伊江島に建つ沖縄の太陽≠フ碑

                『語り継ぐ戦中・戦後』一九九五年七月出版より

                                 大西 照雄

                    

 一 「沖縄の太陽」との出会い

 

 沖縄本島の北、本部半島の海洋博会場北西約九キロメートルの海上に、麦わら帽子をかぶせたような島が伊江島。夏のさんさんと輝く太陽に、青い空、青い海が映え、夕日の沈む風景はロマンチックな旅情をさそう。麦わら帽子の頂上は、伊江タッチューと愛され、沖縄八景の一位といわれる。このタッチューの頂上の北西の大きな岩に、「沖縄の太陽=黒田操子来島記念=一九五六年一月一日」の記念碑がある。

 一九九三年一一月、伊江タッチューで、私は「沖縄の太陽」の碑に出会って以来、黒田操子という女性がどういう人なのか、なぜ、「沖縄の太陽」なのかを知るため、沖縄及び全国の新聞に目を通し、多くの人々に手紙を書き、ようやく一九九四年一〇月一六日、東京都東村山市に住む、黒田(現・菊川)操子さんの自宅を訪ね、お会いすることができた。

 一九五五年、都立荻窪高校定時制四年生(一八歳)であった操子さんは、米軍の強制的な土地強奪に苦しんでいる、沖縄の伊江島、伊佐浜の人々に、本土からの最初の激励の手紙を書き、励まし続けた。それは沖縄の祖国復帰運動への本土からの最初の支援ともいうべきことだった。操子さんの「愛の書籍」運動を始めとする、純真で、愛に満ちあふれた行為は、「沖縄の友」「沖縄の天使」「沖縄の太陽」と讃えられてはいたが、沖縄の戦後史を書いた本には、阿波根昌鴻著『米軍と農民』(岩波新書)以外に登場しない。

 

二 伊江島の戦い

 

 「沖縄の太陽」のことに入る前に、沖縄の戦争について知る必要がある。太平洋戦争末期、一九四五年三月二六日、慶良間諸島に上陸した米軍は、ひきつづき四月一日、沖縄本島中部に上陸し、日本で最後の地上戦が戦われた。

 伊江島への米軍の上陸は、四月一六日。皇軍と米軍の激しい戦闘は、四月二一日まで続き、伊江島タッチューに至る攻防戦は「知で塗られた丘」といわれた。米軍死者一七四人に対し、日本人の死者四七〇六人(死者のほとんどが住民)である。生き残った村民約二一〇〇人は、慶良間諸島に移され、戦争前に疎開をしていた村民(約三〇〇〇人)とともに島に帰されたのが、一九四七年の三月であった。思い出すだけでも気が狂うほどの苦しみを背負ったまま伊江島の人々は、「イモのカズラ一本もない」状況からの出発でも、平和の訪れに希望に満ちあふれ、老若男女、島の民謡「砂持節」などを歌い踊り、荒れ果てた農地を耕していた。

 ◎ 阿良の浜砂やーヨー 

   持てば 禁らりて(持ってゆけば 禁止されて)

     ゼイサ、ゼイサ・・・・・・(はやし)

 

《中略》

 ◎ 真謝原(畑の意)の芋やヨー

   一本から、三ばあき(ざるの意、たくさん取れる)

     ゼイサ、ゼイサ・・・・・・

 

 しかし、一九五〇年、朝鮮戦争が起こり、沖縄は「不沈空母」といわれ、基地の島と化した。

アメリカは、沖縄基地を永久に使用するために、サンフランシスコ平和条約第三条で沖縄の「施政権」を手に入れ、「祖国なき沖縄」がつくられ、日本は、「独立国」となる。沖縄の「主権」を手に入れたアメリカは、沖縄全群島下で、土地の強制接収に乗り出し、県民の激しい抵抗も生まれていた。

一九五三年、米軍は、伊江島の農民をだまし、島の六九パーセントを軍事基地に囲ってしまっていた。

一九五四年一〇月七日、米軍は、全群島下の土地接収の先頭になって反対をしていた瀬長亀次郎ら、沖縄人民党員四四名を布令で逮捕し、獄中に送ると、伊江島に射撃演習場を建設するため、真謝区七八区(全戸)、西崎区一四二戸中七四戸に立ち退きを通告してきた。

