《発信者の履歴》

 最近、「発信者の履歴を目に付くよう正面に出すべきだ」というご意見を耳にしました。そう言われてみると、発信者の正体が分からなければ本気でHPを読んでもらえないのではないか、と気がつきました。
 というわけで、4月1日でちょうど20000カウントに達した機会に、TOPページのメニューに「発信者の履歴」を表示することにした次第です。(これまでは「発行図書」の中にリンクしていました)
 もし興味をもって頂ければ、目を通して下さることを期待しています。

 植 田 義 弘
 1932年奈良県生まれ。立命館大学文学部心理学科卒。図書館司書を経て教内図書の編集・出版に携わる。元・社会福祉法人理事。御里分教会長。(天理市内在住)
1991年、政府8省庁所管の情報化推進会議による論文公募に「情報化と心の健康」をテーマとするエッセイで最優秀賞受賞。
1994年、「世紀末の生き方」で小学館SAPIO賞入選。
1998年、天理やまと文化会議による教祖御誕生200年記念論文募集に「環境問題の原点ーよふきづくめ社会をめざす生き方」で1位入選。
[著書]『おさしづに啓示された理の研究』全6部(1974初版)
    『原典を元とする理の研究』(1983初版)
    『教祖ひながたと現代』(1998)その他、小冊子多数。

 昭和1ケタ生まれで中学2年の時、極度の食料難の寮生活の中で敗戦を迎えた私は、少年期の原体験として、戦中戦後の大変動の中で人間の言動がいかに変わりやすく頼りないものかを痛感し、内心に疑いの種を宿されました。戦争末期に飛行場造りに動員され一度だけ戦闘機の機銃掃射を受けた時、引率の教師が真っ先に川へ飛び込んで逃げる姿を見たり、戦後同じ教師が180°違う教育を始めるのを見てオトナを信じられなくなったものです。一方、寮生活で「独り占めしない掟」を守り、同じ苦難を共に耐えた連帯感は、忘れ得ない思い出となっています。多くのいのちが戦争で失われた時代に生まれ、同じ人間同士が支配・抑圧し合い、いのちまで犠牲にする原因に関心を抱いた私は、その後、「元の理」を絶対の真実として、哲学・心理学・脳科学を通 して身心の問題を探求してきました。

 20代のはじめには、1年近く東京都内で単独布教を体験し、一カ月2千円の生活費で1日40キロ程の距離をハッピ姿で歩いていたことがあります。また、20代で「おふでさき」、30代で「おさしづ」に接したとき、先の見えない人間心に対して、親なる神は先の先まで見抜き見通されていることに初めて気づきました。つまり、「おさしづ」は昭和20年の刻限を焦点として諭されたものであり、「おふでさき」にしるされている神意の半ばは「見えん先から」説き聞かされていた通り実現しているのです。ただ、心は自由用を許されている故に、人間の責任に委ねられています。

 先祖の履歴にふれることは、一つ間違えば自己の責任を過去に転嫁することになりますが、良くも悪くもいんねん(魂の遺伝子?)を自覚するという意味で略記しておきます。植田家の先祖は明治19年、指のヒョウソという身上からおぢばへ参詣して不思議なたすけに浴して入信、千人たすけの心を定めて「治心講」の講元となり、のち中和大教会初代となる。実弟・万田万吉も島ケ原大教会初代となったが、事情のため辞任して道を離れる。母方の先祖・上田家は大豆越村の出で山中忠七の親戚という縁で元治元年に入信(教祖伝61頁)初代・上田平治は教祖のお言葉に従っておやしきに住み込み、二代・民蔵は飯降伊蔵本席のお側役を務めた。信じて頂けないかも知れませんが、私が初めて「おさしづ」を拝読したとき、前にも同じ言葉を聞いたことがあるような気がして、神意を納得することができたものです。
 別記の発行図書は、一切の検閲・干渉を排して原典に忠実でありたいと願う上から、有志の協力を得て自費出版したものです。今後もこの世・人間の元となる「身心の創造原理」を求めて、あらゆる社会・組織・思想に適用し、神一条の教理を普遍化していきたいと願っています。


《続・発信者の履歴》
「手書き」の人生(その1)

「手書き」というのは、どこにも同じものはなく、ただ一つしかない事物を意味しています。
 徳利や盃のやきものでも、模様を型押しした品物ではなく、手書きの有田焼ともなれば相当の値段がします。人にはみな個性がある以上、一人ひとり「手書き」で人生を創っているのです。しかし、中には個性を押し潰されて「型にはまった」人生に安んじている人もいることは確かです。

