武蔵の出身地はどこか
出生地論争に決着をつける

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 Q&A    史実にあらず    出生地論争    美作説に根拠なし    播磨説 1 米田村       資料篇 

播磨説(2) 揖東郡宮本村  Back 

 もう一つの播磨説は、武蔵の出生地を播磨国揖東〔いとう〕郡宮本村(現・兵庫県揖保郡太子町宮本)とするものである。
 この太子町は姫路市の西隣の町で、「太子」町と称するごとく、聖徳太子所縁の斑鳩寺がある。それで、
  「聖徳太子ゆかりの地」
というのが、この町のキャッチフレーズである。武蔵関係地であることは、地元ではあまり意識されていない。「武蔵の里」を大々的にアピールしている武蔵美作産説のご当地(岡山県美作市宮本)とは対照的である。
 宮本村には、武蔵の史料史蹟は存在しない。たしかに石海〔せっかい〕神社の門前には、武蔵出生地碑が建立されている。また現在、産湯に用いたという井戸の跡もある。だが、いづれの遺跡も後世の「事後的実体化」、すなわち後になって設置された「旧跡」である。この点では、他の武蔵由来地と変りはない。
 ようするに、播州の宮本村には武蔵史跡は事実上皆無である。ここを武蔵産地とする根拠が何かあるとすれば、それは文献記録だけである。
 武蔵がこの村に生れたと記す資料は、一つには、菅原國枝書とある「宮本武蔵筆菅公図匣書」(享保三年・1718)に記載のものである。すなわち、
《畫人劔客新免玄信、姓藤原、氏宮本、小名辨助、假號武藏、播陽揖東宮本邑之産》
 つまり、画家で剣客の新免玄信は、播州揖東郡宮本村の産だというわけである。この匣書は、武蔵の絵画作品「菅公図」に菅原國枝が記したもので、享保当時の証言資料である。ただし、これは大正期までは現存していて、展覧会にも出たが、残念ながら現在所在不明の史料である。
 もうひとつは、その「菅公図匣書」と同時代の地元播磨の史料、平野庸脩編纂『地志播磨鑑』〔はりまかがみ〕という歴史地理書に記す記事である。この書物では武蔵の産地を、同じく、揖東郡宮本村であるとする。
 前者は、現在確認できない史料なので、以下、『播磨鑑』をとって、この宮本村説を吟味しておく。

 武蔵は『五輪書』に「生国播磨」と明記している。だが、その播磨のどこか、となると、やはり、地元播磨の史料に依拠すべきである。しかるに、武蔵産地に言及した地元播磨の史料といえば、『播磨鑑』を措いて他にはない。そこには、上記のように「揖東郡宮本村の産也」と明記している。
 本書は、武蔵死後百年以上後の書物であって、江戸中期の二次史料だが、一つには、既述の小倉宮本家系譜より約一世紀早い記録であること、そして第二に、何よりも「生国播磨」、その地元播磨の伝承情報を書きとめた記録という点で、武蔵産地研究において重要なポジションにある。
 この『播磨鑑』については、[資料篇]で詳述があるので、それを参照されたい。ただここで、本書に関し若干説明しておけば、次のような諸点をあげることができる。すなわち、
 (1) 『播磨鑑』は宝暦十二年(1762)に「書かれた」という流布した書誌学的解題は、必ずしも誤りとはいえないが、厳密に云えば正確な話ではない。それは献上本自序の日付であるにすぎない。この書物は書き下ろしのテクストではない。定本はなく、自筆稿本も数本ある。
 しかもこのテクストは断片集成である。書稿の記述は長期に亘るもので、たとえば後出の武蔵に関説する明石城の記事では、小笠原忠政(伊織の主)の明石入部以来の年数算定を、享保四年の時点で行っている。
  「御入部之年より享保四年迄、凡百四年ニ成」
という具合である。つまり、この記事の「現時点」は享保四年である。『播磨鑑』に異本各種があり一本の自序に明記された記載年次は宝暦十二年(1762)であるが、記事書稿にはこのように享保四年(1719)の記述時点まである。これは享保十二年(1727)の『丹治峰均筆記』よりもむろん早い時期である。
 なぜこのようなことがあるかと言えば、『播磨鑑』は版本(出版物)としてではなく、自筆の手稿本あるいは献上本として存在したものであるからだ(最初の出版は明治四十二年)。庸脩は書稿断片を切り貼りしてその都度の一本の稿本にしている。そのため、記述の「現時点」は長期に亘って拡がっており、早いものなら前述のような享保年間まで遡るのである。
 ようするに我々が、たとえば、その昔一九六〇年に書いた論文を収録して論文集として一本にして書物にし、自序を書くとする。その自序の日付が二〇〇三年である。この論文集は二〇〇三年の成立だが、この書物に含まれる一九六〇年の論文をもって二〇〇三年に書かれたとする者はいまい。それと同じことである。
 それゆえ『播磨鑑』の記事に関しては、自序の記載年次をもって記述時点とみなすことはできない。この点で、必ずしも『播磨鑑』の記事が遅いとはなしえない。かなり早い時期の記述を含んでいるのである。
 (2) 『播磨鑑』の記述の史料的価値に関していえば、十八世紀前半に播磨にどのような文書口碑があったか、その情報を得るには本書に依拠しなければならない、そういう地方史資料としてのステイタスをもつ。
 しかも著者が参照する文献は極めて多く、著者の博覧強記ぶりを示す。これはようするに、著者が長年に亘って漁渉しうるかぎりの文献を参照して本書を書いたことを意味する。
 したがって『播磨鑑』にのみ書いてあって他に傍証文献はない、とするのは誤りである。『播磨鑑』はむしろ文献引用集という性格の文書でもあり、当時存在したであろう地方史文献はおそらくすべて参照されているのである。『播磨鑑』には逸失文献断片をも含む。
 そういう意味で、江戸中期にあった情報を知るためには、播磨地方史学は『播磨鑑』の記事に多くを依拠している。そのような書物であるから、『播磨鑑』に武蔵や伊織の記事があるとすれば、当然無視できないことになる。
 (3) それにもう一つ、『播磨鑑』の自筆題簽に「播州、平津」と明記するように、平野庸脩は播磨の人、それのみならず、印南郡平津村の住人である。この平津村は、何と、伊織が生れた米田村のすぐ隣の村なのである。注意すべきは、まさにこの点である。
 『播磨鑑』には、宮本伊織のことを異例に詳述しているが、これは、前述の泊神社の一件に直接関係した人々、あるいは伊織を直接見知っている地元住民から得た情報のようである。
 というのも、平野庸脩は米田村の隣村の家に生まれ育った者であった。そのことからすれば、とくに伊織関係など近隣情報は、『播磨鑑』記述時点よりももっと早期に得られたと思われる。享保や宝暦どころか、彼が若年の頃の元禄期にすでに得ていた情報だろう。この伊織情報は、彼が子供の頃から聞いていた話であり、『播磨鑑』の記事はもっとも信頼すべきものである。
 このことはまた、記事執筆の時点にも関係する。平野庸脩は、残存書簡によれば、すでにかなりの高齢のようである。彼の生年歿年は不明であるが、『播磨鑑』自序の宝暦十二年にはすでに「八十翁」、享保のころには数学者として一家をなしていたと思われるから、庸脩の得たリアルタイムの情報は、他に比してかなり早いといえる。
 総じて言えば、平野庸脩は地元居住の学者であり、しかも、壮年期から四十年以上にもわたってこの地誌を編集し、ほとんどエンドレスに改訂作業を持続している。云うならば、現今の歴史学者が、ある土地にひと夏滞在して、その地の史料を漁り市史・町史を書き上げる、といった事情とは違うのである。

