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せたがや百景 NO.20
さぎ草ゆかりの常盤塚
  世田谷城主吉良頼康の側室常盤の悲しい物語にまつわる塚が、上馬のまちの家と家との間にひっそりとある。常盤の放った白鷺があわれ頼康の鷹狩の手にかかり、その骸を葬った地には一面のさぎ草が咲いたという。現代のまちの中に伝説を蘇らせる一隅の小風景だ。(選定当時の紹介文の引用)
場所:上馬5−30−19(住宅街の一角に埋もれています)
備考:ーーー
*****  写真での紹介  *****
敷地の全景(入り口から)
常盤塚
常盤塚の裏側
伝承が書かれた石碑
(昭和58年11月吉日 常盤塚顕彰協賛会建立)*現、常磐塚保存会
常盤塚の裏側の塚
常盤橋の石盤、欄干?
ボロ市通りのホタルとさぎ草祭り
鷺草(さぎ草)
*** 感想など ***
  常盤塚は常盤伝説に基づいて造られたものです。常盤伝説とは、今から400年以上も昔の戦国時代に実在したとされる七代目世田谷城主吉良頼康とその側室常盤にまつわる話です。頼康は常盤(家臣である奥沢城主の娘)を側室に迎え、とても寵愛しました。しかしながら他にも多くの側室を持っていたので、ないがしろにされる側室はたまったものではありません。妬みの対象となったようです。そして側室になり2年の月日が経った頃、常盤は懐妊しました。子供のいない頼康を始め、家臣などはたいそう喜んだものの、妬んでいる他の側室にとってはうれしいはずがありません。策を謀って常盤が寵臣の家臣と密通していたと頼康に進言しました。すると頼康は激怒して、まず寵臣とその家族を殺しました。危険を察した常盤はせめて子供が産まれるまでは身を隠そうと城から脱出したものの、身重の体では到底逃げ切れるはずもありません。覚悟を決め、「君をおきて仇し心はなけれとも 浮名とる川 沈みはてけり」と頼康宛てに辞世の句を残し、この地で自害して果てました。常盤19歳、胎児は8ヶ月だったそうです。後日、家臣の進言で真相を知った頼康はたいそう憤り、そして嘆き、この事態を企んだ側室13人を打ち首にしました。それらも13塚と呼ばれ、常盤塚と共に街道沿いにあったそうです(環七を通した際に撤去されたようです)。胎児は近くの駒留八幡神社に若宮八幡宮として祀り、常盤も弁財天を勧請して常盤弁財天として祀られました。とまあ、こんな駄目な殿様では先が長いはずもなく、その後北条家からの養子(8代目)に家督を奪われ、北条氏の滅亡と共に消滅してしまったそうです。

  この悲しい伝承は江戸時代の刊本「名残常盤記」に書かれていたそうです。とはいえ、常に伝説とは様々な脚色がついてしまうものです。例えば、常盤の腹から出てきた胎児の胞衣に吉良氏の五七の桐紋が現れたとか。鷺の宮の霊が頼康に真相を語ったとか。こういったことは明らかに後付けです。どこまでが史実でどこまでが作り話なのかは分かりませんが、実際に頼康には実子がなくて、小田原北条氏から入った妻子に家督を譲っている事を考えると、少なからずこういったお家のごたごたがあったと考えるべきではないでしょうか。ただ常盤塚や十三塚というのは他の街道沿いにもある風習ですし、そういった風習とお家のごたごたが混じって常盤伝説が生まれたと考えるのが妥当なところかなと思えます。しかしながらこのような話ってどこにでもあるんですね。世田谷はそういった話や伝説など無縁な地域かと思っていたので、世田谷にもあったんだとちょっとうれしく思ったりもして・・・。というのが正直な感想でした。

  伝説に戻ると、常盤が飼っていた鷺を放し、その鷺を奥沢付近の狩場で射止めたのが頼康で、それが縁で二人は知り合いました。射止めた際に鷺の足に手紙がくくってあり、これは誰が書いたものか、ってな感じで探したそうです。そして頼康が鷺の遺骸を埋めた場所に後日咲いたのがさぎ草だったとかなんとか。・・・う〜ん、なんか自分で書いていてもいまいちよく分からない。それに同じように頼康に嫁いだ北条氏康の娘、崎姫にも同じような話が伝わっています。こちらの場合はさぎ草は出てきませんが、薬師如来様のお告げで白鷺の足に短冊を付けて飛ばし、それを捕らえたのが頼康の鷹だったとかなんとか。とまあ伝説はあくまでも伝説という事でおいておいて、こういったさぎ草や常盤伝説の経緯をくんでか、さぎ草は昭和43年に公募によって世田谷の「区の花」に指定されています。

