今回の一応予定である26番・27番・28番・29番の4ヵ所ですが、群馬県のこんなにも北に位置しているということで、一体どんなところなんだろうとちょっと楽しみであったと同時に、スタート地点である高崎からの遠さおよび最寄り駅や各札所の位置関係からして、新上州観音霊場三十三ヵ所巡りにおける最大の難所といっても差し支えないでしょう(※電車+歩きを基本とした巡礼の場合)。 特に JR 線他の鉄道からかなり孤立した場所にある29番・吉祥寺までの片道約8.4km/徒歩2時間という遠距離が曲者であり、当日の朝はなるべく早くから動き出さないとまずいことになりそうだという危機感に煽られて、24日(金)の定時後、PM7:20 発の JR 上越線・水上行きで高崎駅を出発し、PM8:10 頃、沼田駅に到着。 宿を探すのが簡単そうだと判断して潜伏先に選んだ沼田駅でしたが、明かりが少なくいま一つ賑やかさに乏しい駅東口界隈を見渡したところ、ビジネスホテル風のビルディング建造物はなさそうでした。 仕方がないので、駅前通りを流していくうちに行き当たった 「太田屋旅館」 の玄関先を訪ね、出迎えてくれたおかみさんの後についていって案内されて2階の芙蓉の間へ。 純日本風(?)の旅館に宿泊するのはこれが初めてで、電気カーペットと石油ファンヒーターが備えられた畳敷きの和室で暖を取るという、いかにも普通の民家にお邪魔して泊めてもらっているかのような違和感が新鮮でした。 もしかしたら四国遍路の途上でこんな風に接待を受けることになっているかもしれない十数年後の自分を想像させられたりもしながら、ひっそりとしかし大切な節目の一夜を過ごしているかのようにも思えてしまうのでした。

入室してからおかみさんは、宿泊代の伝票清算やら何やらであわただしく出入りを繰り返してから、再び部屋に布団を敷きにやってきました。 その間、「そろそろ寒くなりましたねえ、この辺りもやっとスキー場がオープンですよ」 というような話から入って 「明日は何かご予定でもあるんですか?」 と何気なく聞かれ、この近くのお寺巡りに行くのですと言ったところ、「ああ〜、お寺巡りですか、いいですね」 「この近くにどこかあるんですか?」 とおかみさんは興味を示して問い返してきました。 この近くには三光院というお寺があってかなり貴重な千手観音さまが奉られているらしいです、ということなどを新上州観音霊場のガイドブックを取り出して説明するとおかみさんは、「ああ、三光院さんね」 「仏画を描いたりはなさらないんですか?」 とさらに興味を示し、「 ........ 私は絵の才能はありませんで、せいぜい写真を撮るのが精一杯です ......... 」 と苦笑いした私に、「絵を描くということはつまり、見えないものが見えてくることなんですよね、上手い下手は関係ないの」 という話を熱心に聞かせてくれました。 そして一旦部屋を出てまた戻ってきたおかみさんは、「これも縁ですからねえ」 と言って、葉書大の用紙に描いた自筆の絵を持ってきて私に下さり、それからまた部屋を出てすぐに戻ってきて 「わたしふくろうの絵が好きなんです、なぜかっていうと苦労が無い(=不苦労)から」 と、最近描いたものだというふくろうの絵をもう一つ持ってきて持たせてくれ、そうして最後、「久し振りに元気になったです、すいませんね変わり者でほんとに」 という胸に残る一言を残して階下へと降りていったおかみさんでした。 夜は新型 Genio−e830 の充電を入念に行なってから、11時頃に真面目に消灯。

