政四年子十二月廿日  立花平左衛門
                    [朱印二顆]
                     増昆[花押]
 
         吉田六郎太夫殿
   (現代語訳)

そもそも当流の兵法における空の理は、(武州)玄信居士より七代の伝来である。文面の表現は異なるといえど、その極意においては、代々の空々はすなわち武州の空である。私もまたその空に帰す。いささかも細部に拘泥せず、大いなる道を究め、心の鏡をあきらかにし、身は岩のごとく、必勝の利を備えれば、どうして故人の空に到らないことがあろうか。
 
                   初名徳太夫
 寛政四年十二月二十日    立花平左衛門
   (1792)                 [朱印二顆]
                        増昆[花押]
 
           吉田六郎太夫殿
 ここに「初名徳太夫」とあるのは、すでに見たように、立花種貫から立花増昆への相伝証文の宛先が立花徳太夫殿とあったのに対応させたものである。増昆の「徳太夫」は初名で、のち兄増厚の後を継いで「平左衛門」を襲名した人である。
 さて、申すまでもなく、この証文の宛先の「吉田六郎太夫」は、吉田六郎太夫経年のことで、上述の如く、彼は吉田氏本家の当主である。つまり、これは立花本家の当主から吉田本家の当主へ相伝されたという、まことに珍しい形態の相伝証文である。立花平左衛門増昆は四千石、吉田六郎太夫経年は五千石で、ともに黒田家中老である。
 相伝は寛政四年(1792)暮、このとき立花増昆は五十三歳、吉田経年は二十七歳である。前述のように、両者はもともと師弟関係にはなく、この相伝は、吉田経年が実連の五巻之書一式を立花増昆のもとへ持参して、一流相伝を依頼したのがきっかけである。
 さて、立花増昆の相伝証文で、上述の空意の解に相当するのは、《聊も鑽細にわたらず、大なる道を究め、心の鏡あきらかに、身巖のごとく、必勝の利を備へば、などか故人の空に到らざらんや》とする部分である。良く言えば、まことに大らか、悪く云えば、まことに杜撰な、空意の解である。それがこの空之巻解釈リレーのゴールであった。
 じっさい、増昆の師匠立花種貫の空意の解は、「空則空」というトートロジー、これで事実上ゲームは終っていた。いわば、リレーするにも、増昆は何も手渡されていないに等しい。そこで、増昆は徒手空拳、伝来の歴史の事実性を語って、――そもそも当流の兵法における空の理は、武蔵以来七代の伝来。諸師文面の表現は異なるといえど、その極意においては、代々の空々はすなわち武州の空である――と、まさにメタ・レベルで語る。たしかに、この手がまだ残っていたわけである。
 つまり、立花種貫の空意、「空則空」のトートロジーを歴史化して、当流代々の空=武蔵の空なりと説く。云うならば、最後に登場した総括者の役割が、かくして果たされたわけで、再度繰返せば、良く言えば、まことに大らか、悪く云えば、まことに杜撰な、空意の解である。しかし、これも、なかなか洒脱で頭のよさ示す解であって、なるほど、立花増昆は茶人で号樹軒、俳号は秋水。いうなれば、立花家の文化的教養を代表する人であった。
 かくして吉田経年は、立花増昆から兵法伝授を受けたのであるが、すでに述べたように、五巻の書(五輪書)本体は吉田経年所持のものであるから、ここで新たに五巻の書書写はない。そのかわりに、吉田経年に欠如していたもの、すなわち、吉田実連以下の相伝証文写しを追加して、体裁を完備したのである。


立花増昆→吉田経年 相伝証文



*【筑前二天流伝系図】

○新免武蔵守玄信―寺尾孫之丞信正┐
 ┌――――――――――――――┘
 └柴任美矩―吉田実連―立花峯均
 ┌――――――――――――――┘
 ├立花勇勝 増時 流水
 |
 ├立花種章 増寿 ┬立花種貫――┐
 |       |      |
 ├桐山丹英   ├丹羽信英  |
 |       |      |
 └中山伊右衛門 └林成章   |
 ┌――――――――――――――┘
 ├立花種純―立花種名……→種美
 |
 ├立花増昆吉田経年 吉田家本
 |
 └白水重能