 私の場合、42才の時、文字通り「手書き」の資料を作り始めたことが、その後の人生を決定したと今にして思うのです。その資料は、「おさしづに啓示された理の研究」と題し、全6部をB5版の分冊にしたもので、合わせて700頁を超えています。その1年前に、私は有名無実の事情教会をお預かりしたばかりで、教会の看板を掛けた以上、まず原典を熟読するのが義務ではないか、と思い込んでいました。
 その数年前まで、私は図書館司書の職に就いていましたが、厳しい身上のお手入れを頂いて退職の心定めをしたのでした。「おさしづ」を拝読しはじめると、私は夢中になりました。「おさしづ」に諭されている啓示には、自分が思っていた通りのことが出ていたので、お言葉のすべてが納得できたからです。「おさしづ」は「天の言葉」であり、本席の言葉を通して教祖存命同様の理を証されたものであること。また「おふでさき」と表裏一体であり、見えん先からの預言として神意が実現する刻限を「一日の日」と呼ばれ、その日は昭和20年8月15日であったこと。その他、神一条の理、鏡やしき・ぢばの理、天の理と心の理、身上・事情の理について、「おさしづ」の体系的構造が明らかに見えてきたのです。こんな言い方をすれば高慢のそしりを受けるかも知れませんが、別記の履歴に述べましたように、「おさしづ」の一言一句が、初めて聞く言葉ではなく、前にも聞いたことがあるように思えて仕方なかったのです。

「おさしづ」全7巻6331頁の中から、主題ごとにお言葉を分類し、さらに細分化して教理を選り分け、欄外に教語を注記する構想が自然に出来上がりました。司書の職に就いていた経験が内容を分類するためには役立ったようです。学者でもない私が、誰に遠慮もなく原典の資料作成に取り組んだわけは、次のお言葉が拠り所になっています。
「互い/\知らし合い、互い/\の研究諭し合い道という」(明治24.11.25)
「さしづというは、これまであれこれさしづしてある。なれど反故(ほうぐ=ゴミ)同様。一つ緩む二つ緩む。だん/\世界聞き分け。相当なるさしづ選り分けてくれ/\。だん/\それこれ選り集めるなら、一つ理から自由(じうよう)とさしづして置こう」(明治30.2.25)
「互いに遠慮は要らん。遠慮は追しょうになる。追しょうは嘘になる。嘘に追しょうは大ほこりの台」(明治31.5.9)
 これまで「おさしづ」の部分的な引用や教語の解説はありましたが、神意の全体を体系的に選り集めた資料はどこを探してもなかったのです。この初めての資料を作成するためには、自分の小さな主観を捨て、無心になって親神様の広大無辺の「むね」に近づく他はないと心を定めました。

 今ではあり得ないことですが、「おさしづ」の参考資料を作成する意図を話しただけで、本部の布教部から、毎月開催されている全直属教会の布教部長会の席上、予約募集のチラシを配り、内容を説明する時間を与えて頂いたのです。その結果、500部近い予約申込みを受けて、ほぼ2年間をかけて全6部の手書き資料を作成し、1冊ずつ出来上がるごとに納品したのです。大教会の中には、部内教会全部に配布する部数を申し込んで下さった所もありました。夏の暑い間、天理市の東方、桃尾滝の目の前にある空き家を借りてペンを走らせた想い出もあります。第1部の発行が今から30年近く前の昭和49年6月10日で、最後の第6部が翌50年10月26日に完成しています。ペンで手書きした原稿をそのまま印刷するのは、奈良市内で、以前から知り合いのようぼく社長に頼みました。当時はまだワープロもなく、活字にする資金があるはずはなかったのです。
 全く権威も信用もない私の作成した原典資料ですが、大学の宗教学科では「おさしづ」を引用する時の事典の代わりに利用されていると聞いたことがあり、事実「天理教事典」には、特徴ある原典研究資料の一つとして紹介されています。
(現在は欠巻のため全巻は揃っていません)

