第二十九則 非風非幡

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風が寺の旗を鳴らしていた。一人の僧が旗が動く、と言い、他の一人の僧が風が動く、と言い合っていた。和尚が「風が動くのではない、旗が動くのではない、貴方の心が動くのだ」と言った。二人の僧は畏れ入った。

無門和尚の解説:これは風が動くのではない、旗が動くのではない、心が動くのでもない。もしここがぴたりと説明出来るのなら、この僧たちが鉄を買って金を得たことが分かるであろう。この和尚も黙って笑っていることができず、恥をかいてしまった。


純物理的に考えれば、動いているのは風であり旗は風によって動かされています。風がなければ旗は動きませんが、風は旗がなくともわたって行きます。 風があることは肌に当る感じからも、指を舐めて立ててみても、芝の刈り屑を投げ上げてみても分かります。しかし何もしなければ、何も感じなければ風の存在は分かりません。そこに旗のような風を表すものが必要です。

この僧達が議論していたのは、観察手段がない場合、動いている風は存在するのか。旗が動くから風があると判る。また旗によって風の動きも影響されている。旗なくして風の動きはあり得ない、ということでしょう。

この僧達が、このように観察手段と存在の問題を議論していると、和尚が、動いているのはお前達の心だ、と指摘しました。言われて僧達は一段高い次元の問題へ直面させられました。旗の動きがなければ風の存在がわからないと言っていたが、それらを認識する心の動きがなければその旗の動きさえ存在しないではないですか。





風も旗も、心の産物でしょう。それを認識する心があって初めてその動きが存在します。誰もいない場所で木が倒れ、砂の塔が崩れ落ちた。そこに音はあったのでしょうか。更に進めて考えれば、誰も観察者がなく、何も周囲に影響を残さない事象というものは存在するのでしょうか。

風は旗があるから動きが分かるのであり、旗がなければ風の動きもない、とも言えるでしょう。また、旗は風の動きを表すと同時に風の動きに影響を与えます。旗を動かすことによって風はその分エネルギを失い、動きを変えます。芝の刈り屑を投げればその分風は遅くなり、指を立てれば風はそのまわりに渦を生じます。風にまったく影響を与えずにそれを観察することは難しいのです。

この観測による影響は素粒子のレベルになると無視できない大きさとなります。素粒子の位置と速度は観察の手段によって大きく影響され、厳密に特定することは理論的に不可能だといいます。

誰も観察しなければ静止している素粒子の位置は固定しているのかもしれませんが、それを知る方法はありません。観測のために光を当てれば素粒子は動き出してしまいます。素粒子の位置は存在の確率を持つある範囲のどこかである、としか言えません。

全く誰も観察していない場合、素粒子はどんな姿でどこにいるのでしょう? これは旗も何もない場合、風はどうなっているのかということと似ています。
そんなこと言ったって風は吹いているじゃないか、というのは心の動きでしかありません。





存在は人間の意識を以って存在となすとも言えます。人間の心に認識されないものは存在しないのと同義でしょう。深海にどのような生物が住んでいたとしても、他の惑星に宇宙人がいたとしても、それが人間によって観察され、または周辺の理論的証拠から立証されない限り存在しないと同様です。存在の推論さえされたことがないものは人間にとってはそれこそ全く存在しないものでしょう。

風や旗が動いていたとしても、それを認識する心なくては動いていないのと同じことです。認識によって事物、事象はその存在を現します。また第四則の達磨の髭のように、認識によってそれを消滅させることも出来ます。

全ては心の産物、という考えは最近のバーチャルリアリティによって現実のものとなりつつあります。コンピュータの内部でのいわゆるサイバースペースへの直接ログインや、肉体は培養器の中で最も効率のよい方法で飼育し、精神だけをバーチャルな世界で活動させるというアイデアはSFでは様々に扱われています。