 その後、吉田経年と立花増昆の交渉は続いて、吉田立花両家は親密であったらしい。というのも、興味深いことに、この相伝から二十年以上経った文化十二年(1815)、立花平左衛門が吉田六郎太夫へ借金の申入れをしているのである。そのときの「横折」、借金申入書が吉田続家伝録に収録されている。
《同歳十月廿九日、立花平左衛門[中老]、経年ノ宅へ入来、対談致セシ処、左之横折指出サル。直ニ請取》
 立花増昆はたぶんもう隠居して、立花平左衛門家は増昆の後を嗣いだ増名の代であろう。吉田経年は五十歳、まだ現役である。立花平左衛門が吉田六郎太夫へ借金の申入れをしたのは、この年の冬、江戸御留守詰を命じられて、さて江戸へ行こうにも旅用金がないというありさま、つてを頼って大坂表で借金の工面をしたが、どうにも話が進まない。しかし、もう出発の日が間近に迫っている。立花平左衛門は万策尽きたのである。
 必要金額は四百両。立花平左衛門が大坂で金の工面をしたのは、大坂が商業金融の中心地だったからである。しかし大藩黒田家の中老でも借金するだけの信用がない、という現実に直面したわけである。四千石の中老でも、四百両の資金繰りができないというのが、現実であったようである。このように、江戸勤番にはコストがかかるから、実はあまりだれも進んでやりたがらない任務である。
 とはいえ、金がないから江戸勤務ができないとは云えない。それで、吉田六郎太夫へ四百両の借金の申入れをした。四百両といえば、かなりの大金である。よほど親しくなければ、貸そうという金額ではない。たぶん隠居の樹軒(増昆)が工作をして、吉田経年へ頼み込ませたのであろう。立花増昆と吉田経年が親密でなければできないことである。
 それから後、文化十四年(1817)になって、吉田経年は中風とかで病いに倒れる。経年には嫡男がないので長女に婿養子をとって嗣子にした。同年病い回復せず吉田経年歿、享年五十二歳。跡目は婿養子の延年が継いで、六月に七左衛門の称をゆるされた。
 吉田家当主になった延年は寛政四年(1792)生れで、この年二十六歳、どちらかというと、学者肌の人らしく、この年暮には学問出精を賞せられて、主君黒田済清から四書一部を贈られた(吉田続家伝録巻十四)。四書とはいわゆる「四書五経」の四書で、大学・中庸・論語・孟子の儒教諸書をいう。延年は、養父・経年のように兵法修行して一流相伝することには、関心はなかったようである。
 同じ年の文化十四年暮、立花増昆(樹軒)が、この吉田延年と会って話しているうち、あることを依頼した。それは、かつて増昆(樹軒)が、例の代々諸師の空意の解を写して吉田経年に与えたのだが、その文書のうち立花弥兵衛への宛名について確認したいから、その部分を写して、立花弥兵衛(種名)に渡してやってもらえないか、という依頼であったらしい。文化十四年といえば、立花増昆はすでに七十八歳である。隠居したとはいえ、一族の長老としてあれこれ世話を焼いていたのである。
 そこで、吉田延年はその文書を取り出させて調べ、《樹軒老より養父江極意御伝授之加筆有之分》、つまり立花増昆から吉田経年へ極意伝授の加筆分(諸師空意集)を写して、翌日二十九日、増昆宅に持って行かせた。そのとき、立花弥兵衛へ渡す空意答案写しの他に、「舌代」(立花弥兵衛宛吉田延年口上書)、そして「巻物一包」を添えた。そうして、その夜、吉田延年は立花増昆宅へ出向き、いろいろ二人で話をしたらしい。
 ところで、ここにある目録のうち「巻物一包」は、現存吉田家本五輪書の空之巻であろう。翌文政元年(1818)五月の、立花弥兵衛種名宛の増昆(皓山)書状に、《旧冬吉田家より還納之空一巻》とあるのがそれである。吉田延年は、兵法相伝の意思がないので、立花増昆から吉田経年へ授与された空意集を付した空之巻を、増昆本人へ返還したものであろう。
 立花増昆(皓山)はこの立花種名宛書状で、《旧冬吉田家より還納之空一巻、舌代一通》を、立花弥兵衛種名に渡すから、保管して置くようにと指示している。これが五月の書状、ということは、昨年暮から半年近く、立花増昆は自分の手許にこれを置いていたことになる。かくして、増昆(皓山)から立花種名へと、《旧冬吉田家より還納之空一巻》は手渡されたのである。立花増昆は、この武蔵流兵法の伝書を、立花弥兵衛家に集約しておこう、というつもりであったらしい。
 同じ書状の追記に、《拙者江之千別其節之答案も書込候ハヽ一通は掛御目候》とあって、立花種貫から増昆への相伝のときの空意答案も書込んであるので、それも一通り見せようと約束している。立花種名は父の種純から兵法伝授されたので、種貫→種純の相伝証文は手許にあるが、種貫→増昆の相伝証文の内容は知らないらしい。自分が受けた空意の解も見せようというのは、これも、長老増昆(皓山)の配慮である。
 立花増昆は長命だったが、文政四年(1821)歿。享年八十二歳。その後、幕末明治となって時代も変り、立花弥兵衛家も当流兵法を維持できなくなったらしい。増昆の三代後の子孫・増熊〔ますたけ〕がその伝系絶滅を憂慮して、立花種遂の門弟であった者を立花流水家(勇勝系統)の養嗣子にして、これが立花種美。種美は弥兵衛家の子孫が幼年なので後見していたが、明治十七年(1884)に、立花弥兵衛家が預かっていた件の空之巻を、吉田家へ返却した。かくして、空之巻は再び吉田家の所蔵に帰し、他の地水火風4巻とあわせて、ここに吉田家本五輪書は再び完備されたのである。