伊江島の人々は、米軍の武力に対して、「剣をとる者は、剣にて亡ぶ」と、村長を中心に「無抵抗の抵抗」をくりひろげていた。翌年、一月二一日、真謝区一三戸に縮小され、真謝区の闘いにせばめられ、孤立無援の状況がつくられつつあった。

 

三 「朝日報道」に心を痛める少女

 

伊江島の人々の「無抵抗」の闘いは、逆境の中でも、人間の尊厳を失わない、豊かな人間性を心の中に築いていた。銃剣を突きつけられている状況下で、

◎ アメリカぬ花ん 真謝原の花ん(アメリカの花も 真謝の花も)

  土頼て咲ちやる 花の清らさ(大地に根を下して咲いた自然の花は美しい)

                     野里竹松 作

と、武装した米兵にたちむかっている。

 この琉歌には、土に生きる農民たちの、ヒューマニズムに満ち溢れた人間的な心と、国際連帯の心がほとばしっている。

 農民たちの心が届いたのは、祖国日本ではなく、アメリカであった。

 一九五五年一月一三日、『朝日新聞』は、「米軍の『沖縄民政』を衝く」に始まる、キャンペーンを開始する。その内容は、国際人権連盟議長ロジャール・ボールドウイン氏から、自由人権協会理事長海野晋吉への手紙で、「米軍当局が一方的な土地買収」「人権擁護の立場から黙視できぬ種々の問題(人民党事件など=著者)がある」とする約三五〇字の手紙である。

 海野晋吉は「米人に指摘されて恥ずかしい」と述べ、作家の石川達三は「十年もたってから、やっと外国で問題とされる。しかも、あおれがアメリカで、というのだから皮肉だった」といい、法政大学教授中村哲は「日本人が起たずして、誰が口火を切ってくれるのだろうか」と談話を発表した。

 沖縄の現状に心を痛め、心を動かし、「口火」を切ったのは、純真な一人の少女、黒田操子であった。

 黒田操子が、東京で、伊江島への手紙を送ったのが、一月二十三日であった。その内容は、「実情を知らせて下さい。どんな小さな事でもお手伝いします。」(『朝日新聞』『沖縄タイムス』三月二十九日付)というものであった。伊江島から、操子さんに、次々と手紙が送られてくるようになる。

 「心のこもったお手紙を常会で区長から読んでいただいたときは、みんな涙を流しました。・・・・・涙で訴えます。真謝(伊江島)の人々を護ってください。」(前掲、『朝日新聞』)

 操子さんの手紙は、祖国からの最初の激励の手紙であった。

 『朝日新聞』は、三月二十九日、「操子さんは、ただ慰めるだけの手紙を書いただけなのに伊江島の人々はワッと喜んだ。少女の手紙の中に、内地を感じてみんな涙を流した。伊江島との間に文通はハタを織るように続いているのだ。」と伝えている。

 米軍は、事を急いだ。伊江島真謝区は、三月十四日、銃剣と「ブルドーザーの嵐」でおしつぶされ、「火の海」のなかであった。

 操子さんの、第二の手紙が伊江島に届いたのは、強制立ち退きされたテントの幕舎であった。すでに、三月二十二日、西崎区の内間初枝ちゃん(六歳)は、自分の宅地内で米兵の撃った銃弾に大腿部を貫かれ重傷、その日から、伊江島は、「爆弾の雨」にさらされ、多くの逮捕者、餓死を含め、言い尽くせぬほどの多くの犠牲者をだすことになる。

 

 「操子さん、お変わりなくお過ごしでしょうか。・・・現在の真謝の私たちは真っ暗な闇の中を歩んでいます。前途もなく、ただ呆然と・・・だが、暗闇に燈火をみせてくれますのは、日本内地の皆様の激励のお手紙だけです。・・・私の家は、三月十四日、五歳の女児がハシカの高熱でうなされていた最中に、二、三日待ってほしいと頼みましたが、許されず、破壊されてしまいました。たとえ家を壊されない人達も、畑は全部米軍の柵の中です。大豆、芋もまだ取らないのに、次々とブルドーザーでつき壊されてしまいました。もう、私たちには涙というものはなくなってしまいました。・・・真謝区婦人会長」(黒田操子「私は訴える・・・『沖縄を忘れないでください』」月刊誌『新女苑』一九五七年一〇月号所引)