播磨と武蔵関係地
印南郡米田村:高砂市米田町米田
揖東郡宮本村:揖保郡太子町宮本



斑鳩寺 兵庫県太子町鵤


宮本武蔵生誕之地の碑
兵庫県太子町宮本



[資料篇]  地志播磨鑑 



播磨鑑 献上本自序署名印影
宝暦十二壬午年仲龝





地志播磨鑑
平野庸脩自筆題簽




揖東郡宮本村/印南郡平津村・米田村
播磨国細見図(寛延2年)

 平野庸脩は『播磨鑑』にこう記している。
 
《宮本武蔵  揖東郡鵤ノ邊、宮本村ノ産也。若年ヨリ兵術ヲ好ミ、諸国ヲ修行シ、天下ニカクレナク、則、武蔵流ト云テ、諸士ニ門人多シ》
 
 つまり、武蔵は揖東郡鵤〔いかるが〕のあたりの、宮本村の生まれだというのである。「鵤」というのは古刹・斑鳩寺のあるところ、その近所の宮本村のことである。
 なお若干瑣事にわたることだが、書誌学的なことを言えば、本書写本は現在複数現存している。そこには、「鵤ノ邊」ではなく、「鵤ノ荘」「鵤ノ庄」と記す例がある。「鵤ノ荘」というのは中世的表現だが、この部分に関するかぎり、我々は、上記のように「鵤ノ邊」としておく。なぜなら、宮本村は「鵤荘」ではなく「石見荘」であるからだ。
 たとえば、『播磨鑑』自身が、宮本村にある神社(現・石海神社)を、
  「石見神社  揖東西両郡 石見荘」
と記している。揖保川両岸の揖東揖西両郡にわたる石見荘、その氏宮が石見神社である。近世中期の領域区分は別にして、武蔵が生れた天正期では宮本村は鵤荘ではなかっただろう。
 それはさて措き、ようするに、武蔵は「揖東郡宮本村ノ産也」という確言が、地元史料『播磨鑑』にあることに注目である。『播磨鑑』の編著者・平野庸脩は、武蔵産地について、他の場所ではなく、まさにこの宮本村を、明確にそれとして記しているのである。

 さて、また平野庸脩は、武蔵の養子伊織について詳述していて、
 
《米田村ニ宮本伊織と云武士有。父を甚兵衛と云。元来、三木侍にて、別所落城の後、此米田村江來り、住居して伊織を生す》
《伊織十六歳の時、赤石の御城主小笠原右近侯に、宮本武蔵と云天下無双の兵術者を召抱へられ、客分にておハせしが、此伊織、其家に召遣ハれ居たりし処に、器量すぐれたる生れ付故、武蔵養子にせられ…》
《子孫ゆかりの者、米田村に今に在之。其後、伊織、氏宮たるによりて、泊大明神の社頭、拝殿、舞殿、舞臺、門守等迄、悉く建立有。則、石燈籠に作事の奉行人等銘彫、現然なり。則、泊の古宮を米田村へ曳取、被建之、内宮と号ス。泊りへハ、堂上家の御哥仙三十六枚[各自御筆]、其外珍物等被寄附》
《此伊織殿、母ハ加東郡垂井ノ庄宮ノ脇村ノ人也。依之、伊織も久敷、宮ノ脇村に被居由》
《弟に大原玄昌と云人有。此人の石碑、今三木町本要寺[日蓮宗]に在之。右ハ伊織と玄昌トモニ寄附也》
 
等々とある。もとより、泊神社の伊織棟札や三木の田原家墓碑と照合してみれば、この事実の符合は、極めて注目すべきである。すなわち、口碑伝承による二次史料ではあっても、『播磨鑑』の平野庸脩の情報には史実としての客観性があるということだ。これら伊織に関する情報は、伊織子孫ですら知らない。その点で他の追随をゆるさないものである。
 そして、興味深いことには、武蔵が伊織を養子にした経緯が上記のように書かれているのである。つまり、伊織の事をよく知っている平野庸脩が、(武蔵産地米田村説の主張するような)叔父・甥の親族関係から来る養子縁組だとは、書いていないのである。








宮本村と鵤村 正保播磨国絵図








播磨関係地図


 この『播磨鑑』の記述について、若干補足しておくべきであろう。
 著者・平野庸脩は、播磨国印南郡平津村(庸脩の当時、米田村の隣村、現・加古川市米田町平津)の医者であった人である。また暦算家、つまり数学者・天文学者でもあった。
 平野庸脩には、関孝和の流れをくむ「浪華隠士大島喜侍芝蘭」なる数学者による享保十四年の数学の免許状一通がある。清初の梅文鼎〔ばいぶんてい〕の『暦算全書』あたりは読んでいたかもしれない。つまり、漢訳で西洋数学を知っていたかもしれない。
 明治まで残った地元口碑によれば、自宅に塾を開いて教え、また天文観測の施設まで造っていた。『播磨鑑』には、古今の史書・歌書の厖大な数量の引用がある。当時、文人儒医は多いが、庸脩はたんなる文人ではなく、自然科学に通じていた。いわば文武両道ではなく文理両道の人、庸脩はそういう人だったのである。
 本書の内容は、飾東郡から赤穂郡に至る播磨の国十六郡について、建置、形勝、郡名、城地、神社、寺院、旧跡、古城跡、氏族、人物、土産、風俗、等々を詳細に記録している。播磨地方史を語るとき、この『播磨鑑』抜きにしては何ごとも語りえないとされる文書である。
 伊織について興味深い記事がある。
 
《十弐歳の時、魚を釣に出居たりし処に、天狗におかされてか、加古川邊までつれ行しを、いづく共なく白衣の装束したる化人飛來り、彼小児の袖を取て引もどし、本の米田村へつれ帰られ、化人ハ行かたしらず失給ひぬ。其片袖、近代まで彼ゆかりの家に所持し有しと云》
 
 こういうあたりが『播磨鑑』のスタンスのおもしろいところである。伊織は、子供のころ神隠しに遭遇していたのである。これとそっくりな柳田國男の話を思い起こす人もあるかもしれない。
 おそらく子供の頃から聞いていたこんな伝説も書き漏らさないのが平野庸脩である。そして、伝承口碑の採録だけではなく、『播磨鑑』には詳細な客観的記述のあることは、知られてよい。それは、実証主義的な自然科学のセンスだと言ってもよかろう。