 この参考資料「おさしづに啓示された理の研究」は、その後、天理書房の店内にも委託し、何度か版を重ねました。6分冊になっているので、品切れになる分冊もあり、全部が揃わない状態になったことを知って、欠けた分の増刷をするために協力を申し出てくれたのが和歌山の教友・岩井猛氏でした。岩井氏は、戦後間もなく本部黒門前に幟を立てて原水爆禁止運動に身を投じ、3年近く続けた経験をもつ一方、神霊研究に携わっていた布教所長でした。系統は違うのですが、当時は教内全般に開かれていた教理研究会で知り合った友人でした。長年学習塾を自営していた彼は、おさしづの資料が欠巻にならないよう、増刷するための資金を提供すると申し出てくれたのです。そのおかげで、資料は何度となく版を重ねることが出来ました。
 しかし、「おさしづ」を読まないのが普通になっている教会一般の中で、原典にこめられた神意の全容を知ってしまった私は、誰にも話が通じない孤独を味わうばかりでした。しかも「おさしづ」の研究にいくら時間を費やしたところで信者が増えるわけではなく、どこからも研究費が出るわけでもない無償の努力を続ける他はなかったのです。

 8年ほど経った昭和58年になって、私は思うところあって、6分冊になっている前記資料の要点を1冊にまとめた要約版「原典を元とする理の研究」をタイプ印刷で自費出版しました。最初に印刷した500部は2,3ヶ月で品切れになり、あわてて増刷する始末でした。
 その後、「発行図書」の紹介に書いてありますように、この1冊本は隠れたロングセラーになっています。自分で言うのはおこがましいのですが、私の著作は10年先、30年先でも消えてなくならない、むしろ先になるほど読者が増えて価値を認められるようになるいう自負を持っています。末代続く理は原典にしかないと断言できるからです。すでに故人となった養徳社の名編集長が、この本の一部を削除すれば自社から出版してもよいと勧めて下さったことがありますが、私は削除が条件ならば結構です、とお断りしました。道友社に至っては、本部に都合の悪い部分は訂正・削除するのは当然とされているのが教内の出版事情です。
「手書き」のおさしづ参考資料を基とした「理の研究」を出版してから既に20年近くになりますが、その間、この本が機縁となって、さまざまな不思議なつながりが拡がっていった事実について、次に振り返ってみたいと思います。(つづく)

         

「手書き」の人生(その2)
 自作の文書が呼んだ縁と波紋

 前記の「原典を元とする理の研究」1冊本を発行してから1年ほど経った頃、未知の婦人から1通の書面を受け取りました。どんなツテがあったのか、私の著書を読んで書面を出す気になったと書かれていました。その婦人は私より10才は年上で、キリスト教に縁が深く、以前に住んでいた家の隣が天理教信者で、その家族の不幸な事情に対する教会の言動を知って天理教が嫌いになったと後で聞きました。中山みき教祖が教えたとは思えないことが多いなかで、「理の研究」の内容は、今までと違っているので手紙を書く気になり、私の返事に釣られて訪ねてこられたのが縁の始まりでした。

 それから凡そ10年あまりのお付き合いの間に、身上・事情の人々を10名以上も天理へ連れて来られました。その中から修養科を修了した人もあり、今も私方の教会に月々おつとめ奉仕して下さるようぼくもあります。何でも明治の頃、北海道でロシア正教を伝えたニコライ神父の最初の弟子になった先祖があり、今も東京のニコライ堂の司祭は親族に当たると聞きました。
 その婦人は不思議な霊感の持ち主でもありました。ある時、彼女から電話があって、赤い衣を着た老女が二度も夢に現れて、味醂を持ってきてほしいと言われたが、思い当たることはないかどうかと尋ねるので、それは教祖に間違いないと返事しました。本人は、教祖が味醂を好まれたことは全く知らなかったのです。味醂が目的ではなく、あなたをおぢばに引き寄せようとされていると私が熱心に勧めたので、御供えの味醂を持って教祖殿に参拝した際にも、姿なき教祖から、彼女の意識では分かる筈がない内容の言葉を掛けられたとのことでした。
 残念なことに、その婦人は腎臓ガンの脊髄転移のために亡くなりました。家族は最後まで本人にガンと知らせず、私も告知できないままでしたが、腎臓手術をして小康状態の時、もっと早く告知をして修養科を勧めればよかったと悔やまれてならないのです。その婦人をおたすけできなかったことは、私にとって生涯にわたる悔恨となっています。