朝6時半頃に朝食をいただいて、AM7:00 頃、太田屋旅館をチェックアウト。 玄関先まで見送りに出て下さったおかみさんは、雨が降るといけないからと折り畳み式の傘を持たせてくれました。 外に出て沼田駅に直行し、AM7:10 発の下り電車で出発して1駅走って AM7:15 頃、後閑駅に到着。 「月夜野町月夜野」 といういかにもカッコ良さげな地名(※)のついた場所にある曹洞宗のこのお寺、18番・仁叟寺 と見た目の雰囲気が非常によく似ている本堂には御本尊の釈迦如来が奉られており、新上州観音霊場の霊場御本尊は十一面観世音菩薩が 「お駒観音」 として奉られています。 ガイドブックに書かれている 「お駒堂縁起」 によりますと、月夜野出身の江戸材木問屋・白木屋(※「城木屋」 「白子屋」 と表記される場合もあるようです)を営む市兵衛が娘・お駒の供養のために建てたお堂である(=お駒堂)と説明されており、つまりここ嶽林寺は白木屋お駒の菩提寺というわけです。 「白木屋お駒」 とは、現在も歌舞伎等で上演されることが多いという 「恋娘黄八丈(※「恋娘昔八丈」 とも表記?) の主人公ですが、同舞台演劇の題材となった事件は、かの有名な南町奉行・大岡越前の裁きにかけられた史実であることが証明されているそうです。 つまりお駒自身も実在した人物であり、東京都港区芝公園の1丁目と3丁目にそれぞれ所在する常照院および専光寺というお寺にお駒のお墓があるということです。
(※2005年10月1日付で、”みなかみ町月夜野” に住所が変わりました)

また、ガイドブックの文中では 「悲劇の結末」 という短い一言に要約されていますが、調べたところによりますと、加藤剛、いや、大岡越前の裁きによって市中引き回しの上死刑になったお駒は享年24歳の女盛りだったということであり、事件の詳しい顛末がどうであれ私としては、19番・宝積寺 の菊女観世音菩薩に対すると同じような感情移入を携えての参拝となるのは致し方ないところです。 後閑駅に到着後、駅前の県道61号・沼田水上線から月夜野橋を渡って利根川を越え、県道273号から県道253号と辿って上越新幹線の上毛高原駅の方向を目指して歩いていき、AM8:00 過ぎ頃到着。 朝霜と薄氷の景色が続く冬の道中を経てたどり着いた境内入口に立ち、かすむような朝日のまぶしさの中に浮かび上がる 「曹洞宗嶽林寺」 と刻まれた巨大石門を仰ぎ見ていると、聖なる寺域にやってきたという実感と満足感でいっぱいになりました。 そこを入って参道をしばらく歩いていくと、「お駒堂」 と額のかかった小さなお堂に早くも出食わします。 「新上州観音霊場三十三ヵ所」 の綺麗な木看板もそこには掛かっており、たくさんの人がここへお参りにやって来ているんだなと嬉しい気持ちにさせられましたが、まずは御本尊の釈迦如来さまに一言ご挨拶(お参り)するべく、山門から続く石段を上っていってもう一段上にある境内へ。

つけ入る隙のない端正な眺めを誇示する本堂はまさに曹洞宗のお寺ならではといった感じであり、内陣奥に坐す釈迦如来さまの御影は拝めませんでしたが、その表では羅漢たちに見守られ涅槃像となったお釈迦さまが穏やかな笑みをたたえておられました。 改めて石段を下っていってお駒堂の前へ出向き、陽の光で溶け始めた朝霜がピチャピチャと屋根から滴り落ちる音を聞きながら、一応勤行。 「沼田市月夜野町、赤城山、三峰山を一望できる境内は ・・・・・」 とガイドブックにも書かれているように、高台地となっている境内より朝日が射してくる方向を望むと、そのすぐ真下でうす靄を被り赤城山他の諸峰に囲まれた月夜野市街を一望することができ、そのときの幻想的な景観の素晴らしさは、旅人としてこの場所を仮に訪れている自分の身がつくづく残念に思えてくるに十分過ぎるものでした。 ガイドブックにはもう1つ、このお寺および月夜野町月夜野にまつわる逸話として、「義民茂左衛門縁起」 が書かれています。 ”義民茂左衛門さん” というフルネームを持つ人物ということではなく、正義・人道のために一身をささげた民(=義民)として知られる茂左衛門さんを供養するために 「千日堂」 が建てられ、妻・くにのものと一緒に2人の位牌は嶽林寺の位牌堂に祀られているとあります。