庸脩当時の印南郡細見図 部分
平津村と米田村は隣村



伊織の神隠しの現場
江戸中期 米田付近の加古川の流れ
現在はかなり違う
 武蔵の諸伝記には、筑前系の『丹治峰均筆記』(兵法大祖武州玄信公伝来)、肥後系伝記の『武公伝』などがあり、それらは十八世紀に書かれたもので、『播磨鑑』と同時代の書物である。しかしどれも九州で書かれたもので、記事の信憑性はいま一つである。
 たとえば、伊織について『丹治峰均筆記』は、これを「商家の子」というし、『武公伝』にいたっては、伊織をなんと出羽国の正法寺村の産とする。『武公伝』を種本とする『二天記』も同様である。こういうあたりは、武蔵諸伝記は、すでに伝説化・説話化のレベルにある史料である。
 これに対して『播磨鑑』は、それら武蔵諸伝記と同時代の記録とはいえ、記事によってはそのどれより早い時期のものがある。しかも、地元学者の著述であるから、播磨関係の記事はかなり正確なものである。
 なぜなら、前述のように、伊織の泊神社への関わりをすでに記述しており、それが伊織棟札によって実証されるからである。あるいは、伊織弟・小原玄昌について「此人の石碑、今三木町本要寺に有之。右ハ伊織と玄昌トモニ寄附也」と記録している。その碑は現存するから、これは今日の我々でさえ確認しうる事実である。
 この『播磨鑑』の著者・平野庸脩が、武蔵の出生地について知っていたのは、揖東郡宮本村の生れということだ。そして、それが、当時の播磨地方のだれもが知っている自明のことだったであろう。であればこそ、
  「宮本武蔵  揖東郡鵤の辺、宮本村の産也」
と断言したのである。これをたとえば、伊織の主・小笠原忠政〔忠真〕による明石の町割(都市計画)についての記事、
  「明石町造ハ小笠原右近太夫忠政之御代、元和年中開発也」
とあって、次に、
  「宮本武蔵と云士、町割有之と云」
と記している書き方と比較すればよい。こちらの方は、「宮本武蔵という武士が町割をしたことがある、という」と書いているのである。要するにこれは、伝聞・伝説である。平野庸脩は、武蔵が明石の町造り、都市計画をしたという話を、『明石市中記』等諸文献を確認して、「話」として書き留めているのである。それに対して、前段の、「元和年中の開発なり」というのは史実としての確言である。
 平野庸脩の文章には、こうした区別がある。
 このことからすれば、もし武蔵の出生地が伝聞なら、
  「宮本村の産也」とは書かず、
  「宮本村の産也と云」
と庸脩は書いたはずである。
 あるいは、播磨生れでも産地が不明であれば、しばしばあるように、
  「當國出所不詳」
と書いたはずである。わからないことは、わからないと書くのが平野庸脩である。
 それにまた、こういうことがある。庸脩は『播磨鑑』の附録で、武蔵と伊織を並べて書いている。それは、
 
宮本武蔵 揖東郡鵤ノ邊、宮本村ノ産也。若年ヨリ兵術ヲ好ミ(後略)
宮本伊織 印南郡米田村ノ産也。宮本武蔵、養子トス
 
 ようするに、こういう列記並立して書く書き方である。武蔵の記事と伊織の記事が無関係に書かれたどころか、むしろ、庸脩は両人を対照させて連続記述しているのである。武蔵の産地は揖東郡宮本村、伊織の産地は印南郡米田村だと。
 こうした記述スタイルが明確にするところに注目すれば、現代の武蔵米田村出生説には成立の余地がない。それは前章で明確にされたように、播磨から遠い九州で、後世いつのまにか形成された誤伝に依拠するものに過ぎない。米田村出生説は、播磨の地元史料によるものではない。

*【丹治峯均筆記】
《伊織ハ商家ノ子トイヘリ。豊州小倉ノ城主、小笠原右近將監忠真公ニ勤仕セリ。武州、或時、御物語ノ序ニ、「某シ子ヲ守リ、差上可申。打込ニ被召仕候而ハ御用ニ立ガタシ。御側ニ被召置、御家老衆ヘ何ゾ御内用等之取次ヲモ被仰付候ハヾ、畢竟御用ニ相立可申」由申述》

*【武公伝】
《宮本伊織ハ出丁正法寺ノ産也。父某、農業ヲ廃シ浮浪人ト也。正法寺村ヨリ參里外、山陰ノ曠野ニ在。不毛地、其所ニ小草屋ヲ造テ、潜ニ是ニ住居シ、曠野ヲ開テ畠トシ、今日ノ飢ヲ扶ク》






明石町割図 『明石記』所収





播磨鑑 草稿写本
 ところで、『播磨鑑』の著者は、たまたま武蔵ついて言及したにすぎないのであろうか。そうでもないようである。というのも、平野庸脩は、この『播磨鑑』とは別に武蔵論を書いていたふしがある。それは――これまで一般に注目されたことがない――『播磨鑑』の宮本武蔵記事に記された次の一文である。
 
《此宮本武藏事、佐用郡平cm住、風水翁ノ説ト相違有リ。別書ニ之ヲ記ス》
 
 つまり、この宮本武蔵のことに関して、いわば異説として、佐用郡平福の住人・風水翁の説の所在を示し、「別書」に宮本武蔵のことを記す、というのである。
 『播磨鑑』異本には、《別書ニ委シ。不載之》とあって、別書に委しく書いているから、この『播磨鑑』には、それを記載しない、というわけである。
 おそらく、『播磨鑑』のこの記事以前に、庸脩には武蔵について書いた著作があり、したがって、『播磨鑑』が全般的地誌であるという性格上、武蔵関連記事の方は、現在我々の見るように簡略化されたものとなったのであろう。
 この武蔵論を記したらしい「別書」は、他の多くの庸脩著作と同じく失われている。庸脩の参照指示は自信ありげなので、武蔵についてかなりの内容が書いてあったと推測されるが、それだけに、武蔵研究において、この「別書」の逸失ほど惜しまれるものはない。しかし将来、これがどこかで発掘される可能性も残っているはずである。
 この「別書」が現在失われている以上、参照指示先は空白なので、この風水翁なる人物についても、その異説の内容についても、我々は何も情報をもたない。ただ、この異説が武蔵産地に関するものだと仮定してみれば、風水翁が佐用郡平福(現・兵庫県佐用町)の住人というところから、武蔵産地を平福周辺とするものであったかもしれないと、目星をつけている。
 しかしながら、それが佐用郡庵村の平田家を指すもの、あるいは作州宮本村の伝説とリンクした田住家の伝説を指すもの、という特定はできない。あんがい、我々のまったく知らない伝説であるかもしれない。
 ともあれ、ここで重要なことは、『播磨鑑』が記す唯一の異説の可能性の所在は、この「佐用郡平福の住人・風水翁」の説のみであり、武蔵産地を印南郡米田村とする記事は存在しないことである。

 我々は、武蔵や伊織といった当事者自身の記述を、プライマリーな史料とする。口碑伝聞による間接的な史料は、二次的なものである。しかし、口碑伝聞による二次史料にも、史実を伝える情報がある。それを注意深く採取するのが、歴史学である。
 我々はもとより、『播磨鑑』の記事全てを信憑性のあるものとは見ない。本書は、十八世紀前半に播磨にどんな文書や情報があったか、それを知る資料である。伝説を採取した記事も尠なくない。それを一種の民俗学的方法で、伝説は伝説として平野庸脩は収録している。
 『播磨鑑』の視線と記述は、『丹治峰均筆記』や『武公記』といった武蔵伝記説話集とは、根本的に異なるスタンスをもっているのである。
 ようするに、十八世紀前半、播磨地方に存在した武蔵・伊織関係の伝承情報に関するかぎり、平野庸脩の記述以上の史料は存在しない。このことを、印南郡米田村説をとる人々もよく考えたほうがよい。