*【立花平左衛門横折】
《一 私儀当冬江戸御留守詰被仰付候処、世帯向不覚悟之次第ニテ、於爰許旅用金難相整、当時大坂住居野田無格与申者家来筋之者ニ付、同人江申遣、借財地旅手当相整度趣、最前横折書付を以相伺候処、御聞置相済候段、御委細御達之趣ニ付、早速家来大坂表江差登、右無格に申談させ候処、当時ニテ者、大坂表も銀談筋以前と違殊外六ケ敷、是方申遣候望通之儀者中々存寄も無之由ニ御座候。右ニ付、差登せ候家来ヨリも旅用金斗ニテも世話致遣候様ニ切角申談居申候趣のミ追々申越、其後日々便相待居申候得共、いまた便も無御座候。我儀も是迄者例之通来月中旬ニ者出立仕候心得ニテ、相伺候積御座候。右之通大坂表者遠境之儀、只今迄も模様不相分、其上相考候事々相違仕候間、最前も爰許ニテ者、悉皆相談出来兼候段者、横折ニも相整申上置候得共、尚又再応色々と詮議仕居申候。右之通来月中旬と申候而者、最早何之日間も無御座候間、旅用金之手当も不相整、誠ニ難渋仕居申候。依之奉恐入候得共、当時金子四百両拝借之儀、奉願候。大坂表銀談相整候ハヽ右之分を以上納可仕候。若又大坂表銀談不相整候節者、在町ニ懸是非ニも如何様ニ成とも、遂相談御勘定所押ニテも拝借相願、相整次第早速上納可仕候。差当只今迄旅用金不相整候間、当時之処拝借奉願候。重々不覚悟之次第ニテ自由ケ間敷儀申上奉恐入候得共、不得止事此段奉願候。是等之趣、宜御執成被成下候様、重畳奉頼候。以上
  十月廿九日    立花平左衛門 》(吉田家伝録続巻十三所収)


*【吉田延年口上書】
《  口 上
拙者家ニ致伝来候御流儀兵法之書五巻之内一巻、樹軒老より養父江極意御伝授之加筆有之分、此節貴所江相収候。後来之儀者宜御汲分被下候様希存候。則使を以申述候。以上
  十二月廿九日   吉田七左衛門
    立花弥兵衛様 》

*【吉田延年書状】
(表書 「樹軒様 吉(吉田)七左衛門」)
《歳暮目出度く奉存候。然者昨日被仰付御清書之趣、返々奉恐入候。則今日取出させ候条、則一巻為持差上申候。先頃御熟談仕置候通、弥兵衛方え之當名ニ仕、如来命口上書相調、別紙相添置申候。何分共乍慮外重畳宜敷御取置被成下候様希候。猶委細万端晩刻参上仕、可得尊意候間、如此御座候。恐惶頓首
  十二月廿九日
 ------------------
  答 之 寫
  御自翰  壱通
  舌 代  壱通(包)
  巻 物  壱包
   右慥入手、従是御答可申述候、以上
 文化十四年丑十二月念九 一樹軒皓山
  吉田七左衛門様  》

*【立花増昆書状】
(表書 「種名様 皓山」)
《昨日者以参得御面候。其節御噂可申と存、帰路急候而無其儀候。旧冬吉田家より還納之空一巻、舌代一通、為持進候。御落手可被成候。委曲は十九日ニ可申談候。
   五月十五日
  尚々拙者江之千別其節之答案も
  書込候ハヽ一通は掛御目候、以上  》


 以上、ポスト武蔵研究の一端として、立花峯均以後の経緯をたどってみた。こうしてみると、さまざまな偶然に翻弄されながら、この伝系は明治まで生き残ったのである。現存吉田家本五輪書にしても、途中、立花増昆と吉田経年というユニークな両人の遭遇がなければ、今日の姿はないであろう。
 筑前二天流における立花系の道統は以後も筑前に存続した。また、丹羽信英を介して越後へ伝播もした。そこでは、上掲の筑前の相伝証文と同様に、明治までこの相伝慣行は存続した。他方、同じ筑前二天流でも、立花峯均の系統とは異なる早川実寛の系統も存続した。それも同じく、代々の相伝証文を残している。
 これら筑前二天流の事蹟は、これまでまともに注目されなかったことだが、今後の武蔵道統研究においては、無視できぬ要件となるであろう。
 武蔵の兵法末流は肥後をはじめ諸国に存在した。その中には絶滅してしまったものがほとんどである。それゆえ、吉田実連・立花峯均以下のこの筑前二天流において、武蔵流末のその後を探索しうることは、武蔵研究において有意義なことであろう。そのように考え、ここでの『峯均筆記』読解に、以上のような関連研究論文一本を追加したのだが、研究というものは、何ごとによらず、つねに宿題を発見してしまうのである。我々のこの作業は、未開拓の領野を切り開くささやかな里程標にすぎない。後学の諸君には、我々の宿題を解くさらなる研究を期待したい。



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