バックナンバーへ

50音順索引へ

【近藤 勇  こんどう いさみ

言わずと知れた新撰組局長です。
天然理心流の4代目宗家を襲名して、数年後に上洛しました。
近藤は気配り上手な人物で、隊士達に尊敬される存在でした。
新撰組には、隊士の結束を強くするために、厳しい局中法度がありましたが、
何よりも近藤の人柄が隊士の結束を強めていたと言えます。

【近藤 勇◆ こんどう いさみ

局中・近藤勇2度目の配信です。
近藤は、幼い頃の名を勝五郎(のちに勝太)といい、
土方歳三からは『かっちゃん』と呼ばれていました。
意外にも下戸だった近藤は、宴会でもほとんど酒を口にしなかったといいます。
その代わりに、自分の拳を口に入れてみせる芸を披露していました。
近藤の愛刀といえば『虎徹』が有名ですが、
虎徹は農民出身の近藤が入手できるようなものではなかったので、
偽物だったといわれています。
ただ、自分の愛刀を虎徹だと信じることが、近藤を強くしていたのは間違いありません。

【近藤 勇】 こんどう いさみ

万延元年、近藤勇は御三卿の1つである
清水家の家臣・松井八十五郎の長女ツネと結婚しました。
その際、近藤は見合いをした女性の中で最も容姿の劣るツネを選びました。
その理由は『男たちが多数出入りする道場の女房だから、
美人だと男たちの気が散って修行にならない』というものでした。
また『ツネには誠実さがある』とも言っていたようです。
ツネとの間に長女タマをもうけた近藤は、よき父親でもありました。

【近藤 勇ぁ こんどう いさみ

文久元年に天然理心流4代目宗家となった近藤は、
名実ともに試衛館の道場主として道場経営に乗り出していきます。
通常なら閉鎖的になりがちな武術の修練について開放的で、
他流試合や出稽古を積極的に行いました。
そのため、器の大きな道場主として評判でした。
また、本来ならば宿敵である土佐の後藤象二郎に格別の厚意を抱いており、
新撰組の幹部にも『後藤には手を出すな』と命じていたといいます。

【近藤 勇ァ こんどう いさみ

近藤が天然理心流4代目宗家を襲名した頃、
幕府の講武所は剣術教授を募集していました。
そして、近藤勇の評判を聞いた幕府は、近藤をその候補としていました。
しかし、近藤が農民出身であることを理由に、採用は見送られたといいます。
この辛い経験があったからこそ、
新撰組隊士は出身や身分に関係のない登用をしたのでしょう。

【近藤 勇Α こんどう いさみ

近藤の虎徹に続く愛刀といえば、三善長道です。
池田屋事件の褒美として、京都守護職から戴いたものです。
この三善長道は、日本刀独特の反りが少なく、
とても丈夫な地鉄で作られていました。
刃文が虎徹と似ていることから、会津虎徹ともいわれていました。
斬れ味も良かったようで、最上大業物との評価がなされています。
現在でも1000万円近くする名刀です。

【近藤 勇А こんどう いさみ

八月十八日の政変後に『新撰組』という名を授かり、
そこから芹沢ら水戸派への粛清が始まりました。
そして、当初3人いた局長は粛清され、近藤が唯一の局長となりました。
ただ、任せられる任務は京都市中の見廻りだけであり、
近藤自身は現状に不満を感じていました。
そんな中、池田屋事件が起こり、一夜にして
新撰組・近藤勇の名前が知れ渡ったのです。

【近藤 勇─ こんどう いさみ

慶応3年12月18日、近藤は伏見街道藤森神社付近で、
御陵衛士の残党に狙撃されて肩を撃ち抜かれてしまいます。
幸い、馬に乗ってその場を逃れますが、長期の静養を余儀なくされました。
その後、鳥羽伏見の戦いに敗れた近藤らは、朝敵の汚名を着せられたまま、
江戸へ帰還しました。

【近藤 勇】 こんどう いさみ

近藤は江戸に帰還後、甲府城鎮撫を指示されます。
そして、若年寄格を与えられ、大久保剛と改名しました。
(後に大久保大和と改名)
しかし、甲州勝沼の戦いにも敗れ、近藤らは敗走しました。
その後、下総流山に陣を構えて再起を図りますが、官軍に発見されてしまいます 。
ここで近藤は、他の隊士を逃がすために、
自分の身分を隠して大久保大和として官軍に投降します。

【近藤 勇】 こんどう いさみ

大久保大和として官軍に投降した近藤は、
厳しい尋問に対して堂々とした態度で対応しました。
自分は近藤勇ではなく大久保大和であるとして、別人になりきりました。
しかし、官軍に参加していた元御陵衛士の加納道之助(当時は加納鷲雄)によっ て、
その正体を暴かれてしまいます。
それまで堂々としていた近藤も、さすがにこの時はうろたえたといわれています 。

【近藤 勇】 こんどう いさみ

正体が暴かれた近藤に対して、官軍は処刑を決定します。
土方ら同志は、幕府の重役を介して官軍に助命を嘆願しますが、
受け入れられませんでした。
そして、慶応4年4月25日、汚名をきせられ、
武士として切腹も許されないまま、板橋平尾一里塚で斬首されました。
その首級は、板橋で晒された後、京都三条河原でも晒されました。
なお、その首級の行方は現在も不明です。

【近藤 勇】 こんどう いさみ

近藤は、官軍に捕縛された時、すでに自らの死を覚悟していたともいわれています。
当時、官軍の幕府に対する恨みは強く、将軍をはじめ幕臣は
すべて処刑しようとさえ考えられていました。
そんな中、近藤は自らの死をもって幕府に対する恨みを
一手に引き受けようとしたのです。
最期まで器の大きな人物であったと評価されています。

【近藤 勇】 こんどう いさみ

ある夜、近藤の生家である宮川家に強盗が押し入りました。
これに気付いた勇の兄たちは、その場で強盗を退治しようとしますが、
勇は『逃げる時には気が緩むので、その時に退治しよう』と冷静に言いました。
そして、見事に強盗を退治しました。
後に、このことが天然理心流3代目・近藤周助に耳に入り、
見初められることになったのです。