 すなわち、平野庸脩は『播磨鑑』で伊織のことを詳しく伝えているが、それではなぜ、武蔵は米田村生れだという情報を記していないのか。これは同時に、米田村説に対する最大の反問となる。
 それはなぜなのか?
 それは――まさに、そんな「話」は当時の播磨中のどこにもなかったからである。
 平野庸脩は、ほかならぬ米田村隣村平津村に生まれ育って、そこに住居する学者である。距離にして五、六百メートル、歩いて十分ほどしか離れていない。
 庸脩は、自身の地元だから、田原氏のことはよく知っている。「子孫ゆかりの者、米田村に今に在之」と彼が書いているように、伊織の縁者子孫も現に住んで暮らしている。隣村田原氏出自の名士、伊織のことを、『播磨鑑』に詳しく記述しているわけである。
 そして――ここが重要な点だが――もし武蔵が田原氏出自で米田村生れであれば、彼はそのように書いたはずである。
 ところが、この庸脩がそう書いていない。しかも書いていないどころか、彼は、別の場所、揖東郡宮本村だと明記しているのである。
 まさにこの事態をこそ、よく考えるべきであろう




平福 川端の家並景観
兵庫県佐用町平福






佐用郡庵村 現況





左:十二神将立像午神
右:仁王立像  斑鳩寺




昭和二十一年当時航空写真
現在は住宅開発で田畑がほぼ失せたが、終戦直後はまだ古来の集落の姿が殘っていた

 ひとまず要約しよう。我々がこの『播磨鑑』に依拠し、武蔵出生地を、印南郡米田村ではなく 揖東郡宮本村とする理由は、以下の四点に集約される。
 
(1) 武蔵は自身が「生国播磨」とする。では、播磨のどこなのか。
 
(2) すでに前章で検証したように、印南郡米田村説には史料批判に堪えうる根拠史料が存在しない。しかも、地元播磨には、武蔵を印南郡米田村産だと記録した史料は存在しない。
 
(3) 他方、地元播磨には『播磨鑑』という文獻が存在し、そこに武蔵の記事がある。著者・平野庸脩は、播磨のことなら悉く知っていた人である。史学上の通則は、播磨のことならまず庸脩に聞け、である。その庸脩が、唯一、武蔵の出生地に言及したのが「揖東郡宮本村の産」である。
 
(4) 平野庸脩は、武蔵が印南郡米田村の産だとは「書いていない」。それとは対照的に、米田村産の伊織に関する庸脩の記事は、他の追随を許さぬほど詳細である。仮にもし武蔵の産地が米田村だったとすれば、隣村平津村住人の庸脩は、必ずそれを詳細に記述したはずである。ところが彼が記すのは「揖東郡宮本村の産」である。
 
 以上のことは、『播磨鑑』と平野庸脩の存在によって、印南郡米田村説は否定されるということを意味する。
 米田村説を採る人々は、米田村の隣の平津村に住居していたこの平野庸脩の記録を否定できるであろうか。米田村説を採る人々が、自説に合わぬ『播磨鑑』を故意に黙殺しているのは、正しくない態度である。彼らが否定する美作説の人々を嗤えたものではないのである。

 かくして結論を言えば、武蔵産地に関し、播磨説を採る以上は、印南郡米田村ではなく、揖東郡宮本村としなければならない。これを否定する新史料が発見されないかぎり、当面、宮本武蔵の出身地に関する問題は、武蔵は「生国播磨」、しかも「揖東郡宮本村の産」、で決着である。

天理図書館蔵
宮本村とその周辺  (basemap:慶長播磨國繪圖)

 我々の以上の結論に関して、先達がないわけではない。これを明らかにしておかねばならない。
 すなわち、代表的な存在を挙げれば、直心影流の明治の剣客にして『日本剣道史』の山田次朗吉、そして近世書誌学の森銑三である。
 山田次朗吉は、宮本武蔵遺蹟顕彰会本『宮本武蔵』を批判し、また、同書に多くを依拠した吉川英治を、森銑三は批判した。両者がいずれも、そうした「通説」を批判して、武蔵は播州宮本村の生れと主張したのである。このことは興味深いことである。
 美作説を採った宮本武蔵遺蹟顕彰会本『宮本武蔵』に対して、山田次朗吉は「殊更牽強に近き説也」とする。見るべき者が見れば、そういうことなのである。山田によれば、
 
《遺跡顯彰會の宮本武藏傳に由れば作州英田郡宮本村を出生の地とし、同地に存せる墓碑平田武仁少輔正家同人妻於政とあるを無二齋の墓と断じ、其歿年の天正八年四月廿八日とありて、武藏出生の天正十二年と叶はざるを不審り、十八年の誤刻ならんと説き、旦つ武藏が五輪の書に、自ら生國播摩〔ママ〕の武士と書けるをも疑を存したれど確證とし難く、且つ此墓も果して無二齋なるや覺束なし、况〔ま〕して石碑の歿年誤刻など云に至ては殊更牽強に近き説也》
(『日本劔道史』水心社 大正十四年)
 
 この批判の論点は明確である。云うまでもなく、そうした状況は、近年の印南郡米田村説でも基本的には大して変りはない。田原家貞の歿年と武蔵の生年には七年の空隙がある。それを、伊織ら兄弟が建立した墓碑の誤記だと言い張り、『五輪書』に「年つもりて六十」とあるのを、これは六十二歳のことだと強弁する。こうした牽強曲解は、かつての作州宮本村説の症例を反復しているのである。
 また、森銑三のほうは、当時、吉川英治『宮本武蔵』の大人気という状況のなかで、吉川の『随筆宮本武蔵』を批判して、こう書いている。
 
《『随筆宮本武蔵』の本文は丁寧に読んでも見ないが、随分ひどいことが書いてあるらしい。顕彰会本『宮本武蔵』の説をそのまゝ、武蔵は美作に生れたことに極めてしまつてゐる。尤もこれは吉川氏一人ではないが、武蔵自身に『五輪書』に「生国播磨」とはつきり書いてゐるのを、未だに東作誌の記事に引きずられて美作に生れたものとするのは一体どういふ了簡なのだらうか。一通り播磨に関する文献をも漁つて見たらどうであらうか。東作誌よりずつと早く出来た『播磨鑑』に、武蔵の出生地も、養子伊織のこともはつきり書いてあるのに、武蔵の研究家を以て任じてゐて、どういふ研究をしてゐるのかと思はれる。伊織まで播磨の生れとなると、武蔵が出羽国で伊織を獲たといふ名高い逸話はどう解釈したらよいことになるか。吉川氏も、もう一度根本から研究をし直すべきであらう》
(「『随筆宮本武蔵』」『日本及び日本人』昭和十四年十月号)
 