「今からおよそ300年余り前、時の上州沼田領城主・真田伊賀守信直は、窮乏した財政建て直しのために無理な検地(税の取立て)政策を打ち出し、滞納者は残酷な刑罰に処せられた。 この状況を見かねて立ち上がった月夜野の百姓・茂左衛門は、領民らの苦しむ様子をしたためた訴状を携えて江戸に渡り、時の将軍・家綱に直訴。 真田伊賀守は領地召し上げとなり沼田城は破却となった。 しかしこれがために茂左衛門は幕吏に捕らえられ、磔の刑に処せられた ・・・・・」  という事のあらましを経て建てられたという千日堂ですが、ガイドブックには 「お駒堂と飛び地境内にある」 としか書かれておらず、付近一帯の探索をしばらく試みるも発見することはできませんでした。 仕方ないので山門前のお地蔵さんのところに浄財300円を託して、AM9:10 過ぎ頃お寺を出発。 しかし後閑駅まで歩いて帰る途中の道端に 「茂左衛門地蔵尊入り口」 という看板があるのを発見し、それに従って進んでいって千日堂に無事到着。 場所的には、月夜野橋を渡り県道273号線に入ってすぐのところが入り口となっています()。 広い敷地の一角に見つけたお堂のたたずまいからは、お地蔵さんとなった茂左衛門さんの人徳そのものが今でも慕われていることが、遠眼からも一見して伝わってくるかのようでした。 AM10:05 頃、後閑駅に帰り着き、AM10:45 頃発の高崎行きで後閑駅を発ち、AM10:50 過ぎ頃、再び沼田駅に到着。

太田屋旅館のおかみさんも知っていた天台宗のこのお寺、1324年の開創以来、沼田氏代々の帰依とともに法灯を守り続けてきた古刹であると紹介されています。 それに続くガイドブックの説明によりますと、御本尊として観音堂に安置されている十一面観世音菩薩像について、高さ186センチの漆箔仕上げ、両眼は水晶の玉眼入りで額の白毫(=びゃくごう : 仏の眉間にある白い毛。光を放つといわれ、仏像では水晶などをはめてこれを表す)は金属製、昭和29年に県の重要文化財に指定された ・・・・ 等々といかに物凄い傑作であるかをひたすら誉めちぎる内容が書かれています。 文永11年(1274年)の制作であることも判明しているというこの十一面観世音菩薩像がこのお寺の御本尊となった由来について、同じくガイドブックによりますと、八代目・沼田景朝が応永12年(1405年)、利根への侵入を試みた村上出羽守への報復のため小窪(国分)の町を焼き払ったその際、どさくさに紛れてどこかのお寺から持ち帰ってきたのが始まりとされます。 そして最初は天照寺というお寺に安置されていたところが、後に盗賊によって盗み出される事件が起きたのを契機に現在の三光院に移されたと説明されています。 さらにはその後、先の 「義民茂左衛門縁起」 の中で登場した沼田城主・真田伊賀守にも目をつけられ、伊賀守の祈願所である常楽院に移されそうになったのを時の三光院住職が断ったため、伊賀守の反感を買って寺は一時期難渋せねばならなかったなど、名立たる傑作であるからこその波乱万丈の来歴を秘めた御本尊・十一面観世音菩薩となっているようです。