  ちなみに、さぎ草(サギソウ)というのは、夏に鷺(さぎ)のような形の白い花を咲かせるラン科の多年草です。青森以北を除く日本各地の日当たりのいい湿地に自生します。ただ、近年では湿地帯が少なくなっているのにともなって自生地が激減しています。区内でも伝説にあるように昔は自生していたようですが、現在では自生地はないようです。ただ、伝説の地である奥沢の奥沢城跡地にあたる九品仏の小さな池に区立の鷺草園が作られ、自然に生えていたらこんな風に咲いているんだろうなといった感じで鑑賞する事ができます。数でいうなら大蔵の妙法寺もなかなかのものです。ただここは鉢植えでの展示となります。またボロ市通りでも7月にさぎ草の市が開かれていたり、区の広報をみると春先などにさぎ草の植え方の講習会みたいなものをやっていたりします。どうやら区はさぎ草があふれかえるような町にしたいみたいですね。でも育てるのがちょっと難しいので、なかなか広まっていないのが現状でしょうか。

  さて、その常盤伝説にまつわる常盤塚は世田谷通りから路地にほんの少し入った一角にありました。私的にはちょっと分かりづらかったです。行かれるなら念のため住所を控えて訪れるのがいいでしょう。選定当時は家と家との間にあったようですが、現在では家と駐車場の間になっていました。訪れて一番驚いたのがとてもきれいだったことです。花はちょっと古くなっていましたがちゃんと供えられていて、敷地内にはゴミはなく、手入れが行き届き、荒れた感じがぜんぜんしませんでした。地元の人がやっているのでしょうか。それとも碑の裏側に書かれた常盤塚顕彰協賛会の皆様がやっているのでしょうか。何にしても感心します。ただ、ちょっと古い写真を見ると、竹が生え、樹木が何本かあったようですが、現在ではなくなり、大きな桜の木も枝が折れてみすぼらしい姿になっていました。やはり時の流れとともに存在価値が低くなっているのかなと考えてしまいます。多くの人が訪れるような場所ではないし、中途半端に狭い敷地だし、人目に付かない場所にあるし、・・・と考えると、今後細々と手入れをしてくれている人がいなくなってしまったり、再開発されたりするような事があったなら、どこか他の場所(近くの駒留八幡など)へ移される事もありえるかもしれませんね。

  江戸時代の観光ガイドブック的な存在である「江戸名所図会」にも常磐塚は紹介されていて、「按に、北はしより二十歩ばかり東の方、道より北側に松を植えたる塚あり、是を常盤の墓と云、上に不動の石像あり、又同じ南の方にも塚あり、是なりといえど、いづれが実ばらん」と書かれています。当時は塚の上に石像が置かれていたようですね。石像という事は観音様のようなものが置かれていたのでしょうか。百景に選ばれる前の古い写真を見ると、石像ではなく、小さな塚(盛り土)の上に小さな木製の社が建っていました。塚には伝説通り松があり、常盤伝説はあながち伝説ではないかも・・・と思ってしまうような雰囲気が感じられました。現在の塚は、一応碑の裏側には盛り土があり、ここが塚だった場所かなと想像はできるのですが、単なる土の山といった感じでちょっと味気ないような気がします。いやこれ以上の贅沢を言ってはいけないのでしょうね。味気ないと言えば・・・、現在のところはすぐそばにラーメン屋があり、換気口がこっちの方を向いているので、塚の辺りはとってもかぐわしい匂いが漂っていました。そういう意味では味気ある場所かもしれませんが、でも戦国時代のお姫様の口に合うのだろうか・・・、トンコツスープって・・・はてはて。

  また、同じく「江戸名所図会」に「二子街道中馬牽沢村世田ヶ谷入口、三軒茶屋の往還角の所より向へ三町計入て、小溝に渡す石橋をしか(常盤橋)名づく」とあり、「江戸砂子」にも「瘧を病む者が常盤橋の辺りに甘酒を供えると忽ち治る」とあります。常盤を葬ったのが常磐塚で、その上に植えられたのが常盤の松で、すぐ近くの小川に架けられていた橋が常盤橋となっていたようですね。現在常盤橋はなくなり、唯一の名残は世田谷通りと環七が交差する陸橋が常盤陸橋となっている事ぐらいでしょうか。それと駒留八幡には常盤橋と記された石盤が置かれています。かつて橋に設置されていたものなのでしょうか。無造作に置かれているし、どう置かれていたのか想像するのが難しい形をしているのですが、これって欄干部分なのでしょうか。そうだとしたらほんの1m程度の小さな橋という事になり、「小溝に渡す石橋」という表現は正に言い得ています。でも小溝に渡す橋に使われていたにしては少々大袈裟な感じもします。今でも世田谷通りはそれなりに往来の多い通りですが、昔も矢倉沢往還として往来の多かった通りです。一説によると常盤塚から世田谷通りを西へ向かって最初の信号付近に常盤番所があり、その壕を兼ねて小川が掘られ、そこに掛けられていた橋が常盤橋と名付けられたのだとか言われています。
<せたがや百景 NO.20 さぎ草ゆかりの常盤塚 2008年6月初稿 - 2009年9月改訂>

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