現実にも、進歩した義手や義足は身体側に残った神経を用いて制御することが出来、指先のセンサーから触ったものの堅さを検知して強大な力を持つ義手を制御し、柔らかいものを傷つけずに扱うことも出来ます。カメラにより得られた映像信号を視力を失った人の脳に直接入力することも可能になりつつあります。

実際は大量のデータインターフェースを必要とする技術的な問題から考えると、信号だけによる仮想の世界を経験するのは人間の脳よりもコンピュータ内に創生された人工知能の方が先でしょう。

その人工知性の中では、入力された信号が実際のセンサーから入る実世界の現象を反映するものか、過去のデータを元にしてシミュレータから産み出された人工的なものかの区別は、そのデータからだけではつきません。そこにはただ、インプットされた信号に従って動く心だけがあります。





心で受け取った信号を現実の事象と区別することは知識レベルではもっと困難となります。月に人間が着陸したとき、あれは全てセットで作られた偽物だと主張する人があったし、米国では今でもそう信じている人が相当の割合で存在します。

私が見る限り、偽物だと主張する人達の証拠は常識的な見方で反論が可能であり、科学的根拠のないものに見えます。しかし、これは所詮私にとっては机上の議論でしかないのです。

我々はほとんどの事実を実際に体験することなく、情報という名の心への入力だけによって判断しています。そこには真実として物事を信ずるという受け入れの過程が入ります。賢者は歴史から学び愚者は体験から学ぶ、というのは、自分の体験していないことをも正しく見抜き理解することの重要性を示しているのでしょう。

誰も見ていないところで崩れた砂の塔は、果たして音を発したのでしょうか。今見ている旗は、風が動かしているのか、それともただ私の心が旗が動いているということを認識しているということだけなのでしょうか。私達が見ていなければ風は動かず、旗は動かないのでしょうか。


動くのは風であり、旗であり、また心です。心はそのインプットがどこから来て、何を意味するかを判断し、それに基づいてまた心を動かします。そこにはインプットするものに対する深い関わりが生じます。

禅の本質は、心を動かさないようにすることではないでしょう。風を見、旗を見て心が動くこと、物事を認識し判断する機能は自然であり当然の機能です。それが単に心の中の仮のデータであるのか、実際の世界の現象を反映するものなのかは、心が最大の努力を払って判断する課題でしょう。旗は自ら動いているのか、風によって動かされているのか。旗の動きの背景にある見えない風の動きを読み取ることが出来るでしょうか。

その判断とは、情報が真実を現すものであるか、いずれは別の情報により否定されることになるものか、月着陸のドラマが実際に月で行われたのか、ハリウッドのスタジオで作られたのかを見抜く心でもあり、物事の本質とは何か、自分の心を満たしている不安心は何か、を見極める心でもあるでしょう。

無門和尚は解説します。本当は風が動いているのではなく、旗は動いておらず、心も動いていないのだ、と。風と共に、旗と共に心が動きそれを心が認識します。しかしそれら全てを包含する本質の心は動揺することなくしっかりと存在しています。無門和尚は更に一段高いところから心というものを把握しています。





私は、誰も見ていないところで崩れた砂の塔の音は存在する、とする立場をとります。 誰も見ていないのであればそれをぜひ見てみたい。たとえそれが他の心からの伝達、それを見たという人からの間接的情報であっても、それを求めたい。それが知る、ということでしょう。知りたいという欲望は人間の心の持つ欲望の中でも大きな、そして重要なものです。

禅では欲望という言葉を嫌います。それは煩悩の一つとして扱われます。しかし心に対し限りなくインプットを求めることは、人間の心の基本に埋めこまれた機能であると思います。禅の修行者達も当初はその機能に従って知識を吸収し、言語を覚え、禅の存在を知り、修行を開始し、ある者は和尚になります。その過程では様々な入力を求める心の動きは否定されていません。

限りなくインプットを求める心が煩悩として不安心を生ずるかどうかは別の問題であり、その心の動き自体を否定することはないでしょう。問題は何をどのように求めてゆくかでしょう。どのように心を動かすかでしょう。

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