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天の森夢幻録
2004 終戦記念日シリーズ 1

荒野を疾走する 満鉄「特急あじあ号」


2004.8.17
疾走する轟音の奥から 当時を必死で生きた人々の哀歌が聞こえてくる

 40年前の昭和39(1964)年10月1日、東京オリンピック(同年10月10日開催)に間に合わせるように、東京─新大阪間に「夢の超特急」が開業した。

 この新幹線の開業をさかのぼること30年前、既に日本は「夢の超特急」を完成させ、営業運転をしていた。それは、満州の荒野を疾走する満鉄の「特急あじあ号」・・・。

 わが家に「特急あじあ号」を牽引するパシナ形蒸気機関車の模型がある。


▲わが家の本棚に飾っている「特急あじあ号」のパシナ形蒸気機関車の模型

 昭和30年代に、田村高広・勝新太郎が共演した松竹のシリーズ映画「兵隊ヤクザ」(1965)や「人間の条件」(1959)などを観て、私は、かねてから満州に興味関心をもっていた。
 以来、満州を舞台にしたドラマ「大地の子」(NHK、1995)、「赤い月」(TV東京系ドラマ、2004)・「流転の王妃 最後の皇弟」(テレビ朝日開局45周年記念ドラマスペシャル、 2003)などは、欠かさずに観てきた。

 満州の荒野を疾走する満鉄の「特急あじあ号」・・・。じっと「特急あじあ号」の模型を視ていると、疾走する轟音の奥から、当時を必死で生きた多くの人々の哀歌が聞こえてくる。

毎年、広島・長崎の原爆記念日と共に、終戦の日には
黙祷と合掌を捧げて、鎮魂を祈る。
 


■満州国で開花 日本によるプロジェクト■

●満鉄の「特急あじあ号」

 昭和9(1934)年11月1日、「特急あじあ号」が、満州の大地を駆け抜けた。満鉄(南満州鉄道株式会社)が、当時の技術の粋を結集させて完成実用化した夢の列車。
 全6両編成の「特急あじあ号」を牽引するのは、スカイブルーに塗装された巨大な流線形車体の「パシナ」型蒸気機関車(パシフィック7型)。

 パシナ型蒸気機関車は、全長25.675m、幅3.362m、高さ4.8m、運転整備状態での全重量203.31t、動輪は日本最大の直径2m、牽引力1万5,850kgのパワーを備えていた。

▼世界一早い 最高時速120km
 「特急あじあ号」の平均時速は82.5km、最高時速は120km(時には170km/hを記録)。この速さは、当時の世界水準をはるかに凌いでいた。かつての「満州国」の首都=新京(現・長春)〜大連間704.1Kmを、8時間30分で接続した。これまで二日かかっていたのが、わずか8時間30分。雲泥の違いだ。

 当時の日本本土には、平均時速60.2Km・最高時速95Kmの「特急つばめ」が東海道本線を走っていた。比べてみると、「特急あじあ号」がいかに早いかが分かる。

 翌年、満鉄は、ソ連から北満州鉄道を買収して路線を延長。大連〜ハルビン間944Kmは、1時間短縮されて12時間30分で接続。

▼川崎重工も製造 パシナ形蒸気機関車
  このパシナ形蒸気機関車は、大連にあった満鉄の沙河口工場が970号から972号までの3両を製造した。
 日本の川崎重工兵庫工場も、昭和9(1934)年の「特急あじあ号」の営業運転開始に備えて、973号から980号までの8両と、昭和11年に追加となっ
た981号の計9両を製造した。このうち、979号は、川崎重工が製造した蒸気機関車の通算1500両目となり、式典が盛大に挙行されたという。

▼客車は 全車輌とも冷暖房
 特急「あじあ号」は6両編成で、前から順に、ー蟆拱郵便車、■嚇客車(定員88名)、F隠雅厂棔↓た堂車、ィ嘉客車(定員68名)、ε庫升嬰客車(定員計48名)となっていた。