というわけで、なかなか舌鋒するどい。のちに森銑三の説は『宮本武蔵の生涯』(三国書房 昭和十七年)他諸書の中に繰り返し述べられている。森の説には細部に初歩的な誤りはあるものの、彼が明確に『播磨鑑』の記事に依拠したのは基本的に正しい。さすが近世史料に通暁した森銑三ゆえの明察である。
 我々もまた、播磨の地元史料『播磨鑑』の武蔵記事を重視し、これに依拠する点では、森銑三と同じポジションである。そしてさらに言うならば、武蔵研究史において、我々の所説は、森銑三以来、実に六十余年ぶりの播州宮本村説なのである。この研究史における意義は強調しておくべきであろう。




山田次朗吉(1862〜1930)









吉川英治『随筆宮本武蔵』
朝日新聞社 昭和14年




森銑三(1895〜1985)
 むろん、山田治朗吉も森銑三も、史料の時代的制約があって、武蔵を播州宮本村とする以外は、話はかなり胡乱なものである。武蔵「父」新免無二についても、泊神社棟札を知らないから、武蔵の実父だと思い込んでいる。かれらは播磨宮本村説の先達とはいえ、我々との間の研究レベルの落差は大きい。
 では、武蔵「父」新免無二は、どういう出自の人だったのか。
 むろん、『東作誌』のような後代発生した伝説による美作側資料では何もわからない。作州の「平田武仁」を新免無二と同一視する謬説が、今なお存在するが、これには根拠がない。無二が新免家の「家老」だった、武蔵は播州から美作へ行って新免無二の養子になった、とかいう話に至っては、『東作誌』にすら記事のない、近代の空想の産物である。
 それよりもむしろ、無二は播州にいたのではないか。そう考えることも可能である。西播東作を席捲した戦闘のあった天正五〜八年(1577〜80)あたりに、無二の新免家が播州へ退転して来て、小寺(黒田)官兵衛の麾下に入った可能性がある。官兵衛は、当時、秀吉から揖東郡や宍粟郡に領地を与えられ、新興豊臣大名になった。
 もう一つの可能性は、無二の「新免」が作州在新免氏ではなく、播州にいた新免氏ではないかという点である。たとえば、黒田二十四騎の菅六之助正利(1567〜1625)は播州生れだが、その家は本来、菅原道真末裔という美作の顕族菅氏一党である。それが祖父の代に美作から播州龍野の近所の揖東郡越部へ移った。『菅氏世譜』(貞享四年・貝原益軒序、明和七年・加藤一純増補)によれば、こうである。
《父は七郎兵衛と號、諱は正元、後に剃髪して一翁と稱す。天滿天神の苗裔なる故に菅を以て姓とす。其先祖は美作の國の人なり。菅四郎佐弘、同五郎佐光、同又三郎佐吉などゝいひし者、後醍醐天皇の為に忠戦有し事、太平記にも記せり。是皆正元の先祖也。正元の父何某、美作の國を去て播磨國に來り、越部の邑に在て近邊を切随へ、小城を搆て住めり。正元も父の跡を續て其家盛なりしが、後に家門衰へ、嫡子正利を黒田孝高公に預け、其身ハ播州に留り住す。天正十五年、正利は孝高公に從て豊前へ下りける》
 菅六之助正利の家は、祖父の代に播磨へ流れてきて、(揖東郡)越部村に居ついた。菅六之助はその家に生れた。つまり菅六之助の家は「播州の菅氏」である。こういう例もあるわけである。
 したがって、無二の「新免」も、本来は作州だが、菅氏と同じように本国を退転して、播州へ移ってきた家だった可能性がある。このかぎりにおいて、後世の伝説にあるごとく、無二は「播磨人」とするのは、結論だけ取ってみれば間違いではない。今日でも新免を名のる家が播州にはある。したがって、新免を名のるからといって、実際は、作州生まれとはかぎらないのである。
 すでに綿谷雪が紹介していたことだが、『菅氏世譜』によれば、菅正利は身の丈六尺二寸の大男で、「新免無二助」に剣術を習い、その後疋田文五郎(豊五郎)にも学んで、新免無二と疋田の二流の奥義を究めたという。
 『菅氏世譜』は新免無二と菅六之助の関係を示す珍しい資料である。これは、『黒田家譜』と同年の文書である。しかも貝原益軒が序文を書き、甥の好古が編纂したというものである。早期の無二関係記録(貞享四年)であるが、むろん後世の伝説記録である。ただ、無二が播州時代の黒田勢と関係があったことを示唆する点、注意されるところである。
 菅六之助が官兵衛のもとに出仕したのは、天正九年(1581)十五歳のときである。当時、秀吉の播磨制圧が完了し、功のあった官兵衛が、揖東郡に一万石の知行を得たばかりである。あるいは新免無二も揖東郡あたりにいて、官兵衛の与党になったのかもしれない。
 いづれにしても、無二はその後、官兵衛以下黒田勢が豊前へ移るとともに九州へ行ったらしいのだが、無二の新免家がいかなるものであったか、不明である。これについては、泊神社棟札の伊織は何の記述もしていない。
 ただし、筑前黒田家中には、新免無二についての伝説もあったようである。立花峯均の『丹治峯均筆記』所収「兵法大祖武州玄信公伝来」によれば、無二について、
    《邦君如水公ノ御弟、兵庫助殿ノ与力也》
と記す。兵庫助利高(1554〜96)は、播州姫路生れ、小寺職隆二男。義兄官兵衛に付いて播州時代以来戦歴がある。天正十五年(1587)の豊前入国後は一万石、高森城主となった。無二はこの兵庫助利高の与力(外部協力者)というから、黒田家家臣ではない。ただし、新免無二は、伊織の棟札記事によれば、天正年間に筑前秋月城で死んだ。とすれば、それは秀吉の朝鮮役以前のことであり、無二は黒田勢と同道で九州へ来ていたが、それもまもなく死去したことになろう。
 これに対し、もう一つ、黒田家中での無二伝説を示す史料があって、黒田家士の分限帳に新免(新目)無二の名がある。これは慶長年中の所属家臣のメンバーリストなのだが、もとよりオリジナルではなく明治の写本であり、その内容も無二に関しては後世の記入が明らかな記事である。ようするに、無二が黒田家臣になったという証拠にはならない代物である。
 また上記の筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』には、関ヶ原合戦の時期まで無二と黒田家との関係を示す記事があるところをみると、新免無二の伝説は黒田家中で、武蔵の名とともに成長したようである。黒田家中には吉田実連以下の筑前二天流の道統があった。
 ただし、播磨の地縁を考えれば、新免無二は、播磨で黒田家周辺にいたのであろうし、また、天正十五年(1587)の黒田家豊前転封の際に九州へ行った可能性がある。無二と黒田勢との関わりは、おおむねありうべきこととして認めてよいだろう。

*【日本剣道史】
《武藏の祖先は播州赤松氏の族で、新免伊賀守と謂て、揖東郡林田の城主であつた。武藏の父は其苗裔で、宮本無二之助一眞と呼んだ》





個人蔵
菅六之助正利像


個人蔵
菅氏世譜


*【菅氏世譜】
《正利ハ、新免無二助に劔術をならひ、其後、疋田文五郎にも學び、二流に達して奥義を究知れり。長政公筑前に入國し給ひて後、何國の者なりしにや、劔術之名人とて、長政公に仕へん事を求て來れる者有り。正利に命じ福岡の城本丸におゐて、木刀にて仕あひをさせられしに、三度打合て三度共に正利勝けれバ、劔術者恥かしくや思ひけん、其後ハいずく共なく逐電したりとなん。正利ハ身の長六尺二寸有り、力群に勝れたり。天性勇猛の質有るのみならず、仁愛の心ふかく、忠義の志淺からず。智恵才力も人に超たりしとかや》