 操子さんは、この手紙を読んで、国連への訴えの手紙を書くとともに、ニューヨークタイムス、ワールド=ニュース・リポート誌などへ投稿をおこなっている。

 操子のこれらの行動は、『朝日新聞』『沖縄タイムス』の知るところになり、両紙ともトップ記事で紹介をした。黒田操子報道の始まりである。この報道を読んだ読者から約三〇〇通の手紙が寄せられ、ほとんどが、三月二十九日〜三十日の日付となっている。

 『沖縄タイムス、』四月三日付は「反響を呼ぶ伊江島=vと、操子さんへの手紙を伝えている。読者から「『我々も激励の手紙を書くつもりだ』との投書が、朝日紙へ舞い込んでおり、一つの運動のきざしをみせている」と書いている。

 『朝日新聞』『毎日新聞』の三か月間を調べても、投書は一通も紹介されていない。

 四月十三日、東京に本社を置く各新聞社は、米軍の軍用機に乗って、「不没空母」と化した嘉手納飛行場に降り、沖縄基地を報道する。新聞記者たちは、パスポートをもっていたか、米軍同様フリーパスであったかは不明だが、米軍機に乗ってしか来れないとは歴史の教訓にしたいものである。後で述べるように、操子さんは、堂々とした態度で来沖している。だから、沖縄を見る目は確かである。

 『朝日新聞』三月三十一日付社説は「米軍当局(アメリカ政府も含めて)に対して多くの『望むもの』を持っているが……明日の記念日(琉球政府創立ー引用者を含めて)を、それなりに意義づけるに止めておく」(米軍上陸十周年)と、他人事の段階で、その後も、日本復帰を明確に主張しえないでいる。

 さらに付け加えると、「主権分割」、アメリカの「領土買い取り」の沖縄の報道は内地の米軍基地報道の百分の一に満たないのが当時の現実だったのである。

   サイトウと云う男あり

   記者なれど「赤だ」と

   軍に島を追われり

 一九五五年三月十日、高宮城清は当時の様子をこう短歌によんでいる。

 この状況では、真実の報道がされなかったのもやむをえなかったかも知れない。

 

 四 愛の書籍

 

 操子さんの、伊江島への手紙は、「同じ日本人として何とか慰めてあげたい」という純真な感情に支えられていた。

 操子さんの父平吉さん(当時三〇歳)は、東京淀橋(現・新宿区)で食品店を営んで不自由のない生活を営んでいたが、一九四四(昭和一九)年六月、応召され、フィリピンに着いたとの便りを最後に戦死した。母親の富子さんは、空襲、疎開、戦後の混乱期を、操子さん、妹の和子さん(二歳下)を育てるために、大変な苦労をしてきた。操子さんは定時制高校の道を歩み、親子三人、貧しいながらも、慈愛にみちた家庭を作っていた。

 操子さんは、「感傷だけではだめだ。何とかもっと違った方法はないものか」と心を痛めていた。「沖縄の恵まれない子どもたちに本を送ろう」と思い立つと、すぐ行動にうつした。

 勤務先に朝七時三〇分出勤、夜学から帰るのが夜一〇時半過ぎの、厳しい生活の中でも疲れた体と心を引き締めて机に向かった。黒田さん一家と交際があった人たち、激励の手紙をくれた人々に、片っ端から、直筆の手紙を、毎夜、毎夜書きつづけた。深夜の一時、二時になる事も珍しいことではなかった。

 五月十六日、『朝日新聞』は、「沖縄への友情の本」の見出しで報道する。七月二十八日の『沖縄タイムス』の報道によると、二千冊にふくれあがっている。

 しかし、操子さんは、輸送費のことまでは考えていなかった。母親に言われて初めて気がつき、郵便局へ駆け込んだ。しかし、「最低一万円」かかると言われた。「一万円」は、操子さんの二か月分の給料であった。途方に暮れていた操子さんを、母親と和子さんは、「私たちもがんばるから」と励ました。

 

 同じ頃、沖縄及び全国紙は、四月以来、大阪工業大学が「沖縄学術講演隊」というユニークな方法で、八月二日、神戸港を出航する報道を行っていました。操子さんは、この記事を読んで、「この機会を逸しては!」と手紙を書いた。学校から帰ると母親の富子さんに、毎日毎日、「手紙は?」から聞くのであった。