   特急「あじあ号」が走行する満州の気候風土は、日本本土とは比較にならないほど過酷だ。南北の位置関係を日本と比べてみると、満州南端の「大連」は約北緯37度で新潟とほぼ同じ位置にある。満鉄の線路北端地「黒川」は約北緯49度、北海道最北端の稚内(北緯約46度)よりも、さらに北に位置する。
 また、これに、大陸性気候と海洋性気候の違いが加わる。北海道の気候も厳しいが、これ以上であることが理解できる。

 満州では、真夏は摂氏30度以上、真冬は氷点下3〜40度にもなる。このような気候に対応するために、全車輌とも密閉式二重窓を備え、客車は冷暖房装置を完備していた。(当時、日本国内では、特急「つばめ」の食堂車だけに冷房装置があった。)

▼アジア初の高速道路など 大プロジェクトの実行
 昭和40(1965)年、日本初の高速道路「名神高速道路」(愛知県小牧市─兵庫県西宮市)が全線開通。この20年も前の昭和17(1942)年、満州国で、アジア初の高速道路「哈大道路」は着工されていた。

   ハルビン(哈爾浜)から新京、奉天(現・瀋陽)を経て、大連に至る総延長900Km超の高速道路は「哈大道路」と呼ばれ、満州国の大動脈となるはずだった。だが、建設着手から3年後、路線の一部完成で終戦。

 戦後45年となった平成2(1990)年、日本が技術協力して、瀋陽(旧・奉天)─大連間375Kmが完成。「中国」初の高速道路「瀋大高速公路」となった。

 このほか、世界屈指の豊満ダム(第二松花江)を初めとして、鏡泊湖(牡丹江)・桓仁(渾江)・水豊(鴨緑江)などの巨大な水力発電用ダムが次々と建設された。満州国は、まさに大プロジェクトの実行場所だった。


■満州進出の“背骨” 満鉄の設立と消滅■

●満鉄(南満州鉄道株式会社)の設立

 南満州鉄道株式会社は、日露戦争(1904年-1905年)の結果、ロシアから譲渡された東清鉄道の支線・長春〜大連間の鉄道施設・付属地と、日露戦争中に物資輸送のため建設した安東(現・丹東)〜奉天間の鉄道とその付属地を経営するために、満州軍野戦鉄道提理部を母体に、日本政府が1906年(明治39)11月に設立した半官半民の国策会社。

 初代総裁は、後藤新平。設立時の従業員数は、約6,400。大連に本社、東京に支社が置かれた。俗に「満鉄」といわれ、現在でも「満鉄調査部」や「特急あじあ号」などが話題になることがある。 

 1931年(昭和6)に起きた満州事変のきっかけとなった柳条溝事件は、この満鉄の線路を爆破したことによる。

 
▲大連に残る昔日の「特急あじあ号」

●満鉄と満州国

 満鉄は、鉄道経営を中心に、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林牧畜に加えて、ホテル、図書館、学校などのインフラ整備も行い、「満州国」建国までの間、満州経営の中心的役割を果たした。

 また、1937年までは、奉天市街だけで約11平方kmにもなる広大な「鉄道付属地」の排他的行政権も認められ、地方部を置いて、これらの地域を統治していた。
 線路の敷地は鉄道の付属地だが、これはほんの一部にすぎず、停車場周辺の市街地も鉄道の付属地とされた。このことは、満州の交通の要衝に日本の小領土がつくられたことを意味した。

 このように、満鉄は、単なる鉄道会社ではなかった。初代総裁・後藤がイギリスの東インド会社にならって造った武力を背景とする植民地経営の国策会社であり、鉄道付属地という名の植民地を統治し、さらに植民地を拡大するための機関だとされ、欧米からは満州侵略の尖兵とみなされていた。