国立国会図書館蔵
黒田如水像
 播州の宮本村ということに関連して、ここで、再考しておきたいのは、武蔵の「宮本」という姓のことである。
 武蔵が、いつどういう理由で「宮本」を名のるようになったか、伊織は記していない。武蔵は作州新免氏に連なる無二の家を嗣いだが、泊神社棟札に伊織が述べるところでは、武蔵は後継者なくして死んだ無二の家を嗣いだのであって、無二生前の養子縁組ではない。とすれば、武蔵が「宮本氏」に変えたのは、なぜか。なぜ、「宮本」でなければならなかったのか。この理由はついに不明である。
 ただ、こういう推測も可能だろう。――つまり、武蔵は、播州姫路で「宮本」を名のるようになったと。武蔵は、三木之助を養子にして、姫路城主・本多家に仕官させ、知行七百石の家を創設したが、そのときの家が「宮本家」である。この家名は、姫路からほど近い、自身の産地故郷の地名を採ったのだろう。すなわち――おれはあの「宮本」の者だと。
 播州姫路で武蔵が「宮本」を名のるとすれば、まずそんなことであっただろう。武蔵が揖東郡宮本村を出生地とするとすれば、その「宮本」という姓がこの地名に由来するのは、見やすい道理であろう。
 宮本村の「宮本」とは、神社の宮もとにあるからである。これは、現在「石海〔せっかい〕神社」という名になっている。これは元禄の頃まではその名ではなかった。神社そのものは旧い。
 この神社については、若干述べることがある。
 祭神は舎人〔とねり〕親王。天武天皇の第五皇子で、淳仁天皇(大炊王)の父。文武天皇の代、穂積・刑部親王死後、国政の重鎮となる。太安万侶・紀清人らとともに「日本書紀」の編者でもあった。死去に際して贈太政大臣、その後、淳仁天皇の代に「祟道尽敬皇帝」の追諡があった。
 古文書に拠れば、京都の神祇管領卜部氏から祭事を認証された神社であり、石海神社の元の正式名は「祟道大明神祟道天王両社」である。舎人親王を祭神とする有名な神社は、京都伏見の藤森神社である。これと同系である。
 近代に入ってはただの郷社にすぎないが、往時はどうであったか知れない。『播磨鑑』には、「石見神社 揖東西両郡 石見荘」とある。
 この石見荘じたいは古い。すでに『播磨風土記』に、石海〔いはみ〕の里、土地は上の中として――孝徳天皇の代のこと、この里の中に百便〔ももだる〕の野あり、一本の茎からから百の枝が生える稲が生えていた。そこで安曇連〔あづみのむらぢ〕百足〔ももたり〕がその稲を取って献上した。その時天皇が「この野を開墾して田を作れ」といった。早速安曇連太牟〔たむ〕を遣わして、石海の人夫〔おおみたから〕を召し寄せて田を作らせた。そこで、野を名付けて百便〔ももだる〕といい、村を石海と名付けた――という風土記流の地名起源説話がある。
 この地域は戦国期、赤松三十六家の一つ、石見〔いわみ〕氏の本拠である。現在のこる地名は、石見刑部大輔依定とか船代右馬五郎秀景といった戦国の国人らの氏の呼称の元である。彼らは石見の依定であり、船代の秀景だったのである。
 かくして播州宮本村は、石見〔いはみ〕庄の氏宮、石見神社の宮もとにある村だった。この点、作州の宮本村とは違って、古くから存在した村である。とはいえ、そこに、武蔵の遺跡があったかというと、そんなものは残っていなかった。
 そのように武蔵の遺跡が、この播州宮本村には全く存在しないことについて、それを難点とする者がある。たしかに『播磨鑑』の平野庸脩も、宮本村に物証や遺跡があるとは書いていないから、すでに江戸中期には、何も痕跡はなかったとみるべきである。
 しかし、宮本村に武蔵の遺跡がない、物証がない、というのを、ことさら問題視するのは、当時の武士の人生原理を知らぬからである。宮本村に武蔵の遺跡がないのは、むしろ当然の事態なのである。いささか啓蒙が懇切に過ぎるかもしれぬが、それがわからぬ者のために、以下若干の解説をしておく。
 同じ播磨を本国にする武士なら、九州筑前で五十余万石の大大名になった黒田家の重臣たち、いわゆる黒田二十四騎の者らを例にとってみればよい。周知のごとく、この黒田家重臣らの集団はほとんど播州人で構成されていた。そして彼らの氏名〔うじな〕には、本地の村名をとどめている例が少なくない。
 では、播磨を本国とする彼らの遺跡が、その出身地に残っているか。答えは否である。彼らの遺跡は、播磨にはまず残っていない。いかに九州で大身になった者でも、本国播磨には何も遺跡がないのである。
 たとえば、母里太兵衛(1556〜1615)は知行一万八千石、飾東郡妻鹿村(現・姫路市飾磨区妻鹿)の生まれらしいが、その物証が現地妻鹿にあるか。後藤又兵衛(1560?〜1615)一万六千石、播州では古い後藤氏の出で神東郡山田村(現・姫路市山田町)の生まれ。しかしその産地物証が現地山田にあるか。栗山四郎右衛門(1551〜1631)知行一万五千石、飾西郡栗山村(現・姫路市手柄)の生まれだが、その遺跡が現地栗山にあるか。同じく一万六千石の井上九郎右衛門(1554〜1634)は飾東郡松原村(現・姫路市白浜町)の生まれ。だが、その物証が現地白浜にあるか。菅六之助(1567〜1625)は虎退治で有名な豪傑で、知行三千石、祖父の代に播磨へ流れてきた「播磨の菅氏」で、揖東郡越部村(現・たつの市新宮町)の生まれだが、その遺跡物証が現地越部にあるか?
 これらはどのケースも答えは否である。もちろん、これら以外の者についても、たとえその家が筑前福岡で子々孫々存続したとしても、本国播磨には何も遺跡がない点では同様である。
 たとえば、その故地が明らかなケースでは、八代道慶を父とする吉田六郎大夫(1547〜1623)は、八代村(現・姫路市八代)の出身。その子孫は黒田家の家老職になっており、十八世紀の享保の頃に至って、ルーツ探しを試みたが、先祖の氏宮を特定できたのみであった。どこに先祖の屋敷があったとも知れなかったのである。
 あるいは、桐山孫兵衛(1554〜1625)は、筑前で知行六千石。家譜によれば、先祖は代々因幡国桐山を根拠とした武家だったが、戦国のこととて城地を退転して播州に流れてきた。桐山孫兵衛は播州生れ、幼年から小寺職隆に出仕したのだから、譜代家臣の中でも古参である。後の系図一書に桐山孫兵衛を姫路生れとするが、家譜は孫兵衛を播州生れとするのみで、播州のどこか具体的な地名を記せないでいるから、遺跡の有無どころではない。
 それゆえ、むしろ、遺跡が残った方が異例のことであったと云える。周知のことだろうが、播磨には黒田官兵衛の父祖の墓がある。一つは小寺職隆の墓で、これは妻鹿村(現・姫路市飾磨区妻鹿)にあり、もう一つは、黒田重隆の墓で、これは御着宿(現・姫路市御国野町御着)にあった。