 七月二十九日、私学連加盟の日本大学の学生が、突然訪ねてきて、操子さんの狭い部屋に山積みされた本の山を、テキパキと梱包し、神戸港へ運んでいった。

 沖縄では、沖縄工業高校と同校PTAが中心になって、私学連沖縄支部が結成され、沖縄への贈り物を受け入れる機関ができた。『沖縄タイムス』『琉球新報』は、側面から協力を惜しまず、琉球政府も協力を約束した。これを知った大阪商船も、神戸港から那覇までの輸送を引き受けた。この頃から、沖縄はもちろん、全国からの伊江島への支援、物資、カンパなどが広がりを見せてくれる。小学生、○○郷友会、婦人団体、巣鴨へのC級戦犯など、伊江島「」の平和資料館の天井から下がっている北海道の炭坑からの「慰問袋」は、その証である。そればかりではない。沖縄県内の多くの地域で、戦争で親を失った子供たちや、不幸な子どもたちへの子どもたちの善意が、新聞記事に数多くかかれるようになってくる。沖縄教職員会が全国へ呼びかけた「愛の教具」運動の最初の貨物が陸揚げされるのが、一〇月七日で、全県下の小中学校へ配布されてゆく記事が多くなってくる。

 後日、『沖縄タイムス』は、「純粋な感動、人々を心から揺り動かす。」(一九五六年一月六日)と書いている。

 操子さんの善意と純真な心は、沖縄現地と祖国の人達の民族的な良心をも、揺り動かしていたのである。

 当時広い読者を持っていた大衆雑誌『キング』一〇月号に、「沖縄の同胞を震撼させた一乙女の純情『愛の書籍』」と題して、毛利悠という人が、短い物語を書いている。

 

 五 今村賢勇少年

 黒田操子さんの本を託された大阪工業大学のニュースが、『毎日新聞』六月二九日付報道されている。同紙面に、伊江島で「炎天続きの天幕生活中に栄養失調に陥り、続々病人を出し、中峯キヨさん(三七歳)、ついに死亡」の記事がある。四人の子どもを残してである。全区民が餓死寸前に置かれていた。真謝区民は、沖縄中の実情を訴えるために、七月二〇日、「乞食行進」に入り、野里竹松さんの「陳情口説」は沖縄の隅々まで広がった。

 夏休みの明けた九月中頃、操子さんに、コザ市(現・沖縄市)に住む、高宮城清青年(小学生講師)から、長い「二つの詩」が送られてきた。次はその中の一つである。

 

     最初の獄入り

   八月二十日の夜

   伊江島真謝の部落民は

   そこの木の下 ここの家のかどに

   幾人かが寄り合ってしょげていた。

   どの群れにいっても

   だまってうつむいていた。

   だが、

   彼らの眼は涙をじっとこらえ

   その唇は

   固くかみしめられていた。

     (中略)

   目を覚ました今村賢勇は

   「畑に行けばいくらでも芋や野菜があるものをなあ……」

      (中略)

   祖母思いの温和な彼は

   その祖母のなげきにやるせなく

   クワを取り、家を抜け出していった。

   バリケードをくぐり

   自分の芋畑に入り

   夢中で掘りはじめたが

   一、二分もすると後ろから

   大きな犬が

   唸りながら近づいてきた

   犬は二匹だった。

     (中略)

   八月二二日…月曜の朝

   弁護のかいもなく

   軍の思うままに裁かれた

   三二名の農夫の中一人で

     (中略)

   瓦礫の高い塀でめぐらされた

   中央刑務所の中で

   祖母の身を案じつつ

   冷たい冬の明け暮れを数えている

   彼は今

   満一八歳にもならない少年であるのに…

     (後略)

         一九五五年八月三一日 高宮城清「沖縄を忘れないでください」より

 操子さんは、沖縄に行きたいという希望を、記者たちに語っていた。「今村少年を激励したい」という衝動が高鳴っていた。そして、翌年一月、操子さんは沖縄に行くことになる。沖縄訪問の際、中央刑務所に今村賢勇を訪れたのは言うまでもない。しかし、出獄後、伊江島で生活できなくなった今村少年が、糸満の漁師となって、海で不幸な死をとげたことは、帰京後の操子さんは知るよしもなかった。

 私学連は、操子さんを、私学連の代表として沖縄に送ること、「学術講演隊」のお礼に、阿波根昌鴻、琉大学生会会長尚詮ら、五人の沖縄代表を祖国に招待することを決定し、全国にカンパを提唱した。