沼田駅を出発後、市街地を見下ろせる高所となる北東方向に登り進んでいき、沼田公園の横を通り過ぎ、結局 GPS が受かることのないまま自力で地図を見ながら歩いていって、AM 11:20 頃到着。 地域密着型のお寺であることが一見してわかる飾り気のない小ぢんまりとした境内には、焚き火の炎と煙と、それを囲む作業員風出で立ちの人々とで何やらごった返していました。 見ると、「柳町クリーンクラブ」 と書かれた軽トラックが数台乗り入れており、初詣客を出迎えるための一斉清掃作業のようなことが町内をあげて行なわれている最中のようでした。 気恥ずかしさのあまり逃げ帰りたくなってしまうところでしたが、そんな弱気を振り払って本堂の写真撮影などを恐る恐る行なっていると、焚き火にあたっていたお爺さんから 「ご苦労様です」 と最初にお声かけをいただき、「新聞社の人?」 「何かの宣伝にするの?」 というようなことを聞かれました。 一応観音霊場の札所巡りということで個人的趣味のような感じでまわっているのです、とガイドブックを取り出して説明していたところで、さらにもう一人、町内会長さんのようにも見受けられた背広姿のお爺さんも話に加わってきて、そして 「ここには観音さまはいないよ、もうあっち持ってったから」 と、どこか別の方向を指差しながら話してくれました。 ............. 今のこの御時世になってもまだ付け狙われる運命にあるとは、何ともいやはや、と感銘を受けたと同時に、そこまでの傑作なのであれば是非とも直に拝みたかったと悔やまれるところでもありました。

とはいうものの、まったく別の遠い他所へ持っていったということではなく、観音堂の裏は地盤も悪いしもし何かあったら大変だから、と去年移されたというすぐ近場の安置所に2人のお爺さんに案内されて行ってみると、一見ミニ教会風にも見える強固な建物の前で 「県重要文化財 十一面観音」 と刻まれた石碑が鈍い光沢を解き放っていました。 これならもうルパン三世でもない限り盗まれる心配はなさそうである反面、一般の参拝者が御影を拝むことはもはや絶望的といった状況で、毎年元旦に一度の御開帳とのことでしたが、「それでも見せすぎだって怒られてんだよ」 と言って笑った背広姿のお爺さんの一言に、このお寺・三光院の寺宝である十一面観世音菩薩像の傑作振りを改めて再認識するしかありませんでした。 それから境内に戻り本堂や仏殿その他を写真撮影しているとまた別の人から 「ここに珍しいのがあるんだよ」 とお声掛けいただき、隠れキリシタンのお地蔵さん(※持っている錫杖に十字架が刻まれている)があるのを見せてもらったりするなど、とても温かな接待を受けているような気分でした。 それから頃合を見計らって十一面観世音菩薩さまの安置所前へ再度赴き、一応勤行。 そして一言ご挨拶してから引き揚げようと思ったのでしたが、お昼休憩に入ったのか誰一人姿が見えなくなっていた境内では、ほのかな余情を宿しながら焚き火の燃えかすだけが煙っていました。 赤いノボリを立てた 「三光院おねがい地蔵」 さんのもとに浄財300円を託し、PM12:20 頃、次の札所に向けて出発。

新上州観音霊場の全三十三ヵ所のうちでは 3番札所・崇禅寺 と並んで2つのみと数少ない臨済宗のこのお寺、御本尊は釈迦牟尼仏、霊場御本尊は聖観世音菩薩です。 そしてほんのごく僅差ながら27番・嶽林寺を抑えて全三十三札所中で最北に位置するお寺でもあります。 もう正午を過ぎて暖かくなってはいたものの、遠くを見やれば雪を頂いた山々の壮大な眺めがどの方角からも眼に入ってきて、吹きつけてくる風も肌を刺すような冷気を帯びていて容赦がなく、朝7時過ぎスタートで27番札所に向かったときと同じ冬真っ只中の道中であることに変わりありませんでした。 国道120号線から沼田 IC を越えて利根郡川場村へと入り、そこからなおも北へ北へと向かっていくにつれてそんな冬の厳しさは次第に増していくように感じられ、そんな中での約8.4km/徒歩2時間という長丁場はなかなか身にコタえるものとならざるを得ませんでした。 しかしそうした疲労困憊を和らげてくれたのが、途中何度となく立ち止まっては嫌でも向き合わざるを得なかった、長く苦しい道程であるがゆえの自分にとってのかけがえのない孤独感であり、それと背中合わせの不思議な確信めいたものを透かし見ることができるかのようだった、遥か遠くで微動だにしない凛とした冬山の光景でした。 とはいうものの、この新上州観音霊場巡りでは最長となる徒歩での移動距離だっただけに、なかなかのグダグダな疲れ果てっ振りとともに PM2:10 頃ようやく到着。