 教祖110年祭の前年(平成7年)の秋から年末にかけての三ヶ月間、私は修養科一期講師を拝命し、「教祖伝」を担当しました。その年は、一月の阪神大震災に始まり、三月には地下鉄サリン事件が突発しました。教内では、夏から真柱様の重篤なお身上が伝えられ、おさづけのお運びが長期にわたって中止されました。
 年祭が迫る時旬に、修養科生とともに毎日「御伝」を購読しながら私は、只ならぬ神の急き込みと刻限の切迫を痛感せずにはいられなかったのです。と同時に、世の中に次々と起こる事情を鏡として教内の実情を省みるとき、このままでは教祖に対して申し訳が立たない思いに駆られる毎日でありました。
 翌年一月に年祭が終わったあと、前記の小著「原典を元とする理の研究」の読者であった北海道教区の数名の会長さんから、おぢばへ帰参した時に一緒に教理について話し合いをしたいとの申し入れがあり、毎月の月次祭前後にお会いして談じ合いを重ねる機会がありました。
 その頃、私は誰にも言えない一つの心定めをしていました。というのは、修養科で「教祖伝」を拝読しながら感じたことを元にして文書をまとめ、真柱(当時)と真柱後継者(善司様)に直接お届けするという常識はずれの計画でした。文書の表題は、本部から発行されていた「世界たすけへ更なる歩みを」をもじって「復元へ更なる歩みを」と付けました。一人の知人が、必ず真柱の手に届く方法を内緒で教えてくれました。
 この心定めをするに至った理由の一つは、中国の史実を参考にしたからです。古代からの中国思想の多くは、儒者が時の皇帝に提出した意見が、受け容れられずに後世にその内容が思想として伝わったものであるということです。時には唐の高宗のように、自分に対して厳しく諫めてくれる者を重んじて、諫める役目の公職を創設し、かつて自分を殺そうとした敵の大将を任命した名君もあったと伝えられています。八代将軍・吉宗も、目安箱を設けて広く民衆の意見を取り入れたのです。現代の社会でも、発展している企業のトップは例外なく、社内の意見に耳を傾け、文句を言う消費者に頭を下げて礼を言う態度を示すといわれています。

 いよいよ心定めを実行する直前になって、善司様に話しかける機会が与えられました。大学の校友会に天理支部が結成され、同じ大学卒で私の後輩に当たる善司様が総会に出席されることになり、その席で私は、近日中にぜひ読んで頂きたい文書をお届けすることを予めお伝えしたのです。
 こうして「復元へ更なる歩みを」と題する文書が当時の真柱と善司様の目にふれることになり、それが思いがけない波紋を呼ぶことになったのです。その文書は真柱から当時の畑林表統領に渡され、主査室に回付されました。「検討するように」との真柱の指示があったと伝え聞いています。一方、同じ文書を個人的に私を理解して下さっている先生(北海道教区の集会員でもあった)に渡しましたところ、その先生の肝いりで全集会員にコピーが配布され、私が集会の席上で質疑応答する機会をもつ予定になったのです。それを知った主査室主任は、直ちに異端に近いとの批判を含んだ答申を表統領はじめ集会に配布するとともに、私を集会に呼ぶことは「集会の歴史に汚点を残す」とまで言って反対の意向を表明したのです。このままでは引き下がれないと判断した私は、主査室の批判に対する弁明書をコピーして全集会員に配布してもらうことにしました。
 主査室主任は私の所属する大教会長を呼び出して、真柱様が激怒されているからお詫びに行くようにと脅かしたので、あわてて大教会長が真柱様にお会いすると、何も怒っておられないことが分かりました。

 30年前に「手書き」の「おさしづ参考資料=全6部」を作成したことが、その後の私の行動すべてを決定づける種となり、まさに自分しか書けない「手書き」の人生になったのです。
 その後、私には直接の干渉や呼び出しはないまま今日に至っていますが、集会に配布された文書はその後も波紋を呼び、ある教区ではコピーをたくさん作って配布したとも聞きました。何度もコピーを重ねたため文字が読めなくなったとも聞きました。
 教祖御生誕200年の平成10年4月18日、波紋を呼んだ上記の文書を加筆訂正した「教祖ひながたと現代」を自費出版することになりました。自費といっても、前記の北海道教区の教会長さん3名と和歌山の岩井猛氏が印刷費を分割して出資して下さったのです。その内容は、個人の心の成人にとって必要な事柄だけに限定したものです。この本は少数の読者しか得ていませんが、教内で最もレベルの高い読者に違いないと私は信じています。
 10年前、5年前に比べて、内も外も益々どうにもならない状況になり、大掃除の刻限が間近に迫っていることを予感させられる昨今です。どんな時が来ても、慌てず恐れず、神意の実現に近づくための大節と受け取って、おたすけに勇み立つ心構えが必要とされる時代が到来するに違いありません。このHP「天理と刻限」では、その刻限に当たって参考となる情報を今後も提供したいと願っています。(2001.10.26記)
 
 
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