 ところが、一九五五年の初秋、東京沖縄県学生会の福地曠昭(青山学院大学生)らは、帰省中、復帰運動をしたことで、パスポートを拒否され、大学にも戻れない事件が起こっていた。

 東京沖縄県学生会は、前年に、当時の沖縄を知る唯一の本と言われている。『祖国なき沖縄』(太平出版)を出版していたのである。そして、操子さんに、沖縄の現状を知らせるパンフレットも送っている。

 操子さんらへのパスポート発給は、異例のことで、操子さんの身元引受人は、沖青協会会長瑞慶覧長仁がかって出た。操子さんの、沖縄への純真な愛、支えてくれた多くの善意の輪は、強大な軍事権力者も、拒むことが出来なかったのである。

 

 六  笑いを取り戻した伊江島

 一九五五年、十二月三一日、操子さんは阿波根昌鴻とともに、白龍丸で那覇についた。港には、「歓迎 ようこそ 沖縄の 太陽 黒田操子さん」ののぼりが立ち並び、伊江島の人たちはもちろん、沖縄土地連合会会長桑江朝功、沖縄教職員会事務局長新里清篤、瑞慶覧長仁など、沖縄を代表する人たちの姿があった。

 「正月は、伊江島で迎えたい」という操子さんの希望もあって、長い船旅の疲れを那覇でとり、伊江島に向かった。沖青協は、話し相手に、若い山城葉子を同行させる気配りをした。

 伊江港の桟橋は、人の群れで溢れていた。映画「ひめゆりの塔」の作者、石野経一郎が、「沖縄の天使を高座に迎えよ」との新聞談話を発表していたので、島一番の旅館が準備されていた。

 「真謝で生活したい」との操子さんの希望がかなえられ、農耕用の馬車に乗って、真謝に向かった。その後を、米軍から払い下げたトラックに乗った人、のぼりや太鼓を持って歩く人の波、家々から農道に人の群れができ、進めなかった。

 わらぶきの粗末な民家に着くと、操子さんは、お婆さんの紺地の沖縄の着物に着替え、子どもたちと同じように、裸足になって行動し、食事も村の人たちと同じように、芋を食べた。操子さんのこの姿に、枯れ果てた真謝の人たちの涙腺が、蘇りはじめてきた。というのは、一二月二五日、栄養失調で石川清二さんの妻、春子さん(四三歳)が、六人の子を残して死ぬという事件で、悲しみと怒りの涙を流しきっていたのである。

  「太陽(テイダー)(クワー)かなし、〱」

  「()ん、孫娘(ウマガ)。私ん、(チュラ)孫娘(ウマガ)。」

と、お婆さん、叔母さんたちが、次々に操子さんを抱きしめた。操子さんの紺地の着物は、涙で雫がしたたり落ちるほど、ぬれてきた。やがて、三味線が鳴り、「砂持節」「ましんく節」などの真謝の民謡が流れ、踊りも始まった。操子さんも踊りだし、その姿のおかしさに、笑顔がこぼれ、やがて、大きな笑い声となり、笑いとどよめきは一つになって、基地の中に響きわたった。苦しい長い闘い、犠牲者の続出する中で、笑うことを忘れていた真謝の人々は、底抜けに明るい笑顔を取り戻したのである。

 操子さんは、伊江島に、うれしいとき、人の真心を信じ合うとき、自然に生まれてくる感動の涙と笑い、真謝の先祖が作りだした、真謝原の心の歌を取り戻させたのである。

 

 七 三つの歌

 一九五六年一月二日、冬休み中の伊江中学校に、全小学生、中学生が、そして、帰省していた高校生、大学生、島の人々が集まって、「黒田操子さんを歓迎する会」が開かれ歓迎の歌が歌われた。

 

   黒田操子さん歓迎の歌

一、サー祖国から はるばると サーヨイヨイ

    いらっしゃいませ ヤレホニ黒田さん

    (マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨー)

二、サー焼けた島にも 文庫が出来た サーヨイヨイ

黒田さんの ヤレホニおかげです

三、サー永遠に結ぶには 心と心 サーヨイヨイ

切っても切れない ヤレホニ同胞だ

      (前掲「伊江中学校概要」 曲は「安里屋ユンタ」)