入り口で拝観料500円と引き換えにパンフレットをいただき、それによりますと、鎌倉建長寺を本山とする臨済宗の禅寺であり、建長寺四十二世・中巌円月禅師を開山和尚として南北朝時代の暦応2年(1339年)、大友氏時により創建されたとあります。 また建長寺派四百有余寺のうち最北域に位置する 「建長寺派北の門」 として屈指の名刹に数えられるというこのお寺、ガイドブックの文中では 「仏教史上かけがえのない古刹である」 とも書かれています。 入り口から中に入ると石畳の長い参道が前途に続き、見渡すと至るところに大小の石仏/供養塔や水辺があって眼移りさせられてしまいますが、そこを進んでいくとまず主立った堂塔伽藍の1つ目である山門に行き当たります。 傍らにある立て看板によりますと、1815年の建立で川場村指定重要文化財である他、楼上に掲げられた 「青龍山」 の額は鎌倉時代最後の天皇・後光厳天皇の筆による勅額であるという説明に眼をひかれます。 さらに二階部分には文殊菩薩像を中心に釈迦如来高弟の十六羅漢像が鎮座しているとあり、階段を登って見に行ってみましたところ、高所より望める境内の景色の素晴らしさに大いにトクした浮かれ気分を得たのも束の間、横口から一歩中に踏み入った私を待ち受けていたのは、........... 申し訳なかった ........... 俺が悪かった ........... と思わず伏し眼がちになって粛然と襟を正さずにはいられない、湿った霊気を帯びた厳かな情景でした。

度肝を抜かれた放心状態とともに山門から地上に降り、本堂へ向かって伸びる参道をさらに進んでいき、「みそなめじじい(閻魔大王)」 「みそなめばばあ(脱衣婆)」 の二体の小さな味噌なめ供養像の間を通り過ぎたところで、分厚い見事な茅葺屋根を冠したお堂の前へと出ます。 そして立て看板の説明書きを読んで釈迦堂であると分かって一歩中に入った途端、またしても度肝を抜かれてしまいました。 文殊菩薩像および普賢菩薩像を脇侍に従え、漆箔の剥げ落ちた厳しい表情を示して蓮華座に結跏趺坐する像高104cmの釈迦如来像を前にして、それを壇上に見上げる己が表情からも安楽の相は自ずと消え失せていくしかありませんでした(※鎌倉期の貴重な遺作としてやはり川場村指定重要文化財となっています)。 堂内の左右奥にはそれぞれ大拙祖能禅師および中巌円月禅師の像も祀られていて、「仏世界に入ったような不思議な感覚を覚える」 とはガイドブックの適評です。 釈迦堂を後にするといよいよ一際大きな本堂と思しきお堂の前へとやって来ますが、禅宗系のお寺なこともあってか、正面向拝+浄財入れ+吊るし鐘(鰐口)という馴染みのスタイルとどうも勝手が違うので躊躇していると、出てきたお坊さんにここが本堂であると説明を受けて中へと案内されました。 虚空蔵菩薩像をはじめとする仏像や、釈迦生誕図、涅槃図他の絵画や古文書等数多くの寺宝が保管されているという本堂ですが、これから法事が行なわれるとのことでそれらを見ることはできませんでした。