 日本の敗戦と同時に、1945年、ソ連軍が接収。連合軍総司令部により閉鎖機関に指定され、解散消滅した。

◆満鉄関係年表

1905/09/05   日露戦争終結 ポーツマス条約調印
1906/11/26   南満州鉄道株式会社(満鉄)設立
1907/04/23   満鉄調査部設置
1928/06/04   満州某重大事件 (張作霖爆殺)
1931/09/18   柳条溝事件 (満州事変勃発)
 ▼特急あじあ号の切符
 



■満州国のあらまし■


●満州国の国旗と国歌

 満州国は、公式には「五族協和の王道楽土」を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとして建設され、アジアにおける多民族共生の実験国家であった。  五族協和とは、満州・蒙古・支那・日本・朝鮮の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、王道楽土とは、西洋の「覇道」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満州国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味した。  なお、満州には、この五族以外にも、ソビエトから逃れてきた白系ロシア人・ユダヤ人等も居住していた。
 ◆ 国 旗

 国旗には、五色の帯が描かれていた。黄色は満州民族、赤色は日本民族、青は漢民族、白はモンゴル民族、黒は朝鮮民族のイメージカラー。五民族のイメージカラーを一つの国旗に表わすことで、満州国建国の大義名分である「五族共和」を示した。
 

 ◆ 国 歌
 [ 満語 ]
 神光開宇宙 表裏山河壮皇猷
 帝徳之隆  巍巍蕩蕩莫與儔
 永受天祐兮 萬壽無疆薄海謳
 仰賛天業兮 輝煌日月俟

 (最後尾の文字は、「にんべん」に「ム」に「牛」という字だが、
 パソコンにこの文字がないので似た文字で代用。)
 [ 日本語版 ]
 おほ みひかり
 あめつちに みち
 帝徳は たかく たふとし
 とよさかの 萬壽ことほぎ
 あまつ みわざ
 あふぎ まつらむ
 


●満州国の建国

 満州国は、1932年から1945年の13年間、満州地域(現在の中華人民共和国東北地区及び内モンゴル自治区北東部)に存在した国家。

 1931年、日本の関東軍が満州事変を起こして全満州を占領する。翌1932年、遼寧・吉林・黒竜江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満州新政権に関する協議を始めて東北行政委員会を組織し、中国国民党政府からの分離独立宣言を発する。

 元首として清朝の最後の皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を担いで満州国執政とし、1932年3月1日、満州国の建国が宣言された。首都には長春が選ばれ、新京と改名された。1934年には溥儀が皇帝の座につき、1943年に国名は満州帝国(満洲帝国)に改められた。


●リットン調査団に反発 日本は国際連盟を脱退

 国際連盟は、満州事変の端緒となった柳条湖事件が起こると、リットン調査団の派遣を決めて、1932年、中国と満州を調査した。

 調査団は、満州事変を日本による中国主権の侵害と判断。満州における中華民国の主権を認める一方で、日本の満州における特殊権益を認め、満州に中国主権下の自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を勧告をする報告書を提出した。

 日本は、このリットン報告書に反発。国際連盟総会で満州国建国の正当性を訴えたが、各国は日本政府を非難、報告書は採択された。1933年、日本は国際連盟を脱退する。


●満州国の消滅

 第二次世界大戦が終わると、ソ連がヤルタ会談の秘密協定にもとづいて満州国に侵攻して占領した。解体された満州は、その後、ソ連の支配に代わって、国共内戦において早期に全満州地域を掌握した中国共産党の支配地域となった。

 中華人民共和国が成立すると、満州国は厳しく断罪され、偽満州国(省略して偽満)と呼ばれることもあった。

 満州の近代化を図る上において満鉄の果たした功績は大きく、満州国の産業基盤は世界史的にも稀なスピードで発展した。満州国解体後も、満鉄の残した事業は中国東北部の経済に大いに役立ち、中国共産党は、国民党との争いや中国全土への勢力拡大の重要な発展基盤として活用した。

 現在でも、新京(現・長春)や大連、奉天(現・瀋陽)などの主要都市では、当時の建築物を多く見ることができる。

      

 

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