 伊江中学校校長、同PTA会長は、「黒田文庫」を作り、感謝状を送った。

 真謝に戻った操子さんは、紺地の着物、裸足になって、子どもたちと遊んだ。すでに子どもたちも、忘れていた笑顔を取り戻していたが、子どもたちの腹はふくれてやせている。

 「今、何がほしい?」

 「白いゴハン」

と、六つぐらいの女の子が弱々しい声で答え、

 「正月(旧正)と祭りの日しか食べられないもん」

と言う。操子さんは涙が出てきて、悲しい顔になった。それから操子さんは、特別に作られた白米を断り、島の人々と同じように芋を食べるようになった。

 「芋食べて、オナラ一発―。」

 「おねーちゃんも、オナラ一発、プー」

と男の子たちがふざけたので、再び笑いの渦。

 突然子どもたちが真剣な顔になった。操子さんに「ついて来い」と言う。「どうしたのだろう」と思い、ついてゆくと、キビ畑に囲まれた畑中にくると、操子さんを取り囲んで、「僕らの歌をうたう」といって、一斉に低い声で歌いだした。

一、僕等は日本の子供です

沖縄育ちの子供です

髪も黒けりャ目も黒い

僕等は日本の子供です。

二、僕等は兵隊嫌いです

原子や水素の爆弾の

実験なんかも嫌いです

戦争準備を憎みます。

三、僕等は平和を愛します

争いなんぞやりません

一人の友のなんぎでも

力をあわせて助けます。

四、僕等は日本の子供です

平和な世界を築くため

正しい道をまっしぐら

スクラム組んで進みます。

   (注、この歌詞と楽譜下の歌詞には異同があるが「雑記帳」記載のままとする)

 操子さんは、子供たちの歌に泣き、そして、子供たちと歌い、やがて、大きな声で、腹の底からの大合唱となった。

 一月二一日、神戸港に着いたとき、操子さんを取り巻く新聞記者に、真先に語ったのは、「僕等は日本の子供です」であった。伊江島の子どもたちは、CIC(米軍防諜機関=スパイ)の目を盗んで歌っていた。この歌の詩は、『少年少女新聞』をはじめ、ほとんどの新聞がとりあげた。

 一九九四年一一月四日、私は、この歌の作者をつきとめるため、当時、伊江島の土地闘争の支援に来ていた、人民党員、個人の名前をすべて聞き出し、推測をたて、片っ端から電話を入れ、高宮城清であることを確認することが出来た。

 高宮城清の「雑記帳」の、阿波根昌鴻への手紙の下書き(二月一二日付)は、「私のつたない作品が意外にも役立ったことを職員室ではどっ≠ニ喜びの声に溢れていました」と記されている。

 一九五六年一月一七日、操子さんは、泊港から帰京することになった。伊江港から帰る時の様子は『米軍と農民』に「八十本の日の丸の旗とノボリで賑い、お婆さんたちは三つの太鼓に合わせて、黒田操子さんを送る歌をうたいました」と書かれ、泊港でも同様であった。

    沖縄ぬ 沖縄りわたす

   太陽がなし 照りわたち たぼり

   太陽がなし

   (沖縄の太陽 沖縄照りわたし 照りわたし給え 大和の太陽 美しの太陽)

                     (前掲『米軍と農民』より)

 

 八 高校生へ 手紙(ペン)は自由

 沖縄の新聞は、操子さんの沖縄滞在日程を詳しく報道している。沖縄を訪れた人で、このように報道された人はいるであろうか。操子さんは南部戦跡から、最北端の辺土岬で「人々は望遠鏡で北の海を眺めて泣いて、日本復帰≠祈っていた」様子を話している(『毎日新聞』一月二十一日)。

 操子さんの日程は、「本島滞在十二日間、十の高校(南は糸満高校から北は辺土名高校、当時二一の高校)をはじめ、琉球大学や五つの青年会などの座談会に、一日五回ぐらいづつひっぱりだされてクタクタになった(『国際新聞』一月二六日)というハードなスケジュール内容であった。

 沖縄の高校生は、 「面白くない。自分一人で山のなかで生活したくなる」「沖縄の事を、本土の人に直接訴えて下さい」と訴えた。(『沖縄新聞』一月八日、野嵩高校=現普天間高校)