その代わり、お堂の周囲をぐるっと一周していただいて裏庭にある滝の景色をご覧ください、とお坊さんに促されて本堂の回廊巡りに出発。 パンフレットにも綺麗な写真付きで掲載されている 「昇龍の滝」 「青龍の滝」 ですが、「百花園」 というこのお寺の別名が示すように、季節の花々が咲き競うもっといい時期であればどんなにか素晴らしい眺めであろうかと思われます。 そんな中眼をひかれたのが、本堂真裏の回廊赤じゅうたんの行き止まり箇所に立てられていた青龍の滝についての説明看板でした。 「川場村吉祥寺の ”河波姫(かわばひめ)” の物語が、大友家の初代能直公誕生にまつわるロマンスとして今も伝えられる」 というガイドブックの一節を補足するように、「藤原時代のこの利根荘は相模守波多野氏の領地でありました。 その波多野四郎の娘は河波姫と称していました。 伝説によると、この河波姫と流浪の身であった若き源頼朝の儲けた子が、豊後大友家の開祖となった大友能直です。 鎌倉幕府を創立の後、赤城の狩に出た折に頼朝は河波姫を探したそうです。 そしてついにこの滝の下で源氏再興を祈願していた河波姫と再び出逢ったということです」 と詳細な説明が書かれたその看板には、「出逢いの滝 − The Destiny Waterfall」 という何とも素敵な見出しがつけられていました。 ☆゚・*:.。. .。.:*・゜ヽ(°▽°)ノ ・・・・・・・  回廊巡りから戻るとお坊さんより、新上州の観音さまはあちらの観音さまになります、と再び案内していただき、そこを目指して本堂前にある小さな池の真ん中へと渡り、霊場御本尊・聖観世音菩薩さまのふもとにて一応勤行。 そして池から再び陸地にあがり、鐘楼堂で鐘をひと衝き(100円)して、PM3:20 頃お寺を出発。

吉祥寺前のバス停でしばらくメモ殴り書き作業をした後、時刻表を見て確認してみるとバスの時間はもはや絶望的でした。 本当はこの後、沼田駅 → 渋川駅 → 中之条駅と電車で移動して26番の清見寺にも参拝しておきたかったのでしたが、また歩いて帰らないといけなくなった時点でそれもあきらめるしかありませんでした。 行きと同じ約2時間の長丁場ではあったものの、西の空に暮れていく綺麗な夕陽の後を追うかたちで、なおかつ時間的焦りから解放されての帰り道となったこともあって、往路よりも疲れることなく、来るときに見た同じ景色を1つ1つ確かめながら、遠い帰路をひたすら歩き続けました。 そうしてまた沼田公園の横を通り過ぎて国道120号線に合流し、大きく蛇行しながら東口前通りへと抜けていく下り坂の途中で右手方向を見下ろすと、沼田市の街並みが駅の明かりを中心に夜景となって広がっていました。 まるで手の届くところにあるかのようなその眺めがとてもいとおしく、今回のお遍路の拠点となった街をそのように印象的に見届けることが出来てうれしくもあり、そんな気持ちとともに坂を下っていって駅前通りの途中にある太田屋旅館を再び訪ねていくと、「ああ、お帰りなさい」 とおかみさんが出て来て笑顔で迎えてくれました。 私が切り出すよりも先に 「雨は大丈夫でしたねえ」 と気遣ってくれたおかみさんに借りていた傘をお返しし、「 ......... あの、傘どうもありがとうございました、いただいた絵は大事に持って帰ります ........ 」 と言うと、「これからもお寺や仏さんのことをいろいろと研究なさってください」 と言ってまた笑ったおかみさんは、最後私が玄関先を出て歩き出すまで、引戸のガラスの向こうでそのままずっと見送ってくれていました。 PM5:30 頃、沼田駅に到着し、PM5:50 頃発の高崎行きで帰途に就き、PM6:38 頃、高崎駅に帰還。