黒田(小寺)職隆廟
姫路市飾磨区妻鹿


御着黒田家廟所
姫路市御国野町御着

 大名家の先祖だから先祖墓が残っているのは当然と思うのは、しかし、早とちりというものである。実は、江戸中期、重隆の墓も、職隆の墓も、所在不明になっていたのである。九州筑前の五十余万石の大大名、黒田家にして、こういうことであった。
 この二ヶ所の墓が発見されたのは、里民の口碑伝説を真に受けて信じた、入誉という姫路心光寺の僧があってのことである。しかも時は、天明、寛政のころ、つまり、十八世紀も後期末期になってはじめて、黒田官兵衛の「父」たちの墓が、二百年ぶりに発見されたのである。かくして、廟所が整備され霊屋が建てられたのだが、『黒田家譜』のフィクションに遮られて、黒田家のルーツは、今日いまだに見失われたままである。(この件に関心のある向きは、別掲[サイト篇]姫路城下2 附録「黒田家前史小論」参照)
 大名黒田家にして、こういう有様なので、その家臣の故郷に遺跡物証等、痕跡があるわけがないのは、いわば当然なのである。
 戦国末期の武士たちがその故郷に痕跡を残さないこと、それはかくもあっさりした潔いものであった。これと同じことは、我々の宮本武蔵にも言える。武蔵の遺跡は宮本村にはないし、また播磨の他の土地にもない。黒田家の家臣たちの故郷の痕跡状況をみれば、それは異例のことではなかった。
 したがって、ここで再確認すべきは、宮本村に武蔵の遺跡がないのは、当時の武士としては、むしろそれが普通のことだったということである。
 武蔵当時の武士は、大いなる社会的流動状況の中にあった。武士は、土着的な民百姓とは異なり、本質的にデラシネ(根無し草)であり、新天地を求めて潔く故郷を捨てた。そのような人生原理は、武蔵の世代にもなお共通していたとみえる。
 それゆえ、この当時のケースでは、遺跡物証が残っている方が異例であり、もしそれが存在したとしても、後世の新造遺跡であろう。明治になって神社が焼けて武蔵の記録が失われたらしいという者があるが、それは近代の俗説である。少なくとも、すでに江戸中期には、武蔵が揖東郡宮本村産だという口碑以外には、何の物証痕跡もなかったのである。それは重々確認されるべきポイントである。


「新免」武藏玄信
小倉碑文拓本 部分




石海神社 兵庫県太子町宮本



祟道大明神祟道天王両社
神祇管領神職補任状 宝永七年











黒田二十四騎産地マップ





黒田二十四騎図



















[サイト篇] 姫路城下2
附録「黒田家前史小論」→   Enter 






「揖東郡宮本村」現況
 改めていえば、武蔵養子伊織が一人称で誌した泊神社棟札によれば、武蔵の代になって「宮本」という苗字を使いはじめた。とすれば、この名は新免無二とは関係ないことである。
 この「宮本」は、武蔵による新たな通称であり、これは龍野城主だった赤松広秀が領地を退転してのち「斎村」を名のったというのと同じく、地名からする苗字であっただろう。
 黒田官兵衛にしても、「小寺」官兵衛を名のった。これは主人小寺氏から同姓「小寺」を許されて、それを名のったというのが、『黒田家譜』の所説である。ところが、実際に播州の伝承としてあるのは、小寺官兵衛孝隆は、黒田重隆の子で、小寺職隆の猶子になったということである。『黒田家譜』の貝原益軒は、播州のことを知らずに、専ら近江の六角氏文献『江源武鑑』という怪しげな書物に依拠して黒田家前史を書いてしまったわけである。それはともあれ、官兵衛の代に復姓したか否かは実際には不明だが、その子・長政は、原姓の「黒田」氏にもどっている。
 黒田家もブランド・シンボルのエンブレム(家紋)は、藤巴である。この藤巴は、赤松氏のエンブレム「左三ツ巴」をベースにしたものである。藤巴はこの三ツ巴に対し装飾的である。
 この記号は、播州赤松氏に自家の「氏」の由来があるとの標識であるが、ある意味では、内容を欠く形式であり、いわば、シニフィエなきシニフィアン(signifier without signified)である。まことに「氏〔うじ〕」とは複雑微妙なものである。
 新免氏のエンブレムは、赤松氏一統共通の紋章、三つ巴である。ただし藤原氏北家公季の系統には、三つ巴を家紋とする例もあると聞く。だから、新免氏紋章の由来は実はわからない。ともあれ、新免氏を名のる武蔵は、この三つ巴を自身のブランド・シンボルにしたことであろう。
 もっと興味深いこともある。というのも、かの宮本村の石海神社の紋章が、まさに三つ巴であることだ。神社の軒瓦にはずらり三つ巴が並んでいる。赤松末流だらけの播州では珍しくはない光景ではあるものの、この神社の軒瓦は武蔵出自研究に関して何を示唆するであろうか。
 こうした紋章のシンボリズムの痕跡を検証することが、ある意味で些細ではあるが重要なことである。そんなところに思わぬ手がかりがあるかもしれない。
 我々はまさにここから、たとえば小倉碑文のいう「播州赤松末葉」のもう一つの含意を知るのである。すなわち、武蔵の実家が、この揖東郡で赤松一統に連なる氏族であったとすれば、これは別の意味での「赤松末葉」なのである。
 とすれば、武蔵は徳大寺から派生する新免氏であるかぎりにおいて「藤原」玄信であり、また一方、宮本姓を名のる以上は「赤松末葉」である。この点では、最初「藤原」貞次を称した「宮本」伊織が、村上源氏の赤松末葉として「源」貞次を途中から名のり始めたのにも、理由があるわけだ。

 ちなみに言えば、宮本伊織家の家紋は「九曜巴」だという。とすれば、それは右のようなものである。たしかに、赤松そして新免の、三つ巴は見ての通り失われていない。九曜巴は三つ巴とあまり区別なく使用されることがある。
 ここで興味深いのは、もう一つの宮本家のことである。つまり、伊織の宮本家は明石時代にはじまるが、それより先に、武蔵は養子三木之助を立てて姫路で宮本家が創設したのである。寛永のある時期、播州の姫路と明石で二つの宮本家が同時並立したのである。
 姫路の宮本家は、その後本多家転封により大和郡山へ移る。このあたりは、本サイトの別論文で詳述されているが、三木之助の甥に宮本小兵衛という人物があり、彼が残した宮本家の由緒書が『吉備温故秘録』に収録されている。
 それによれば、三木之助は武蔵の養子となり、本多中務(忠刻)に近習として仕えたのだが、宮本家の家紋として「九曜巴紋」を付けるようにとの忠刻の「御意」で、それを付けるようになった、この九曜巴は本多家の「御替御紋」だと聞いている、とのことである。
 つまり、三木之助は自家の家紋として、本多家の替紋を頂戴したというのである。本多家の家紋は立葵なのだが、替紋に九曜巴があったとは我々は確認していない。この由来の当否はともかく、伊織の宮本家でも同じ九曜巴を用いた。とすれば、伊織の明石宮本家より成立の早い姫路宮本家から、九曜巴を用いはじめたということである。
 このことから明らかであるが、九曜巴は伊織の宮本家に限ったことではなく、武蔵の宮本家の紋章はいずれにしても九曜巴であった、ということである。つまり、姫路の宮本家で九曜巴を使い始めたとすれば、武蔵は姫路ではじめて「宮本家」を設けたのである。それ以前には、新免無二から受け継いだ新免家はあっても「宮本家」はなかった。
 それゆえ、武蔵が「宮本」姓を名のるようになったのは、姫路の宮本家創設以来だということである。これは確認しておくべき重要事項である。

