知識図鑑一覧へ

新撰組が活躍した幕末時代を知る上で、必ずといっていいほど耳にするのが、
尊王攘夷思想(そんのうじょういしそう)です。
しかし、その意味を正確に理解している方は少ないのではないでしょうか。
そこで、ここでは尊王攘夷思想について簡単に説明したいと思います。

【尊王攘夷って何?】

尊王攘夷(そんのうじょうい)とは、天皇を尊び外国を撃退するという考え方をいいます。
それぞれの文字の意味から考えると分かりやすく、
『尊』は尊ぶ、『王』は天皇、『攘』は攘う(はらう)、『夷』は外国人、となります。
もともと、『尊王』と『攘夷』は別個の思想でしたが、江戸時代末期に幕藩体制の矛盾と諸外国の圧迫による危機感の中で両者は結びついて1つの言葉となりました。
当初は水戸藩が尊王攘夷の中心でしたが、次第に長州藩の下級武士を中心として広まっていきました。

【尊王論って何?】

尊王論とは、日本の存在の根拠を天皇に依ろうとする考え方をいいます。
戦国時代末期から、日本は西欧諸国の進出に脅かされ、鎖国などの政策を採ってきました。
しかし、江戸時代においても諸外国の進出は続き、このような危機感の中で国体の尊厳を古代的権威の象徴である天皇に求めていったのです。

【攘夷論って何?】

攘夷論とは、外国人を排斥しようとする考え方をいいます。
江戸時代は鎖国体制の下、天下泰平の世の中でした。
しかし、大航海時代を期に諸外国の進出が始まり、それまでの平和な生活を維持したいという意識が強くなりました。
このような意識から、外国人を排斥して平和を維持しようという考え方が起こったのです。

【尊王攘夷と倒幕は同じ?】

ペリー来航によって、諸国の大名や武士は尊王攘夷を展開するようになりました。
しかし、必ずしも尊王攘夷=倒幕という関係にはありません。
新撰組・幕府・長州藩・薩摩藩は、いずれも尊王攘夷を展開していました。
違いは尊王攘夷のやり方にあります。
新撰組・幕府は、幕府の力で尊王攘夷を決行しようと考えていました。
これに対して、長州藩は幕府の考えに反対しており、次第に倒幕の意志を高めていきました。
薩摩藩は、当初は幕府の考えに同調していましたが、やがて長州藩と共に倒幕を目指すことになります。

【なぜ倒幕運動に発展したのか?】

幕府の大老・井伊直弼が行った安政の大獄や公武合体政策によって、尊王攘夷はますます激しくなっていきました。
そんな中、長州藩が外国船を砲撃するという事件が起きました。
しかし、その仕返しに攻撃を受けるなど(下関事件、薩英戦争)、尊王攘夷の中心にあった長州藩や薩摩藩は外国勢力の実力を見せつけられました。
そこで、長州藩・薩摩藩は攘夷が不可能なことを悟り、倒幕運動へと転換していったのです。

【倒幕と開国の関係は?】

下関事件や薩英戦争で諸外国との実力差に直面したことによって、単なる攘夷論に対して批判が強くなりました。
そこで、外国との交易によって諸外国と対等に戦える勢力をつけようという考え方(大攘夷論)が登場しました。
こうして、尊王攘夷+倒幕であった長州藩は、尊王開国+倒幕という立場と採るようになったのです。
さらに、これを好機とみた坂本竜馬・中岡慎太郎の仲介によって薩長同盟が成立し、薩摩藩も長州藩に同調して同様の立場を採ったのです。
なお、幕府側でも勝海舟は大攘夷論的な考えを持ち、一旦開国して外国から兵器を仕入れた後に攘夷を決行しようとしていたようです。

知識図鑑一覧へ