 これに対して操子さんは、

 「私もやるが、皆さんからも直接訴えて下さい。文通は自由ですから……。笑いを忘れず、望みをなくさないで頑張ろう」と励ましている。

 沖縄の教師たちは、

 「ある高校(前原高校?)へゆくと、校長先生が君が代≠うたうから音頭をとってくれと言う。禁じられているが、あなたがきたので禁を破って歌いたいという。」(『国際新聞』一月二六日)

 野嵩高校のすぐ前が、伊佐浜。一九五五年七月二〇日未明四時、米軍は伊江島と同じように、沖縄の三大美田の一つ、伊佐浜ターブックワ(田園)を、銃剣とブルトーザーで、コンクリートの基地に変えてしまった。自分の土地を奪われまいと、野嵩高校生も立ち上がり、生徒と行動を共にしていた前原穂積教諭は、CICに逮捕され、拷問をうけ、学校を追われている。

 野嵩高校生は「社会研究会が盛んであったが……弾圧や束縛がひどすぎたりしてうまくいかない」と操子さんに述べている(前掲『沖縄新聞』)。

 社会研究会は、一二〇人以上で、最大のクラブであったが、米軍の弾圧を受け、高校生も何か傷の痛みをこらえているような表情だ」と伝えている。

  『朝日新聞』『産経新聞』一月二一日付は、操子さんの談話を「復帰を言えばクビ」「自由なき沖縄黒田さん帰る」の見出しを写真入で伝えている。操子さんは、土地を追われた伊佐浜の人々を、移住地のコザ市などに慰問を行い。「笑顔と希望を忘れないで」と励ました。

 

 九 島ぐるみの闘い

 『毎日新聞』七月一五日は、伊江島から操子さんに送られた手紙を「私たちはたちあがった」「もう泣き寝入りしない」とトップ記事で報道している。

 事情はこうだ。アメリカ政府は、農民から強奪した軍用地(沖縄全面積の約十二パーセントを占める)を、永久に買い上げる「プライス勧告」を発表した。

 沖縄の人々は、「金は一年、土地は万年」を合言葉に、「土地を守る四原則」―@買収の形と同じになる土地料の一括払い反対 A適正地代 B米軍による損害賠償 C新規土地接収反対―に団結した。

 そして、六月二七日を、全沖縄の総立ち上がり日として、全市町村で集会を開き、三〇万人が結集し、燃え輝いていた。七月二八日の那覇高校での中央集会には、一五万人が結集する勢いで、約五〇万人(人口約八〇万人)が心を一つにし、島ぐるみの闘い≠ェ、つくられていった。その中には、小中学生、高校生もいたのである。

 沖縄は、太陽のごとく自ら輝きはじめ、沖縄の子らは「太陽の子」となる・

 一九五五年日本経済は、高度成長期に入りつつあった。「太陽の子」たちは、「本土集団就職」で、那覇、泊港を次々と出航していくが「異邦人」であった。

「日本語が上手ですねー」「英語を使うんでしょう」「沖縄の土人は、裸足ですってねー」などの無知な質問に、屈辱を覚えながらも、「太陽の子」たちは、

「僕が沖縄の土人です」

と、米軍支配下の「オキナワ」を語る。「日本留学生」となった青年たちは、全国の大学のキャンパスで「オキナワ」を訴える。

 沖縄では、一九六〇年四月二八日、「沖縄県祖国復帰協議会」が結成される。そして平和条約発行日の四月二八日を、「民族屈辱の日」「祖国復帰の日」と定め、沖縄はさらに輝きだす。

 「太陽の子」たちは、全国津々浦々で、「沖縄を返せ」を叫び、全国民の声となって各地で活火山のように爆発し、日本列島を深部から揺り動かしてゆくのである。

 

  固き土を破りて

  民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ

  我らと我らの先祖が 血と汗を持って

  守り育てた 沖縄よ

  我らは叫ぶ 沖縄は

  我らものだ 沖縄は

  沖縄を返せ 沖縄を返せ

 一九九五年一月一日の伊江タッチュー。「沖縄の太陽」の碑は今日も「笑いを忘れないで!」「希望を抱いて!」「みんなで助け合って!」「伊江島に平和を!」と、語り続けている。

 この小論は『沖縄の太陽物語』(一九九五年七月末日、あけぼの出版)となり三版印刷される。 

                          (沖縄県立宜野湾高校教諭)

  

 

                   未校正原稿