 ともあれ氏姓のことで言えば、「新免武蔵守藤原玄信」という武蔵のフォーマルな名のりでは、氏は「新免」、職名は「武蔵守」、姓は「藤原」、諱〔いみな〕が「玄信」ということになる。「新免武蔵守」は、作州の新免伊賀守・新免備後守・新免隠岐守などと同類の家の職名である。武蔵は、(おそらく播州へ流れた)新免氏の枝派である新免無二から、「武蔵守」という職名を有する家を嗣いだのである。
 注意すべきは、武蔵の「氏」〔うじ〕は最後まで藤原姓の新免氏であったことである。武蔵は通称として「宮本」という苗字も名のった。そういう氏と通称との使い分けは承知しておかねばならない。
 「氏」はフォーマルな(公式の、あるいは形式上の)名称である。ただ、伊織以後の時代になると、そんな「氏」のニュアンスが忘れられ、苗字・姓との使い分けも不明になり、両者が混同されるようになる。
 そうして後代の我々は、武蔵のことを、「新免玄信」とは呼ばず、「宮本武蔵」と呼ぶのである。
 しかしながら、武蔵が「宮本」を名のったことにより、我々は何ごとかを教えられているわけである。言い換えれば、武蔵産地という問題の解答は隠されていたのではなく、まさしくはじめから、我々の眼前に露呈されていたのである。





藤巴 黒田氏家紋


三つ巴 赤松氏・新免氏家紋





石海神社の瓦 三つ巴







九曜巴 宮本伊織家家紋


*【吉備温故秘録】
《宮本三木之助 [中川志摩之助三男にて、私ため實は伯父にて御座候] 宮本武藏と申者養子に仕、児小姓之時分、本多中務様へ罷出、七百石被下、御近習に被召出候。九曜巴紋被付候へと御意にて、付來候、御替御紋と承候。圓泰院様〔忠刻〕寛永三年五月七日御卒去之刻、同十三日、二十三歳にて御供仕候》











有馬直純宛書状 吉川英治記念館蔵
宮本武蔵署名
有馬直純宛書状表書

慶長播磨国絵図 菅幡山画 武蔵像


編 集 後 記

 以上が、武蔵産地に関する播磨武蔵研究会の所説である。
 この「武蔵の出身地はどこか」と題する研究プロジェクトの諸論攷全体を概観すれば、所論はまず、美作説を否定し、次に、播磨説の最有力たる印南郡米田村説をも却下したのである。この方法は、いわゆる「消去法」であり、また部分的に「帰謬法」と呼ばれる操作も用いている。ポジティヴな根拠がない場合、こうしたネガティヴな方法に拠るのが最も確実である。
 しかし『播磨鑑』と同書を誌した平野庸脩について十分研究すれば、むしろポジティヴな根拠として「揖東郡宮本村」が我々に与えられていることを知りうるのである。「播磨の武蔵」に関して、彼、平野庸脩以上の情報源は今のところ何処にも存在しない――この単純な事実が、武蔵研究において、今まで殆ど認識されていなかったのである。
 本研究諸論述の方法論としては、史料を広範に漁渉するのではなく、思い切って根本資料を限定し、そこからいかなる結論が可能かを探究するというものであった。それは、吉川英治がすでに揶揄しているごとく、まさしく、信憑性のある史料が、武蔵に関してはほとんど存在しないからである。
 厳密な史料批判に堪える史料は、偶然にも武蔵の言う「生国播磨」に二点だけ存在した。それが、伊織自撰の泊神社棟札と、平野庸脩の『地志播磨鑑』である。我々が依拠しうる根本史料は、まさにこれらのみである。残余は全て、史料批判に照らして二次的な資料である。
 武蔵の産地に関し、これを播州揖東郡宮本村と特定する結論は、むろん若干の先行者を有するものである。しかるに本研究諸論攷はその閾に留まるものではなく、ご覧の通り、その論証において武蔵研究史上未聞の厳密性を示している。それらは本サイト[資料篇]に公開されている泊神社棟札の読解をはじめ「地志播磨鑑」の、精密な読解作業を通じて獲得された結論である。もとより、これと比肩する水準で武蔵の産地を論じ得たものは、武蔵研究史のなかにはこれまで存在しなかった。
 これはある意味で不幸な情況であったと言わざるをえない。なかでも、従来の美作出生説のみならず、播磨説において泊神社棟札に関して謬説が流通しはじめているのは、まことに憂慮すべき事態である。
 最近では少なからぬ者らが、泊神社棟札の記事に言及し、そこから武蔵が米田村田原氏に生まれたという「結論」を発表している。ところが、以上の本論で幾度か言及されている通り、武蔵の出自について棟札は何も述べていないのである。記事に直接存在しない結論を導き出すのは「推論」であるが、本研究諸論に示された諸説分析に詳述論証されているように、それが根拠を缺く推測・憶断に過ぎないことは明らかである。
 ところが、世間ではそうした「推測」部分がいつのまにか脱落して、定式化された結論だけが 独歩するらしく、ついには、「泊神社棟札には、武蔵が印南郡米田村に生まれたと記されている」との、耳を疑う言説が行なわれるようになった。
 たとえば先頃、NHK大河ドラマ恒例の御当地紹介で、この泊神社棟札のことを紹介したまではよいが、まさに上記の「棟札には、武蔵が米田村に生まれたと記されている」との言説が、公共放送で行なわれたそうである。何者の作稿に拠るものかは知れぬが、こうした妄言が流通し流布しはじめているのである。
 まさに、そうした情況であるからこそ、本研究プロジェクト諸論攷の公表は必要だったのである。言うならば、武蔵産地に関して、かほどまでもお粗末な言説が繁殖横行するのは、まさに武蔵研究の水準が従来低すぎたせいなのである。仍って研究者の恥とすべき事態である。
 武蔵研究史を回顧するに、出生地論争は長らくデッドロック状態にあった。研究は袋小路を脱しえないままであった。その意味で、本研究プロジェクトの成果は待望されていたものであり、これが武蔵研究史において画期を為すものであることは、一読、明白であろう。今後の武蔵研究は、ここに公開発表された諸論攷に依拠せざるをえないであろう。
(平成十五年二月一日 播磨武蔵研究会)


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